国から戦死者と認定され、戦死者の霊として靖国神社に祀られている元軍人
が、赴任地のミンダナオ島(フイリピン)で、戦争が終結してから60年もの長
い期間、激戦地跡に生存している。
「還暦を5年前に迎えた元気印は、ひとつの人生に区切りをつけさせれられ
たんですよネ。現役は60歳で終わりです。こんな社会常識によって」
ボケ封じ観音さまのご機嫌は、斜めらしい。
「60年間も」と一口で言うのは容易いが、これは古くから物事に区切りをつけ
る期間になっているようだ。
代表選手が還暦。家族全員がそれを祝福する習慣は守られ、継承されている。
地元に残っている出羽巡礼講の版碑(ばんぴ:講に行った場所、日時、参加
者名、人数、奉納した品目などを刻んで神社の境内に立てる長方形の石碑)
でも、60年を周期にして講を実行していた様子が解る。江戸時代の年代を
刻んだ板碑を調べていた時に発見した、地元の人の生活習慣だったし、現在
は、毎年出羽三山へ講に行っている。
昭和47(1972)年1月にグアム島で横井庄一伍長が、ジャングルを彷徨っ
ているところを現地の猟師に発見され「恥ずかしながら、帰ってまいりました」
横井伍長は2度招集され、兵役に就いている。グアム島は昭和16年に26
歳で、4年間の兵役を終え洋服店を立ち上げてから2年後に再度召集を受けて
いる。帰国第一声の「横井庄一 恥ずかしながら」には軍人としての任務を
全う出来ずに帰国する自分に対する羞恥心と、国民に向けたお詫が隠されて
いると感じた。
日本の土を踏んだのは57歳、平和ボケ病を患っている元気印には想像でき
ない、31年間の熱帯ジャングルでの生活を愚痴ることはしなかった。
同じ年3月に、小野田寛朗陸軍少尉がルパング島(フイリピン)で遭遇した
冒険家の尽力で、再び祖国の土を踏んでいる。
日本がポツダム宣言を受諾する8ヶ月前、昭和19(1944)年12月に
ルパング島へ赴任している。現地に残留して諜報活動にあたる「残留諜者」
遊撃隊を編成して戦う「遊撃指揮」の任務を与えられていた。
終戦後も島に残った軍人は4人おり、階級が一等兵の兵士は5年後の昭和
24(1949)年に投降する。これが契機になって小野田少尉達の生存が知
れ渡った。
それから新聞記者や少尉の兄が捜索をしたが、彼の強い警戒心に阻まれ成
功しないまま捜索が打ち切られている。
昭和29(1954)年に現地軍と武力衝突があり伍長が戦死したので、日本
政府は、その戦闘で全員が戦死と推測したことも、判断材料になった。
しかし18年後の昭和47(1972)年に起こった住民との戦闘で上等兵が
戦死して、少尉の生存を再び確認する証になった。
ここに残留し諜報活動を遂行する命令を受けているので勝手に帰国する訳
にはいかない。小野田少尉に遭遇し帰国を説得した冒険家は、彼からそう
打ち明けられ、再会の日と場所を決め、約束して帰国したと言う。
小野田少尉が50歳になる数ヶ月前で、赴任してから28年経っていた。
上官の命令は、軍人にとって絶対的なもの。
映画やドラマの世界に限ったことではない。指揮官にいたっては厳命だ。
だから冒険家は、小野田少尉の気持ちを斟酌し、元上官にあたる少佐に連絡
した。それを受けた少佐はルパング島へ急遽赴き、約束通り再会した小野田
少尉に残留命令解除を伝達すると共に、それまでの任務遂行の労をねぎらっ
た、と伝え聞く。
横井伍長、小野田少尉が除隊して帰国してから既に34年の時間が流れている。
二人の元軍人に共通するのは、自分に与えられそれを承諾した任務を最後ま
で遂行しようとする使命感にある。
「恥ずかしながら」「上官の命令解除がなければ現地を離れるわけにはいかな
い」当然の気持だろう。軍人だからどうの、こうのいう世界ではないと思う。
戦後60年目にあたる酉年に、激戦地跡に元日本軍人が生存していた。
マスコミの報道からは、小野田少尉を帰国させる際に配慮した気配りは感じら
れない。元上官とされる人達は、テレビインタビューで、これまでの辛酸な苦労
を慮ってはいるけれど、暢気に構えて苦労話に花を咲かせている。
皆さん、年齢が80歳を超えているので、欲張った期待なのかも知れない。
率先して現地=激戦地跡に飛び、任務命令を下した部下を説得して筋を通す
のが、元上官として残された唯一の使命だと思っている。
ゲリラ軍と行動を共にしているらしいと報道されているだけに、元軍人として
の経歴にものを言わせて貰いたいと痛感している。
横井伍長、小野田少尉が祖国の土を踏んでから流れた34年は、重たい。
生存が確認された元軍人は、戦死者として靖国神社に霊が祀られている。
小野田少尉は、帰国後日本政府から打診された、たっての慰労金支給申し出
を固辞し、当時(32年前)の100万円を、靖国神社に寄付して戦友の霊を
弔っている。
昭和天皇や田中首相との会見も断り、遊撃戦で戦死した部下、終戦後の戦闘
で亡くなった部下の墓参を最優先させて、指揮官としての礼節を貫いている。
小泉首相の靖国参拝が、マスコミを賑やかにしているが、報道の基本姿勢は
自分達の歴史認識を提示しないで、彼の国はこう言っている、友好関係にひ
びが入るから困ると関係者に問題を提起して、お伺いをたてた結果を報道す
ることではないだろう。
小野田少尉の礼節ある行動が靖国参拝の理念だと思うが、如何なものか?
出羽詣講板碑の近くにある小さな竹やぶに親子竹を見つけた(写真)
今年の若竹は、黄色味を帯びた青色の幹を覆っている皮が剥げかけている。
幹に生育する前に成長が止まってしまい、筍状態のままのものが結構あり、
生存競争が激しい!新鮮な発見だった。
真ん中の薄緑色をしたのが昨年の竹、左にあるお邪魔虫みたいなのがシニア竹。
勝手に命名した。
「素敵な命名です。丈夫な幹に生育して、若々しい青色の竹になるのが
待ち遠しい。お邪魔虫竹も同じ気持ちでしょう」
観音さまのご機嫌が直ったようなので、一服にしよう。
が、赴任地のミンダナオ島(フイリピン)で、戦争が終結してから60年もの長
い期間、激戦地跡に生存している。
「還暦を5年前に迎えた元気印は、ひとつの人生に区切りをつけさせれられ
たんですよネ。現役は60歳で終わりです。こんな社会常識によって」
ボケ封じ観音さまのご機嫌は、斜めらしい。
「60年間も」と一口で言うのは容易いが、これは古くから物事に区切りをつけ
る期間になっているようだ。
代表選手が還暦。家族全員がそれを祝福する習慣は守られ、継承されている。
地元に残っている出羽巡礼講の版碑(ばんぴ:講に行った場所、日時、参加
者名、人数、奉納した品目などを刻んで神社の境内に立てる長方形の石碑)
でも、60年を周期にして講を実行していた様子が解る。江戸時代の年代を
刻んだ板碑を調べていた時に発見した、地元の人の生活習慣だったし、現在
は、毎年出羽三山へ講に行っている。
昭和47(1972)年1月にグアム島で横井庄一伍長が、ジャングルを彷徨っ
ているところを現地の猟師に発見され「恥ずかしながら、帰ってまいりました」
横井伍長は2度招集され、兵役に就いている。グアム島は昭和16年に26
歳で、4年間の兵役を終え洋服店を立ち上げてから2年後に再度召集を受けて
いる。帰国第一声の「横井庄一 恥ずかしながら」には軍人としての任務を
全う出来ずに帰国する自分に対する羞恥心と、国民に向けたお詫が隠されて
いると感じた。
日本の土を踏んだのは57歳、平和ボケ病を患っている元気印には想像でき
ない、31年間の熱帯ジャングルでの生活を愚痴ることはしなかった。
同じ年3月に、小野田寛朗陸軍少尉がルパング島(フイリピン)で遭遇した
冒険家の尽力で、再び祖国の土を踏んでいる。
日本がポツダム宣言を受諾する8ヶ月前、昭和19(1944)年12月に
ルパング島へ赴任している。現地に残留して諜報活動にあたる「残留諜者」
遊撃隊を編成して戦う「遊撃指揮」の任務を与えられていた。
終戦後も島に残った軍人は4人おり、階級が一等兵の兵士は5年後の昭和
24(1949)年に投降する。これが契機になって小野田少尉達の生存が知
れ渡った。
それから新聞記者や少尉の兄が捜索をしたが、彼の強い警戒心に阻まれ成
功しないまま捜索が打ち切られている。
昭和29(1954)年に現地軍と武力衝突があり伍長が戦死したので、日本
政府は、その戦闘で全員が戦死と推測したことも、判断材料になった。
しかし18年後の昭和47(1972)年に起こった住民との戦闘で上等兵が
戦死して、少尉の生存を再び確認する証になった。
ここに残留し諜報活動を遂行する命令を受けているので勝手に帰国する訳
にはいかない。小野田少尉に遭遇し帰国を説得した冒険家は、彼からそう
打ち明けられ、再会の日と場所を決め、約束して帰国したと言う。
小野田少尉が50歳になる数ヶ月前で、赴任してから28年経っていた。
上官の命令は、軍人にとって絶対的なもの。
映画やドラマの世界に限ったことではない。指揮官にいたっては厳命だ。
だから冒険家は、小野田少尉の気持ちを斟酌し、元上官にあたる少佐に連絡
した。それを受けた少佐はルパング島へ急遽赴き、約束通り再会した小野田
少尉に残留命令解除を伝達すると共に、それまでの任務遂行の労をねぎらっ
た、と伝え聞く。
横井伍長、小野田少尉が除隊して帰国してから既に34年の時間が流れている。
二人の元軍人に共通するのは、自分に与えられそれを承諾した任務を最後ま
で遂行しようとする使命感にある。
「恥ずかしながら」「上官の命令解除がなければ現地を離れるわけにはいかな
い」当然の気持だろう。軍人だからどうの、こうのいう世界ではないと思う。
戦後60年目にあたる酉年に、激戦地跡に元日本軍人が生存していた。
マスコミの報道からは、小野田少尉を帰国させる際に配慮した気配りは感じら
れない。元上官とされる人達は、テレビインタビューで、これまでの辛酸な苦労
を慮ってはいるけれど、暢気に構えて苦労話に花を咲かせている。
皆さん、年齢が80歳を超えているので、欲張った期待なのかも知れない。
率先して現地=激戦地跡に飛び、任務命令を下した部下を説得して筋を通す
のが、元上官として残された唯一の使命だと思っている。
ゲリラ軍と行動を共にしているらしいと報道されているだけに、元軍人として
の経歴にものを言わせて貰いたいと痛感している。
横井伍長、小野田少尉が祖国の土を踏んでから流れた34年は、重たい。
生存が確認された元軍人は、戦死者として靖国神社に霊が祀られている。
小野田少尉は、帰国後日本政府から打診された、たっての慰労金支給申し出
を固辞し、当時(32年前)の100万円を、靖国神社に寄付して戦友の霊を
弔っている。
昭和天皇や田中首相との会見も断り、遊撃戦で戦死した部下、終戦後の戦闘
で亡くなった部下の墓参を最優先させて、指揮官としての礼節を貫いている。
小泉首相の靖国参拝が、マスコミを賑やかにしているが、報道の基本姿勢は
自分達の歴史認識を提示しないで、彼の国はこう言っている、友好関係にひ
びが入るから困ると関係者に問題を提起して、お伺いをたてた結果を報道す
ることではないだろう。
小野田少尉の礼節ある行動が靖国参拝の理念だと思うが、如何なものか?
出羽詣講板碑の近くにある小さな竹やぶに親子竹を見つけた(写真)
今年の若竹は、黄色味を帯びた青色の幹を覆っている皮が剥げかけている。
幹に生育する前に成長が止まってしまい、筍状態のままのものが結構あり、
生存競争が激しい!新鮮な発見だった。
真ん中の薄緑色をしたのが昨年の竹、左にあるお邪魔虫みたいなのがシニア竹。
勝手に命名した。
「素敵な命名です。丈夫な幹に生育して、若々しい青色の竹になるのが
待ち遠しい。お邪魔虫竹も同じ気持ちでしょう」
観音さまのご機嫌が直ったようなので、一服にしよう。
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