いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その6:淳之介に芥川賞を期待する

2012-02-25 15:46:34 | 映画
『三丁目の夕日』シリーズを3部作とすれば、今回封切られた『三丁目の夕日’64』は完結編でしょう。

「鈴木オート」に集団就職で上京した六ちゃん(堀北 真希)は結婚、見えない指輪を後生大事にしていたヒロミ(小雪)にも茶川家の主婦らしい貫禄が出てきた。エレキに熱中する鈴木オート社長(堤 真一)の息子・一平(小清水 一輝)は反抗期を向かえた様子。



さて、昭和33年から始まった『三丁目の夕日』シリーズ。
プロレス中継では力道山の空手チョップに熱狂し、大人も子供もフラフープの流行に乗りフラダンスに浮かれ、立教大学野球部から長島 茂雄、阪神入りを噂されていた早稲田実業の王 貞治が巨人へ入団しON時代の緞帳が吊り下げられ、12月23日には東京タワーの完工式を迎えた昭和33年は、そんな年でした。



翌年の4月10日、皇太子殿下(今上天皇)と正田 美智子(皇后)さんはご結婚なされ、テレビはそのパレードを生中継し、各局は朝の6時から深夜12時まで、特別番組を組んだ。
6月25日の巨人、阪神戦では、王がホームランをかっ飛ばし、長島が宿敵村山 実からサヨナラホームランを放ち、天覧試合に花を添えた年でもあります。

「元気印さんが北海道立の工業高校を卒業した昭和34年4月、三人の仲間と墨田区の町工場に就職で上京しましたね。三丁目の住民に共感を覚えるのは、当然でしょう」

久し振りに聴く、ボケ封じ観音様の声。

他方、全6部からなる映画『人間の条件』(原作:五味川純平 監督・脚本:小林正樹 脚本:松山善三 出演:仲代達也 新玉美千代 他)の第1、2部が1月15日、第3,4部が11月20日、昭和35年1月28日に第5,6部が封切られてからも、この9時間半にも及ぶ全編を一挙に上映するオールナイトを観る愉しみは、無くなってしまった。あの頃を懐かしむのは、元気印だけなのでしょうか・・・。

『三丁目の夕日’64』のプログラムによれば、三丁目のセットは、昭和39年の町並みをイメージして建て、時代設定は東京オリンピックが開催された昭和39年になっている。つまり、三丁目の住民は6年の歳月を過ごしている訳です。

茶川 竜之介(吉岡 秀隆)と古行 淳之介(須賀 健太)との関係も、淳之介が小説家として自立する道を選択するので、育ての親子関係は作家としてのライバルへ発展します。

淳之介が自立する過程では、竜之介の父・林太郎(米倉 斉加年)に息子を勘当したエピソードを語らせ、彼が選択した道は浮き沈みが激しく、ドン底の境遇に陥っても作家の矜持を失わずに前進せねばならない物書きの宿命を暗示するのです。
お人よしで苦労ばかり背負い込む竜之介の背中を観て育った淳之介は、必ず、芥川賞の候補に挙がる作品を書き上げるでしょう。三丁目の住人達は、その日を今かいまかと見守っている筈です。

芥川賞受賞を保障するが、それには資金が要る、と称する詐欺にまんまと騙される茶川 竜之介。
それとも知らず、受賞させるためになけなしの預金を提供する鈴木オート社長を筆頭にした三丁目住民らの思いやり。
その半面、住民の繋がりを訴えるのに「絆」をキーワードにしなければならないほど、共同社会、換言すれば地域社会で生きるための人徳が荒廃している平成の世に、三丁目の住民らの思いやりは、珍しい光景になりました。

「淳之介が竜之介を凌ぐ作家になる。二人の繋がりに感動していますね、元気印さん」

ボケ封じ観音様の読心力は、相変わらず鋭い。

「友達と生の母を訪ねた淳之介に、母は義父を通じて逢う事を拒否する。しょんぼり帰ってきた淳之介を叱りつける竜之介の親心、実父に引き取られて行った直後、淳之介が机上に残した置手紙を読み、彼が乗った乗用車を必死に追いかける竜之介。実父と別れて引き返してきた淳之介との出会いに涙したのでしょう」

これでは、映画も安心して観ていられない。観音さまの見立ては図星だから・・・。

なにはともあれ、ミッチーブームを巻き起こした皇太子殿下と美智子さまのご成婚から31年を経た昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、皇太子明仁親王が即位されました。激動の昭和が幕を閉じ、時代は平成に移行して24年目を迎えました。

そして、明治、大正、昭和、平成の年号が1868、1912、1926、1989の如く表記される風潮が強まり、昭和の香と共に平成の芳香を味わいたくても、西暦表記の年号ではそれも叶いません。
極端な場合は、本能寺の変1582年と西暦表記がなされ、ナレーションで天正10年と年号を説明してから後は西暦で通す、歴史解説書でも西暦だけを表記しているものが多くなったように感じています。年号を西暦で表すのは、天皇制に対するアレルギーがあるからとも言われています。

また、学校の行事、例えば、卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱は礼儀とされた昭和の慣習も、法律でそれらを定めなければ執り行わない現在、それも明日を担うべき日本人を育成する義務教育現場では裁判沙汰になり、最高裁判所で判決が下されたばかり。
反日の世相が強い今の日本では、『三丁目の夕日』が描いている昭和30年代になっても日本人が共有していた徳目に新鮮な驚きがあるのでしょう。

ところで、東日本大震災が起きてからほぼ1年を経過しました。
その間、大震災関連書籍の発刊やメデイア報道は、膨大な件数に及んでいますし、現在も様ざまな切り口で採り上げられています。



余りにも恐れ多いこととは思いますが、平成23年3月16日に発表された天皇陛下のお言葉の後半部分を、本稿に引用させて頂ききます。

『今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています』



このお言葉には、三丁目の住民が共有する日本人の徳目を端的に示唆されていると、元気印は痛感しております。

『夕日の三丁目』シリーズで感動するのは、

『海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多い』



『被災者のこれからの苦難日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います』

天皇陛下は、三丁目の住民らが共有している「人として習得しなければならない常識」をこの簡潔・明瞭なお言葉に込めておられる。

「へそ曲がりの元気印さんは、どこへ行ったのですか?」

昭和30年代を1955年代と表記されて、その時代の雰囲気を思い起こせない元気印ですが、多様な価値観に馴染めない、追いつかないなどと、時代おくれの愚痴話を語っても、よる歳に負けてはシニアの価値が無くなってしまう。

「そうあってこそ、へそ曲がりの元気印さん。独断と偏見かも知れませんよ」

「それで良か、観音さま」


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千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その5:人間・山本五十六の葛藤とその戦い

2012-02-22 11:54:56 | 映画
真珠湾攻撃から1年5ヶ月後の昭和18(1943)年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた一式陸上攻撃機は、ブーゲンビル島ブイン上空で待伏せしていた米軍のロッキードP38ライトニング戦闘機に爆撃され、山本長官は戦死する(海軍甲事件)。

ラバウルの南東方面司令部から、ブイン周辺にある海軍部隊五ヶ所に打電された暗号電報「機密第131755電:13日17時55分発を意味する」を傍受した米軍は、17日までに解読し、山本長官機を撃墜するP38ライトニング戦闘機17機から成る「ヤマモト・ミッション」を編成。

山本長官らを一番機に乗せた一式陸攻2機を6機のゼロ式戦闘機が護衛する編隊構成から、その航程や時間、場所を知らせる暗号電報を傍受・解読した米軍の迎撃計画は周到で完璧だった(太平洋戦争全記録:あの戦争上 他)。
映画では、山本長官のスケジュールは平分で打電したことになっているのですが・・・。

「おめでとう、獲物のカモのなかの一羽は、孔雀だったらしいね」

これは、山本長官機撃墜の報告を受けたウイリアムズ.F.ハルゼー大将がソロモン方面航空部隊指揮官M.A.ミッチャー少将へ送った祝電といわれている。また、この作戦は、時の米国大統領フランクリン.D.ルーズベルトの承認を得て実施された(同前)。



さて、連合艦隊司令長官山本 五十六大将を描いた映画は、当然、山本長官の戦死で終わります。
人間・山本 五十六は、随所に描かれていますが、軍人としての山本 五十六は、日独伊三国同盟の締結に異議を唱える場面、真珠湾攻撃に出撃しても外交交渉が円滑に行われた際に艦隊は、作戦を停止し引き返すことを徹底する場面でしょう。
そして、五十六長官の心境を忖度するには、彼のセリフを注意深く聴いていないとイメージできない。元気印が注目したセリフがあります。

「これで、詰んだな」



世界で最初に航空母艦同士がまともにぶつかった珊瑚海海戦は、日米五分五分の戦いでしたが、航空母艦『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』を失ったミッドウエー海戦は、大東亜戦争の帰趨を決める分岐点となった。このことは、さまざまな局面で語りつくされているので、何方もご存知の史実でしょう。

余談になります。
次男坊がロンドンで仕事をしている時期に初孫が産まれ、その100日祝も兼ねて内儀と共に訪英し、孫の背中に一升餅を背負わせたのは、8年前のことです。
ルイ・アームストロングに憧れトランペットを吹いている小学5年生に、初期に録音したサッチモのCDをロンドンから送ったのも、この時でした。その小学生は今、米国へ留学してジャズの勉学に励む高校生に成長しました。

そんな時、ロンドン市内の書店で、航空母艦を扱ったバーゲン品が目に留まり、ペラ、ペラ頁をめくると、第二次世界大戦時における米国、英国、日本の航空母艦が紹介されていたのです。しかも、£19.99が£9.99の半額です。英語の理解力ゼロの自分をど忘れして購入。帰国してから興味のあるページを見て本棚に眠っていた次第。



それは兎も角、映画『山本 五十六』を観て、真珠湾攻撃の主戦力をなした航空母艦を含め、それらの詳細が写真入で紹介されていることを思い起こし、改めての見直しです。



『鳳翔』(ほうしょう:Hosho)
 大正11(1922)年12月、浅野造船所(横浜市鶴見)で竣工。常備排水量9,449トン。
 大正7(1918)年1月に起工した英国海軍小型航空母艦『ハーミーズ』(10,850トン)の竣工は大正13(1924)年2月。このた  め、世界で最初に竣工した純空母は『鳳翔』とされる。昭和20(1945)年9月20日、特別輸送艦として復員輸送で活躍する。

『赤城』(二代目・あかぎ:Akagi)
 昭和2(1927)年3月25日、呉海軍工廠で竣工。公試排水量34,364トン。昭和11(1936)年10月から13(1938)年8月までの大改 装(飛行甲板の全通化や兵装等の強化)工事により空母機能を充実する。昭和15(1940)年11月26日、機動部隊として単冠(ひ とかっぷ)湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を実施。
 昭和17(1942)年5月27日、旗艦としてミッドウエー海戦に出撃、6月5日、米国機動部隊の艦上爆撃機の襲撃を受け大破、日本 機動部隊の第四駆逐隊4隻が発射した魚雷により自沈処理される。

『加賀』(かが:Kaga)
 大正12(1923)年12月13日、横須賀工廠で航空母艦への改装工事に着手、同14(1925)年4月22日竣工。公試排水量33,693トン。昭和10(1935)年、全通甲板の採用やタービン交換などの改装工事により空母機能を向上させる。改装後の公試排水量42,500トン。開戦後の戦歴は『赤城』と同じ。ミッドウエー海戦で米国機動部隊の艦上爆撃機の奇襲を受け沈没。

『龍驤』(りゅうじょう:Rujo)
 昭和6(1931)年4月2日竣工。公試排水量11,733トンの小型航空母艦として建造され、昭和12(1937)年の改装で公試排水量12,575トンに。昭和16(1941)年8月16日、第二次ソロモン海戦に出撃し、ソロモン諸島の南端マライタ島付近で米国機動部隊 の攻撃を受け沈没。

『飛龍』(ひりゅう:Hiryu)

 昭和14(1939)年7月5日、横須賀工廠で竣工。公試排水量20,165トン。
 昭和12(1937)年12月19日呉海軍工廠で竣工した公試排水量が18,800トンの『蒼龍』(そうりゅう)とは姉妹艦で、共に計画さ れた日本海軍初の近代的航空母艦。



話は山本 五十六に戻ります。
ミッドウエー海戦で、米軍機の急襲を受けた航空母艦『飛龍』は火災を起こし、第二航空戦隊司令官山口 多門少将は総員退去命令を発したが、『飛龍』艦長の加来 止男大佐と共に艦に残った。そして、駆逐艦『巻雲』から発射された2本の魚雷により『飛龍』は海の底に沈んだ。

この報告を受けた山本長官は、連合艦隊の旗艦『大和』で将棋を指していた。山口少佐の戦死報告を聴き終わった山本長官は、平静を装いつつも苦渋の面持ちで言い放った。

「これで、詰んだな」

これは、アメリカとの戦いの行く末を予見した軍人・山本 五十六でなければ言えないセリフです。
ミッドウエー海戦の指揮を執った第一航空戦隊司令官を兼務していた第一航空艦隊司令長官南雲 忠一が、海戦敗北の報告に『大和』を訪れても、海戦にまつわる会話は一切なく、山本 五十五は南雲 忠一に雑炊を勧めるだけです。

ミッドウエー海戦敗北の最大の要因となった「兵装転換」は、昭和17(1942)年4月5日から9日に展開された「セイロン沖海戦」でも南雲機動部隊では実施しており、英国東洋艦隊の消極的な攻撃のお陰で難を逃れています。

この時は、

「攻撃隊がツリンコマリやハーメス攻撃している間、母艦の方では早朝から敵襲を予期して厳重な警戒を続けていたのであるが、 早朝の敵機来襲は無く、午前10時15分敵飛行艇1機の触接するのを認め一撃にしてこれを撃墜したのみであった。この様子であ るいは今日も敵襲は無いかも知れないと思っていたのであるが、午後1時48分に至って見張員から「利根方向水柱」との報告 があり、我々が目を右前方の利根の方に転じた瞬間「シュッ、シュッ、シューッ」という昔どこかで聞き慣れた様に感ずる音が 響いた。と思うと同時に赤城の右前方から後方にかけ、艦を挟んで爆弾の着弾波紋と皮膚を突き破るような衝撃波を経験した。 上空を見れば敵の爆撃機9機が旋回中である。上空の戦闘機はやや離れていたが、全速力で追撃に移り、これを捕捉して敵プレ ネム双発爆撃機9機の内6機を撃墜した。この戦闘で飛龍分隊長熊野大尉を失ったのは痛かった。(中略)。こんな奇襲を喰う ようでは、今後よほど警戒しなければならない。余りにも順調な戦闘を続けた我々は、この瞬間に更に深い反省をすべきであっ たと思う。その反省の不足は、2カ月後のミッドウエーに現れて来た次第である」(源田 實:海軍航空隊始末記)。

英国東洋艦隊の動向を把握してから南雲機動部隊の作戦決定までの経過を「海軍航空隊始末記」で整理してみます。

昭和17年4月5日は、

 午後1時過ぎ 利根4号機から「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」の電信を受ける。
 午後1時25分 第三編制は敵巡洋艦攻撃の予定。艦攻は出来る限り雷装とす、の予令が発せられ、各  
       母艦は直ちにその準備に取掛かった。
 午後2時15分 阿武隈機から「敵駆逐艦2隻見ゆ」との報が入る。
     司令部の意見が対立したが、南雲長間の決定で駆逐艦をやることになり、議論は打ち切られた。
 午後4時   「敵巡洋艦はケント型なり」との報が利根1号機より入る。
        これで、コロンボ再攻撃の議論は不要になった。

の経緯を経て作戦方針が決まり、南雲機動部隊は華々しい戦果を得ています。

つまり、午後1時12分に発令された兵装転換の実施から、午後4時の敵巡洋艦発見の報告が入る迄に2時間半もの時間的余裕があった。その間に兵装転換を終え発進準備の整っていた第一、第二航空戦隊の艦爆53機は、2時45分各母艦を発進し、『蒼龍』飛行隊長江草 隆繁少佐の指揮の下に、英海軍1万トン級巡洋艦の攻撃に向い、「ドーセットシャー」「コンウォール」を撃沈したのです。

一方の英国東洋艦隊は、南雲機動部隊が4月1日に来襲する暗号情報を入手・解読し待伏せしていたのですが、出撃が4月5日に変更となり機動部隊と遭遇しなかった。勝利の女神が、日本側に微笑む要因になったのです。

この海戦で気になるのは、コロンボ攻撃部隊を発進させた『赤城』が、自軍空母を護衛する戦闘機隊が見逃したプレネム双発爆撃機の爆撃を受けていることです。不幸中の幸いでしょうか、投下された爆弾は『赤城』の左右に外れたので、勝利を得られたのです。

しかし、ミッドウエー海戦では、セイロン沖海戦のような兵装転換に要する1時間半もの時間的な余裕は皆無で、雷装(魚雷)から陸用爆弾への転換令が発せられ、さらに雷装への転換令が出され、その作業中に米軍機の急襲に遭い、虎のこの空母4隻を失っている。セイロン沖海戦で作戦の指揮を執った源田 實が自著の中で告白している通りミッドウエー海戦で敗北した。その原因となったとされる「魔の5分間」についてはご存知の方も多いと思います。

山本長官の命令は、門田隆将の著書「太平洋戦争 最後の証言-零戦・特高編」に『加賀』艦攻隊前田 武の証言があります。 

「とにかく、あれは源田参謀と南雲長官の責任です。特に源田参謀ですね。戦後、私は山本五十六長官が、敵が日本の艦隊へ接近 することがわかったら、何を置いても、魚雷攻撃しかないんだから、艦攻が出ていって応戦しろと、源田にかたく言いつけてい たことを聞きました。山本長官の部下から聞いたんですよ。艦攻は何があっても、魚雷をおろして爆弾に積みかえるのは禁止す る、とまで山本長官は厳命していたことも聞きました。出航する時の打ち合わせでも、赤城と加賀の2隻は絶対に魚雷攻撃以外 を考えちゃいかんと、言われていた。それでも源田参謀は、ああいう指示をしてしまったんですからね(中略)。

 やはり、敗北の最大の原因は、日本側の索敵の怠慢にありました。巡洋艦『筑摩』から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機  が、発艦おおよそ1時間後に敵のドーントレスと遭遇して、撃ちあっている。しかし、大尉はこれを報告していない(中略)。
 私は、真珠湾50周年の時に、ハワイに招かれ、このときのドーントレスを操縦していたアメリカのパイロットに会うことかでき ました。向こうは日本の偵察機と遭遇したことをきちんと報告しているのに、こっちは肝心の報告をしていないんです。それど ころか、この決定的なミスが巡洋艦『利根』から発艦した索敵機のせいにされているんです」

いずれにしても、ミッドウエー海戦の敗北を報告に来た南雲 忠一に対する山本 五十六の心境は、親指が他の指を骨折させるくらい拳に力を入れて握っていた筈です。心中に噴き上る葛藤を必死に握り潰して、淡々と雑炊の箸を進める山本長官を描いたシーンは、観る者に訴えるものがあります。



山本 五十六長官を端的に表した作家の言葉を紹介して、本稿の終りにします。

「五十六が名将でないとしたら、日本の軍部は一人の名将も持たなかったことになる。与えられた条件の下で、五十六はおよそ人 間の出来る限りの努力をした。勝ち目がないと承知しながら、大博打に打って出た」(工藤 美代子:海燃ゆ・山本五十の生  涯)。


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