いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

川村記念美術館のはな その2 クルメツツジ、深紅の絨毯

2008-04-29 23:38:41 | 散策
快晴に恵まれた「昭和の日」。
シャガ(アヤメ科の多年草)の写真を撮り直しに行った川村記念美術館では、研究所の敷地内の「ツツジ山」を一般に公開していました。

カタクリの生えている自然散策路を巡っていると名前の知らない山野草に出会います。

24日に撮ったシャガは白木蓮通りに植えられていた花でしたが、今日は自然散策路に植えられていたシャガに惹かれ、満足する写真が撮れました。実は、名前を知らない花を撮った24日、デジカメ・モニターを花屋さんに観てもらい、「シャガです」と教えて貰った花です。
シャガについて、その3で紹介したいと思います。

おおよそ300m続いてツツジ山に咲いている花は、クルメツツジ(九州久留米地方の園芸品種)です。
50余年の大株と小さな苗2種類が植えられているクルメツツジが一斉に開花している景観は、ツツジ山に深紅の絨毯を敷いているようです(写真)。 
川村記念美術館の敷地内には、キリシマツツジ、ヤマツツジ、ミヤマ・キリシマツツジなどの自然交配品種群、約200種類が栽培されています。

ちなみに、日本に自生しているツツジは50種ほどあり、ミツバツツジ、ヤマツツジ、レンゲツツジ、ミヤマツツジ、モチツツジなどで、ツツジと呼ばれるのは、ヤマツツジを指しています。
園芸品種になると世界各地で2000以上にのぼるとみられます(図説 花と樹の事典)。

川村記念美術館では、キリシマ・ミツバツツジ、イワツツジを観ることも出来ます。
それらの根元には銘板が設置されていますので、散策しながら探す楽しみにもなっています。

キリシマ・ミツバツツジは、絶滅の危険が増大している種(絶滅危惧II類・VU)に指定されています。
他にも同じ危惧種がありますので、その4で書く予定です。

ツツジ山から美術館へ向かう路の入り口にドウダンツツジがあります。
スズランに似た小さな白い花を咲かせています。剪定の行き届いた淡い緑の葉のなかにポツンと一輪咲いていますので、美術館からツツジ山へ向かう場合、本路から外れていますから見逃してしまいます。逆コースの場合は、ツツジ山沿いの道の右側にある小路の根元に設置されている銘板が目印になります。

ツツジ山は、5月3日から6日まで一般公開しています(美術館HP)。
今日の11時過ぎは、臨時駐車場へ入る車の列が出来ていましたので、早めに出かけるか14時以降を狙って行動すると、時間の無駄が省けるかと推察されます。

ご存知かと思いますが、駐車料金、園内入園料は不要です。
但し、美術館は有料です。

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下野ひとがた流しびな その2 牛若丸と弁慶、子供たち

2008-04-27 22:53:41 | 散策
鯱兜の他に、普通の兜が4兜(とう)展示されています。なかでも、兜と牛若丸がひときわ人目を惹きつけます。

長刀を持った弁慶、嬉しそうにはしゃぐ子供たちの顔には眼鼻が書き込まれていません。
目鼻のない下野ひとがたの由来は4月20日に紹介しましたので省きます。

やはり、牛若丸と弁慶、子供たちを見ていると、どこかちがった印象を受けます(写真)。

龍笛(りゅうてき:笛の巻きや塗りなどに手間のかかる装飾を施した横笛で、貴族や武士が愛用した)を手にした、目鼻のある牛若丸の表情からは、笛を吹く牛若丸の気持ちが推し測れます。しかし、ガリバーに立ち向かう小人のような弁慶の顔に目鼻がありません。
では、弁慶はどんな心構えだったのでしょうか。

明治に行われた神仏分離で改名した八坂神社は、「素戔鳴命(すさのおのみこと)」を御祭神に祀る佐原本宿の守護神、氏神さまです。
天保(てんぽう)から弘化(こうか)に改元した天保15(1845)年頃は「感応天王」と呼ばれ、その昔は「牛頭天王(ごずてんのう)」として諏訪山近郊の天台山に鎮座していました。

その牛頭天王に、あと1振りで太刀千本奪い満願成就の願をかけた弁慶は、忠敬(ただたか)橋へ向かう森の中で牛若丸に出会ったのです。兵法の虎の巻に習熟していた牛若丸に六韜(りくとう)の技でかわされ、弁慶は最初の敗北感を味わいます。
しかし、弁慶の表情は、あと1振りで満願成就を願掛けして忠敬橋へ向かっている時の目鼻になります。

佐原の大祭夏祭り「八坂神社祇園祭」の夜でした。

小野川の忠敬橋の上
大の男の弁慶は
長い薙刀振り上げて
牛若めがけて切りかかる

のですが、

牛若丸は飛びのいて
持った扇を投げつけて
来い来いと欄干の
上えあがって手を叩く

忠敬橋での決闘にも弁慶は完敗してしまいます。

余談になります。
佐原寺宿町(てらじゅく)の幣台(やだい)飾り物は、金時山姥(きんときやまんば)です。
足柄山で熊と相撲をとって遊ぶ金時と出会った源頼光(よりみつ)は、金時の力量を認めて家来に取り立てます。そして、坂田公時(さかたのきんとき・金時とも言う)は、頼光四天王の一角を占める武将になります。
ひし形の腹賭けをして、鉞(まさかり)を担いで熊の背中に乗っている元気な5月人形や三菱館に飾られている金太郎のモデルは、足柄山の金時です。

幣台の説明書と交えて寺宿幣台を紹介します。
金時山姥の製作年代は不詳となっていますが、坂田金時の足柄山での少年期を表しており、姥の傍らで、眉を逆八の字に吊り上げ、口を「への字」に結んで、熊にまたがり、斧を力いっぱい振りかざす姿で力強さを表現しています。幣台は嘉永3(1850:徳川12代将軍・家慶)年製作で、全体に漆が施された立派なものです。

話を弁慶と牛若丸に戻します。
欄干に飛び乗った牛若丸を睨みつける弁慶の表情を目鼻で表すことも出来ます。
恐らく、金時山姥の金太郎と同じ表情になるでしょう。

弁慶と牛若丸の最後の対決は、八坂神社の本堂前です。

  前やうしろや右左(みぎひだり)
  ここと思えばまたあちら、
  燕のような早業に
  鬼の弁慶あやまった
  
牛若丸の家来となった弁慶は、義兄・頼朝に追われて奥州へ逃れる途中にある最難所「安宅の関」越えでは、義経を殴る機転をはたらかして難を逃れ、安全な場所へ逃避した瞬間、弁慶は主君にはたらいた無礼を詫びます。それを受けた義経は、弁慶の機転を褒め称え、富樫の温情にも報いる祝宴を催します。山伏に変装した7人は、富樫が差し入れてくれた酒、料理で祝宴を開いたのです(虎の尾を踏む男達:脚本・監督:黒澤明)。

義経から感謝されて喜色満面の弁慶の表情を目鼻で表しても良い訳です。

思川の流しびなは、浴衣姿の子供達と同じです。
藁舟に乗った子供の下野流しびなは、百人百様の思いを込めて思川を下り自然に還ります。
その時の子供達の表情は、多分、百面相でしょうけれども、思いを込めてくれた人の気持ちに報いるために、義経に褒め称えられている弁慶の目鼻になっているかも・・・。

山伏(やまぶし)姿の義経を助けるために主君を殴りつける機転で、頼朝に義経の捕捉を命じられた役人・梶原の使者の追求をかわした弁慶と、主君を守る臣下の務めを必死になってはたしながらも、義経の臣下として耐えている忍びがたい弁慶の心情に武士の情けで報いた富樫の男気に感謝している義経の表情と、目鼻のある下野ひとがた牛若丸に重なってしまいます。

目鼻のない下野流しびなからは、作り手の感情やそれを観る人が抱くその時の心情で百面相になります。

目鼻の入っていない下野ひとがたには、それを観る人に、その時々の喜怒哀を感じさせる魅力を秘めています。 



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下野ひとがた流しびな その1 鯱兜

2008-04-24 23:41:46 | 散策
佐原の町シリーズで書いたひとがたを2回に亘り個々に紹介します。

番外編の写真は下野ひとがたの全景写真のため、個々のひとがたの表情が判別し難いので、写真を拡大します。

トップバッターは兜(写真)です。
鯱(しゃち)が獅子を呑み込もうとしている姿を連想しますので、独断と偏見で「鯱兜」と名付け、その感想を書きます。

この鯱兜の力は、鋭い眼力を放っている鯱にあります。
実戦用の兜では、頭部を守る鉢(はち)の部分が鯱、眉庇(まびさし)の上に据えられた獅子が対戦する相手を睨みつけ、鯱と共に威嚇しています。この獅子の耳は前立(まえだて)、立物(たてもの)と呼ばれる装飾部品のひとつにデザインされており、平安時代以降の兜に付くようになったものです。

獅子の両脇には、両手を広げて、拙者に近づく邪魔者は容赦なく突き飛ばすぞと、武士の無言の意思を表示しているような「しころ」があり、頭部を固定するために顎で結ぶ忍緒(しのびのお)も太く頑丈に作られています。「しころ」は、後頭部や首周りを守るために、牛革や鉄を素材にした防具で、甲冑を構成する最も重要な基本要素になっているものです。

「この兜が一番似合う戦国武将は、誰でしょう?」

ボケ封じ観音さまがクイズ遊びを仕掛けてくる。

「そうだ!! 信長、秀吉、家康の甲冑姿を想像してみましょうか」
「調和の取れた鯱兜には、織田信長は不釣合いですよ。観音さま」
「徳川家康はどうですか」
「眼光鋭く相手を射抜く鯱は、ホトトギスが鳴く前に射殺してしまうでしょう。この鯱兜をビシッと決めるのは、豊臣秀吉しかいない」

鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ほととぎす

桜が散り、新緑の季節を迎える諏訪神社の森から、ほととぎすの鳴き声が聞こえてくる。
 
キョッツ、キョッツ、キョキョキョ、 キョッツ、キョッツ、キョキョキョ、
 
香取神宮の杜では、ほととぎすの卵を孵化させ子育てをしたウグイスがさえずっている。

ホー、ホケキョ、ホー、ホケキョ、キョ、キョ


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佐原の町4 番外編 流しびな・下野ひとがた

2008-04-20 16:10:15 | 散策
佐原の町越しイベント「5月人形めぐり展」において、佐原町並み交流館に展示されていた「下野ひとがた」は、小山市無形文化財に指定されています。このことは、4月15日にも書きました。

下総国(しもうさのくに)に属した佐原(千葉県香取市佐原)の交流館に展示されていた、下野国(しもつけのくに)領であった小山市(栃木県)の流しびな(写真)が「下野ひとがた」です。

ところで、「下野ひとがた」の「ひとがた」って何んでしょう?

①人の形をしたもの。にんぎょう。多く祓(はらい)いのときの形代(かたしろ)とする。
②転じて、身代わりの人。代理。
③人相。人相書。

そして、「にんぎょう」とは・・・。

①紙、土、木などで人の形を模して作ったもの。古くは「ひとかた」といい宗教的な行事に用いられていたが、中世以降は観賞・愛玩用として発達した。
②人形仕立ての略。

広辞苑(第五版)の説明です。

そこで、佐原町並み交流館に展示してある「下野ひとがた」に話を戻します。

獅子を呑み込んでいる鯱(しゃち)を思い起こす兜が、上段の中央にあります。その前で、牛若丸が笛を吹いています。3体の弁慶が牛若丸の左横に飾られ、薙刀を構えて立っています。最前列に飾られているのは、着飾った子供達の「流しびな」です(写真)。

流しびなの作成者を記入した名札が、ひとがたの近くに置いてありました。
鯱兜を制作者された方に話をお伺して、佐原と小山との関係や展示されている「流しびな」についての疑問が解けました。

『鯱兜の獅子の部分には、兜を被る人の家紋が入っています。交流会館に展示してあるのは、獅子を入れた「流しびな」の兜です。今回、大きい兜が展示されるので、鯱兜も大きく創りました。背丈が60cmあるひとがたも作成しているので、保有しています。

下野ひとがたは、素朴な姿をしており、両手に組んだ袖口を帯に指し込んでいるような姿をしています(写真の右から4,5番目)。
しかし、このごろは、両手を広げたひとがた(写真の左側)を制作する人が増え、背丈も小さくなってきました。

ひとがたを作り始めて40年になります。ひとがた創りの魅力は尽きません。ひとがたを創り続けていると、顔に目鼻を入れたくなる時期があります。やがて、目鼻を入れない原型に戻ります』

牛若丸だけは目鼻がちゃんとあり、弁慶と子供達の顔には目鼻が書き込まれていませんが。

『牛若丸は、千代紙で作成した古いものです。「下野しぼり和紙」を使った弁慶が展示されるので飾ることにしました。

下野しぼり技術保持者として小山市無形文化財に指定されていた諏訪重雄さんが他界されたので、平成8(1996)年、諏訪ちひろさんが無形文化財技術保持者として認定されました。諏訪ちひろさんは、日本紙人形協会アカデミー会長を務めております』

お伺いした話の要旨です。

佐原と小山との縁組は・・・。

小山市で「下野ひとがた」を創っていた鯱兜の制作者が佐原に移住したからです。
香取市と小山市は姉妹関係にあるので、5月人形めぐり展に「下野ひとがた」を展示する企画を提案して採用されたからでした。

余談になります。
奈良の東大寺二月堂で、3月13日未明に行われる「御水取り」を行う時、修行僧がまとっている着物は、600枚の「しぼり和紙」をひと針一針、修行僧が縫い上げた紙衣(かみこ)です。


「下野しぼり」「下野ひとがた」を解説したWEBがありますので、小山市無形文化財「下野ひとがた」に興味を持たれた方は、ネットサーフィンを楽しんで下さい。

「下野しぼり・下野人形」WEBは、下記のように紹介しています。

1.下野しぼりとは
下野しぼりとは和紙を加工する技法で、栃木県小山市無形文化財に指定されています。奈良時代に弓削道鏡によって下野の国に伝えられたといわれております。しぼり紙は「悪をしぼり出す」と言われていますから、伝授の折には信仰的な意味も含まれていたことでしょう。
紙衣(紙で作られた衣服のこと。もともと僧侶たちが愛用していたが、江戸時代には庶民の衣服の代表となる)や髢の材料としてもてはやされておりましたが、時代の流れと共に廃れてしまい、今では諏訪重雄から一子相伝で受け継いだ諏訪ちひろだけがその技法を守り制作しております。
柿渋を施した和紙の型紙を使って下野しぼり和紙は作られます。手仕事によって生まれる風雅なしぼり目は、布のような手触りと時には木や革のような味わいを醸し出し、丈夫で色褪せず、人形だけでなく美術工芸の素材として使われています。

2.下野ひとがたの由来
下野の国(栃木県)の中央を流れる「思川」には、古くから「ひとがた(人形)」に願をかけて幸せを求める風習がありあります。この川に人形を流すと思いがかなうので「思川」と呼ばれるようになったという伝説もあります。人形に願いを託すのは、人間をかたどった「ひとがた(人形)」には魂があり、必ず身替わりになってくれると信じた一種の民間信仰です。また、「ひとがた」は下野の国の工芸品「下野しぼり」和紙で作られました。しぼり紙が身に着いた悪をしぼり出すと言われたからでありましょう。このひとがたが『下野人形』です。
もともとは素朴な姿でした。その目鼻の無い顔は観る人の心を映し、また作る人の心をも表します。人形作りは人の心を無心にさせ、そして温かい心で作らねば良い人形ができません。「しもつけひとがた」が幸せを呼ぶ紙人形と言われているのもそうして生み出されるからです。
戦後ひとがたを再興した諏訪重雄・志津子夫妻によって伝統の中にも新しい意匠が取り入れられ、 美術工芸品として日本だけでなく海外でも高く評価されております。
幸せの祈りをこめたひとがたを和紙や藁で作った舟にのせて、思川に流す行事「流しびな」は、現在も毎年7月の第1日曜日に開催され続けております。
 















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佐原の町 その3 杜氏と映画監督との絆

2008-04-17 10:51:50 | 散策
お江戸みたけりゃ、佐原へござれ、佐原本町江戸まさり

里謡に歌われるほど経済的な繁栄をしていた佐原、現在も2軒の蔵元が製造・販売をしています。

徳川綱吉が統治していた天和年間(1681~1684)創業の馬場本店、将軍が家斉の文政8(1825)年に創業した東薫酒造株式会社です。

日本酒の醸造(じょうぞう)を行う際の責任者の役職を杜氏(とうじ)と称し、蔵の管理や醪(もろみ)の仕込みと管理が仕事で、杜氏は青森から長崎まで各地に分布しており、18から20あるのはご存知と思います。

さて、東薫酒造株式会社の杜氏は、及川恒男氏です。
南部杜氏は、越後、丹波、但馬と並ぶ三大杜氏のひとつに数えられ、400名の杜氏で構成されています。及川恒男氏は南部杜氏協会長を務め、全国酒造杜氏連合会長も兼務している人物です。

及川杜氏の「叶・かのう」は東薫(とうくん)を代表する大吟醸酒です。
大吟醸(夢とまぼろしの物語)、吟醸二人静、吟醸二人静(生貯蔵酒)、卯兵衛(うへえ)の酒(地元特別契約栽培米吟醸)、夢童(むどう:特別純米無濾過)の銘柄があり、どぶろく酒「十冨禄酒」もあります。

東薫について詳しく紹介したのは、酒蔵見学のガイドをしてくれた研修生の真摯でひたむきな姿勢への恩返しです。
路ひとつ隔てたところに蔵元・馬場本店があっても、今回は立ち寄らなかったのですが、大吟醸・海舟散人が自慢の清酒になっています。これは、江戸末期から明治にかけた時期に、勝海舟がここへ逗留したとの記録が残っており、それに因んだ銘柄のようです。

大吟醸(夢とまぼろしの物語)のラベル(写真)に描かれているのは、黒澤明直筆の絵が元になっていると説明をしてくれた研修生が、舌触りのよい麹粒が残っている「十冨禄酒」から始めた大吟醸酒各銘柄の試飲を勧めてくれたのです。しかも、銘柄ボトルの写真を思いのままに撮らせてくれましたし、黒澤明について雑談をしているうちに親しみを感じたことも、東薫紹介に拍車をかけています。

彼女の説明によれば、黒澤監督の「夢」に登場する人物を描いたとのことでした。
黒澤監督自身の夢をモチーフにした8つの短編からなる作品が「夢」、その第三話・雪あらしに登場する雪女(原田美枝子)、第7話・鬼哭(きこく)の鬼(いかりや長介)ともイメージが違います。「乱」の一文字秀虎(仲代達矢)のほうが相応しい。

三人の息子に家督を譲ろうとした秀虎は、骨肉を争う肉親同士の権力闘争に巻き込まれ、三男・三郎を頼って生き延びる術しかなくなってしまう。その三郎が銃弾に倒れると、絶望のどん底に堕ちた秀虎は半狂乱になり野垂れ死にをする。

そのような苦境に陥った秀虎の表情がラベルに描かれています。
大吟醸の銘柄に「夢とまぼろしの物語」と命名したのは、及川杜氏なのか黒澤監督なのかは分かりませんが、黒澤監督が吟醸酒のラベルに秀虎を描いた。興味を覚える話です。

黒澤映画おたくを自認する元気印にとって、黒澤明氏と及川恒男氏との交流は新しい発見であり、驚きでもありました。

「面白い映画を創る」映画監督と「良い酒を造る」杜氏との間には、「ものづくり」同士だけが共感する、常人には会得できない情感があって、それは、一度これと決めたら、何があっても成果を得るまで初志を貫き通す頑固さ、かも知れません。

面白い映画とは、良い酒とは・・・。
その本質を自問自答しながら探究する飽くなき拘りと、それに伴う障害を克服するための衰えを知らない異常なまでの闘争心、パイオニア・スピリットに共鳴する琴線があるのでしょう。


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佐原の町 その2 まちぐるみ博物館

2008-04-15 22:35:14 | 散策
五月人形めぐりは、4月12日から5月11日までの1ヶ月間、佐原おかみさん会が主催する地域起こしイベントです。

五月人形を展示する家を「佐原まちぐるみ博物館」と名付け、各家が所有している五月人形、兜、金太郎、鍾馗様、鎧兜、節句の切絵、掛軸、内のぼりなどのお宝を展示しています。

五月人形(写真)は、東薫酒造(とうくんしゅぞう)に展示してあります。
五月人形めぐりチラシでは兜になっていますが、見ごたえのある五月人形が酒造の二階に展示されています。
ここは、午前10時から30分間隔で行われる酒造見学の時だけしか内部に入れませんが、地酒の試飲やガイドと情報交換も出来るので待ち時間は苦になりません。

「まちぐるみ博物館」は東薫酒造を含めて25館あります。
いずれも散策路沿いにあって、家の蔵見学、佐原の名産品を探しながら博物館めぐりが楽しめるようになっています。

三菱館に隣接している「佐原町並み交流館」には、縮小して作った山車を展示して、本山車の特徴などを解説していますし、町並みを案内するボランティアが常駐していますので、思いおもいの情報が入手できます。

交流館では現在、下野(しもつけ)ひとがた人形が展示されています。
佐原に縁の深い人形かと思い地元で調べた結果は、小山市無形文化財に指定されている「下野しぼり和紙・下野人形」で、目鼻のない顔は観る人の心を映し、作る人の心をも表している、幸せを呼ぶ紙人形であることまで分かりました。この人形については、情報を収集しているところです。

14日の佐原町その1で、

「植田屋荒物店の歴史も古く、宝暦9(1759)年創業と、小野川と佐原の町並みを考える会の案内板にあり、これは考える会に加入している店舗や旅館の玄関などに掲げてあります」

と、紹介しました。

『植田屋荒物店の歴史も古く、宝暦9(1759)年創業と、小野川と佐原の町並みを考える会の案内板にあります。香取市佐原地区は「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区・じゅうでんけんちく):商家町」に指定されており、地域内の建築物91と工作物3です。
これら指定された建築物や工作物を見学者がその場で分かるようにするために木の看板を作り、小野川と佐原の町並みを考える会が設置したものです』

が正確な内容です。

そして、香取市佐原地区が重伝建地区に指定されたのは、平成8(1996)年、川越市の川越地区が商家町として指定されたのは、3年後です。
関東地区にある重伝建地区指定地区は佐原と川越の2ヶ所だけです。

何はともあれ、わが町に活気を与えようと地域ぐるみで必死に努力している汗の臭いが爽やかな町、それが佐原です。


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佐原の町 その1 懐かしの町を想い起こす着物姿

2008-04-14 13:56:26 | 散策
晴天、大雨、曇天と日替わり天気が続いた4月6日の週、快晴に恵まれた土曜日、12日に佐原散策の下見に出かけました。

シニアジュク・スタッフ6名は佐原駅から開運橋へ向かい、橋の手前を右折し中橋、共栄橋、忠敬橋(ただたかばし)、樋橋(とよはし)を歩く小野川沿いの散策路に見所が随所にありました。

小野川両岸に並ぶしだれ柳は、古びた蔵や旅館と調和して、かって栄えた町並みを偲ばせ、想像力を刺激してくれる風景に出会います。夏に実施する散策候補地から本命に昇格です。

忠敬橋から八坂神社と山車会館へ向かう途中、三菱館、油茂製油(あぶもせいゆ)に立ち寄り橋へ戻ります。

橋の角にある植田屋荒物店のおかみさんに

「蔵を公開しています。どうぞ」

と、呼び込まれたスタッフは見学することに。

ちなみに、三菱館は、大正3(1914)年建設の洋館で内部を公開している旧三菱銀行佐原支店です。油茂製油の玉絞め胡麻油は、化学薬品を使用していない無添加の純正胡麻油と製品説明にあります。スタッフが親友のお土産に購入していたので、知る人ぞ知る胡麻油のようです。

植田屋荒物店の歴史も古く、宝暦9(1759)年創業と、小野川と佐原の町並みを考える会の案内板にあり、これは考える会に加入している店舗や旅館の玄関などに掲げてあります。

植田屋荒物店の二階建て蔵を見学し、竹製の箸を購入していると、

「映画の撮影をしているよ」

スタッフが、映画好きの私を誘いに来たのです。

ロケ隊の目的は聞き漏らしましたが、忠敬橋角にある中村屋商店前から忠敬橋へ小野川沿いに歩くモデル(写真)を、対岸の伊能忠敬旧宅前に据えたカメラが、斜め左向かいからモデルを狙う撮影現場でした。堤防のある小野川の流れ、中村屋商店、千よ福、木の下旅館などを見ながら歩くモデルを撮っていたのでしょう。

このロケ隊とは、忠敬橋から三菱館へ向かうモデルを撮る現場、「長谷川」でうなぎの昼食を終えて、工場公開を無料のガイド付で行い地酒の試飲もある蔵元・東薫酒造(とうくんしゅぞう)に向かう途中で再度遭遇したのです。

モデルが見ている(?)であろうポスターは、「五月人形めぐり」です。
佐原おかみさん会が主催するイベントで、4月12日~5月11日の期間は、五月人形展示博物館に指定された所の店頭などに飾ってあります。植田屋荒物店には五月人形、東薫酒造には兜が飾ってありました。

八坂神社の夏祭りは7月、10月には諏訪神社の秋祭りがあり、佐原の大祭と言われています。
引き回される山車(だし)で町中が賑わい、小野川沿いのこの路も山車行列で埋め尽くされます。

江戸後期、明治、大正の頃、正上(ショージョー)、金利(かねり)、植田屋荒物店、木の下旅館など、小野川沿いで生活している女性が、大祭見物に晴れ着姿で出かける情緒の一端を彷彿とさせてくれる、スナップとなりました。


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川村記念美術館のはな その1:水滴に耀くオウバイ

2008-04-11 01:21:36 | 散策
早春の頃になると葉のでる前に、今年新しく生えた枝ではなく、前年枝の各節に対生して開花するのがオウバイです。

原産地・中国では「迎春花(げいしゅんか)」、日本に渡来した年代が不明の「黄梅」が文献に出てくるのは、元禄8(1695)年に発行された『花壇地錦抄』の記録が最初のようです。

『花壇地錦抄』は、草花類だけではなく、植木類も所載した、日本最初の総合園芸書といわれている、伊藤伊兵衛(三之丞)の著書です。

梅には、白梅、紅梅、黄梅(おうばい)がありますので、梅の仲間と思いましたが、本黄梅(ほんこうばい)と呼ばれている他人でした。黄色い梅にお目にかかったことはありません。

梅は、バラ科サクラ属、黄梅は、モクセイ科ソケイ属で、学名は、Prunus mumeが前者、後者はJasminum nudiflorum、英語名は、winter jasmineでした。梅の渡来の方が850年余りも前ですから、花の色と形が梅に似ているので黄梅と命名されたようです。

大雨注意報が出されてからも、後に続く低気圧の影響で前夜来の雨となった10日、午前中に小降りとなりました。枝垂れ桜を背景にした新緑色の苔、散策路のカタクリを撮り直したかったので、川村記念美術館を再訪しました。

雨で花を閉じたままのカタクリは、写真になり難いので苔のある所へ直行です。
苔のある風景は、曇天の下でオオシマサクラと枝垂れ桜に囲まれたものとなり、イメージしていた太陽の光を反射する苔の新緑色には及びませんでしたので、快晴日を狙って再挑戦です。

しかし、水滴となって溜まった雨が花に溶け込んでいるオウバイは、新鮮な生命力に輝いています。息子から譲り受けたニコンD70を接写モードで撮影、それをトリミングしたオウバイです。

川村記念美術館のオウバイは、スチールカメラの魅力を捨てがたい元気印に、デジタルカメラD70との付き合いを躍如として薦めてくるのです。


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川村記念美術館 アート広場のケロヨンと菜の花

2008-04-06 17:37:59 | 散策
灯台下暗しです。
千葉から不忍池(上野)、六義園(駒込)、染井霊園(駒込)まで遠出をしての桜巡り。
自宅から車で20分ほど走るところに素晴しい花見所、川村記念美術館があったのです。

美術館敷地は、①自然散策 ②白鳥池畔 ③アート広場 ④お花畑 ⑤美術館 ⑥会社施設(研究所、テニスコート、多目的的グランド)のエリアがあり、①~④は自由に出入りができます。⑤は有料で公開していますが ⑥は社員専用になっています。

正面入口の右手にレストラン・ショップがあり、白鳥池を見ながら直進するとアート広場にでます。その途中から自然散策路へ入る小路があり、4月5日でもカタクリが紫色の花を咲かせていました。

散策林に生息している植物名を記入した手札判大の銘板が散策路の左右に設けられているので、植物音痴の元気印は大助かりです。この銘板は、敷地内に生育している植物全般に亘っているので、散策をしながら、名前を知らない見慣れた花や木たちと友達にしてくれます。

レストラン・ショップの前にある透明な箱に、「池廻りの植栽一覧表」が入っています。それには、1~50の番号と名称、学名、科・属、分布、草丈、花期、特徴が書き込まれています。散策中に番号札のある植栽に出会ったら、一覧表の番号と照合してみるのも楽しいことです。

例えば、クリスマス・ローズはリスト5にあります。
学名はHelleborous nige、キンポウゲ科ヘレボルス属のヨーロッパから西アジアに分布する、草丈は20~60cmに生育する、12月から3月を花期としている。葉は長い葉柄をもつ楕円形、縁にはギザギザがあり、鳥足状に深くさけている特徴があります。

クリスマス・ローズの説明を読むだけで、これだけの情報が得られます。

名前を知らない花に出合うと、先ずその花を撮影してから名前を調べる。これが元気印流のやり方です。一方、かみさんは、「チューリップ2007」を開催しているギャラリーに入り出入り口の扉をあけて、「さっきの花の名前、ここで聴いてみたら」と促します。

家の庭先に咲いているチューリップを全国から探し出して自ら撮影し、それをパネルにして展示会を開催している方に、帰宅してから調べる積りでいた花をデジカメのモニターで見てもらうと、濃紺色の花はムスカリ、横に咲いているクリスマス・ローズが4月に咲いているのは珍しいと、教えてくれたのです。デジカメの即戦力を認知させられる体験になりました。

広場の中央にポツ~ンと立っているブロンズの彫刻(写真)が、黒い背景のようになっている林の中から見えるようになると、散策路を通り抜けて広場へ出ます。
散策路出口の左右には、群生する菜の花が咲き誇っています。ブロンズ後方で黄色い帯状になっているのが菜の花、満開直前の八重桜が左奥で白い花を咲かせています。

さて、ブロンズ彫刻の正体が気になります。
「ヘンリー・ムーア ブロンズの形態 1985年 ブロンズ」と鋳ぬかれた銘板が、彫刻の手前に埋め込んでありました。

「ブロンズの形態」と題されたこの彫刻の表情は百面相です。
ブロンズ彫刻を1周しながら撮影した数枚の写真を孫娘に見せて、

「これ、何に見える?」

暫く考える孫娘でしたが、
「蛙、ケロヨン、ケロヨンちゃんでしょう、これ」

そう言って、掲載した写真を指差したのです。

ケロヨンをプレスして平たい蛙にしたら、ど根性ガエル・ピヨン吉に変身するだろうか。

ケロヨンがTVに登場したのが昭和41(1966)年11月21日、ど根性ガエルが週間少年ジャンプに登場したのは、ケロヨンが放映されてから4年後です。ピヨン吉は、ケロヨンは後輩ですから、ケロヨンはピヨン吉に変身できるでしょう。 

ケロヨンの右目は八重桜を、左目が足元を見つめているように見えるポイントがあり、落語の二人羽織(ににん・ばおり)と左右独立して動くケロヨンの目線とが酷似しています。

ブロンズ彫刻が落語芸を連想させるポイントは、何方かが探す時の楽しみに残しておきます。

ところで、日本で最も知名度の高いパブリックアートは、岡本太郎の「太陽の塔」と言われています。不特定多数の人びとが同時に体験することが出来る日常空間の中にある芸術作品がパブリックアートであり、世界中に多数設置されているヘンリー・ムーアのブロンズ作りの抽象的なモニュメントはパブリックアートされている。そして、ムーアは20世紀のイギリスを代表する芸術家、彫刻家であると解説されています。

ボケ封じ観音さまが断言します。

「世界的に著名なムーアの彫刻からケロヨンを連想する軟らかい発想。6年生になったばかりの孫娘だからケロヨンが生まれた。ムーアを知っている大人には、ケロヨンなんて思いつきもしないでしょうね」

ちなみに、川村記念美術館には、ルネヴイル(フランク・ステラ)、朱甲面(清水久兵衛)、無題(ジョエル・シャピロ)、緑(佐藤忠良)のパブリックアートが野外展示されているとの説明がなされていますが、ヘンリー・ムーア(ブロンズの形態)には一言も触れられていません。

しかし、川村記念美術館にあるパブリックアートで、鑑賞者を最も魅了するのは、ムーアの「ブロンズの形態」、そう、蛙のケロヨンです。 

盆地の底のように造営したお花畑から眺めた横並びの白木蓮は見事ですが、花の盛りを過ぎてしまい、地面に落ちた花弁を踏みつけるだけの散策になります。

枝垂れ桜は今が見頃で、お花畑からの眺め、東屋方向からの展望が好きになりました。午前中の太陽光が写真撮影に最適です。週末に人物なしの撮影を狙うのであれば、入園できる9時から30分間でしょう。

また、研究所の出入門からアート広場へ降りる周辺の桜並木も撮影ポイントになっており、鑑賞者が絶えません。広場の菜の花の撮影も昼前の太陽光が最適のようです。

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メタボ健診と指導の成果:徒歩時間40分を創案した、医師の一言

2008-04-05 00:09:51 | 時の話題
シニアの仲間入りをしてからの健康管理は年1回、千葉市基本検診を受診して行っています。それまでは、1泊人間ドックで仕事の骨休めを兼ねて受診していたました。
どちらも、異常項目の有無を記入した診断書を1週間以上経ってから郵送されてくるだけで、診断結果についての医師面談は皆無でした。

千葉市基本検診には、移動型と外来型があって、定年直後は前者を選択していたのですが、地元では好評なクリニックが車で7~8分の所にあり、昨年から後者に切り替えました。

ところで、医療崩壊政策を打ち出して推進していることの自覚症状がない厚生労働省(以下、厚労省)は、特定健診制度を導入し、4月1日から施行されました。

政府・与党医療改革協議会が、平成17(2005)年12月1日に決めた「医療制度改革大綱」の数値目標を基準にして、メタボリック・シンドローム(内臓脂肪型肥満:メタボ)の診断基準を設定しています。

それによれば、腹囲が男性85cm、女性90cm以上で、①血圧130/85mmHg 以上 ②中性脂肪150mg/dL以上、またはHDLc40mg/dL未満 ③血糖110mg/dL 以上の内2項目以上該当するとメタボであると認定され、医師は受診者に保健指導を行うように義務づけています。

この基準は、日本肥満学会が平成17年に設定したものです。他方、国際糖尿病連合が作成した世界統一診断基準よりも優れているとされる診断基準があります。

それでは、①腹囲が男性90cm、女性80cm以上 ②血圧130/85mmHg 以上 ③中性脂肪150mg/dL以上、④HDLc 男性40mg/dL、女性50mg/dL未満 ⑤血糖100mg/dL 以上 の内3項目以上に該当する人がメタボと診断します。

しかし、アメリカ糖尿病学会とヨーロッパ糖尿病学会は、どの診断基準も問題であり、人びとにメタボというレッテルを貼ってはいけない、との共同声明を発表しているようです。

そういう流れの中で、厚労省は特定健診制度の導入を決め、4月から法律が施行されているのです。その理由は、メタボとその予備軍は約二千万人であるとの試算を行い、平成24年度末までに10%減、27年度末までに27%減とする目標を立てたからです。この制度の対象者は、40歳から74歳までの中高年保険加入者です。

しかし、二千万人とした試算の根拠は曖昧ですし、2兆円の医療費を削減することがその本音であり、医療費は削減すべしとする厚労省の基本目標を達成するために、もっともらしい机上の空論を展開していると、指摘する専門家もいます。

4月から施行された特定健診制度について、TV局の街頭インタビューを受けた中年サラリーマンは「お節介をやくな」と憤慨していました。

厚生年金制度設計の基準となる合計特殊出生率でさえ、自省に都合の良い数値を採用して直ぐに化けの皮が剥がれても、言葉遊び論法で煙に巻く才能はピカイチです。
医師過剰をアドバルーンに掲げて医療改革もどき政策を進めてきた挙句の果てが医療崩壊です。社会保険庁の不祥事すら監督責任を放棄して馬耳東風の厚労省ですから、次なる新政策もどきを企んでいるのでしょう。

個人情報保護法が施行され、法の定めた真意とは違った理解をしている人が多く、地域社会のコミユニケーションを阻害している社会風潮と同じになる恐れがあります。メタボ予備軍と認定された人たちとその家族及び非対象者は、腹囲測定値だけでメタボ認定をしないことです。医院や病院は歯止めを掛けた制度運用を担うことが肝心なのです。

さて、千葉市基本健診を受診して1週間後、結果確認のためクリニックへ行きました。
基本健診を担当した医師との面談では、①心臓に脂肪が付き初めている ②起床後の血糖が140以上あり、この数値が2回以上でると糖尿病である ③眼底検査で気になることがあるので眼科医の診断を受けるようにと、写真の裏に眼底の状態をメモ書きしてくれたのです。

面談の終わりに、1日40分間歩くことで血糖は140以下に落ちるし、3~4ヶ月毎に定期健診をするようにアドバイスしてくれたのです。基本健診の結果は昨年と同じでしたから、メタボ健診と指導が医師に義務付けられ、その対応が病院の評価に連動している特定健診制度導入のメリットです。

このように、受診者と対話をしながら診察する医療へ、ほんの少しですが、医療関係者が舵取りを初めだしたことは朗報です。

ちなみに、アメリカでは、初診40分、再診20~30分は当たり前であり、医療費節減だけに目が向いている厚労省の医療政策が現在の医療崩壊を引き起こしていると、日野原重明医師は講演会で明言していました。厚労省の医療改革方針を実直に受け入れ実行している日本の医師にも責任の一端があると、反省もしていましたが。

受診者の健康維持と促進に医師が専門的指導をする。このような医療の基本責務を医師が果たす気運が強くなることは、歓迎すべき現象です。

そこで、運動不足がもたらす健康障害を乗り越える医師との約束を実行するには・・・。
1日40分歩くにはどうするか。
これまでの生活習慣の中に、どうやって歩く時間を作り出すか。実は、これが問題でした。

「通勤時間内にその時間を作れば、簡単でしょう。バス停をふたつ先にすると15分は歩けます。往復で30分になりますね。バスを降りて職場までは往復30分歩いているんですよ」

ボケ封じ観音さまの呟きです。

自宅前のバス停を飛ばしふたつ先にしても待ち時間があります。もうひとつ先のバス停を利用すると徒歩時間が延びて、且つ、運賃が20円安くなることも分かってきました。

乗るバス停を替えるだけの単純な発想転換は、降りるバス停も替えました。
今まで利用していたひとつ手前のバス停で降りると、勤務先まで一直線に伸びている道路で行けたのです。これで、帰りのバス停も替わり、1系統のバス路線から3系統に増えたのです。
そして、帰りのバス停でも待ち時間が生じますから、ひとつ、ふたつと自宅に近くなる停留所まで歩くようになったのです。

今は、歩くことに対する抵抗感がなくなり、1ヶ月前は近間の用事に車を利用していましたが、徒歩かチャリンコで済ませる生活パターンに変化しています。
これまでの生活習慣の中に歩く時間をプラスするのではなく、バスに乗っている時間を短くして15分稼ぐ知恵を授けてくれた観音さまに、頭が上がりません。

1日40分歩いて血糖を下げるようにアドバイスしてくれた医師は、岩戸隠れをしたアマテラスを岩戸から引きずりだしたアマノタジカラオ(写真:稲毛浅間神社の十二座神楽)のように思われて仕方がありません。

ボケ封じ観音さまが特定健診制度施行の名を借りて医師を動かして、生活パターンを替えずに意地を張り通していた元気印に活を入れさせた。
こう考えると、へそ曲がりの元気印が医師のアドバイスを素直に聴きいれ、40分徒歩を実行している動機がはっきりします。

観音さまの助言では、積極的に定期健診を受診する目標も決まらず、元気印の生活習慣に変化は起こらないまま終わっていたからです。

1日40分の徒歩を実行する成果を生み出した、基本健診になりました。





コメント (2)
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