いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

世界最小のゼンマイ『屋形舟』

2007-01-14 21:03:14 | Weblog
船頭が艪を漕ぐと前進する屋形舟(写真)は、その大きさを1円玉と比較すると、長さは3枚、高さ80%、幅1枚位の大きさに創られている。
江戸時代に作られたゼンマイからくりで、身長8mmの船頭が艪を漕いでいる。
純銀と真鍮を材料に使い、動きには時計技術を応用しており、世界最小で海外では
未知のからくりという。
  
 は~るばるきたぜ ジパングへ~ ♪
 さ~かまく太西洋を~ 乗り越えて ♪♪
                          
宮殿や民家を黄金で建てるほど膨大な金が産出される国ジパング。
マルコポーロの『東方見聞録』を読み、『時計の精』はジパングへ行きたくて
我慢が出来なかった。ヨーロッパは大航海時代を迎えており、その波に乗っ
て海外進出を政策としていたポルトガルの港から、彼女は憧れのジパング航
路へ旅だった。
ジパングには、礼儀正しいが人の肉を食する習慣があるので、渡航禁止国で
あったかどうかは定かでないが、彼女は機械時計の中に忍び込んだ。

ジパングは、足利尊氏(たかうじ)の北朝と後醍醐(ごだいご)天皇の南朝が
対立する南北朝期を経て戦国の世を含む室町時代(1338年頃~1573年頃)で
あった。

 来てはダメよと 云われても ♪
 思い出すたび 行きたくて~   ♪♪
 と~ても 我慢が~あ できなかったよ~ ♪♪♪

このようにして、彼女は機械時計に正確な時を刻ませ、ジパングと交易のあった
ポルトガル船に乗って黄金の国へ到着する。

幸いなことに、キリスト教の宣教師がジパングに来ており、ジャンク船に乗った
ポルトガル人が種子島に漂着[天文(てんぶん)12(1543)年]したりしていたので、
ポルトガル商人はジパングに馴染み深かった。

入国審査でも、彼女が精となって正確に動かす「からくりソフト」は驚きをもって迎え
入れられた。人に食されることもなく安堵したが、技術職人達にもみくちゃにされる
運命がまっているとは、天のみが知っていた。姿かたちが分からなくなるまで分解
され、また組み立てられる。復元できないとまた分解・組立の苦痛が繰り返される。
それでも、ジパングの技術職人が時を刻む精として彼女が存在していることを発見
するまで、ダンマリを決め込むしか術はなかった。

弓矢、槍を合戦の主要武器とする戦法は、鉄砲の存在を知った兵法者が実践で採
用するまでには至らなかった。捨てる神あれば、拾う神がいた。戦略眼に長ける織
田信長は火縄銃による戦法を考案し、実践で戦果を挙げたことはよく知られている。
ジパングでは、地球が丸いということを知らなかったこの時代に、イエズス会が献上
した地球儀の説明を聴いて、「理にかなっている」と即座に理解したのは信長。
また、時計、地図なども説明を聴いてよく理解したのも彼と云われている。

一方、既存の糸引きで操る「山車(だし)からくり」などを制作していた職人達は彼女
の虜になる。そして、からくりの動力にゼンマイを使い、細かい動きを再現するために
歯車を採り入れた「座敷からくり」を考案・制作してからくりの技術革新を成し遂げる。

やがて、江戸時代に入ると「からくり儀右衛門」のような万能科学者によって、複数の
客人へ茶を運ぶ『茶杓娘』、4本の矢を射る『矢曳き童子』に一本外すように細工する
ユーモアを込めるだけの余裕ある技術、筆につける墨の量を加減してメリハリのある
毛筆をしたためる人の動きをより忠実に再現する『文字書き人形』が出現して、彼女は
ジパングの「独創的な機巧(からくり)の精」に変身・成長している。
400年以上も過ぎた今も、老いを知らず、元気溌剌としてジパングの技術革新に携わっ
ている。

 どこにいるのよ~・・・♪
 江戸東京博だよ・・・♪♪
 連れておいでよ~・・・♪
 夢大からくり展へ ・・・♪♪

江戸城の全てを探索できる『江戸城展覧会』に出かけると、日本独自のからくり人形
達との会話が楽しめる。

江戸城本丸大広間と3回も火災に見舞われ現存しない天守閣がバーチャル・リアリテ
イで大スクリーンに映像再現されており、そこに入って擬似体験ができる。

一寸法師にあやかり『屋形舟』に乗って登城する。大広間に座して一服していると心
が広くなってくる。天守閣頂上へ登って、そこからの展望に身を任せていると、心の安
らぎを覚える。江戸城展示会と夢大からくり展は、古きを訪ね新しきを知る格好の機会
でした。

※ 江戸城展示会と夢大からくり展については、前に書いてあります。


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複数の客人へ茶酌をするからくり人形

2007-01-11 10:14:48 | Weblog
茶運び人形は座敷からくりと呼ばれよく知られています。
茶を入れた大き目の茶碗をお盆に載せて客人の所まで運ぶ。
ひとつの茶碗を一人の客人へ運ぶ人形は、天文学や物理学に通じた
科学者で、万歩計などを考案・制作した技術者「からくり半蔵」、こと、
細川半蔵頼直の著書「機巧圖彙(からくり・ずい)」が基になっており、
からくりの代表作と云われています。

田中久重(ひさしげ)のオリジナル人形が発見されるまでは、日本最古の
工学書とされている「機巧圖彙」[寛政8(1798)年発行・徳川家斉の時代]
を手本にして復元した人形のようです。
製作者の判るオリジナル人形は『茶杓娘』(写真)が最初であるとのこと
です。

「からくり儀右衛門」が制作した『茶杓娘』は、3人の客人を対象にして茶
運びをします。
お盆に3個の茶碗を載せて客人の所まで運びます。客人が座る場所は予
め決まっていますので、最初の客人へ向かう距離、二人目へ方向転換す
るポイント等は事前にセットします。

『茶杓娘』の大きさは、背景に移っている手の親指と比較すると凡その見当
がつきます。茶運び人形だけを狙った写真ですが、シャッターを切ってから
映像に取り込む時間に遅れが起きるデジカメ特有の性能のために、人形を
修復した東野進(日本からくり研究会理事長)さんの手が写ってしまった。
スチールカメラ党からすると取り直しです。しかし、冷静に写真を観ていると、
あの指が世界最小のからくり『屋形舟』を作っているんだよ、と訴えてくるの
です。
「からくり半蔵」から「からくり儀右衛門」へと継承された日本独自のからくり
技術は、21世紀になっても『屋形舟』の中で勇躍しています。
デジカメの悪霊と決め付けていたタイムラグは、怪我の功名でした。

参考情報
ここで紹介したからくり人形の展示と実演は、江戸東京博物館で公開されて
います。
詳細は同博物館のホームぺージhttp://www.edo-tokyo-museum.or.jp/で
確認してください。


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本邦初公開、幻の文字書き人形

2007-01-09 16:31:29 | Weblog
江戸後期から明治初期にかけて活躍した発明家・田中久重(ひさしげ)は、からくり儀右衛門と呼ばれた。
久重が考案・制作した「文字書き人形」が国内で初公開され、見事な文字書きを披瀝している。

150年前にアメリカへ渡り、つい最近まで生活していたので、文字を忘れても思い
出せなかったが、里帰りして記憶を取り戻した。
「寿」1文字しか書けなかった人形は「松」「竹」「梅」の3文字が書けるまでに修復
されている。
「梅」の文字、流麗な筆遣い、文字バランスなどは、ひとかどの書家並みの腕前を
持っている。(写真)
からくり人形はお茶運び、と貧弱なイメージを抱いて江戸東京博物館(東京・両国)
で開催されている「夢大からくり展2007」を観て、改心させられた。

人形を修復した東野進(日本からくり研究会理事長)さんは、人形が文字を書き終
わった後「小物も本物で作られている。筆、硯、脇差、筆刺、印籠などは、本物と同じ
作りになっていて手抜きがない」と、小物をからくり人形の舞台上に並べながら、ひと
つ、ひとつ説明してくれる。

東洋のエジソンと異名のある久重が制作した「茶杓娘」も同時公開されている。
一般に言われている茶運び人形に比して作りが複雑とのことです。また「弓曳(ひ)
き童子」のオリジナルは国内に2体現存しているが、レプリカを制作した研究会の
人形師が「射的実演」をしている。3回の射的で4本の矢が全部的に当たる確率は
マチマチでした。

矢を4本射るが、1本だけ射的に失敗するようにしてあるのがオリジナルらしく、20代
の頃、からくり興行師として大阪・京都・江戸などを行脚した久重の面目躍如と思う。
興行で行く先々の人々を驚かせ、楽しませることをモットーとして「からくり人形」を考案・
制作した久重が残した言葉があります。

『知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗が
あり、その後に、成就がある』

射的実演をした人形師は、4本の矢を的に当てるように「機巧(からくり)」を創る苦労話
をしてくれましたが、久重の信念に励まされているのかも知れません。

これ見ずして江戸は語れない、特別展『江戸城』を観るのが本来の目的でしたが、本邦
初公開の展示と実演のある「からくり展」があり、終日、大いに楽しみました。
65歳以上のシニアは、観覧料が半額だったのは、もっけの幸いでした。

※特別展『江戸城』及び『夢大からくり展2007』は江戸東京博物館ホームページで
公開しています。


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お札に登場した、日本最初の女性像

2007-01-03 11:22:14 | Weblog
稲毛浅間(せんげん)神社に伝承する十二座神楽が、毎年元旦に奉納されます。
十二ある神楽の「三韓征伐の舞」では、「神功皇后(じんぐうこうごう)安産子育ての舞」が演じられます。日本紙幣に肖像する最初の女性が、この舞に登場する神功皇后です(詳細は前に紹介)。

日本神話に登場する皇后を具象化した彫刻師は、福よかな笑顔で微笑む像のなかに、
皇后が持っていた、魅力溢れる為政者としての指導力を表象しているのだろう。
そこには、皇后が産んだ赤ん坊を抱き、子育を祈願して「神功皇后安産子育ての舞」を
演ずる翁(おきな)が、わが子の将来を思い描く気持ちに通じるものがある。

大和撫子を彷彿とさせる皇后も、大日本帝国政府(現在の憲法が施行される前の政府
名)が発行した改造紙幣では、エリザベス女王に似た肖像に変わっている(同)。

奈良市薬師寺にある皇后像が「日本の神様読み解き事典」にあったので、転載します
(写真)。

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稲毛浅間神社の十二座神楽

2007-01-02 20:52:36 | Weblog
富士山を象(かたど)って土盛した小高い丘の上で、富士山を正面にして鎮座している神社が、稲毛浅間神社。

頂上へ登る参道も富士登山道に模して配置されている。

昭和37(1962)年に千葉県から無形文化財の指定を受けた十二座神楽(じゅうに
ざ・かぐら)が、例年通り元旦に奉納された。

巫女(みこ)の舞、天岩戸(あまのいわと)開きの舞、猿田彦命(さるたひこのみこと)
の舞、五穀豊穣(ごこくほうじょう)祈願の舞、三韓征伐の舞、を観る。これが1時間
30分近く休憩なしで演じられた前半だった。後半は、15分間の休憩を挟んで舞われ
たが、待ち人があるため、後ろ髪を引かれる思いで帰宅した。

翁(おきな)が抱いている赤ん坊(写真)は、「神功(じんぐう)皇后安産子育ての舞」
に登場する。翁の舞うその揺れが、ハンモックで揺られているように感じて心地よか
ったのだろう。赤ん坊は退場するまで泣きもせず、すやすやと寝ているようだった。

神功皇后は新羅の国へ出兵(200年)して、永久に服従を誓った新羅王に対し朝貢
を命じている。その時に、皇后は御杖を新羅王の門に突き立てて凱旋する。この遠
征の途中、お腹に宿していた御子が生まれそうになった。皇后は、産気を鎮めるた
めに、石を衣裳の腰に当てる応急処置を施した。九州に上陸して、筑紫の宇美(う
み:福岡県糟屋郡)で出産する。この赤ん坊が、品蛇和気命(ほむだ・わけのみこ
と)で、第十五代応神(おうじん)天皇と云われている。

鉄の意志を持った大和撫子が記紀神話(きき・しんわ)の女神・神功皇后であった。
イギリスのサッチャー首相を偲ばせる、夢膨らむ逸話で楽しくなる。

千葉県内に十二座神楽を伝承している神社がある。稲毛浅間神社の十二座神楽の
演目と、検見川神社、大宮神社(山武市)のそれを比べてみた。

「神功皇后安産子育ての舞」は、三韓征伐のなかで演じられる。実際に確認しないと
はっきりしたことは書けないが、公表されている他神社の十二座神楽演目紹介から
判断すると、この舞に相当するものは見当たらない。稲毛浅間神社の神楽は、永正
(えいしょう)元(1504)年に九州から移住した神職などが村人に伝授したとの由来が
あるので、その影響だろう。

翁の面の表情が、仕草のたびに変化する。
安産を祈願する舞が終わると、翁が赤子を抱いて子育て祈願を演じる。そこには、わ
が子がすくすくと成長するように祈る、親の表情があった。翁が、子育て祈願を無事に
済ませたことを皇后に告げると、赤子は退場する。親にもたらすであろう子育ての喜怒
哀楽を演ずる剣舞に移ってからは、わが子の行く先に横たわっている山や谷に勇敢に
立ち向い、生き抜いて立派に成育することを祈願する父親の表情が窺えた。剣舞を終
えた翁の表情は穏やかなものであった。

<こぼれ話>
日本銀行が明治15(1882)年に開業するまでの時期に、明治政府は改造紙幣と呼ば
れる政府紙幣を発行した。明治14(1881)年2月に発行した壱圓札に神功皇后の肖像
が用いられており、日本紙幣の肖像に登場した最初の女性となっている。
神功皇后は実在しなかったとする説、卑弥呼(ひみこ)に擬する説などがある。
しかし、明治維新を成し遂げた革新者たちは、将来あるべき日本女性像の象徴として、
意志の強い皇后を紙幣の肖像に採用したのだろう。

紙幣に印刷された皇后の肖像は、エドアルド・キョッソーネ(イタリア人)が作成した原画
のために、西洋美人を思わせるものだった、と云われている。一日も早く、皇后を肖像に
した改造紙幣に出会いたくさせる、「神功皇后安産子育ての舞」だった。




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