いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編 その2:同床異夢の同志を手厚く葬った鉄舟

2010-04-23 22:21:01 | いろいろ
NHK大河ドラマ「龍馬伝」での龍馬は、人間的に成長する糧として、平井収二郎の妹・可尾と交わした結婚の約束が反故にされてしまい、その対応に苦悩するエピソードがありました。
幕末の三舟と言われる、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟、維新の三傑とされる大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らに出会い、人間的、思想的にも成長するのは、これからのようです。

しかしです、竜馬が海舟と対面する場面には、違和感がありました。
竜馬の台詞と海舟のそれが逆のように感じられたから・・・。

文久2(1862)年12月28日、海舟と面識のある千葉重太郎と共に海舟を訪ねた竜馬が、松平春嶽(しゅんがく)の紹介状を持参していたことは、良く知られています。
この頃の竜馬が抱いていた尊皇攘夷論は素朴なものであり、天誅を旗印にして海舟を斬りに行き、逆に折伏(しゃくぶく:迷ったり疑ったり攻撃したりして、自分の考えに従わない人を説法して屈服させること)されて海舟の弟子になった、とする説もあります。

このような史実を「竜馬伝」では、竜馬が海舟と面談する手筈を春嶽に嘆願するシーンで表したのは竜馬の熱気が伝わってきて迫力があったのですが、海舟との面談は竜馬単独で、千葉重太郎は現れないのです。
「竜馬伝」の主人公は竜馬ですから、歴史の素人がめくじら立てて敷衍することではないことで、フィクションと割り切れば、それはそれで済むことなのでしょう。

さて、その竜馬と千葉周作の道場で手合わせをした一人に清川八郎がいます。
八郎が入門した周作の「玄武館」、通称、神田お玉が池道場なのか、竜馬が入門した周作の弟・定吉の「小千葉道場」なのかは定かでありませんが、その記録が残っているそうです。
八郎の剣法に圧倒され一本も取れなかった竜馬は、「巨岩」「巨虎」と比喩して敬意を払ったとのことです。

この八郎の剣捌きを、鉄舟は目の当たりに見ています。

職人風の若い男が、棒をもって執拗に八郎にまつわりつくので押しのけると、その男がいきなり八郎の肩を打ってきます。

「無言の気合とともに、八郎は腰をひねっていた。八郎の腰はわずかに沈み、刀が走って、すっと鞘の中に消えた。男の首が宙を飛んだ。(中略)。そばにいた山岡にも見えなかったほどの、八郎の一瞬の居合業だった。八郎が腰に帯びている刀は、備州住三原正家の作である。八郎の腕も尋常でないが、正家もすさまじい切れ味を示したのであった」(藤沢周平著・回天の門)。
そして、八郎は、職人風の若い男が振り下ろした棒に肩の骨を粉砕するだけの殺気を感じたので刀を抜いた、と鉄舟に告白させてもいます。

文久元(1861)年5月20日、八郎がとある書画会に出席した帰途に起こしたこの殺人事件で、公衆が行き交う路上で職人を惨殺した殺人犯を捕らえるという大義名分を得た幕府、八郎を牢獄に押し込めたいと狙っていた幕府の目論見が成功し、逃避行する境遇に八郎は追い込まれていくのです。

『おれの師匠』(小倉鉄樹著)には、鉄舟との係わりで興味深い事件があります。
鉄舟が信念とした「尊皇攘夷」を志した二人の人物です。今回は、その一人、清川八郎にまつわる話です。

「不意に畑田は、この若者が持つある悲劇的な性格に思いあったような気がした。いいにつけ、悪いにつけ、元司は徹底しなければやめないところがある。その中で最後には、自分自身押し流されるまで集中して行くのだ。それが学問にもあらわれ、遊蕩にもあらわれる。その性向を、彼自身どうしようもなくしている」(同上)。

畑田は、八郎が師事した畑田安右衛門。元治は、江戸詰めとなった畑田に、出羽国庄内藩領清川村(山形県東田川郡庄内町)から出て、江戸に遊学したいという願望を成就するために、一緒に江戸へ行きたい、と嘆願する17歳の八郎の幼名。

「昌義(元治の父親)は、ど不敵という土地の言葉を思い出していた。自我をおし立て、貫き通すためには、何者も恐れない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持ちが強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、ひとには傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。(中略)。ど不敵の勇気は、底にいかなる権威、権力をも愚弄してかかる反抗心を含むために、人に憚れるのである」(同上)。

『おれの師匠』では、「尊皇攘夷党」の結成は安政6(1859)年ですが、八郎の年譜にある「虎尾の会」(こびのかい)は、万延元(1860)年、盟主八郎、鉄舟他15人の発起人が立ち上げたとなっており、双方に共通する志士が連なっていますから、同じ徒党かも知れません。

嘉永6(1853)年6月3日、江戸湾入口にペリー率いる4隻の艦船が姿を現します。
この黒船来襲を契機に、外国の勢力に対抗する幕藩体制に改革しなくては日本が侵略されてしまう、とする考えが諸藩に芽生え、急速に成育し始めます。
そんな混沌とした時代背景を背負った八郎は、自身の持つ人脈をフル回転させて、改革策を朝廷や幕府に建言し、許諾された諸政策を具体化するのですが、ど不敵な性格が災いして関係者達の反感を買います。
幕府からは倒幕派のレッテルを貼られた挙句、幕府の暗殺令により惨殺されたことも、よく知られていますね。

「外国勢力に対抗できる強力な幕藩体制に改革しよう」とする尊皇攘夷思想は、「日米修好通称条約」が安政5(1858)年に調印された後、「天皇の勅許を得ずに、撃ち払うべき外国に開国を認めた幕府を倒せ」と変質します。
その結果、安政7(1860)年3月3日、水戸藩浪士・関鉄之介らが江戸城桜田門外で、時の大老・井伊直弼を襲い刺殺した「桜田門外の変」は、何方もご存知でしょう。

八郎の尊皇攘夷は、天皇があって幕府があり、双方を敬いつつ国力を高める意味合いを持っている、という指摘があります。

鉄舟と八郎とは、弘化4(1847)年ころに玄武館で出会い、鉄舟は義兄・泥舟を八郎に紹介しています。鉄舟は、八郎のど不敵な性格を見抜くのですが、類は友を呼んだのでしょう。

「虎尾の会は、尊皇攘夷で結びついた徒党だ。君(鉄舟)はそれに賛同して同志となった。しかしいま、私(八郎)の考えは変わって、虎尾の会は倒幕の尖兵であるべきだと考えている。私は、幕府は内側から自然に潰れるだろうと見ていたが、実際にはそういうものではない。いずれは倒幕尖兵が必要になるという見通しは、そこから来ています。幕臣の君に、これに加われということは出来ない、どうなさる?」(同上)。

こんな遣り取りをした二人は、長い睨み合いを続けます。
そして、軽く瞬きをした鉄舟は、きっぱりと言い放ちます。

「それがしは、徳川に弓ひくことは出来ません」
「わかった、さもあらんですな。いま言った事は、全部忘れていただきたい」

二人は、虎尾の会が密会の場所としていた土蔵に向かい、一献を交わすのです。
このとき、八郎と鉄舟の親交は、同床異夢の同志の結びつきに替わったのです。

「文久3(1863)年4月13日、清川八郎が暗殺された時、山岡はその善後策を指示し、尊皇攘夷党に被害が及ばないようにしている。鉄舟は石坂周造に命じて、尊皇攘夷党の連判状と八郎の首を回収させている。石坂は八郎の首を垣根越しに投げ込み、それを拾ってごみ溜めの中へ隠した鉄舟は、謹慎が許されてから伝通院へ埋葬している。明治12年かに、清川の弟が奥州から出て来て山岡を尋ね、清川の遺骨を伝通院から受け取って郷里へ葬った。その時に、清川の碑を山岡が書いたのが未だに存している」(おれの師匠)。

八郎の性格をど不敵と見抜きながらも、わが身に共通する資質を敏感に受け止め容認し、その性格をお互いに共有する同志としての礼節を最後まで貫いた鉄舟の度量の大きさに感銘するくだりです。
ちなみに、鉄舟が回収させた尊皇攘夷党の連判状には、竜馬が名を連ねていることは前に書きました。

写真は、鉄舟の書が観たくなり全生庵(ぜんしょうあん:幕末と明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うため明治16年に鉄舟が建立)を訪れた際購入した「山岡鐵舟」に清川八郎書として収録されているものです。
鐵舟と共に尊皇攘夷党を結成す。文久3年4月13日、赤羽橋で暗殺せられる。享年34歳、との添え書きがあります。

「兵講書讀」
易、礼記、経書などを読み解き、兵学を教授する、と解釈しています。
八郎がこれを書いた時期は、昌平黌(しょうへいこう)を経て自分の塾「清河塾」を開設した安政元年も年の瀬が押し迫ったころであった、と勝手に決め込んでいます。
ただし、清河塾は、看板を掲げて半月にも満たない12月29日に火事で焼失していますから、八朗が塾開設直後に、周作道場では鬼鉄と呼ばれていた鉄舟のために揮毫したものを、鉄舟が後生大事に守ってきたのでしょう。
多分、当たるも八卦、当たらずも・・・ですね。

「竜馬は、姉に宛てた手紙の中で八郎を、一人の力で天下を動かす、と記しており、徒手空拳、恃むはおのれ一人といった型の志士だった。権力を利用はしたが、その内側に組みこまれることを嫌った。幕府という権力機構に憎まれたのは、当然である」

これは、藤沢周平氏が自著のあとがきに記していることです。

「八郎の悲劇は、八郎が草莽(そうもう:草むらが転じて民間にいること)の志士であった事実そのもの中に、すでに胚胎(はいたい:物事が始まる原因が生じること)していたのではないか。明治維新は、草莽からあますところなく奪ったが、報いることは誠に少なかった」

との考えも併記しています。

八郎と同じ志を持ち、幕府から倒幕派として睨まれ、暗殺される境遇に陥った鉄舟が、明治天皇、岩倉具視などから信頼を得て人生を全うさせたのは、幕臣であったことが大きく影響しているようです。
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がんばり屋のすずしろ!!千秋楽を観る

2010-04-21 22:38:33 | 時の話題
秋大根の種まき時期が遅れたので葉大根になってしまった。
越冬した青首大根野郎達の葉には、根より豊富なビタミンA、Cが含まれているようですね。

種まき時期が遅れたため葉大根に変身して冬を過ごした青首大根野郎達の根は、赤ん坊のすねほどにしか成育せず、葉だけがぐんぐん成長して、花を咲かせたのです(写真)。
それも、葉だけを食材にした家内に引き抜かれたのですが、畑の中に僅かに根の先端を残した奴(やつ)だったのです。こやつは、大器晩成なのでしょうか・・・。

我が家では、大根の葉を「おひたし」の食材にしていますが、味噌汁の具、漬物、油で軽く炒めるなどして食すると美味しいようです。

大根は、漬物、煮物、鍋物、なます、サラダや刺身のつまみなどに調理されて、日常の食生活でも馴染みの深い野菜です。

なんといっても、大根野郎達の自慢は、彼らが引き起こす食中毒が皆無であること。
あたらない役者のことを「大根役者」と揶揄するのは、ご存知でしょう。
物好きな贔屓者でも、下手な役者の芝居は観劇する気にはなれない。つまり、下手な役者の芝居は「当たらない」ので、「大根を食べても当たらない」ことに掛けた呼び名のようです。

江戸時代の野菜の中で最も品種の多かった野菜は大根野郎達であった、との記録が「享保・元文諸国産物帳」にあるようですから、大根の歴史はかなり古いようです。

春の七草があります。
せり(芹)、なずな(薺:ぺんぺん草)、ごぎょう(御形:母子草・ハハコグサ)、はこべら(繁縷:ハコベ)、ほとけのざ(仏の座:小鬼田平子・コオニタビコラ)、すずな(鈴菜:蕪・カブ)、すずしろ(清白:大根)が、それです。

その昔の七草は種類が違い、現在のような種類になったのは南北朝時代の貞治元(1362)年ころに書かれた[源氏物語]の注釈書「河海抄:かかいしょう」に初見されるようですから、すずしろが食卓に現れた時代は、それよりも前になるのでは・・・。

「春の七草は、農耕の伝来とともに渡来した史前帰化植物や東南アジアから中国・朝鮮などに広く分布する植物と栽培植物からなっている。七草粥の習慣も伝来のものであるが、その材料もすべて伝来のものと考えて良さそうである」(岡山理科大学・総合情報部Web)。

なにはともあれ、厳しかった冬を乗り切り、数十年ぶりに襲った4月半ばの降雪や酷寒にも負けす、自らの生命を懸命に維持していた青首大根野郎たちは、摂氏22度になった4月21日、トウモロコシ畑を作る犠牲になったのです。

大器晩成したすずしろの花を見ていると、役者大根の千秋楽を観ているような錯覚を覚え、鎌で斬るのが愛おしくなり、記念写真にして再会を楽しむことにしました。
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