ベルリンの壁が崩壊し暫くした後にウイーン、ベルリン、パリ、ロンドンにある著名な劇場を巡った30数年前、名前を忘れた劇場視察のあと自由行動の時間になった。「第三の男」に登場した観覧車に乗ろうと思い立ちます。劇場の近くにあった小さな店で場所を聴いたのですが、観覧車がプラター公園にあることを知らなかったので行き先が特定できず、目的を果たせなかった。そこで、夕食前の2時間を活用して再チャレンジすることに・・・。
ところが、ホテルから観覧車へ行くまでの交通アクセス整理に時間が掛ってしまい、午後7時過ぎになります。観光客であることがひと目で判別されては何が起こるか判りません。整理メモを挟み込んだガイドブックをショルダーバックへ押し込み、カメラはホテルへ置いて出掛けます。そんな訳で、観覧車の写真は撮っていません。
WIENER RIESENRAD の搭乗券と観覧後に貰った割引券です。
ガイドブックには搭乗料8.5ユーロとありますが、9ユーロに値上げしたようです。
19.12.2012 20:32 Preis in Euro 9,00
平成24年12月19日 20時32分に発売した搭乗券と表示してあります。羽田空港でのユーロ換算は116円だったので、1,044円の搭乗料金、まあまあですね。
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15台ある客車に人が乗っていたのは3台だけ。
夜の帳に包まれた客車からは、暗闇の中に点灯している街灯や道路傍の外灯の輝きに囲まれて寝静まるウイーンの夜景を展望するだけでした。
『客車の中は寒かったよ』
両足をバタバタさせて寒さを凌いで、乗客の乗り降りを誘導している小父さんに、客車を降りながら肩をすぼめて声をかけます。
『これで一杯やっていけよ。ここを直進して右に曲がったところにレストランがある』
と聴こえます。30セントの「BONUS-SKONTO」(割引券)をくれたのです。
乗るとき日本人だと答えた元気印に、『おお、アントニオ 猪木』と大袈裟なジエスチャーを返した小父さん。両肩を上下して叫んだ小父さんの心意気を感じた瞬間です。『有難う』と握手して別れましたが、心のなごむ小父さんでした。大観覧車前のウインターマーケットは1月6日まで開催されるので、それらと連動したサービスだったのかも知れません。
客車を降りたのが21時を回っていたし、人もまばらなマーケットには立ち寄らず、大観覧車の搭乗記念にとも考え、未使用のままバックへ仕舞い込みます。
そんなこんなで、観覧車の下にある土産店にあった唯一のガイドブックは、現地語(ドイツ語?)のガイドブックなので他の資料も併用して本稿を書きます。
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公園・庭園・国立公園であるプラター公園の総面積は、15,000㎡。
1898(明治38)年の夏、オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世即位50周年を記念する祝典計画に目を付けたイギリスの退役軍人・ウオルター・バセット(Walter B. Basset)は、その祝典の娯楽のひとつとしてプラター公園内にあるカイザーガーデンに観覧車の建設を提案し採用されます。他に、フォルクスオーパーが即位50周年記念事業として建てられている。
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記念祝典の前年に操業を始めた直径61m、最高地点64.75m、秒速0.75mの観覧車はRiesenrad(リーゼンラート)と呼ばれ評判となり、今もってウイーン市民の憩いの場となり愛されているようです。
観覧車の建設・運営まで行う会社を設立しているバセットですが、プラター公園内にあった遊園地「ウイーンのベニス」を経営していたGabor Steinerに観覧車の運営・管理を任せます。
また、バセットはウイーンに大観覧車を建てる前に、社交ダンスのメッカになっているイギリスの保養地ブラックプールとロンドンに大観覧車を建設し成功しています。パリの大観覧車はウイーン後に建設したもので、ヨーロッパに建てられたそれら4基は、観覧車の歴史の中でも画期的なものと言われている(福井 裕子著:観覧車物語 他)。
ロンドンのグレイドン・ホイールは、1895(明治35)年に開催されたオリエンタル博覧会の時に、第5回パリ大博覧会が開かれた1900(明治40)年にパリのそれは建設され、ヨーロッパ4基のなかでは最大(直径93m、高さ96m)のもの。ブラックプールの大観覧車は取壊され、ロンドンやパリの大観覧車も同じ運命を辿っているので、ウイーンのリーゼンラートは現存する世界最古の大観覧車になった。
ちなみに、次男に授かった長男の100日目に背負わせる一升餅をロンドンへ持参した折に、ミレニアム記念事業として建設された観覧車に家族連れで乗りました。当時世界一であったロンドン・アイですが、シンガポール・フライヤーにその座を譲ってしまった。
建設中の観覧車。
自転車の車輪と同じスポークで引っ張る構造を採用した完成間近の観覧車本体と、30台取り付く客車の2台を取り付けた様子が判ります。
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完成した観覧車を世界にアピール。
ウイーンの観光名所となったプラター公園、観覧車を公園の主役に仕立て、その周辺に漲っている活気が窺える写真ですね。リンクと呼ばれるウイーン市内の環状道路とそれに沿って支援が走っている。
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第一次大戦の空襲で火炎に襲われる観覧車。
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客車は焼失しても観覧車は無事のようです。
空爆による建物の瓦礫の中に黒こげになった観覧車だけが焼け残っている。構造物のみになったリーゼンラートは、戦争の傷跡をあざ笑っているかのように悠然と佇んでいる。
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余談です。
プラター公園は、ドナウ川と運河に挟まれた大緑地に設けられました。オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が1766(明和3)年まで貴族の狩猟場を一般開放したのです。この他にヨーゼフ1は自分が生まれ自ら好んで住居にしていた、皇帝として執務したシエーンブルン宮殿の庭園、それとアウガルテン宮殿の庭園も一般に開放している。
ウイーン市内を走っているリンクと呼ばれるのは、市内を囲んでいる城壁の撤去をヨーゼフ1世が命じ、その跡に作られた環状道路。それに沿って電車の線路を敷き、その周辺に歴史的な建物を建設する都市計画が推進された。その例外とされる建物がウイーン市庁舎で、古典建築様式に囚われないウイーン独自の設計で施工している。
ところで、第一次世界大戦は、ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナント大公が、「青年ボスニア」と称する暗殺グループによって1914(大正3)年6月28日、サラエボで妻ゾフイと共に暗殺された「サラエボ事件」が遠因になっているようです。
また、ヨーゼフ1世戴冠50周年記念式典の娯楽のひとつとして、バセットの提案により建設したのが観覧車であることは前に書きました。そのような誕生物語がある観覧車も第一次世界大戦の戦火に見舞われる。そこに、リーゼンラートが背負っているハプスブルク家との宿命のようなものを感じるのです。
良く知られている話のなかには、ヨーゼフ1世の長男ルドルフが30歳の時、17歳の愛人マリー・フオン・ヴエッツエラとの情死があります。無類の狩猟好きであったルドルフが、自分の狩猟用に建てさせた城館で1889(明治22)年1月30日、愛人マリーを拳銃で射殺して自らの生命をも絶ったのです。通称「マイヤーリンク事件」と言われるこの心中事件には、暗殺説もあってその真相は今もって不明のままのようです。
自殺の報を聴いたヨーゼフ1世は、事件のあった城館を跡形もなく取壊させる。ルドルフの母エリザベート皇后は、亡き皇太子を弔うために教会堂とカルメル派の女子修道院を跡地に建てさせます。ネオゴシック建築様式で建てられた教会堂の祭壇は、二人が死んで発見された別荘二階の部屋があった所に据えられている、と教会堂の冊子には記載されています。
フランスの作家クロード・アネの小説「 Mayerling ( 邦題:うたかたの恋 ) 」は、このルドルフとマリーの心中事件がモデルになっていることは、宝塚フアンでなくてもご存知の方は多いでしょう。
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ヨーゼフ1世の悲劇は続きます。
弟のマクシミリアン1世(メキシコ皇帝)は1867(慶応3)年6月19日、メキシコ皇帝が支持する保守派と相対する自由主義勢力に捕らえられ、二人の王党派将軍と共にケレタロ(鐘の丘)で銃殺刑に処せられる。1898(明治31)年9月10日には、「バイエルンの薔薇」と賞賛され、チターを弾くのが上手く、作詞・作曲の才に恵まれていたエリザベート皇后が無政府主義者に狙われ、ジュネーブのレマン湖畔で刃先が三角形のナイフ状となるように研ぎだしたヤスリで心臓を刺されて他界している。
一方のヨーゼフ1世が生涯を終えたのは、第一次世界大戦が終わる2年前の1916(大正5)年11月21日、ウイーンで肺炎を患い崩御している。享年86。
それにしても、皇位継承者の長男と甥、そしてエリザベート皇后を相次いで失ったヨーゼフ1世。それも、相次いで身内の者が異常な死に方をしている。苦悩するヨーゼフ1世の心中は、元気印のような市井人には計り知れないものがある筈です。
「元気印さん、それらの事情はマイヤーリンクの教会堂を訪れてから知ったんですね」
ボケ封じ観音さまの呟きが聴こえてきます。耳が痛くなりますね。
ベートベンが第9を書いた家を訪ねられるとの期待でオプションツアーに参加した訳ですが、第一次世界大戦の勃発要因とされる「サラエボ事件」につながるヨーゼフ1世の家系に遭遇するなんていうことは、想像さえしなかったのです。
再建されたリーゼンラートの写真と解説文でしょう。
第一次世界大戦終盤の1944(昭和19)年の空爆で焼失した客車、火災で黒子焦げの鉄骨だけになった観覧車は、当初24人乗り客車が30台付いていた観覧車の負担を軽減するために15台に半減、定員も15人にして、翌年に再建された。
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最高地点に向かってゆっくり回転する客車。
リーゼンラートの客車内で射殺して突き落としても完全犯罪は成る、とペニシリン密売の黒幕ハリーはホリーに脅しをかけ、闇取引の協力者にならないかと誘う。断るホリーを乗せた客車の扉をハリーが開けて地上を俯瞰するシーンでは、何時、ハリーがホリーを突き落とすか、その恐怖感を煽られます。緊迫したスリルとサスペンスが充満した場面が思い起こされます。
客車を降りたハリー・ライム(オーソン・ウルズ)は、友人のホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)に
「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした?鳩時計だよ」
と捨て台詞を残して、ハリーは空爆で破壊され瓦礫が散乱しているウイーン市内へ姿を消します。その画面にアントン・カラスが弾く「ハリー・ライムのテーマ」が被さります。
戦火で焼失したリーゼンラートが再建された3年後に撮影が始まった「第三の男」で有名になっただだっぴろい客車の中には、元気印しか乗っていません。10数分かけて1周する間観覧車が2回停止します。客車の扉を開けて地上に目線をやるハリーの凄みに身震いした映画の場面が蘇ってきます。故障かな、と不安に襲われたのですが、客車への乗り降りは回転を止めて行っていることを後から知って納得する始末です。
映画のロケに使われたのは「第三の男」が有名ですが、007シリーズ第15作「The Living Daylights」の撮影記事がありました。
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イアン・フレミングの短編「ベルリン脱出」を原作にした、監督:ジョン・グレン、主演:ティモシー・ダルトンによる、シリーズ誕生25周年記念映画として大型予算で製作した作品。
1987(昭和62)年に公開されているけれど、元気印の007はショーン・コネリーなので観ていません。これも何かの縁と考え、DVDを観てみようかと思案している所です。
歴史とは面白いもののようですね。
ヨーゼフ1世が一般に開放した貴族の狩猟場に建設されたのがリーゼンラートであり、しかもそれは、ヨーゼフ1世の戴冠50周年記念式典における娯楽のひとつとして建てられている。
そして、第一次世界大戦の引金を引いた「サラエボ事件」には、ヨーゼフ1世の甥が絡み、その大戦でリーゼンラートが戦火の被害を受けているのですから・・・。
いずれにしても、フランツ・ヨーゼフ1世と観覧者との因縁、第一次世界大戦とハプスブルク帝国崩壊との関り、ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世にちなみ「ルドルフ」と命名したヨーゼフ1世の長男が心中した城館など、など、予想外の収穫があったオプションに参加して良かった。心から感謝しています。
元気印を、30数年ぶりに再チャレンジするように仕向けたリーゼンラートとの間には、お互いが認識できないけれども何か因縁の類が潜んでいるのかも知れません。
『マイヤーリンク教会堂の祭壇前に舞戻って花を咲かせている、今から115年前、ジュネーブのレマン湖畔に散ったバイエルンの薔薇がチターを弾いている光景を空想しているよう・・・。ハプスブルグ家唯一の皇太子ルドルフを愛しむ歌詞に付けたメロデイーを聴いているのですか?元気さん』
ところが、ホテルから観覧車へ行くまでの交通アクセス整理に時間が掛ってしまい、午後7時過ぎになります。観光客であることがひと目で判別されては何が起こるか判りません。整理メモを挟み込んだガイドブックをショルダーバックへ押し込み、カメラはホテルへ置いて出掛けます。そんな訳で、観覧車の写真は撮っていません。
WIENER RIESENRAD の搭乗券と観覧後に貰った割引券です。
ガイドブックには搭乗料8.5ユーロとありますが、9ユーロに値上げしたようです。
19.12.2012 20:32 Preis in Euro 9,00
平成24年12月19日 20時32分に発売した搭乗券と表示してあります。羽田空港でのユーロ換算は116円だったので、1,044円の搭乗料金、まあまあですね。
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15台ある客車に人が乗っていたのは3台だけ。
夜の帳に包まれた客車からは、暗闇の中に点灯している街灯や道路傍の外灯の輝きに囲まれて寝静まるウイーンの夜景を展望するだけでした。
『客車の中は寒かったよ』
両足をバタバタさせて寒さを凌いで、乗客の乗り降りを誘導している小父さんに、客車を降りながら肩をすぼめて声をかけます。
『これで一杯やっていけよ。ここを直進して右に曲がったところにレストランがある』
と聴こえます。30セントの「BONUS-SKONTO」(割引券)をくれたのです。
乗るとき日本人だと答えた元気印に、『おお、アントニオ 猪木』と大袈裟なジエスチャーを返した小父さん。両肩を上下して叫んだ小父さんの心意気を感じた瞬間です。『有難う』と握手して別れましたが、心のなごむ小父さんでした。大観覧車前のウインターマーケットは1月6日まで開催されるので、それらと連動したサービスだったのかも知れません。
客車を降りたのが21時を回っていたし、人もまばらなマーケットには立ち寄らず、大観覧車の搭乗記念にとも考え、未使用のままバックへ仕舞い込みます。
そんなこんなで、観覧車の下にある土産店にあった唯一のガイドブックは、現地語(ドイツ語?)のガイドブックなので他の資料も併用して本稿を書きます。
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公園・庭園・国立公園であるプラター公園の総面積は、15,000㎡。
1898(明治38)年の夏、オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世即位50周年を記念する祝典計画に目を付けたイギリスの退役軍人・ウオルター・バセット(Walter B. Basset)は、その祝典の娯楽のひとつとしてプラター公園内にあるカイザーガーデンに観覧車の建設を提案し採用されます。他に、フォルクスオーパーが即位50周年記念事業として建てられている。
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記念祝典の前年に操業を始めた直径61m、最高地点64.75m、秒速0.75mの観覧車はRiesenrad(リーゼンラート)と呼ばれ評判となり、今もってウイーン市民の憩いの場となり愛されているようです。
観覧車の建設・運営まで行う会社を設立しているバセットですが、プラター公園内にあった遊園地「ウイーンのベニス」を経営していたGabor Steinerに観覧車の運営・管理を任せます。
また、バセットはウイーンに大観覧車を建てる前に、社交ダンスのメッカになっているイギリスの保養地ブラックプールとロンドンに大観覧車を建設し成功しています。パリの大観覧車はウイーン後に建設したもので、ヨーロッパに建てられたそれら4基は、観覧車の歴史の中でも画期的なものと言われている(福井 裕子著:観覧車物語 他)。
ロンドンのグレイドン・ホイールは、1895(明治35)年に開催されたオリエンタル博覧会の時に、第5回パリ大博覧会が開かれた1900(明治40)年にパリのそれは建設され、ヨーロッパ4基のなかでは最大(直径93m、高さ96m)のもの。ブラックプールの大観覧車は取壊され、ロンドンやパリの大観覧車も同じ運命を辿っているので、ウイーンのリーゼンラートは現存する世界最古の大観覧車になった。
ちなみに、次男に授かった長男の100日目に背負わせる一升餅をロンドンへ持参した折に、ミレニアム記念事業として建設された観覧車に家族連れで乗りました。当時世界一であったロンドン・アイですが、シンガポール・フライヤーにその座を譲ってしまった。
建設中の観覧車。
自転車の車輪と同じスポークで引っ張る構造を採用した完成間近の観覧車本体と、30台取り付く客車の2台を取り付けた様子が判ります。
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完成した観覧車を世界にアピール。
ウイーンの観光名所となったプラター公園、観覧車を公園の主役に仕立て、その周辺に漲っている活気が窺える写真ですね。リンクと呼ばれるウイーン市内の環状道路とそれに沿って支援が走っている。
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第一次大戦の空襲で火炎に襲われる観覧車。
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客車は焼失しても観覧車は無事のようです。
空爆による建物の瓦礫の中に黒こげになった観覧車だけが焼け残っている。構造物のみになったリーゼンラートは、戦争の傷跡をあざ笑っているかのように悠然と佇んでいる。
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余談です。
プラター公園は、ドナウ川と運河に挟まれた大緑地に設けられました。オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が1766(明和3)年まで貴族の狩猟場を一般開放したのです。この他にヨーゼフ1は自分が生まれ自ら好んで住居にしていた、皇帝として執務したシエーンブルン宮殿の庭園、それとアウガルテン宮殿の庭園も一般に開放している。
ウイーン市内を走っているリンクと呼ばれるのは、市内を囲んでいる城壁の撤去をヨーゼフ1世が命じ、その跡に作られた環状道路。それに沿って電車の線路を敷き、その周辺に歴史的な建物を建設する都市計画が推進された。その例外とされる建物がウイーン市庁舎で、古典建築様式に囚われないウイーン独自の設計で施工している。
ところで、第一次世界大戦は、ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナント大公が、「青年ボスニア」と称する暗殺グループによって1914(大正3)年6月28日、サラエボで妻ゾフイと共に暗殺された「サラエボ事件」が遠因になっているようです。
また、ヨーゼフ1世戴冠50周年記念式典の娯楽のひとつとして、バセットの提案により建設したのが観覧車であることは前に書きました。そのような誕生物語がある観覧車も第一次世界大戦の戦火に見舞われる。そこに、リーゼンラートが背負っているハプスブルク家との宿命のようなものを感じるのです。
良く知られている話のなかには、ヨーゼフ1世の長男ルドルフが30歳の時、17歳の愛人マリー・フオン・ヴエッツエラとの情死があります。無類の狩猟好きであったルドルフが、自分の狩猟用に建てさせた城館で1889(明治22)年1月30日、愛人マリーを拳銃で射殺して自らの生命をも絶ったのです。通称「マイヤーリンク事件」と言われるこの心中事件には、暗殺説もあってその真相は今もって不明のままのようです。
自殺の報を聴いたヨーゼフ1世は、事件のあった城館を跡形もなく取壊させる。ルドルフの母エリザベート皇后は、亡き皇太子を弔うために教会堂とカルメル派の女子修道院を跡地に建てさせます。ネオゴシック建築様式で建てられた教会堂の祭壇は、二人が死んで発見された別荘二階の部屋があった所に据えられている、と教会堂の冊子には記載されています。
フランスの作家クロード・アネの小説「 Mayerling ( 邦題:うたかたの恋 ) 」は、このルドルフとマリーの心中事件がモデルになっていることは、宝塚フアンでなくてもご存知の方は多いでしょう。
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ヨーゼフ1世の悲劇は続きます。
弟のマクシミリアン1世(メキシコ皇帝)は1867(慶応3)年6月19日、メキシコ皇帝が支持する保守派と相対する自由主義勢力に捕らえられ、二人の王党派将軍と共にケレタロ(鐘の丘)で銃殺刑に処せられる。1898(明治31)年9月10日には、「バイエルンの薔薇」と賞賛され、チターを弾くのが上手く、作詞・作曲の才に恵まれていたエリザベート皇后が無政府主義者に狙われ、ジュネーブのレマン湖畔で刃先が三角形のナイフ状となるように研ぎだしたヤスリで心臓を刺されて他界している。
一方のヨーゼフ1世が生涯を終えたのは、第一次世界大戦が終わる2年前の1916(大正5)年11月21日、ウイーンで肺炎を患い崩御している。享年86。
それにしても、皇位継承者の長男と甥、そしてエリザベート皇后を相次いで失ったヨーゼフ1世。それも、相次いで身内の者が異常な死に方をしている。苦悩するヨーゼフ1世の心中は、元気印のような市井人には計り知れないものがある筈です。
「元気印さん、それらの事情はマイヤーリンクの教会堂を訪れてから知ったんですね」
ボケ封じ観音さまの呟きが聴こえてきます。耳が痛くなりますね。
ベートベンが第9を書いた家を訪ねられるとの期待でオプションツアーに参加した訳ですが、第一次世界大戦の勃発要因とされる「サラエボ事件」につながるヨーゼフ1世の家系に遭遇するなんていうことは、想像さえしなかったのです。
再建されたリーゼンラートの写真と解説文でしょう。
第一次世界大戦終盤の1944(昭和19)年の空爆で焼失した客車、火災で黒子焦げの鉄骨だけになった観覧車は、当初24人乗り客車が30台付いていた観覧車の負担を軽減するために15台に半減、定員も15人にして、翌年に再建された。
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最高地点に向かってゆっくり回転する客車。
リーゼンラートの客車内で射殺して突き落としても完全犯罪は成る、とペニシリン密売の黒幕ハリーはホリーに脅しをかけ、闇取引の協力者にならないかと誘う。断るホリーを乗せた客車の扉をハリーが開けて地上を俯瞰するシーンでは、何時、ハリーがホリーを突き落とすか、その恐怖感を煽られます。緊迫したスリルとサスペンスが充満した場面が思い起こされます。
客車を降りたハリー・ライム(オーソン・ウルズ)は、友人のホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)に
「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした?鳩時計だよ」
と捨て台詞を残して、ハリーは空爆で破壊され瓦礫が散乱しているウイーン市内へ姿を消します。その画面にアントン・カラスが弾く「ハリー・ライムのテーマ」が被さります。
戦火で焼失したリーゼンラートが再建された3年後に撮影が始まった「第三の男」で有名になっただだっぴろい客車の中には、元気印しか乗っていません。10数分かけて1周する間観覧車が2回停止します。客車の扉を開けて地上に目線をやるハリーの凄みに身震いした映画の場面が蘇ってきます。故障かな、と不安に襲われたのですが、客車への乗り降りは回転を止めて行っていることを後から知って納得する始末です。
映画のロケに使われたのは「第三の男」が有名ですが、007シリーズ第15作「The Living Daylights」の撮影記事がありました。
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イアン・フレミングの短編「ベルリン脱出」を原作にした、監督:ジョン・グレン、主演:ティモシー・ダルトンによる、シリーズ誕生25周年記念映画として大型予算で製作した作品。
1987(昭和62)年に公開されているけれど、元気印の007はショーン・コネリーなので観ていません。これも何かの縁と考え、DVDを観てみようかと思案している所です。
歴史とは面白いもののようですね。
ヨーゼフ1世が一般に開放した貴族の狩猟場に建設されたのがリーゼンラートであり、しかもそれは、ヨーゼフ1世の戴冠50周年記念式典における娯楽のひとつとして建てられている。
そして、第一次世界大戦の引金を引いた「サラエボ事件」には、ヨーゼフ1世の甥が絡み、その大戦でリーゼンラートが戦火の被害を受けているのですから・・・。
いずれにしても、フランツ・ヨーゼフ1世と観覧者との因縁、第一次世界大戦とハプスブルク帝国崩壊との関り、ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世にちなみ「ルドルフ」と命名したヨーゼフ1世の長男が心中した城館など、など、予想外の収穫があったオプションに参加して良かった。心から感謝しています。
元気印を、30数年ぶりに再チャレンジするように仕向けたリーゼンラートとの間には、お互いが認識できないけれども何か因縁の類が潜んでいるのかも知れません。
『マイヤーリンク教会堂の祭壇前に舞戻って花を咲かせている、今から115年前、ジュネーブのレマン湖畔に散ったバイエルンの薔薇がチターを弾いている光景を空想しているよう・・・。ハプスブルグ家唯一の皇太子ルドルフを愛しむ歌詞に付けたメロデイーを聴いているのですか?元気さん』