いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

個人情報保護法を守るのは?

2005-04-29 09:25:05 | Weblog
JR福知山線尼崎での電車事故は、凄惨の極みまで破損した1両目の車両の回収が済
んだ昨日、人命救助活動は終結された。
神戸支店に単身赴任していた時は、塚口駅を利用していた。テニスの伊達君子の母校
が近くにある。
テニス好きの元気印は、身近に感じながら、事故に関する報道を見ていた。

マスメディアは、個人情報保護法の施行に反対の意志表明をしている。
取材に制限を加えられ思うように報道が出来なくなり、視聴者や読者の知る権利を阻害
されるからと・・・。

尼崎事故では、事故原因調査が緒についたばかりの段階でTV局は、それを断定しよう
と躍起になっている。キャスターも専門家と称する部外者にコメントを求めながら、事故
原因を何処の局よりも早く追求しようとする姿勢が目に付いた。
事故原因の調査・分析をして結論を出すために調査委員会が設けられているのを先刻
承知しているはずのマスコミ報道には、疑問を提示したい。

心あるキャスターもいるが、106名の犠牲者が出た事故をワイドショー感覚で連日報道
していた。
特に運転手の経歴や性格などをつぶさに調べあげて、今回の事故原因と結び付けよう
としているのは、過剰報道ではないのだろうか。如何なものか?

住民基本台帳では、氏名、生年月日、性別、住所の4情報のみ開示している。
個人情報保護法の適用から報道機関は除外されているが、報道の倫理があって然るべきだ。
時代の最先端を走り、世論形成を担うマスメディアがそのことを疎かにしては、実話雑
誌並みのスキャンダル記事と同じで、個人情報を守る以前の話になってくる。

アナウンサーが、インターフォン越しに家族とインタビューをする。
予測した回答が返ってこないと、念押しをして無念そうにインタビューを終える。
そうでなくても、当事者のご家族の精神的な圧力や負担は、想像に絶すると思う。
当のアナウンサーだって、社命でなければそんな惨いことなんかやりたくない、と推測
している。

事件が起きる度に繰り返される報道姿勢で、眼に余るものを感じていた。
個人情報保護法に反対する資格が、マスメディアにあるとは思えない。
そんな惨い報道を視聴者は期待していないだろうし、そこまで知る権利があると主張す
る非常識者もいない。

また、事件があると、顔をぼかしたりしてコメントを無理して集め、それを報道している。
これだって非常識の部類に入る、と考えている。
自分の発言に責任をもてるのであれば、堂々と顔を見せてインタビューに応じれば良い。
それが出来ないのならば、インタビューを断るのが常識人としての判断だろう。

ただし、事件の内幕を当事者が明かす場合は、これと違う。
当事者に危険が及ぶ可能性があるので、音声を変えたり、ぼかしを入れて報道すること
は安全確保の面からも、当然の手段と思う。

隣近所の人達がインタビューに応じないから、ぼかしを入れますから宜しく。
このような報道のやりかたは、改善すべきと何時も思う。
無責任なコメントを流す映像は、見苦しい限りだ。

「憤懣やるかたない元気印の気持ち、心に溜めないで、発散したほうがいいんです」

ボケ封じ観音さまの引き止めがなければ、ブログに”終り”マークが打てない。

「パンジーも怒っています。怒りは元気印だけではありません。彼女達も同じです」

名なし羅漢と荒ぶる神様へ、観音さまが目配せをする。
 
「突然の事故で亡くなられた人達とそのご家族のご冥福を、祈念しましょう。 合掌 」
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日比谷のゴジラ

2005-04-27 17:10:53 | Weblog
日比谷映画街の一角にゴジラがいた。藪用で日比谷公会堂へ行く途中昼食をした店の
2階窓から外を覗くと、小さなレプリカ像に携帯電話のカメラを向けている中年男性が
眼に入る。それがゴジラ(写真)だった。
身長2m位の立像で「最後のゴジラここに」の銘板が台座に埋め込まれていた。

盛上りを見せていた「拉致被害者救済活動」は、マスコミなどが取上げる機会が少なく
なってきたので「国民大集会」が開催される日比谷公会堂へ、応援に24日出掛けた。
公会堂のある日比谷公園近くの街中に、ゴジラを発見したのは、奇縁だった。

ジャズCDを銀座で探す楽しみを併せ持って出かけたが、13時から始まる集会にギリ
ギリ到着では、会場からあぶりだされる心配もあり、後回しにしたのがゴジラとの縁作り
になった。
公園の花段に咲いているチューリップ、キッス、ズレル、ピエロ、アンジェリケをデジカメ
に収める。みんな個性が違う、富山産。

公会堂前に人溜まりができている。12時20分頃チューリップ撮影を済ませ列の最後尾
に並ぶ。「ここが900名です」と整理係の人が本部に告げ、ブルーのリボンを配って行
った。
集会に毎回参加していると言う隣の中年女性は、前回(6回)の九段会館で会場に入れ
なかったので早く来ていた。開場が13時で開演14時だと、このときに知る。

彼女と雑談しながら列の後ろを振り返ると4~50人続いている。僅か5分足らずの間
に。怪我の功名。開演まで2時間近く待つけれども、早く来て正解だった。
集会の途中で司会者(桜井よしこ)から会場内に2,500名、野外会場に3,500名の人が会
場まで足を運んでくれましたと報告する。会場に万雷の拍手が湧き上がった。

拉致問題に対する関心が次第に薄れてきたので何人の方が来てくれるか心配だった。
こんなに沢山の支援者が来てくれました。本当に勇気づけられました。

佐藤勝巳(救う会会長)、横田早紀江両氏の挨拶に、会場の支援者達は拍手で応える。

それにしても、拉致家族が「救う会」を結成して、父母、子供、兄弟を取戻すために根気
強く外務省などへ訴えを継続しても何の反応もしない国は、どうかしている。

自国民の生命・財産を守るのは、一体誰なんだろうか?
拉致された国民を取戻すと決断して日朝会談に臨んだのは、何処の誰だったんだろう。

首脳会談で約束したことを、何一つ真摯に守ることすらしない、彼の国。
遺骨が捏造と判明した時点で、日本国としての意思表示をすべきなのに、沈黙したまま。
「迅速かつ誠意ある対応をしない場合、厳しい対応をとらざるを得ない」との制裁予告を
したのが昨年12月24日。それから4ヶ月が過ぎた。
しかし、自国民を取戻すはずの国が動かない。
彼の国は、全面解決した問題と澄まし顔なのにだ。

「小泉首相の決断を求める国民大集会」を主催した拉致被害者家族連絡会、全国協
議会、議員連盟の方々は言うに及ばず、集会の趣旨に賛同して馳せ参じた支援者達
が最も義憤を感じているのが、このような政府や彼の国の態度だろう。
元気印も同感だ。

「18年12月末までに、拉致家族、特定失踪者、拉致されたと見られる人達全員を取り
 戻します。今日、ここに決意表明を致します」

公安関係の注視を受けていると感じた、特定失踪者問題調査会代表(荒木和博)の決
意表明に感銘を受けた。

「このような集会は、今回限りで、終わりにしたい」

拉致家族、特定失踪者家族の心情を思うと、尚更その感が強くなる。
会場の支援者達は、誰もが力強い拍手で自分の意思を伝えた。
集会が終わる頃には、拍手で手が痛くなっていた。

拉致被害者の家族によるパネルディスカッションが、第2部にあった。
懐かしい我が子の思い出をキーワードに、各家族が語ってくれた。

「恵子は引っ込み思案の小柄な子供でした。列の一番前にいるんですかど、おしっこを
 したくても我慢して最後になってしまう。そんなことがなければ・・・」

「めぐみの友達は兄姉が多く、自分に兄姉がいないことを寂しがっていました。学校に通
 うバス停の近くにある神社で”私にもお兄さんやお姉さんんができる様に”と毎日祈願
 していました。
 双子の兄が出来た時は、”二人もおにいちゃんが出来た”と父の会社に来て大声で知
 らせ大喜びしていました」

「これは、るみ子がくれた腕時計です(会場にそれを見せながら)。それから30年経ちま
 したが停めるわけにはいかない。再会した時は”30年の間、何もしてあげられなか
 った。”ごめんなさい”としか言えません」

 悔しさを必死に堪えて心境を披瀝する増元さんの姿勢に、涙して聴き入る人が多かった。

「私は28歳になりましたが、母は1歳の時に拉致されました。空白の27年間をどう
 やって埋めればよいのか、今の自分には判りません。
 戻ってきた時は”お母さん”と呼んであげます」
 
 田口八重子さんのご子息の気持ちを察し、ハンケチで涙を拭いてしまった。
 満州から引き揚げてきたと言う左席の元老軍人、12時から並んでいた右席のおば
 さんも顔を拭っていた。年を取って涙腺が緩んでしまったからではない。

予定を45分超過して集会は、終わった。

「小泉首相の決断を求める国民大集会」で採択された「国民大集会決議」を市川修一さ
んの父親と横田めぐみさんの母親が持参して、今日(27日)細田官房長官に提出した。
(NHKテレビ)

日比谷公園を向いて眼を剥いていたゴジラは、拉致問題を解決しようとしない小泉総理
を怒っていたんだ。

 元気印さん、「国民大集会」議決に参加したこと、忘れないで下さいネ。

ボケ封じ観音さまは、何時も何処かで叱咤激励してくれる。

    
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小雨に映える秩父札所巡り

2005-04-21 23:58:17 | Weblog
お天道様の機嫌は、昼前は曇り、午後は弱い雨(降雨量:1mm/時間)を信じて秩父
札所(ふだしょ)巡りに出かける。

歩こう会で撮った芝桜(しばざくら)の写真を見て”うわァ~、きれい!”と感嘆する家内。
「来週水曜日(20日)に車でどうだい?」
「天気予報は雨、それも風が強くなるって」
「秩父市のピンポイント予報だと、雨になっても弱いようだから、一味違う芝桜が観れるかも」
「また、出発は早いんでしょう?」
「京葉道路、首都高の渋滞を避けるから、朝5時に出る」

最初に訪れた野坂寺(のさかじ:12番)で雨脚が強くなり羊山(ひつじやま)公園の芝桜
を札所巡り前に鑑賞することに。秩父橋近くのコンビニで傘を仕込み、雨支度をする。

雨に濡れた芝桜の丘は、3日前(17日)とは様子が違っていた。
芝桜の中に傘を差した人影がまばらに見えるだけで、芝桜探索をゆっくり楽しむ。
丘の近くに設けられた駐車場まで入れたのも、雨天だけに幸運だった。
10万人の人出があった日曜日は、通路に行列が出来、人間列車が走っているみたい。
昨日(19日)も8万人の花見客が訪れ混雑したんです、と道の駅「荒川村」で昼食をした
蕎麦屋の内儀さんが教えてくれる。

円融寺(えんゆうじ:26番)大淵寺(だいえんじ:27番)橋立寺(はしだてじ:28番)長泉
院(ちょうせんいん:29番)法雲寺(ほううんじ:30番)を巡り昼食をする。

荒川村の土産物店で「ぜんまい」を見つけた家内は、蕎麦屋の内儀に”あく取り”のやり
方を相談している。あく取りは根気強くしないと苦味が残るなどなど。
山菜蕎麦を食べながら、お互いの経験談を聴いていると、家内もなかなかの知恵者らしい。

法泉寺(ほうせんじ:24番)から久昌寺(きゅうしょうじ:25番)法性寺(ほうしょうじ:
32番)へ。観音院(かんのんいん:31番)からの帰途に菊水寺(きくすいじ:33番)巡り
を予定していたが、後者の入り口を通り過ぎてしまい、断念する。
小雨が上がった曇り空では、午後4時半を廻ると、薄暗くなってきたので。
錦糸町の義兄のところに寄ることになって、道の駅「花園」で手土産を物色し関越道に入る。

車での札所巡りでも1日10ヶ所。
秩父観音34ヶ所を一巡すると約90Km、4泊5日の道程と巡礼案内書に説明がある。

素人の怖いもの知らずで、秩父市街から離れた札所を先に巡って、町の中に点在する
札所を後巡りにすると日程に余裕が持てる。そのように順路を選んだ。
でも土地勘がないから、同じ道を数回通っていた。それで時間を費やしてしまった。
自宅出発の時メーターをゼロに、帰宅しエンジンキーを抜く。走行距離は507Kmを
指していた。

116段の急な石段の先に本堂がある法泉寺、芭蕉が訪れ句碑がある観音院は、296
段の石段を10分ほど登ると鐘楼堂、本道がある。石段の両側には信者が詠んで奉納
した句碑が並び、疲れた足を癒してくれる。

円融寺の本堂から3百余段の苔むした石段が山の中腹に続いている。そこを登ると観音堂がある。
久昌寺には、閻魔(えんま)大王の「お手判石」があり、巡礼の希望で「手判の版ずり」を
頒布してくれる。札所にまつわる謂れは、尽きることがない。
俄か巡礼になった元気印が知識として皆無のことばかりで、長泉寺で見つけた「秩父
観音巡礼」(著者:平野良雄)などでそれを補充している。

なんとか、長泉寺の”葉しだれ桜”(写真)にたどり着いた。
秩父周辺は、年季の入ったしだれ桜、白桃が多いのが特徴のようだ。
札所にはなっていない清雲寺(せいうんじ)のしだれ桜から株分けされたのが長泉寺の
しだれ桜。満開は10日ころ、花が散ってから葉がでる桜ならではの”葉しだれ桜”。
樹齢(300年くらい)を感じさせない、萌えるような緑には違った趣があった。

ピンク色の花に包みこまれた老樹は、この時ばかりと、若さを発散し見応えがある。
今年は見られなかったが、蕎麦屋に掲げてあった写真から充分それが想像できた。

西善寺(さいぜんじ:8番)には、本尊の外に弥陀三尊が祭られているので、ボケ封じ、
健康長寿・安楽往生の寺としても信仰が篤いと言われている。

対話を楽しんでくれるボケ封じ観音さまとの関係を聴けなかったので、名なし羅漢に探
りを入れてだめなら、荒ぶる神さまがいる。

緒についたばかり札所巡りですが、覚えたての言葉で巡礼の締めくくりを表現してみる。
水潜寺(すいせんじ:34番)満願堂の前で、百観音巡拝を決願するを日を何時にしようか?
新緑が映える季節がいいナ、五月晴れの札所を狙ってみよう。心の楽しみがひとつ増えた。

    
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秩父の芝桜

2005-04-18 10:46:14 | Weblog
町内会の歩こう会で「横瀬の里ハイキング」があり、秩父札所(ふだしょ)巡りと芝桜
(しばざくら)を鑑賞する絶好の機会になった。
札所巡は、これまでも関心があったので、下見を兼ねてハイキングに参加する。

4月17日(日)午前6時30分町内(千葉市)を出発、横瀬町(埼玉県:秩父市の隣)
役場前まで、帰りは芝桜の丘から貸切バスで帰路に着く。
50代以上のシニア男女47名は、9時30分ハイキング・スタート、昼食で40分の
休憩をしただけで、ゴールする14時30分までに、万歩計で1万2千~1万5千歩の
距離を全員歩き切った。帰りの”バス宴会”では、これを酒の肴にして盛り上がる。

秩父第九番明智寺(あけちでら)で「秩父三十四観音霊場納経帖」を購入し参拝の記帳
をして貰う。八番西善寺(さいぜんじ)から六番卜雲寺(ぼくうんじ)を経て七番法長寺
(ほうちょうじ)へ。

横瀬駅(西武秩父線)から明智寺までは坂道が多い。風に泳ぐ鯉のぼり、その後ろに
武甲山(ぶこうざん)が靄にかすんでいた。
もみじの巨木と寺の本堂との配色の妙が抜群の西善寺。参道から寺の正面を見上げる
ように坂道を登る卜雲寺は、寺の正面に武甲山があり、お地蔵様の背景にすると一味
違う武甲山の顔があった。法長寺では、住職が納経帖に貫禄のある筆遣いで記帳して
くれる。

昼食時間40分はあっという間に過ぎ、5番札所から10番札所を経て「羊山(ひつじ
やま)公園」へ向かう予定だったが、予定時間を1時間オーバーしているので札所巡り
は中止となる。
寺院参拝に時間を費やしてしまうので、幹事さんは、時間配分に苦労していた。

羊山公園入り口は、勾配が急なためジグザグ状になっている。青息吐息で頂上へ。
芝桜姫との”ご対面”に期待を膨らまし、休憩怠慢に逸る心を我慢して一気に登る。
頂上は、見渡す限り桜の木だけ。辺りをきょろきょろ、目指すお姫さまは、⇒芝桜。
今いるのは、細長い公園の頭部。足元にある芝桜の丘まで下りないとお目通りが
叶わないなんて・・・。

秩父市役所発行のチラシには、国内の芝桜の見所が紹介されている。
近郊では、芝桜の丘(横瀬町)、渋田川土手斜面(伊勢原市)、箕輪(みさと)芝桜
公園(群馬県箕郷町)の3ヶ所で芝桜を鑑賞できる、とあった。

芝桜の丘には11種類の芝桜が、凡そ14,500㎡の丘面に約33,000株植えられ
ている。小さな桜の花が、芝生のように地面を覆い”花の絨毯”を織っている”お花畑”
は壮観だった。中央にある白い芝桜には、大河の流れを感じる(写真)

「丘の球状を生かし、秩父祭りのクライマックスで囃子手と笠鉾が団子坂を駆け上がっ
てくる、あの勢いのある”流れ”を芝桜で表現してみました。盆地のくぼんだところ
から斜面を見上げると、そのイメージを分かってもらえるんじゃないかな。
でもね、私の思い描いたイメージにとらわれず、ここを訪れた人それぞれが、心に
何かを感じてくれれば良いと考えているんですよ」
(沿線リビングVol.37 西武鉄道編)

芝桜の丘をデザインした植栽設計者の意図から、S字状に丘の上に白く伸びているの
が団子坂。そこを駆け上がる笠鉾とそれを引く囃子手たちの勇姿が、夜祭りに発散する
熱き情熱を帯びて重なる。

「札所巡り、4ヶ所終わって、善かったですネ。30ヶ所は巡るんですか?」
「観音さまは、行動派だから・・・。そう尻を叩かないでよ」
「専業主婦の定年祝いをしてあげては。夫婦で札所巡りも・・・。如何です?」

名なし羅漢も「それが良い」と言わんばかり。荒ぶる神様は、首を立てに強く振るばかり。

   
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4月に霜柱が立った

2005-04-11 13:14:19 | Weblog
桜前線が北上し、各地で開花宣言が出され始めた3日夜から4日に冬将軍が戻ってきた。
佐倉城址公園で「さわやか散策」を開催した3日は、好天に恵まれ4月中旬の陽気になった。
小雨に備えてカッパなど雨具をナップザックに詰め込んできたスタッフは、お天道様を見
上げては、ブツブツ小言を言いながら散策していた。

肝心の桜は、開花寸前のつぼみで、開花したばかりの小枝を見つけると”桜が咲いてい
る”と歓声を挙げる。
それでも、佐倉城址公園内の遺跡解説を聴きながらの散策は、参加者に喜ばれて終わった。

市街化調整区域になっている隣の町内は、広い畑が多く、耕運機で畑を耕している。
耕運機の入った畑は、土が細かく砕かれているので軟らかい。

チャッピーとミミを連れて散歩に出かけた4日早朝は、肌寒さを感じた。
愛犬たちは毛皮のコートを着ているので平気の平左で、早く行こうと先を急ぐ。
慣れた臭いを嗅ぐでもなく、何時もの道を先へ先へと・・・。

右手に広がる畑の表面が、白っぽく早朝の陽光に輝いている。
土を細かく砕かれた畑に降りた霜が、太陽の光を反射していた。
屈みこんで畑をみる。2㎝位の霜柱(写真)が立っていた。

断崖絶壁が連続しているグランド・キャニオンを連想した。
地表を持ち上げている細い氷柱も、密集すると壁に変身する。
氷柱の束が、一本の柱を作り地面を押し上げ支えている。
この柱が密着して畑全体を浮き上がらせ、畑の表情を変えていた。

畑の表面に出て凍った霜は、畑を白くしている。
太陽が昇り気温が上がると、微粒な土の重さを支え切れなくなった柱が崩れ、そこが陥没する。
畑のあちこちで”ポカッツ””ポカッツ”と穴が開き、その音が聴こえる。
広い畑のあちこちで突然陥没して崩れ落ちる小さな穴を向見ていると、そんな錯覚に襲
われてしまった。

霜柱がよく撮れるアングルを探し、畑に入る。
チャッピーは、地面がサクサク沈み、不安定な足元に危険を感じ、畑の外に出ようと必死だった。
初めての体験なのでビックリ仰天・・・。ミミは、知らん顔をして道端で待機している。

毎朝元気はつらつの水仙も、霜柱に根元をジャッキ・アップされてしまい、萎れて枯れた
ようになって、首を傾げている。翌日は、元気を取り戻し絶好調!

家庭菜園を始めて5年目になる。始めた頃は、桜を満開にする陽気に誘われ、一気に種を蒔いた。

「ここらでは、早く植えると霜にやられる。連休明けで丁度いい」

先輩に教わり、翌年から連休明けに準備をするようにした。4月に入って霜が降りたの
は、今年だけ? それからは、霜のことを気にしないで種まき、苗植えをしたので記憶
がない。地面を持ち上げている霜柱を観察して、先輩の気遣いに感謝する。

家庭菜園は、消石灰と肥料をばら撒き1週間寝かせたので、来週は畑起こしに追われそうだ。

それにしても、今年の花見はめまぐるしかった。
佐倉でつぼみ桜、金光院(こんこういん)の「はん・しだれ桜」、福星寺(ふくしょうじ)の
「親子しだれ桜」。徳川家康の「お手かけ桜」探しなどなど。

「それだけではありません。元気印が知らない桜、名所などは、近くにまだまだありま
す。散策の候補にしてもいい所ですょ」

観音さまの好意は、この次まで記憶の金庫にしまっておこう。
ボケ封じには、もってこいだから。

  
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福星寺の親子しだれ桜

2005-04-10 17:29:59 | Weblog
そめいよしのは、満開、親子しだれ桜は、共に散り始めていた。
金光院(こんこういん)から株分けされた”しだれ桜”の子樹がある福星寺(ふくしょうじ)
を4月10日訪れた。

福星寺は、金光院の住職が兼ねている。先日「はん・しだれ桜」の話を聴いている時に
話題になり、親子桜の開花状況の問い合わせがあっても、その度に見に行けない、と苦
笑いした。
この親子桜は、四街道市の保存樹木に選ばれているので、何かと気苦労が多いんだろう。

この寺は、吉岡村の旦那寺として、権僧都宥照(ごんのそう・す・ゆう・しょう)によって
1616年[元和(がんな)2年:将軍・徳川秀忠]4月創建され、390年を生き抜いてきた。
寺の入り口に立っている案内は「吉岡福星寺」となっている。

しだれの親子桜は、親(息子)樹が、樹齢約360年、子(孫)樹は60年、と推定されている。

 米( )は、金光院のしだれ桜からみた関係を示す。

写真奥が「息子しだれ」で、360歳になる。「支え木」の手助けがないと、自分の枝を支
えきれない。でも、でもだ、はちきれんばかりに花を咲かせる生命力、幹から垂れ下が
った小枝に所狭しと咲き乱れる小さな花弁が群らがり、ふわ~と円弧を描いて膨らんで
いる雄姿は 「み・ご・と」の一言に尽きる。
デジカメの手を休めるくらい、見惚れてしまった。

金光院が全焼し焼失したのは、1551年[天文(てんぶん)20年]。再建された年を
1557年(弘治3年)と想定する。
家康が2回目の鷹狩りで宿泊したのが1615年(元和元年)だから、金光院が再建され
てから58年目のことになる。

金光院の再建記念に「しだれ桜」を植樹したとして樹齢58年。そうでない場合は、樹齢は若返る。

写真手前が孫しだれ。家康が褒めちぎった金光院の 爺さんしだれ に近い年恰好をし
ている(と元気印は考える)。

家康は、還暦を迎えようとしている 爺さんしだれ を晩秋にみて「これは、めずらい桜
だ」と褒め言葉を発し、「爺さんの肩」を手でさすり慰労した。この椿事を聴いた檀家の
人達は、爺さんを「お手かけの桜」と尊称するようになった(と元気印は、乏しき想像力
をフル回転させている)。

そんな家康も、2回目の東金方面の鷹狩りをした翌年4月11日に、74歳で他界した。
しかし、爺さんしだれも金光院から消滅したけれど、お手かけの縁起を担がれ、この寺
を創建した記念に、本堂前に爺さんから株分けして植えられた息子は、360年の歳月
を耐え抜いている。

爺さんしだれは元気印に、こうも語りかける。

家康公に褒められた時私は、30歳前後で、人に譬えると20歳代。青春の真っ盛りだった。
還暦を迎えたシニアの誰もが、かって体験した青春を堪能していたんですょ。甘酸っぱ
い喜怒哀楽に包み込まれて追憶の彼方にある青春時代も、その気になれば、何時でも
鮮やかに蘇るんです。

「元気印は、毎日を生き抜く”力のもと”にしているんでしょう。それを」
「花見も、今日で終わりですネ。観音さま」
 
ボケ封じ観音さまと名なし羅漢が、やっと戻ってきた。

  
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金光院の”はん・しだれ桜”

2005-04-08 21:43:23 | Weblog
鷹狩りを口実に、旧千葉氏(ちばうじ)などの動向や「南総里見八犬伝」で知られる里見
氏(さとみうじ)の様子を探り、後者の取潰し時期を狙っていた家康と縁の深い金光院
(こんこういん)が、御成街道(おなりかいどう)から少し奥まったところに、ひっそりと佇ん
でいる。

鷹狩りで宿泊する御茶屋御殿(おちゃやごてん)の裏門と言い伝えのある山門を抜ける
と金光院が左正面にみえる。更に左手の小高い丘の上に愛染山、少し左側の離れてた
ところに鐘楼がある。

満開の桜を中心に左周りに円を描くと金光院、愛染山、鐘楼の順に配置されている。
愛染山の正面に表門があり、表門右側が金光院、鐘楼が左の配置になっている。

愛染山延命寺金光院(あいぞめざん・えんめいじ・こんこういん)が正式名で、本尊の薬
師如来は、弘法大師の作とされている。真言宗豊山派(ぶさんは)の名刹(めいさつ)で
もある。
現在の建物、愛染山、鐘楼は天文(てんぶん)20年(1551年:将軍・足利義藤)火災で
焼失したので、その後に再建されたもの。
金光院の外観から、見た目には歴史の重みが感じられない。薬師如来を拝み、両界曼
荼羅(りょうかいまんだら)の存在を知って”なるほど、ナルホド”と得心する。

家康が鷹狩りの折に宿泊(元和元年:1615年11月16日:将軍・徳川秀忠)した、金光院。
庭の桜が見事なので、家康が褒め称えた”お手掛の桜”がある、と各種散策案内書に
紹介されているので、この木だと合点、大いに満足していた。

ところが、満開の桜は、現在の住職が60年程前に植えた「はん・しだれ桜」だった(写真)。
家康”お手掛の桜”が枯れたので「はん・しだれ桜」と一緒に「しだれ桜」も植えた。
しだれ桜は、「はん桜」の生育に押さえ込まれて、肩身の狭い思いをしている(写真の左
下にある)。

しだれ桜の上に張り出す「はん・しだれ桜」の枝を剪定すると、普通のしだれ桜のように
成長する。
現に、根分けをした息子と孫は”四街道のしだれ桜”として市民に親しまれている。

金光院の桜が見ごろになったと思い、チャッピーと朝の散歩で寄った時の出来事。
お寺の桜をビデオで撮り、それを編集して”桜物語”にするシニア・カメラマンに出会う。
四街道の「しだれ桜」の親を撮りに来たんだけども、影も姿もない、とぼやいていた。
それでも、カメラアングルを探し、桜物語創りに没頭するシニアの姿には、無念さは微塵
もなかった。

還暦を迎え元気な「はん・しだれ桜」その影に埋もれてしまった「しだれ桜」。
しだれ桜の因縁話は、9時過ぎに再度訪れた際に、ごみを燃やしていた住職から教えてもらう。
表門の左横の花畑で、すくすくと育っている、5年前に植えた「しだれ桜」が2本あることも。
しかし、しだれ桜の親は、枯れてしまい今はない、とのことで、シニア・カメラマンの夢
を壊さずに済んだのは、お互い好都合だったのかも知れない。

竹やぶの中にある古樹を指差し「樹齢1000年の”けやき”だよ。手入れをしていないけ
れど、その位は経っている。上の枝は切ったので、あのまま伸びない。県内では古い方
に入る」こんな話題から「しだれ桜」と「はん・しだれ桜」は種類が違い、同じ場所では
共生できない、などなど、よもやま話に花が咲いた。

はん・しだれ桜の後ろに、高さ2メートル位の老木の根元と幹が残っていた。
やっとこさ”支え木”に支えられて”うん百歳”の”ほうの木”だと、住職は語る。

寺院や神社の境内にある樹木は”ご神木”として崇められる。
老木になったからと、むやみやたらと伐採はしない。金光院の近くにある大宮神社境内
の大木が台風の影響で3年前に倒れた。
神主が祝詞(のりと)をあげ、お払いをしてから運びやすい大きさに切断し、繁った枝の
部分は処分されたが、根元と幹の一部は境内に残したままになっている。

”うん百歳”年を経た ほうの老木 は”ご神木なんだ”と想像しながら住職の説明を聴い
ていた。
彫刻には最適の材質が、ほうの木にあり、刃当たりがよく、刃物が錆びない性質もある。
これを生かし、刀の鞘は、ほうの木だけが使われていた、とする専門家もいる。

人は100歳になると疎まれるが、老木は尊敬される、この世は不思議な世界だ。
金光院の「しだれ桜」と「はん・しだれ桜」「ほうの木」達は、人の世の複雑怪奇、人の心
のありようを元気印に、語りかけてくる。
 
ボケ封じ観音さま、名なし羅漢、荒ぶる神さまは花見に”忙しく”て、心をなくしたらしい。
元気印の独り言を黙って聴いているだけで、一言も喋らないなんだから。
金光院の3分咲き「しだれ桜」と還暦談義をして、満開の花を咲かせる積りなんだろうか?

   
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佐倉のさくらが咲いた

2005-04-04 15:47:36 | Weblog
さわやか散策シリーズ「佐倉のさくらに、包まれてみませんか」 小雨決行 4月3日。
ひと月前に作ったチラシ。桜の開花前線は遅々として北上しない。スタッフは、気を揉
み々の日々が続いた。

4月1日の天気予報は、3日は曇りのち雨。散策をどうするかスタッフから相談が入る。
加えて、佐倉城址公園(佐倉市)の桜は、例年より4~5日開花が遅れていた。

「1週間延期するのも良いアイデア、桜は見頃になるし、花見には好都合です」
 ボケ封じ観音さまは、力説する。
「参加呼びかけチラシは3日、雨天決行でしょう。案内の通り決行しないと皆に迷惑が・・・」
 思案投げ首の元気印。囃し立てる名なし羅漢。

「そうだ!ガイドをお願いした”S城址公園ボランティアの会”に電話相談する手がある」
「雨が降ると足元がドロドロになって、滑るところがでてきます。城址公園は熟知していま
すので如何様にでも案内できます」

下手な考え、休むに似たり。褌の紐をきりりと締める、小雨決行。スタッフの腹も据わった。

「快晴!!」 

 

 観音さまの歓喜の囁きが耳に届く数時間前から、元気印は目が覚めていた。
 チャッピーとミミも、今朝の散歩の足取りは、昨夕に比べ数十倍も軽快だった。
 地平線の上に顔を見せた早朝の太陽の柔らかい光、紅色の唐椿(とうつばき)水仙の
淡黄色が鮮やかに映る。

ボランティアの会と大手門(追手門)跡で合流する。参加人数が多いのでガイドを3人で
行う手配をしてくれた。
19名を、I班、W班、B班の3グループに分けて散策することにする。
10時30分、予定通り出発進行!

 I班   W班  B班 

Iさんのオリエンテーションが終わり、各班の別行動に移る。自由広場を突っ切ると梅
園、その右横に佐倉兵営碑、数歩のところに明治天皇行幸記念碑がある。
”つぼみ”ばかりの桜の枝(写真)を横目に通り越し、三の門跡へ向う。2番目に出発
したW班は、この辺りで姿が見えなくなった。
最後尾のB班は、散策コースをI,W班とは逆方向を採ったらしい。

足を休め、そこの”いわれ”を聴くところは、どこも”跡”。
陸軍歩兵第二連隊の営所を佐倉城内に設営(明治6年:1873年)する軍の方針が決
り、そこに残っていた建物はことごとく破壊されてしまった。その跡に立てられている
案内板の写真と解説を触媒にして想像力をかきたてイメージを合成すると、そこに当時
の原風景が蘇るだろう。

「セピア色に染まった銅櫓(どうやぐら)?」
 名なし羅漢は詰問する。
「天守閣らしき建物の像が、桜吹雪に霞んでいる」
 
本丸、天守閣、角櫓(かどやぐら)、台所門があったところは、土塁(どるい)に囲まれた
広い平地になっている。
バトミントンに興ずる若者、手作り弁当を食べながら一家団欒を楽しむ家族などで賑わ
っていた。
写真同好会のカメラマン達は、早咲きの山桜に独自の狙いをつけ、シャッターを切っている。
天守閣跡の傍で威風堂々と聳えている夫婦モック、400年以上にわたって培ってきた
彼と彼女の熱情の結晶も、桜姫の魅力にはお手上げ。蚊帳の外にほっぽりだされてしまった。

空堀(からぼり)の深い底、広く開いた両壁を観終わり台所門跡へ。その由来を聴きな
がらの散策は、50分を過ぎていた。4月中旬並みの気温になり、ジャンパーが邪魔になる。
出店の焼き鳥屋から刺激的な匂いがぷ~んと風に乗って食欲をくすぐり、散策の足が鈍る。
ビールが飲みたい。I班の老若男女8人は、何時もの花見のようにしなさい、悪魔の甘い
声の誘惑と戦い、黙々と先を急ぐしかなかった。

春先になると近在のひき蛙が数千匹集まり、蛙合戦を7日間やった、家老の娘のお守
をしていた姥(うば)が、娘を誤って池に落とし沈んだままになった。困り果てて身投げ
した彼女に因んだ「姥が池」命名の由来を知り、散策ゴール地点の「ビオトープ」へ向か
う。その途中でW班とすれ違う。

もう、12時を少しまわっているので、解散集合まで24~25分しかない。集合場所に
なっている国立歴史民族博物館前に行くのだろう。

「姥が池のどぶさらいをしていると1両小判が13枚出てきた。埋蔵金かと意気込み、
更にどぶをさらったが、見つかったには1枚だけだった。止せばよかったのに」
 とB班のスタッフが、散策で得た伝承に薀蓄(うんちく)をかたむける。
「1両は米の1石(こく)。1石は15Kgに換算する。1両は7~8万円。30万円とする説も
 あるから390万円の臨時収入。取得物として届けたが持ち主(所有権者)を特定でき
なかった。池の所有者が入り組んでいたせいもあって、藩主が召し上げたようだ」
 I班のスタッフが補足しても、他のスタッフの両耳は上の空で聴いている。精進ソバを食
べるのに忙しくて、馬耳東風に近い。
「W班では、そんな話は出なかったけど・・・」
 最年少のW班長は、姥が池に伝わる故事を話題にしなかったらしい。

主催者の緊張感から解放されホットするのが、行事が終了した直後に息抜きをする”お疲れさん会”。
各班の散策コース紹介、伝承話で盛り上がり、精進ソバの美味は、何倍にもなる。

「天守閣に泥棒が入り、象牙の付いていた鉄砲が盗まれ、犯人は捕まっていない」
 「2回泥棒にあい、最初の盗人は獄門刑となり首を刎ね、さらし首にされた」
 「そんな”はなし”全然話題に出なかった」
 「最初は衣装、武具が盗まれた。2回目は象牙に彫刻した飾りのある種子島で、犯
     人は捕まらず、そのままうやむやされた。佐倉藩の誰かまでで、調べは終わっ
ている。
     盗人が置きざりにした提灯のローソクが火元になり、天守閣を焼失したのに。
     鬼の平蔵が容疑者を火付け盗賊として改めると、一件落着になったかもしれな
い」
 
 W班のスタッフは、聴き手に廻ったまま。
「再建話が持ち上がり再三協議されたけど、財政難で取りやめになった」
「I班は面白かったようだネ。班長さんによって話の内容が違っている」
 
  これまで沈黙を守っていたW班スタッフの一言は、全員の気持ちを代弁するもの
 だった。

「何かひとつでもいいから、復元した建物があるといいね。明治時代に撮られた写真が
残っているんだから、復元は可能でしょう。こんな素晴らしい史跡が残っているのに、
天守閣跡みたいに説明があるだけでは、勿体ないと思わない?」

 観音さまは、具体策を助言してくれた。
「佐倉のさくら散策の収穫です。そうね、”まちおこし”をキーワードにして提言しては。
 復元した建物には、ワクワク・ドキドキする仕掛けがあって、子供から大人まで思いっ
きり楽しみ遊べるようになっている。もちろん、帰宅しても佐倉の歴史を忘れない工夫
がなされている。
 どう、提言してみませんか?」

      
コメント (1)
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