いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

日本人は入店できない免税店

2018-01-03 10:14:05 | 散策
それを体験したのは、対馬市厳原町(いづはらまち)。

公共性と暮らしの利便性を兼ね備えた大型複合施設として2006年10月にオープンした対馬市交流センターとショッピングゾーン。
TIARA(ティアラ)は後者の愛称でマツモトキヨシの横にそびえたつ建物の1階と2階にある。前者はその奥にあり、750席のイベントホール、茶室や展示ホール機能のある地区公民館、
研修室・ギャラリーと図書館が設けられている。






対馬を訪れる観光客は、日本人よりも韓国人が圧倒的に多いといわれている。
昨年10月29日、「家も土地も・・・もはや韓国領」とのタイトルで報道された対馬の現況を新聞で読んでも、
国境のない日本に外国の領土があるなんて、にわかに信じられない。
そんなときに、対馬・壱岐を巡るツアーと出会い、国境の町を体験することにした。


TIARAの2階に100円ショップ「得得屋」があり、地元では観光シーズンなると韓国人観光客であふれると囁かれていた。左隣のマツモトキヨシも同じだという。
そこで、得得屋へ出向いたけれど、平日のためか人影はなかった。得得屋を抜けると対馬市交流センターがあった。公共施設とショッピンングセンターが一体の建物を実感する。





生憎、イベントホールに公演はなく閉まっていた。ショッピングセンターの出入口前で昼食中の女性達が目に留まる。このショットを撮ってからカメラをバッグにしまい、
奥にある階段から外に出るようにして傍を通る。
左側にしゃがんでいる女性が気付き弁当を素早く片付け、小生の様子を窺う。
道路に降りる階段のところまで行って外を確認して戻る時、女性達の会話が小耳に挟まる。小声での会話は日本語のそれではなく、予想していた通りだった。





赤色のジャンパーで路傍の階段に座っている男性、その左横に立っている3人も含め写っている全員、かの国からの観光客。




ショッピングセンターの写真を撮った場所の左真横に免税店があり、『白い恋人』の看板に誘い込まれる。



店内に入ろうとすると、
「ここは、外国人専用の店です」
中年の女性店員は入店を拒否する。
「品物を見るだけですから」
「だめです」
ここが対馬かと耳を疑った。

このツアーで知り合った方の話では、
「日用雑貨品はマツモトキヨシ、得得屋で購入、免税店で仕入れた割安のブランド品は帰国後に売っているらしい」と、地元では話題になっている様子。

日本への入出国に必要なパスポート所持者以外は入店を許さない。
こんな馬鹿げた行為が横行している地域があるなんて・・・。新聞報道の警告は他人事ではなかった。
後日、対馬への日本人観光客を増やすために何らかの対策を講じて貰いたい、と、この体験を記した手紙を対馬市役所あてに投函した次第。

国境の町を体験するために参加したツアーの目的を達成しただけでは、日本の領土としての機能を復興する手助けにはならない。
日本人が足繫く対馬へ行くしかない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜離宮恩賜庭園 その3:凛として佇む 可美真手命(うましまでの・みこと)の像 

2012-12-15 00:57:45 | 散策
「近いうちに解散する」
この「近いうち」解釈をめぐり3ヶ月にも亘って、法案の審議をすべき責務を放棄し、貴重な時間を浪費していたことを過去のものとする先生方々は、晩秋の厳寒にも負けず選挙区内を駈けずり回っている。師走に相応しい情景ですね。
12月9日(日)の「新報道2001決戦直前11党党首激論SP」でも、党が掲げる公約の実現確度に党首たちは熱弁を振るい、他党のそれの不備を衝くなど喧々諤々。

日本の舵取りを渇望する政党が12も名乗りを挙げ、単独で政(まつりごと)を担えるのではと予測される政党に、1人だけのそれ、数人あるいは数十人のそれらが混在して気勢を揚げて、第46回衆議院議員総選挙を1,504人が戦っている。誤解を承知で書けば、ジパングの政は俺に任せろと、老雄、奸雄、妖雄、風雲児らが割拠している政治の世界。

「有権者は12月16日(日)その審判を下すんでしょう。その義務を放棄して投票場へ行かねば、政治や行政に自分の意思を提言する、苦情を述べる権利をも放棄することになりますね」

ボケ封じ観音さまの世界にも総大将を選ぶ行事があって、その投票は神様の義務になっているのだろうか・・・?

さて、浜離宮恩賜庭園に佇んでいる銅像があります。
JR浜松町から「中の御門」を通って公園内に入って道なりに直進すると突き当たりにこれが観えて来ます。



一方、汐留・新橋からだと「大手門」が出入口になり、三百年の松、梅林、将軍お上がり場などを経て富士見山、中島の御茶屋方向へ巡る散策になり、銅像に気付かない場合が多いだろうし、これに関心をもって訪れる入園者も少ないでしょう。

『可美真手命(うましまでの・みこと)
饒速日命の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります』

命(みこと)像の前に設置してある台座には、佐野 昭制作、鈴木 長吉鋳と記されています。



今年は、明治天皇崩御100年、古事記編纂1,300年です。これを読みながら、俄然、この像は興味の的に・・・。

ところで、饒速日命(ひぎはやとの・みこと、以下、ニギハヤト)は『日本書紀』、『古事記』では邇藝速日命と表記しているように、「記紀」に登場する神様の御名は違います。台座の解説は前者を採って可美真手命(以下、ウマシマ)、後者では宇麻志麻遅命(うましまぢの・みこと)です。

ちなみに、明治天皇の銀婚式記念とは、明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典のこと。日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなったようです。その明治天皇が崩御されてから100年に当る今年、国の式典などは催されなかったようですが、「明治天皇百年祭」が明治神宮で行なわれていました。

ウマシマは、ニギハヤトと長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきや・ひめ)との間に産まれた男神。大伴(おおとも)氏と並んで朝廷の軍事を司った伴造(とものみやっこ)の氏族。物部連(もののべの・むらじ)らの、穂積臣(ほづみのおみ)、婇臣(うねめのおみ)の祖とされています。

棒状の何かをウマシマは大事に抱えています。
布都御魂(ふつの・みたま、以下、フツノミタマ)ではないかと、元気印は推測しますが、確たる情報はありません。



なにはともあれ、『古事記 神々と神社』(宝島別冊1834 他)によれば、

『フツノミタマは、建御雷之男神(たけみかづちの・をのかみ)が葦原中国(あしはらの・なかつくに:地上世界。特に日本)を平定した時に用いた霊剣で、荒ぶる神を退ける力を持つとされる。「ふつ」は、プツンと鋭く断ち切る音を表しているといわれる。
神武軍が熊野山中で荒ぶる熊神に出会い、その毒気に当たり倒れてしまった。この時、高倉下(たかくらじ)という者がフツノミタマを持ち参じた。剣は、神武天皇の危難を案じる天照大御神(あまてらす・おおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひの・かみ)が、高倉下に神託を下し与えたものだった。その後の国土平定の戦いでも大いに役立ち、物部氏により祀られることになった。フツノミタマは石上神宮(いそのかみ・じんぐう:奈良県天理市)の祭神とされ、ウマシマも配祀されている』

ここに描かれている、神武軍が熊野山中で・・・とは、畝火山(うねびやま)東南の白檮原(かしはら・奈良県橿原市)を都として定めて、神武天皇となる神倭伊波礼毘古命(かみやまと・いわれひこのみこと、以下、カミヤマト)が、日向(ひむか・九州南部)から白檮原への遠征、神武東征と通称されている日本建国物語前半の後半部で語られている戦いです。
カミヤマトは、東征を阻む地方の豪族との衝突を戦い抜いて、白檮原への東征を成し遂げます。熊野山で熊神の毒気で昏睡状態に陥ったカミヤマトと兵隊たちを救援するフツノミタマが天から降され、その後、八咫烏(やたがらす)を降されたカミヤマトは、前途に待構える難局を乗越え東征の最終目的地へと先導されます。

『古事記が記す神武天皇ご即位までの物語は、日本の建国の物語。神武天皇が天下をお治さめになった白檮原宮は最初の皇居であり、我が国最初の都でもある。これ以降は、天皇の統治がどのように行われてきたか、すなわち、天皇の統治の歴史が記されていく』(竹田恒泰著:現代語 古事記)

日本建国の物語に登場するウマシマは、カミヤマトの大和平定に貢献したニギハヤトの息子であると、記されているだけです。このウマシマを題材にして石膏像と銅像を創った二人の作家の創作イメージを知るために、長々とカミヤマトの建国物語を書きました。

カミヤマト、ニギハヤトに関しては古絵図が残っているので、創作イメージに枠が嵌められるのを回避したのではないか、ウマシマと明治天皇の接点はあるのだろうか?

そこで、先の台座に記されている二人の作家、制作の佐野 昭、鋳金した鈴木 長吉について、元気印の情報収集癖がうごめき始めます。

佐野 昭
慶応2(1866)年、江戸に生まれる。※1工部美術学校で※2ラグーザに師事して彫刻を学び、明治15(1882)年卒業。明治28(1895)年第7回明治美術会展に石膏像「虎刈り」など2点を出品。翌29年※3白馬会創立会員となり、第1回展に石膏像「可美真手命像」のほか、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品する。石膏像「可美真手命像」はこの後、浜離宮恩賜庭園に銅像として建立。黒田 清輝、久米 桂一郎と交友。(近代日本美術事典他)。

※1工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう):工部省管轄の工部大学付属機関として設置された、日本最初の美術教育機関。設けられた学科は、画学科、彫刻科の二科。
※2ヴィンチエンツオ・ラグーザ:明治9(1876)年、明治政府に招かれて来日したイタリア人彫刻家。工部美術学校で彫刻の指導を行う。清原 多代と結婚。
※3白馬会(はくばかい):明治29年に黒田 清輝(せいき)を中心に発足した洋画団体。

鈴木 長吉
嘉永元(1848)年、武蔵国石井村(埼玉県坂戸市)に生まれる。※1鋳金家。岡野 東竜斎に師事する。※2蝋型鋳造を得意とし18歳の時、鋳物工場を自営。内外の博覧会に多くの作品を出品し多数の賞を得る。明治18(1885)年のニュールンベルク金工万国博覧会で最高賞を受けて有名になる。明治29(1896)年に※3帝室技芸員となる。代表作は「鷲置物」(重要文化財・東京国立博物館)(新潮世界美術事典他)。

※1鋳金(ちゅうきん):加熱によって融解した金属を、鋳型に注ぎ入れて器物や彫刻を作る技法。
※2蝋型鋳造(ろうがたちゅうぞう):蜜蝋をひねって原型を作り、これを鋳型土で包んで土鋳型を作製し蝋を焼き抜いて、できた空間に溶銅を注入する技法。飛鳥・白鳳・奈良時代の金銅仏にこの技法が多く用いられている。
※3帝室技芸員(ていしつぎげいいん):明治23(1890)年の帝室技芸員制度により皇室の
保護を受けた美術・工芸家。戦後廃止されたこの制度の顕彰行為は、文化勲章や重要文化財制度、或は日本芸術院会員の認定などに引き継がれている。

ウマシマ銅像制作の背景を探るヒントが、二人の経歴にありました。
先ず、明治天皇の銀婚式典について、「歴史読本 明治天皇100年目の実像 2012・12」には、

『内心では戦争を潔しとしなかった明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚の式典が、明治27(1894)年8月1日に開戦する日清戦争に先立つ3月9日、国を挙げて催された。伊藤 博文の建議になるとされるこの式典は、西洋に倣って皇室の大衆的人気を喚起し、当時の政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙ったものと考えられる。宮中の慶事に国民も熱狂し、「市中は軒頭に提灯を掲げ、意匠を凝らしたる飾物を作り、深更けに至るまで花火を打揚げて祝意を表す」と明治天皇紀は記している(第八巻、390頁)。いったん開戦となるや天皇は、個人の意思に封印して、日本軍を率いる大元帥としての役割を見事に演じていく』

とあり、歌人としても知られた天皇は、その生涯におよそ10万首の歌を残している。中でも明治の人が愛唱した御製(ぎょせい・歌)は、

  あさみどり 澄みわたる大空の
        広きおのが心ともがな

( 一点の雲もなく、浅瀬に晴れわたった大空のように、清くそうして広いこころを、私はもちたい )

次に、宮内庁から写真提供された明治天皇の御肖像画(明治神宮所蔵)が掲載されています。
イタリア総領事の山中 譲治が明治7(1874)年、イタリア人画家ウゴリーニに発注して制作させた肖像画に描かれている天皇の御顔の雰囲気が、銅像のウマシマのそれに近いと元気印は感じます。佐野が白馬会第1回展に出品した石膏像「可美真手命像」を発想させる源ではなかったのかと、独断と偏見に満ちた推測を促してくれます。

国民の慶事として祝福された明治天皇大婚二十五年は、日清戦争が勃発する緊迫した外交問題があり、それを回避する政治情勢も混乱を極めていたようなので、佐野は日本を平定したカミヤマトでは畏れ多いと考え、具象化する男神としては自由度の広い、大和平定に功績のあったニギハヤの息子ウマシマを彫刻の題材として選択し、フツノミタマを抱えさせた。

また、佐野は、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品しているので、陸軍との接点もあります。おそらく佐野の石膏像を観賞した鈴木長吉は、彼の創作意図を瞬時に飲み込み、佐野が制作した石膏型から土鋳型を作り鋳金することを考案し、陸軍省の懸賞募集に応募・当選したのでは・・・。

二人は、明治天皇の銀婚式典を慶び、御肖像画に描かれている天皇の御姿を観る機会があって、御製を愛唱する国民の心情も心得ていたでしょう。陸軍省の審査員もウマシマ像の制作意図を忖度する歴史認識を持っていたはずです。

保存に手間隙を要する石膏像は、銅像にして建立すれば長期保存が可能になります。
関係者にそのような決断を下させる魅力を放っていたウマシマ石膏像。明治天皇崩御100年目に当たる平成24年、鈴木が鋳金したウマシマ銅像は、今も凛とした表情を崩さずに恩賜庭園に佇んでいます。



「そんな突拍子もないことを思い浮かべて楽しんでいるんですか。でも、事典が記す、その後、浜離宮・・・が暗示するウマシマ銅像誕生の秘密かも知れませんよ」

ボケ封じ観音さまの心強いアドバイスに頭が下がります。

ここで、明治27年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品である云々、と台座に記されているウマシマ像の創作背景が垣間見えたようです。
明治天皇と可美真手命、陸軍と佐野 昭、そして、佐野と鈴木 長吉とが線で結ばれたようです。しかし、元気印の勝手な推論ですから、参考にならないことを強調します。

政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙い、明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚式典を建議した伊藤 博文。
明日は、彼のように柔軟な発想から政策を生み出して果敢に実行する人物や政党に投票したいものです。
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜離宮恩賜庭園 その2:ここは、我輩の特等席

2012-12-01 15:55:52 | 散策
11月24日(土)は、昼前までは太陽が雲に遮られ、曇天模様でした。
昼過ぎに雲がなくなり庭園内に降り注ぐ陽光を浴びている猫は、あたかも、小春日和を満喫している雰囲気。



さて、徳川三代将軍・家光の4子・綱吉に実子がいなかったのが幸いし、五代将軍・綱吉の養子になってから、宝永6(1709)年5月1日、家光の孫にあたる家宣は六代将軍に就いた。これを契機に、松平 綱重が別邸にしていた甲府浜屋敷は、「浜御殿」と呼ばれるようになり、ほぼ現在の姿の庭園が第十一代将軍・家斉 [ いえなり:天明7(1782 )年~天保8(1837 )年 ] の時代に完成している。

家斉は、燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋(鷹の茶屋)、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番掘腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などを建てている。浜御殿はこの時代に最も整備・修治され、華々しい催しが続いた時代であった(小杉 雄三著:浜離宮庭園)。

松に隠れている「小の宇島」の入口には「藤棚」、左奥に観える「中島の茶屋」。そこから富士見山方面へ向かう白い橋を横目で窺い、「潮入の池(大泉水)」を悠然と眺めている猫がいます。
芝生へ入らないように散策路に張り廻らしてあるロープを結界とでも心得ている様子で、散策者の話し声や足音がしても正面を直視したまま。口笛で呼びかけても馬耳東風。

ここから少し右に行くと平成22年12月に復元された「松の茶屋」があり見学ポイントになっている。人の気配がする環境に慣れているのでしょう。よそ者の元気印がチャチヤを入れても無視される訳です。



この庭園にあった「燕(つばくろ)の茶屋」、「松の茶屋」、「藁葺の茶屋(鷹の茶屋)」のうち復元されたのは「松の茶屋」だけ、他の二つは礎石等が現存しているので、復元する計画があるようです。

茶屋の周辺に松が多く植えられていた、谷 文晁(たに ぶんちょう)が戸障子すべてに松を描いたから「松の茶屋」と呼ばれ、翠松亭(すいしょうてい)とも言われていた(同上)。



広さ約8,000坪もある「大泉水」は、水門によって海の水を導く「潮入り」の手法を取り入れ、潮の干満によって池の水位が変化する造りになっている。庭園の定住猫は、池の岸の様子がその時々に変わる風情を想像しているのかも知れません。
家斉が精魂を込めて整備した庭園の最盛期を偲ばせる見事な松もあるこの場所は、定住猫の指定席に相応しいようです。

「松の茶屋」で猫を撮り終えて「お伝い橋」の入口へ行く途中、外国のメディアに出会いました。
和服の女性二人と打合せをしている外国人二人。女性は通訳、演出をする男性でしょうか。音を採る係りは大きなマイクを片手に、なにやら調整している様子。右の二人はカメラマンでしょう、和服女性の姿をどう撮るかを頭に描いている風情です。



ことの顛末を見定めたかったのですが、生憎、12時30分から12年振りに再会する会合があり、後ろ髪を引かれる思いで、浜離宮恩賜庭園を後にした次第。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜の花畑を走るキハ200型気動車(小湊鐵道)

2012-04-27 15:45:59 | 散策
養老渓谷駅を発ち終着の上総中野駅へ向かうキハ200型気動車は、昭和36(1961)年から導入され、昭和52(1977)年迄の16年間に、総計14両が日本車両製造株式会社で製造されている。



昭和36年から製造された車両は、キハ201から214の車番を持ち、製造年も分かるけれども、鉄道マニアからはかけ離れたところにいる元気印には、写真の気動車の車両番号は判断できません。

上総大久保駅から芋原の手掘トンネルを通り養老渓谷へ抜ける山道の途中には、ヘリコプターから展望する菜の花畑とされるビューポイントがある。ヘリコプター展望台といっても、花畑側の樹木を伐採し菜の花が見晴らせるようにしてある、山道を登る途中に設けられた場所でした。

そこへ、4月21日の昼ごろ散策で訪れた時には、二人のカメラマンが菜の花畑を通り抜けるキハ200型気動車を待ち構えていた。1時間に1回しかないチャンスを待っているとの話を聴いて、驚き桃の木山椒の木。

しかも、この気動車は15分近く遅れていたのにもかかわらず、通過する時に汽笛を鳴らすのでチャンスを逃すことは無い。
その平然とした佇まいに、一刻も早く休憩して昼食を摂りたい元気印も圧倒され、沈黙を守るしか術はありませんでした。
辛抱強く気動車の通過を待ち続けていたカメラマンは、養老渓谷を発つときに鳴らすキハ200型気動車の汽笛で、菜の花畑を通る気動車の気配を察していたのです。最初に掲載した写真は、この散策の終着点で出逢った気動車、菜の花畑を横切るキハ200型気動車を撮った後なので、それが解ったのです。

痺れをきらして、待ちに待った気動車が、養老渓谷駅を発車し、左側から進行してきます。



この気動車のショットが気に入らなければ、15分後に上総中野を引き返す上り気動車が通過するので、シャッターチャンスを待つと、笑顔で解説するカメラマン。2012中房総の小さな旅シンポジュームのひとつである「新緑の養老渓谷を歩く」に参加した30数名全員が脱帽した次第。

小湊鐵道の周りに作られた『石神なの花畑』は、放置されたまま荒廃していた田圃の手入れをして種を蒔き育てた菜の花が咲き誇っている花畑です。水を張ってある所は、畑に作り上げる途中の田圃で、来年には菜の花畑に変身するようです。

この展望台を後にして山道を降り養老渓谷駅へ向かいます。
熊野神社を過ぎ養老渓谷を跨ぐ「御里津橋」を経ると国道32号線にでます。
橋から眺めた養老渓谷。写真左上が養老渓谷駅の方向になります。



渓谷の深さを実感する迫力がありました。

橋を渡って国道へ出る直前、ヘリコプターから眺めたような花畑が展望できることが謳い文句の「ヘリコプター展望台」で、上りのキハ200型気動車が15分後に花畑を横断するとカメラマンが言っていたその気動車が通通過する音が、御里津橋まで聴こえたのです。
この時点では、キハ型気動車より養老渓谷に気をとられており、通過音を聴いても写真を撮るには間に合わず、歯軋りするだけでしたが・・・。それなりの目的を持ってシャッターチャンスを待たなければ、良い写真は得られないですね。


国道32号線沿いには、ミツバツツジに囲まれた民家を映す田圃の風景などがあり、スナップ撮りに追われます。





石神なの花畑で昼食休憩。
ヘリコプター展望台から眺めていた小湊鐡道が、花畑を横断しています。



キハ200型気動車が、ここを走る写真が撮りたかったのですが、あいにく、時間が会わずすれ違いになりました。
花畑の右側奥にヘリコプター展望台が見え、花畑を通過する気動車を狙っているカメラマンらしき影が一瞬目に入ったのですが、三々五々に散らばって昼食を摂る人の姿が邪魔をするので、移動した様子。

カメラマンの心情は、痛いほど伝わってきます。
しかし、ここで主催者に場所を換えるように言い出す勇気は持ち合わせていない元気印です。
そこが問題なんです。菜の花畑を横断する写真をとる前、軽トラックが踏み切り前に駐車した際は、

 「糞ッたれ、邪魔スンナ!!。早くどけろ」

これが、カメラマンもどき元気印の心境でした。この時は、軽トラックと同じ役割を演じているにも拘らず・・・。

ここから養老渓谷駅までは、15分くらいです。
養老渓谷駅前にある足湯に浸かっていた、「新緑の養老渓谷を歩く」に参加したシニアの女性は、

『1万5000歩も歩いたけれど、ここで足を暖めたので、疲れが和らぎました』





ほど良い湯加減の足湯に浸っていると眠気に襲われます。散策の仕上げにはもってこいのゴールでした。

里見八犬伝に縁のある「寶林寺(ほうりんじ)」が、養老渓谷駅から徒歩で数分の所にあります。
住職さんからは、里見家の来歴、伏姫のモデルとされる種姫の話を聴きましたが、それは別の機会にします。



























コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その7-2:野外劇場で「サンタ ルチア」の響きに酔う

2011-09-18 23:36:53 | 散策
その昔から、楊貴妃と共に「絶世の美女」と称賛されているクレオパトラは、紀元前356年7月21日に放火・破壊され、紀元前323年に再建されたエフェソスのアルテミス神殿に聖域逃避(せいいき・とうひ)していた妹・アルシノエ4世を殺害するように、と、アルカデイアーネ大通りを連れ添って歩くアントニウスに囁くのです。アルテミス神殿がアルテミス崇拝の要として機能していたであろう紀元前44年3月頃のようです。

その一方、古代、中世、現代における「世界にある七つの景観(七不思議)」を列挙したものによると、アルテミス神殿は古代のそれに挙げられています。この神殿に逃げ込んだ何人(なんぴと)もアルテミスの保護下にあると看做(みな)される「駆け込み神殿」、つまり、聖域逃避場所であった。

姉のクレオパトラ7世にナイルの戦いで敗れたアルシノエ4世は捕虜になり、ローマ市中を引き回しにされますが、彼女の刑死を止めさせたカエサルは、愛人の妹をアルテミス神殿へ聖域退避させます。彼は、クレオパトラ7世の脅威が義妹に及ばないよう熟慮したのでしょう。

しかし、それも束の間のことでした。
カエサルの暗殺を機にアントニウスが実権を握ると、プトレマイオス朝最後のファラオ(古代エジプト君主の称号)となったクレオパトラ7世は、16歳前後の妹を抹殺してしまう権力の亡者に豹変したのです。

さて、これ以降は、元気印だけの創造話です。
野外劇場の正面から港に向かって伸びているアルカデイアーネ大通りの両側に建ち並ぶ列柱に灯が入り、その奥に軒を連ねる商人の店々は接客に追われ、エフェソスで生活している老若男女はもとより、野外劇場の催物見学者たち、アルテミス神殿の参拝に訪れた信者や旅人などで街並みは賑わっている。

そんな雰囲気を隠れ蓑にして、クレオパトラはアントニウスに妹を殺害するように懇願した。
ファラオと呼ばれる権力者の心理と行動については、洋の東西を問わず、歴史学者が異口同音に考証していますから、ここでは触れません。 
なにはともあれ、ピオンの丘の斜面に築かれた野外劇場は、2万4千人も収容する大劇場です。
前回書いた、市役所の並びにある小劇場・オディオンは、約1,500人収容の音楽堂ですし、最大1万4千人収容が最大とされたギリシャ劇場と比べても、ここの大きさは半端ではない。

また、ガイドブックには、野外劇場で繰り広げられる剣闘士のレリーフの写真が掲載されていますから、多機能劇場として建設された可能性も否定できません。

そこの半円形舞台に集まっているツア-参加者は、拍手を打ち、耳を澄まして劇場の音響を確かめています(写真)。

その響きのよさに、全員が驚きます。

「音の良さを体感してみませんか?」

 ♪♪
 月は高く 海に照り
 風も絶え 波もなし
 月は高く 海に照り
 風も絶え 波もなし

アドナン氏の誘いに当機立断(とうき・りつだん)したその参加者は、日本のどこかのコーラスグループで活動しているシニア男性でした。
 
 ♪♪
 来よや友よ 船は待てり
 サンタ ルチア
 サンタ ルチア

 来よや友よ 船は待てり
 サンタ ルチア
 サンタ ルチア
 
万雷の拍手鳴り止まず、です。
日ごろから鍛えている喉が奏でる美声に、思わず聴き惚れた数分間でした。
剣闘士の戦いなどを催した多機能野外劇場の舞台空間に、ある程度の音響設計がなされているとは予測していましたが、快い音場(おんじょう)の響きを実感した時の心境は、まさに、びっくり仰天。
巧みに計算された多機能を併せ持つ野外劇場の音場に酔い痴れたひと時でもあった。サンタ・ルチア氏の心意気に乾杯したくなったのですが、その場の雰囲気をぶち壊しそうなので、自重した次第。

多機能野外劇場であっても、その設計・施工に求められることは、2万4千席の最上段客席にまで声が届くことです。
ガイドブックなどに、ここの観客席は66段あると紹介されています。最上段の客席で「サンタ ルチア」を聴いてみたかった。後悔と槍持ちは、先に立たないんですね。

ちなみに、音波の存在する空間とされる音場には、自由音場と閉鎖音場のふたつがあって、屋根・外壁のない野外劇場は前者に属するようです。また、現代においても、音環境づくりを専業とする建築音響コンサルタントが活躍しています。
建築と建築設備、電気音響・映像・舞台設備などとの相関関係を試行錯誤の末、バランスの取れた音環境づくり、つまり「音場」を提案し具体化しています。

新しく計画されているコンサートホールなどの音場目標を、「静けさ」「よい音」「よい響き」の三要素に据えて、それらをいかにして調和させるかの建築空間づくりに挑戦しています。
音響が優れていると称される空間をもつコンサートホールなどには、コンサルタントの弛まぬ努力が隠されているのです。

『劇場造りに係わってきた元気印さんにとっても、得難い体験でしたね。劇場の音響効果は、劇場空間の形状、天井や壁の材料、 椅子を設ける床の傾斜角度などを組み合わせて、該当する劇場の音響効果を専門のソフトで選択・決定していますね。ローマ時 代に建造されたこの劇場の音響設計は、どんな方策だったのでしょう?』。

この、ボケ封じ観音さまの問に答える材料は手元にありませんが、野外劇場造りの職人技に適う技術者は、どこかに居た筈です。

『ヒントはありますよ。ピタゴラスの定理で知られるピタゴラス、ソクラテスは結婚に悩んでいる人に向かい、「良妻を持てば幸 福になれるが、悪妻を持てば哲学者になれる」と言い放ち、アカメディア学園をアテナ郊外に創設したプラトンがソクラテスの 弟子の当ることはご存知でしょう。そのアルカメディアは今日の大学の先駆をなすものと評価されています。彼らより時代は下 って、ユークリッド幾何学の祖とされ、西方社会の歴史において「聖書」に次いで多くの版を重ね研究されてきた「原本」(ユ ークリッド原論)の著者ユークリッド、それにアルキメデスなどは、学校の教材で学んだお馴染の名前でしょう。

 ギリシャ科学の発展に寄与・貢献した彼らの思想や理論は、エフェソスの多機能野外劇場が造られる時代に与えた影響は大きい 筈です。この野外劇場の音場は、幾何学的手法で計算し、そのイメージを平面・断面図に引き、既に建設した野外劇場から得た 経験則を積み重ねた賜物なのです』。

 ♪♪
 ほのかなる 潮の香(か)に
 流るるは 笛の音(ね)か
 ほのかなる 潮の香に 
 流るるは 笛の音か
 晴れし空に 月は冴えぬ

 サンタ ルチア
 サンタ ルチア
 晴れし空に 月は冴えぬ
 サンタ ルチア
 サンタ ルチア

ローマ時代、剣闘士同士や剣闘士とライオンの戦いを催していたこの野外劇場の観客席は、2mほどの垂直な壁の上から造って、危険防止策を施している。さらに、イエスの死に殉教しなかった使徒ヨハネが、イエスの母マリアを連れて移住した聖ヨハネ教会はエフェソスにあり、トルコ中南部にあるメルスイン県タルススに生まれ、新約聖書を表したひとりであるパウロは、キリスト教が禁止されていた時代にあっても、この野外劇場に人を集めて説教を強行し、ローマ軍に捕らえられ7年間、牢獄生活を強いられていることも、このブログを書く資料集めで知りました。

聖人として尊敬されているパウロの説教は、素晴しい響きをもたらすこの劇場に集まった聴衆を酔わせた筈です。キリスト教大発展の源となる基礎を築いたパウロの矜持がひしひしと感じられる説教であったことでしょう。半円形の舞台上に設けられた演壇から2万4千人の聴衆に向かって熱弁を奮(ふる)うパウロの勇姿を想像しつつ、この稿を終えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その7-1:生活の匂いが充満しているエフェソスの遺構

2011-06-24 23:20:48 | 散策
それは、アヤソルク村にありました。
トルコ共和国の県番号37、国内では3番目に多い人口377万人弱のイズミル県にある小さな村には、世界最大級と称される大規模な古代都市遺構・エフェソスの他に、今は湿地に円柱を1本のみ残している、古代世界の七不思議に数えられたアルテミス神殿遺跡、「聖母マリアの家」と尊称されている礼拝堂(イエスの母・マリアが晩年を過ごした地に建てられている)、聖ヨハネ教会、エフェソス考古学博物館などがあって、この国の重要な観光地になっているようです。

それらの中でも、「聖母マリアの家」には毎年、バチカンから代表者が参拝に訪れる伝統が踏襲されており、パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世も参拝された、とのことです。

自国を守るために大東亜戦争を戦い、戦場の露と消えた兵士の霊を祀る神社へ、他国からの内政干渉を撥ね退けることも出来ず、参拝しない国の政治家や、それを良し、とする世相の強いどこかの国の人達には考えも及ばない伝統の継承です。
こんな愚痴を言うのが趣旨ではありませんが、筆が勝手に走った次第。お気に障ったなら、ご容赦願います。

ところで、トルコ共和国に9ヵ所の世界遺産があることは、ご存知の方も多いでしょう。
「トルコ10日間のたび」で訪れたのは、イスタンブール歴史地域、トロイの古代遺跡、ヒエラポリス・パムッカレ、そして、ギヨレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群の4ヵ所です。

トロイの古代遺跡は「その6」に書きましたが、今回のバスツアーは、その遺構を見学してから、ヒエラポリス・パムッカレを巡るコースとなっていたので、その途中にあるエフェソスへ立ち寄ります。

10日間、バスツアー・ガイドを務めたMr.ADNAN TOPAL(以下アドナン氏)は流暢な日本語で、エフェソスへ着く前に、ツアー参加者へ問いかけます。

 「トルコは世界遺産に登録しました。エフェソスは、世界遺産に登録していない。その理由は?」

観光客が増えるからなど、など、参加者は夫々の思惑で返答します。そして、その正解は・・・。

 「トロイは、弱(とろ)いから、世界遺産なんかに登録した」

Japanese Speaking Guideの資格を持っている、当意即妙に答えた彼の頓才に、前夜泊まったアイワルクのホテルから200km近く走ってきたバス車内は、爆笑の渦に包まれたのでした。敬虔なイスラム教徒であるアドンナ氏については、コンヤで訪れたメヴラーナ博物舘のところで触れたいと考えています。

さて、確かにトロイ城市遺構には、アテナ神殿や獣などを捧げた台座遺跡がⅦ市b~Ⅸ市の層にあり、Ⅵ市の層には同市東側の塔跡とその向い側にある城門、Ⅱ市層には同市の正面に通じる傾斜路(ランプ)等がありましたが、元気印を魅了したのは、5000年という気の遠くなる年代でした。その反面、南入口から見学を始めたエフェソス遺構には、トロイ城市遺構とは、同床異夢の魅力がありました。

そこには、市役所に並んで屋根付の小劇場・オデイオンがあり、その正面は町の中枢であったアゴラ(繁華街といった方がピンときます)が配置されており、ヴァリウスの浴場やドミテイアヌス神殿の基部遺跡などが周辺にあります。

オデイオンなどの遺跡を右側に観ながら直進して、左側の病院跡を右に曲がると、石畳が敷かれた路の左右にヘラクレス像が建っている凱旋門に出ます。ここからの展望は、無限に広がる晴天に恵まれ、絶景かな、ぜっけいかな、でした。
少し勾配の強い下り坂になっているクレテス通りの突き当たりに鎮座しているケルスス図書館遺跡、凱旋門前から図書館まで1直線に延びている通りの左には高級住宅、その対面に建ち並んでいるハドリアヌス神殿や公衆便所などの遺跡が一望できたのです。うす青色に澄んだ空には、雲ひとつありません。一幅の絵を観ているような錯覚に襲われます。ツアー参加者は、思い想いの風景を借景にして、シャッターを押すのに余念がありません。時間の経過を忘れさせる絶景でした。

「尻合いの仲」になれる公衆トイレの中央台座では、音楽の演奏会も行われたとか・・・。
気張りながら用足しする人たちへ癒し効果をもたらしたかも知れません。間仕切りがないこの公衆トイレでは、横に座って用を足している人や他の用足人たちとも会話(はなし)が出来ますし、その気さえあれば、直ぐに「しりあいの仲」になれます。
トイレに座った参加者の間でも、そのことが話題になった程ですから、古代人も同じ心境で用足しをしていた筈です。

用足しを済ませてクレテス通りを降り切るとケルスス図書館、その正面を右へ曲がると野外劇場を経てアルカデイアーネ通りに至るマーブル通りになります。この図書館の横にあるマゼウスとミトリダテスの門を潜り抜けた処に商業アゴラが配置されています。

先に書いた、使徒ヨハネと共に余生を送ったイエスの母・マリアの礼拝堂、イエスの死後、その母マリアを見守ったヨハネが暮らした「聖ヨハネ教会」、アルミテス崇拝の拠点「アルミテス神殿」遺跡などは、ツアーコースから除外されていたので、見学できなかった。本文を書いていると、残念無念でなりません。団体旅行の辛い所で、我慢のしどころでしょう。

さて、掲載した写真に話を戻します。「その6」で紹介したガイドブックの解説では、

 「マーブル通りに残された古代の落書き、広告? 女の姿と左上のハートで、娼館を示す。足形は、娼館が前方にあることを表している」

ケルスス図書館の近くにあった議事堂から、公人が娼舘へ出入りしていた秘密の通路跡を教えてくれたアドナン氏。
娼婦の館は、高級住宅前にあるハドリアヌス神殿、その背後のスコラスティカの浴場近くにあったようです。しかも、娼舘と浴場は、女性クリスチャンが4世紀頃に大改修をした、とのことです。日本では古墳時代の出来事ですから、驚きもひとしおです。

トルコ人ガイドが私達日本人、つまり外国人に対して親近感をもって語ってくれた「しりあいの仲」が作れる公衆トイレ遺跡や、おおよそ1600年後の今、その面影も残っていない「娼婦の館」の伝聞には、強烈な匂い、当時の人達が発する生活の匂いがプンプンしてきます。これが、前日訪れたトルコ城市遺構との決定的な違い。エフェソスの遺構に魅せられた所以です。

 「図書館から少し先にある野外劇場へ向うマーブル通りの左隅に敷かれた石に彫ってある落書きの目論みは、「娼婦の館」広告であると、元気印さんは断定している。そうでしょう。たとえ、それが好事家の落書きであったとしても、現代にも相通じる広告効能を発揮していると・・・。図星ですね」

ボケ封じ観音さまのお出ましです。

 「石の表面を平らにすると、女性は彫れますね。予め足を彫る部分を鑿(のみ)で削って、そこに自分の足の外郭をなぞり書きして彫ったのが足の落書き。ハートは、その周りを削り落としてから表面の凹凸を石で擦り込んで平らにしている。足の方は、ハートの逆工程で彫った可能性が高い。足型を彫る箇所は、先ず、大まかに鑿で削り落として表面を平らに摺り込み、そこになぞり書きした足の線を鑿で彫ったのでしょう」

 「女性の下に彫ってある絵柄は、何を表していますか? 観音さま」

「さあ、4世紀頃に彫られたものですから、簡単に答える訳にはいきません」

元気印に宿題を残したまま観音さまは、ドロンです。

そうだ、きっと、そうに違いない。
今にも相通じる広告であることに同意した観音さま。
この落書き、いや、「娼館の広告」を彫り残した好事家の石工探しに、4世紀の世界へ「バック・トゥ・ザ・フユーチャー」したのでしょう。
21世紀から遥か昔の時代、4世紀へタイムスリップする離れ業は、観音さまのお家芸のひとつですから。

閑話休題
7人の男が眠っている間に、150年以上タイムスリップした洞窟協会跡が、エフェソス遺跡北入口から徒歩で10分余りの所にありました。ここを訪れた時期は閉鎖中のようでしたから、見学は無理な行動と思っても、興味津々な洞窟です。

トルコの人たちは、着古した衣類の端を結びつけて願い事をするようです。
日本の神社や寺院の境内には、お御籤を引いた参拝者がそれを結びつける樹など植えられています。
7人の男が眠った洞窟脇のフェンスには、願い事が込められた小さな布切れをいっぱい結わえ付けてある写真と、その洞窟の謂れに関しては、「その6」で引用したガイドブックにあります。
神さまや仏さまのに願掛けしたお御籤などを残す風習は、日本人と同じようですね。初めて訪れたトルコに魅せられた要因のひとつが、これでした。

ところで、当時迫害された若いキリスト教徒7人がこの洞窟に隠れると、そのまま眠込んでしまった。
やがて目覚めた7人は町に出ます。そこには、知った顔の人たちは誰一人見当たりません。パンの購入代金を払おうとしたコインは、彼らが迫害された350年代、デキウス帝の時代に通用していたもの。それから150~160年後は、テオドシウス帝の時代に移ってしまい、もう流通していないコインだったのです。

コーランにも記載されているこの伝説の主は、彼らの死後、奇跡を信じた町の人たちがこの洞窟に埋葬し、協会が建てられた。
また、この協会で神に一生を捧げた修道士達の数多くの墓穴が洞窟にある、ともガイドブックには記述されています。

タイムスリップの特技は、ボケ封じ観音さまだけのものではなかったんですね。
お伽噺に登場する浦島太郎も、乙姫さまとの約束を破った結果、今世の歳にタイムスリップしてしまいました。
浦島太郎信仰があるとの話は聞き及ばないのですが、後世の人が名付けた「7人の眠り男の洞窟」の場所に協会を建立して、信仰の対象にした。キリスト教の聖者に、イスラム教のトルコ人が願掛けをする行為にも、人の匂いが充満している。

やはり、エフェソスは、弱くはなかったのです。

 「世界遺産に登録していないが、トロイの古代遺跡よりエフェソスが好きだ、と呟いていたアドナン氏の心境に、少しばかり近づけましたか? 元気印さん」

宿題を残したままドロンしたボケ封じ観音さまの問いかけに、どう返答すれば宜しいのでしょう?
その答えを探求している間は、馬耳東風の態を続けます。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その6:トロイ城市の木馬と悲劇の預言者カサンドラ

2011-06-19 21:37:08 | 散策
「トロイの木馬」をキーワードにネット検索をすると、コンピューターの安全を破壊するソフトウエアの一つであり、一般的にはウイルスとして認定されている。
しかも、バックドア型、パスワード窃盗型、クリッカー型など数種類あって、その感染経路や予防対策まで解説されています。

このウイルスが侵入したプログラムを普通のプログラムと誤認して操作を実行すると、パソコンに保存してあるデータを削除し、最悪の場合システム自体をも破壊させるウイルスである。これらは、パソコンを習い始めた頃に聴いた覚えがあります。

さて、タイトルにした「トロイ城市の木馬」は、あのホメロスが叙事詩「イーリアス」に描いたトロイア戦争の伝承を信じて、それを「頼りの地図」にして全財産を注ぎ込んで発掘に挑んだハインリッヒ・シュリーマンの業績が残るトロイにあります。

ヨーロッパ側のゲリボルからダーダネルス海峡をフエリーでチャナッカレに。
映画『トロイ』で使用した「トロイの木馬」が展示されているチャナッカレ見学のないバスツアーは、フエリーに同乗してきたバスに参加者が乗り終わると、一路トルコを目指します。

ちなみに、トルコ共和国は81県から成り、そのひとつがチャナッカレ県。
アジアとヨーロッパ側に県域があるのは、イスタンブールと同じですが、ヨーロッパ側にあるゲリボルは「その5」に書いた激戦地で、チャナッカレ県に属しています。トルコ城市遺構は、ギリシャ神話にあるアテナー神殿の遺跡があるアジア側にあって、そこの入口には「トロイの木馬」のモニュメントが建っているのは、ご存知の方も多いでしょう。

木馬に登って、窓から顔を出しVサインをして記念写真を撮っている筈です。この木馬の計は、古代ギリシャの英雄叙事詩のうちトロイア戦争を題材とした詩環(キュクロス)の「小イリアス(ミクラ)」に描かれているようです。というのは、ホメロスの英雄叙事詩は機会を見付けて読む積りだからです。

ところで、トロイ城市の遺構は「ヒッサリクの丘」にありました。
ざっと見学するだけでもこ1時間はかかる遺跡の概要などはガイドブックに譲り、3000年にも亘る、しかも5000年も前の断層(写真:クリックすると大きくなります)が一番印象深い遺跡だったので、その話しをします。

掲載した写真は、トルコ城市遺構見学コースの途中にあり、発掘した地層の年代を表示してある断層を撮ったものです。
表示された断層の年代を左上から順番に説明しますと、下記のようになります。
それらの断層に該当する城市の解説は、ブルーガイド・わがまま歩き34「トルコ」、ブリタニカ国際大百科事典14などを参考にして書きます。

 Ⅸ(第9市):ブルーのプレート 
       BC300~300。ヘレニズム・ローマ時代
       ローマによる再建で、劇場、浴場などが造られた。5世紀末の地震により放棄。
 Ⅲ(第3市):白のプレート BC2200~BC2050。前期ヘラディック文化Ⅲ期。
 Ⅳ(第4市):白のプレート BC2050~BC1900。前期ヘラディック文化Ⅲ期。
 Ⅲ(第3市):白のプレート
       Ⅲ、Ⅳの詳細は不明。停滞又はゆるやかな発展をしているが、人口構成に新要素が加わった兆候は存在しない。
 Ⅱ(第2市):黄色のプレート BC2500~2200。前期ヘラディック文化Ⅰ~Ⅱ期。
       最初の繁栄期。城門、傾斜路などを持つ城郭都市は最後の大火災で破壊された。
       シュリーマンは、この「焼けた都市」から財宝の殆どを発掘した。オスマン帝国の発掘許可を得ないで発掘に着手した1870(明治3)年から3年後のこと。このときは正式
       な発掘許可を得ており、「プリアモスの黄金」と呼ばれている。
 Ⅵ(第6市):右奥上の赤プレート BC1800~BC1300。
       城砦外の南方に火葬墓地があり、骨灰を入れる壷が200残っており、全家屋が破壊されて残骸となり、城壁の上部が破損しているが、火災を伴っていないので、大地
       震によるものと考えられている。

写真の断層の遺構には5居住期しかありませんが、主要な層は1~9層からなっており、さらに46段階に分かれています。そして、各居住層は数段階で発展し、最後に火災や地震で破壊されているけれども、生存者は床に落ちた残骸を清除せずに平坦にならしただけで、その上に新しい家を建てたことも解明されています。

また、第1市~第7市の遺構からは、同時代の記録文書がまったく出土していないけれど、トロイ城市の第1市から第5市までは、初期青銅器時代を通じて文化が断絶せずに存続していたことも、その種の実証研究で分かっています。第6市は青銅器時代の中期とその大部分が後期に属し、第7市は残る後期青銅器時代に属するとも、前記国際大事典に記されています。

シュリーマン没後、科学的な方法で全域を綿密に調査・発掘したシンシナティ大学発掘隊は、第7市a段階がホメロスのトロイ城市であるとしています。第7市の居住層は、a、b1、b2の3段階に分かれており、そのaでトロイア戦争が勃発した訳です。BC1300~BC1250頃になるのでしょうか。

それにしても、僅か数十mの断層には、3000年に及ぶ歴史が埋もれており、今から5000年も前の時代の遺構でした。温故知新という言葉の重さを実感させられた断層でしたから、印象に残ったのです。
これを書きながら、トロイ城市遺構内にある遺跡を解説した看板には、それぞれの遺跡がⅠやⅡであると明記してあったことを思い出しました。


トロイの木馬の計に纏わる話題です。
カサンドラのジレンマとも言われているので、既にご承知の方も多いでしょう。

トロイア最後の王プリアモスの末娘カサンドラは、アポロンの求愛を受け入れ結婚します。
アポロンから「予言能力」を授かる代償として結婚に踏み切ったカサンドラの悲劇の始まりでした。

 「アポロンに弄ばれたあげく、捨てられる自分の運命を予言してしまいました。それを知った彼女は、アポロンの元を去りましたね。当然でしよう」

ボケ封じ観音さまの声が聴こえてきます。

 「激怒したアポロンは、カサンドラの予言は誰も信じないとする呪いを掛けました。彼女の美貌に魅せられ求愛したことなどは、どこ吹く風です」

その反面、アポロンの奸計など露知らずのカサンドラは、父プリモアスらに「アカイア(ギリシャ)軍が攻めてくる」と警告を発し、「木馬の中に兵士が隠れている」とアカイア軍の戦略を明かすのですが、彼女の警告を馬耳東風と聞き流しました。その結果は、史実が証明している通りです。
釈迦に説法を承知で追記します。パソコンのソフトを破壊するウイルス名の由来は、この史実を基にしていたのです。

トロイアの悲劇を予測したカサンドラの警告を無視して国を破滅させたプリモアス王の逸話は、福島第1原発事故をもたらした東京電力株式会社(以下東電)のあり方を連想させられました。

というのは、平成23年6月12日の産経新聞によれば、今回の事故は東電が招いた、不作為による犯罪的災害である、との記事が掲載されていたからです。

国際原子力機関(IAEA)の元事務次長ブルーノ・ペロード氏とのインタビュー記事のタイトルは「東電は神のように尊大」。既読された方もおられるはずです。

1992(平成4)年頃来日し東電を訪れた同氏は、

 1.格納容器と建屋の強化
 2.電源と水源の多様化
 3.水素再結合機の設置
 4.排気口へのフィルター設置

を提案したのですが、東電はなんら対策を採らなかったことが掲載されていたのです。
スイスでは、90年代に格納容器も建屋も二重にするなど、水素ガス爆発防止策を強化した実績を有しており、同じゼネラル・エレクトリック社製沸騰水型原子炉マーク1型を使用している日本にも役立つと考えての提案だったのです。

ペロード氏が悲劇の預言者カサンドラを知っていたかどうか?
元気印には推測の域を出ませんが、今回の犯罪的災害を目の当たりにして、地団太を踏んでいることでしょう。

さらに、元福島県知事佐藤栄佐久氏は、東電の原子力発電に伴う管理の杜撰さを、

 「東電の故障・トラブル等は昭和46年から平成20年の間に161件あった」

として、複数の雑誌で告発しています。

宝島07には、昨年6月17日、福島第1原発2号機では『外部電源遮断』『非常用デイーゼル発電機が作動しないこと』によって電源喪失となり、給水ポンプが停止して、原子炉内の水位が約2m低下するという重大事故が起きている。当時の新聞や東電の発表資料を見ても、事故に軽く触れている程度で、その原因の究明はなし、との記述があります。

このような事は、経済産業省が東電をキチンと監視すべきである等の指摘があり、原子力安全・保安院がその行政処分を担っているのですが、今回の原発事故対応を発表する姿勢には、そのような自覚や認識があるようには感じられません。おそらく事実関係を隠蔽して公表しているのでしょう。

それにしても、今回の事故は、想定外の事故どころか経験済みの事態であったことを知った時の驚きは何と表現したらよいのか。凡庸な元気印には思い当たりません。ただ、ただ茫然自失するだけです。

「東電は神のように尊大」と感じて帰国したペロード氏の提言は、東電から原子力行政に携わっている関係者には伝えられた、もしくは伝聞として承知していたでしょう。しかし、「原子力は安全」とする神話を金科玉条とする人達には、スイスの防止対策を他山の石とするだけの腹が据わっていなかった。村八分にされる危険を冒してまで、議論することは避けていたから。これらは元気印の勝手な判断からくる推測であることをお断りしておきます。

いずれにしても、6月20日からウイーンで開かれる閣僚級会合において、福島第1原発の事故解明は客観的な立場で議論されることを期待しています。

「安全神話」にどっぷり浸かっている原子力村を構成する行政機関、学会、各種業界、金融機関、など、などで、原子力に係わる関係者達が共有する神話は木っ端微塵に粉砕され、日本の原子力行政が新しい民話の下で執り行われる日が到来するのを待つだけです。


「ウイーンでの閣僚級会合は、悲劇の預言者カサンドラにはなりませんよ」

ボケ封じ観音さまの予知能力に希望を繋いで、本稿を終えます。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その5 M..Kアタチュルクが連合軍を撃退した激戦地ゲリボル

2011-05-17 22:55:51 | 散策
イスタンブールを発ったバスは、ゲリボル半島の先端を目指します。その途中、ギリシャ、ブルガリアの国境と接している町へ行く道路標識などがあると、その都度現地ガイドが案内してくれました。

トロイへ行くには、ヨーロッパ側からダーダネルス海峡をフエリーで渡り、アジア側のチャナッカレを経由します。
フエリー乗場があるヨーロッパ側の町ゲリボルでは、埠頭から徒歩で7~8分のところにあるレストランで、魚料理の昼食に舌鼓を打ちます。

この町の埠頭にはふたつの記念碑があり、その一つがケマル・アタチュルクのようです。(写真)。というのは、フエリーの出港時間に合わせて昼食を摂ったので、写真を撮るのが精一杯。だれの記念碑なのかなど質す余裕なんかなくて、フエリーに掛け乗った。そんな次第ですから、詳細は一切不明です。

人物の胸像の周りに配置してある月と星は、トルコ国旗を象徴しているようですし、トルコ共和国を建国したケマルが最も相応しいと、元気印は勝手に決め込んでいます。

さて、ゲリボルの戦いは、「ヨーロッパの病人」と揶揄されていたオスマン帝国が、イギリス・フランス・オーストリアなどの連合軍に勝った戦いです。

第一次世界大戦の「西部戦線」(フランス・ベルギー方面)に属していたゲリボル戦は、ケマル率いるオスマン帝国軍の反撃に直面していたロシア軍から要請を受けた連合軍が支援していた戦いでもあった。このことは、皆さんもご存知のはず。

その戦闘は、以下の様な経緯を経ているようです。
結果は、ダーダネルス海峡西側にあるガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都・イスタンブール進撃をもくろみ、「地中海遠征軍」を派遣する作戦計画は、イギリス海軍大臣・ウインストン・チャーチルが立案・提唱したのですが失敗に終わり、その責任を問われたチャーチルは失脚します。

1915(大正4)年4月25日、ガリポリ半島先端のヘレス岬へ上陸したイギリス軍は、戦死者86,692人、戦傷者164,617人に及ぶ犠牲を出したオスマン軍の反撃を受けて、半島の戦局は10月まで膠着状態が続きます。戦局の打開が難しいと判断したイギリス政府は、ガリポリ作戦の撤退を検討し始め、12月7日に順次撤退を開始したのです。

連合軍の戦死者は44,000人、オスマン帝国軍の半数です。8月に入って連合軍・新鋭2個師団がアンザック入江北側のスラブ湾に上陸し、攻勢を試みたが、オスマン帝国軍がいち早くイノニュ高地を占領したため、連合軍は橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。
アンザック入江とスラブ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍最後の8月大攻勢も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態になり、連合軍とオスマン帝国軍は「塹壕戦」を余儀なくされたのでした。
それは、ケマル率いるオスマン帝国軍の戦法が巧妙であったからです。

連合軍とオスマン帝国軍との物量・兵力を比較すると、大東亜戦争におけるアメリカ軍と日本軍とのそれに匹敵するくらい隔絶していたようですが、劣勢にあるオスマン帝国軍を支えたのは、前線で戦う兵士たちの司令官・ケマルに対する信頼と尊敬の念だけであった。

「ご覧のように、小さな丘陵(イノニュ高原)が波のように続いています。我々は敵が丘陵を越えようとする瞬間にだけ一斉射撃 し、敵の砲撃が続く間は塹壕で身をひそめていました。白兵戦となれば我々の方がすっと強かったし、この地形では敵も白兵戦 をやらざるをえなかった。ともかく、敵軍が丘陵を一つ越すためには、その部隊の半数を犠牲にしなければならなかったので  す。こちらは弾丸が足りなかったけれど地形に明るいために、敵の銃弾よりも十倍は効率よく使えたでしょうね」

これは、ダーダネルスでの勝利戦を戦い抜いた兵士の「ナマの体験談」を聴いた大島直政の「ケマル・パシャ伝」に紹介されている一節です。
さらに、「ダーダネルスの勝利」に疑問を抱いていた著者は、複数の歴史の証人から「ナマの体験談」を聴いて、謎が氷解したと言い、ケマルに対する兵士の尊敬と信頼が、あの方面のトルコ軍の資質を一変させ、数倍の敵との苦戦に耐えに耐えさせた、とも記しています。
そして、この戦いの後に待ち受けている「救国戦争」を勝利に導いたのは、ダーダネルスの勝利であったとも。

「最初は気乗りしなかったトルコでしたが、貴重な収穫を得た旅になったようで・・・。
 トルコのたび日記は、やっと、緒に就いたばかりですね。
 前線の兵士は、自分の上官が有能か無能かを動物的感で見破り、信頼できると確信した指揮官の下でならば、どんなに武器弾薬 や食料が不足していようとも、力の限りを尽くして戦うとも、ありますよ。」
 

古稀を迎えた元気印にカツを入れたボケ封じ観音さまは、何時も通りの気まぐれ旅に出立するのです。

「いかなる戦線においても、ケマルは将軍という身分でありながら、常に危険をかえりみず最前線を視察し、そこで自ら指揮をと った例も多かったこと。そのうえ、自分が立てた作戦の要点を、部下の将校たちが十分に納得するまでくり返し説明した。
 これは、当時のトルコ軍の高級将校としては異例のことであり、将軍(パシャ)ともなれば「雲の上の人」であって、部下はそ の命令に服するだけで、質問することも許されなかったと、ケマル・パシャ伝にありましたよ。
 このようなケマルの特筆すべき行動を肝に銘じておくと、シニア・エイジはより楽しくなりませんか。
 空きカンけりに戯れて時間を無駄にするよりはマシな時間になるように思うんですけれど・・・。如何なものでしょう」

漢音さまのエコーが響いてきます。
東日本大震災や福島原発事故に対する菅政権の無策ぶりまで言い出すのは、極めてまれです。
それにしても、漢音さまはケマルのことをどこまで知っているのだろう?
これでは、元気印の出番がなくなってしまうのに・・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その4:花嫁を迎えに行く花婿と仲間達

2011-02-25 13:04:44 | 散策
トルコ10日間のたび4日目は、デニズリ、アフイヨン、アクシェヒルを経てコンヤに到るコースでした。

ローマ帝国の温泉保養地として栄えたパムッカレはデニズリ県にあります。県都のデニズリには、「綿の宮殿」と呼ばれている石灰華段丘からなる丘陵地・世界遺産ヒエラポリス・パムッカレがあって、コンヤまではおおよそ410kmもの長旅になります。

トルコの内陸部はアナトリア高原と呼ばれ、標高500~1,000m位の高原が延々と続き、かってはシルクロードであった幅の広い道路が地平線に向かって延びています。エンジン音だけを響かせたバスは、コンヤへ向かってひたすら走ります。
バスの後窓から見える山の名は聞き漏らしましたが、ノアの方舟が流れ着いたという伝説で著名なアララト山は5,137mあり、トルコの最高峰を誇っています。トルコの東端イランとアルメニア国境の近くに聳えている山ですから、ここから観えたかどうか・・・。帰国した今となっては、皆目見当がつきません。

長旅の途中、トイレ休憩のため無料トイレのあるガソリンスタンドか土地の名産品を揃えた店舗に立ち寄ります。
色々な種類の土産物菓子を試食したお菓子の町、バラを原料にした香水「ダマスクローズ」の香りに嗅覚を刺激して、長距離バスの疲れを癒したバラの町などがあります。その近辺には石灰工場や沼があって、単線の貨物列車線路を複線にしている工事現場に見入ったりしながら、高原に点在する若者の収入源になっているサクランボ園などのスナップを撮っていると、長旅に飽きてアクビなんかしている暇な時間はないのです。長距離バスでの移動は、そう棄てたものではないですね。

そんな時に、バスはアクシェヒルの町を横断します。
バスの左側に、家の高さくらいあるロバに後ろ向きになって乗っている人物像を見つけたのですが、ガイドの説明に耳を傾けている内にみるみる小さくなってしまい、写真を撮るチャンスを逸してしまった。

ガイドの話によれば、ロバの頭を背に向けて乗ったのは、乗り手が間違ったのではなく、ロバの方が間違ったのだ。このように平然とうそぶいている人物は、ナスレッティン・ホジャとのこと。
パキスタン、イラン、トルコ一帯にかけて語り伝えられているこの「とんち話」の主人公は、、信仰を守る人「ナスレッティン」、学問のある人「ホジャ」、として尊敬されている。「トルコの一休さん」みたいな人物のようでした。

さて、アクシェヒルを通過して暫くすると、名前を知らない山と白い煙を吐き出すレンガ工場に気を取られます。
そこへ、トルコ国旗をボンネットに広げた軽自動車の一団(写真)が近づいてきます。バスの後窓から先頭の車を狙ってシャッターを切り、右手でその合図を送ると、運転席の二人は幸せに満ちた笑顔と一緒に手を振って答えてきます。写真を撮られたことが解ったのでしょう。

ところで、イスラム教徒の結婚パーテイは、男女別々に行われるのが普通。男は花婿の家に、女は花嫁の家に集まり、踊ったり、歌ったり、おしゃべりをして、お祝いのときを過ごす。地方によっては、花嫁は赤いベールをかぶって、集まった人たちに顔を見せない慣わしになっているところもある。ベールをとって顔を見ることが出来るのは、花嫁を迎えに来る花婿だけ(文・写真:吉田忠正「世界各地のくらし-29 トルコのくらし」)。
厳しい約束事ですね。花嫁と花婿は、それだけ皆から祝福される存在なのでしょう。

このような習慣を守っているトルコの結婚式と軽自動車の運転席から合図を送ってくれた二人の気持ちをオーバーラップさせてみます。
時速100km以上のスピードでコンヤへ向かっているバスを追い越そうとはやる気持ちを抑えていたことが推察されます。一刻も早く花嫁に逢いたくてバスを追い越しても、後に続く車のことを考えると危険が伴います。やがて、結婚を祝う車の一団は、視界から消えてしまった。

コンヤに入る少し手前で、ふた組目の結婚行列に出会いました。行列の人たちは白いハンカチのようなものを左手持っています。
トルコにも、日本と同じような縁起をかつぐ習慣があるのか気になり、ガイドに聞いてみます。
イスラム教が定めたラマンダ、断食があけた後の3日間は避けますが、日本でいうところの大吉、友引、仏滅のような縁起はなく、多くの人は週末を選んでいるようです。ふた組の結婚行事に出会った12月4日は、土曜日だったのです。

 「元気印さん、トルコの結婚儀式は火曜日に始め木曜日に終えるか、金曜日に始め日曜日に終えるんですよ。花婿側からは皆で揃って村中を練り歩くんです。結婚の旗を掲げて、楽器で音楽を奏でながら花嫁を迎えに行くんです。結婚式の当日、花嫁は自宅で純潔のベルトを巻き家族に別れを告げます」。

助け舟を出してくれる、ボケ封じ観音さま。

トルコ国旗をボンネットに広げていたのは、結婚の旗を掲げていることを表しており、花嫁を迎えに行くところだった。
花嫁の家は花婿の家から遠く離れているので、徒歩では無理。ましてや、楽器で音楽を奏でながら迎えに行くなんて言語道断の話でしょうから、花嫁の家の近くに行ってから実行するのでしょうね。

 「花嫁に逢ってからも、花婿は友人達に連れ出されて、髭をそり、入浴して衣装を着替えるなどの儀式があるため家に戻りません。夜の祈りをモスクで捧げてから自宅に戻ります。そして、説教者の宗教的な婚姻儀式が執り行われると、花婿は晴れて婚礼の部屋へ入り、色々な儀式をこなしてから、花婿と花嫁は、ふたりの新しい人生を築くスタートラインにつくんです」。

ボケ封じ観音さまが締めてくれたので、トルコの結婚にまつわる話は終りにします。

もう少し粘って、スナップを撮っていた時の余談を書きます。
二人の青年に記念写真を撮るように頼まれ、写真を送る先のメールアドレスをメモってくれたカッパドキア、トプカプ宮殿の見学に団体で来ていた小学生は、マルマラ海を背景にしてポーズをとっていた家内の両脇に寄ってきてツーショット、高校の女子学生達が一緒に記念写真を撮ろうと誘ってきたメヴラーナ博物館、キャラバンサライの遺跡を狙っているカメラの前に自転車に乗った少年が割り込み「フォト!、フォト!!」とポーズを決めたり、とにかく、トルコの人達は人懐っこくて写真が好きなんです。

しかし、カッパドキアの青年には、メールに添付して写真を送ろうと試みたのですが、トルコ語での入力がおぼつかなくて、未だに悪戦苦闘しています。困ったものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ10日間のたび その3:ガラタ塔での諜報活動に敗北した黒海艦隊

2011-01-04 23:56:08 | 散策
NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」第2部は第九回で終わりました。そのタイトルは「広瀬死す」でした。第3部は、日本海海戦の快勝で終結する日露戦争のクライマックスを迎えます。
福井丸指揮官・広瀬武夫海軍中佐が戦死したのは、旅順港を基地とするロシア太平洋艦隊を港内に封鎖する第二次封鎖作戦を決行した明治37(1904)年3月27日でしたが、明石元次郎(あかし・もとじろう)のロシアに対する諜報工作の一端が話の冒頭に描かれていました。

日露戦争開戦当時、日本陸軍は、中国、ロシアの動向を探るための大諜報網を構築していました。
ロンドン、パリ、ベルリン、ウイーン、インドにある公使館に駐在する文武官による対露諜報活動には、見るべきものがあった。ロンドン公使館の林公使、宇都宮太郎陸軍中佐が明石元次郎陸軍大佐の対露工作活動を助け、明石大佐、宇都宮中佐の報告が最も効果があった。また、明石大佐が当時使用した諜報費は100万円(現在価値400億円以上?)、その内27万円は残った。日露戦役戦勝の一原因もまた、明石大佐ならざるか(原書房刊・谷 壽夫著:機密日露戦史より抜粋)。

このように、明石大佐は、日露戦争の全般にわたりロシア国内の政情不安を画策して、ロシアの戦争継続を困難にした、日本の勝利に貢献するための謀略戦を展開する駐在武官としての責務を遂行した人物です。彼の行ったロシア革命工作は、諜報活動のモデルケースとして陸軍中野学校の講義に取り上げられているなどのエピソードもあります。

いずれにしても、ロシアに宣戦布告してから僅か45日後に広瀬中佐が戦死します。それから1年2ヶ月後の明治38(1905)年5月27日、日本海海戦の火蓋が切られ、その顛末は歴史が証明している通りです。ここでは、イスタンブールにおける情報活動に触れたいと思います。

ご存知のように、トルコの北部は黒海、南部は地中海に面しており、ブルガリア、ギリシャの国境が西部にあり、東部はグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアとの国境に接しています。また、黒海とマルマラ海はボスポラス海峡で結ばれ、マルマラ海とエーゲ海と結んでいるダーダネルス海峡があるトルコ国土は、ヨーロッパとアジアの2大陸にまたがっています。

ふたつの海峡と内海で分断されているトルコは、西部地域をヨーロッパ側(トラキア)、東部地域はアジア側(アナトリア)と称しています。
特にイスタンブール市街は、ボスポラス海峡とマルマラ海で分断された地域と、ヨーロッパ側の街に切り込んでいる金角湾(きんかくわん)で分割されている地域があります。金角湾を挟んでギリシャ、ブルガリアに近い西側は旧市街、対岸の東側は新市街と区分して呼んでいます。

金角湾で2分割された旧・新市街を結ぶ交通手段は渡し船でしたが、1836(天保7:徳川11代将軍・家斉の時代)年に建設された可動式跳橋・ガラタ橋の架橋によって、ガラタ地区は新市街として発展し、現在に至ったようです。

ところで、旧市街のガラタ橋脇にある海峡クルーズ遊覧船が発着するエミノニュ桟橋から、ガラタ橋とガラタ塔が観えます。旧市街から新市街を結ぶガラタ橋に乗っかっているように観えるガラタ地区、その中央に尖っているガラタ塔(写真)。
ガラタ橋の右横に見える白い箱型の建物は、跳橋を運営・管理するために建てられた小屋でしょうか。橋の左に広がる金角湾や右のボスポラス海峡を行き交う船舶を監視する役割を、今も担っているかも知れまれせん。

ちなみに言いますと、隅田川に架かっている勝鬨橋(かちどきばし・中央区墨田区)には、運転室、宿直室、見張室など4つの小屋が設けられていました。それらから類推した元気印の独断は、そう的外れではないでしょう。小屋の外壁が綺麗なのは、周りの景観を損ねないように塗装しているんですよ、きっと!!

さて、写真には、ガラタ橋をくぐり抜け金角湾奥へ向かう遊覧船が写っています。
ボスポラス海峡へ船首を向けたクルーズ遊覧船は、ガラタ橋を背にして、新市街を左舷に展望しながら進みます。岸辺には古い木造の別荘・ヤルが並び、中には自家用モータボートを係留しているヤルもありました。その後ろに広がる小高い丘の斜面には高級住宅が建ち並んでいます。
やがて、ボスポラス橋(第1ボスポラス橋)をくぐり、ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第2ボスポラス橋)の下を通過した遊覧船は、途中でUターンして桟橋へ戻ります。
桟橋へ引き返さずに直進すると海峡は黒海に合流しますが、黒海岸には軍事施設があるので、アナドル・カヴァーウから先への周遊は禁止されています。

Uターンした海峡周遊船が、マルマラ海に建っている乙女の塔を眺めながら進めば、ダーダネルス海峡を経てエーゲ海から地中海へ抜け、大西洋へと船足を伸ばします。あるいは、小型周遊船は地中海からスエズ運河を経由してインド洋へ出るかも知れませんよ。でもね、10日間の制限があるトルコ周遊ツアーでは、どちらも叶わぬ夢物語。エミノニュ桟橋へ下船した時には、イエニ・ジャミイの尖塔が眼前に聳え立っていたのです。

ここから、日露戦争にまつわる話になります。
日露戦争開戦当時、バルト海艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊から編成れていたロシア海軍の戦力は、次のようでした。

 バルト海艦隊(リガ、リエパーヤを基地とする):戦艦9隻、海防戦艦3隻ほか
 黒海艦隊(オデッサ、サバストポリを基地とする):戦艦8隻ほか
 太平洋艦隊(ウラジオストックと旅順を基地とする):戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻ほか

他方の連合艦隊戦力は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻ほかです。

海戦の主力を担う戦艦、準主力の装甲巡洋艦を何隻保有しているか。これで戦力を測っています。
それらで戦力を比べると、戦艦はロシア23隻、連合艦隊が4隻、装甲巡洋艦はロシア6隻、連合艦隊8隻です。英仏に次ぐ世界3位を誇示していたロシア艦隊は、日本連合艦隊の3倍もの戦力を保持しています。

「日本とトルコとは共通の脅威を感じ、共通の敵を持っている。すなわち、ロシアである。ロシアは西洋における不凍港を求めてトルコと戦い、東洋における不凍港を求めて日本と戦おうとしている。ロシアによる南下政策はもはや本能といってよく、トルコがロシアと戦ったように、日本もまたロシアと戦って祖国を防衛しなければならなくなるだろう。バルト海にあるバルチック艦隊に黒海艦隊が合流し、さらに旅順艦隊が合流してしまっては、日本は、間違いなく叩き潰されるだろう。だから、ロシア艦隊の状態が知りたい。黒海艦隊の編成はどうなっているのか。日本まで遠征することが可能なのか」(新人物文庫:秋月達郎著:海の翼より抜粋)。

明治24(1891)年1月2日にイスタンブールへ到着し、ドルマバフチエ宮殿前に投錨した日本海軍の軍艦「比叡」に乗船していた幹部候補生・秋山真之(あきやま・さねゆき)は、宮殿に宿泊していたのです。
そして、ロシア艦隊の動静が日露戦争の趨勢を決めると情勢判断していた真之は、時事新報の記者・野田正太郎にロシア艦隊の動静を注視し連絡するように依願します。

一方の正太郎は、オスマン帝国(トルコ)海軍の小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難と日本海軍の新鋭軍艦「金剛」「比叡」による生存者69名の送還を取材する記者として「比叡」に乗船していた際、真之と知遇を得る機会があったのです。
そんな縁で、真之から黒海艦隊の動静収集と報告の依願を受けるなどの事情から、トルコに定住する最初の日本人となるのですが、病を患っていたために、真之との約束を履行する責務を山田寅次郎へ委託して、正太郎は帰国します。

寅次郎は、台風の直撃を受けて沈没したエルトウールル号の犠牲者581名の遺族に、丸1年に及ぶ演説で集めた義援金5,000円(現在の1億円相当)の為替証書を持参してイスタンブールの土を踏みます。
「比叡」艦長の田中綱常(つなつね)が認めてくれ紹介状のお陰で、海軍省が仕立てた英国艦に乗船して、明治25(1892)年1月30日に日本を離れます。イスタンブールでは、アブデユルミハト2世との単独謁見までこぎつけた寅次郎。その彼にトルコの士官学校教授になるように政府高官から懇願され、受託します。これがきっかけになり、既に士官学校教授を努めていた正太郎と再会するのです。

その当時、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡は、1856(安政3・徳川13代将軍・家定の時代)年に、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニヤ、オスマン帝国、ロシア間で締結した「パリ条約」によって、トルコ以外の軍艦が通過することを禁止していたから、ロシアはトルコに対して、黒海を航行していた3隻の商船が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過するという事前通告を行い、明治37(1904)年7月4日朝、商船に偽装した軍艦は、ボスポラス海峡を無事通過してしまいます。ロシアに宣戦布告してから5カ月後のことです。

黒海艦隊の軍艦3隻通過を確認した寅次郎ですが、国交断絶状態にあったトルコから日本へ知らせる手段がありません。イスタンブールから一番近いウイーン公使館へオリエント急行で向かうのです。寅次郎の情報は直ちに日本の公使館へ報告され、連合艦隊司令部へ届けられたのです。
この報告を受け取ったのは、連合艦隊司令長官・東郷平八郎に抜擢され、第一艦隊参謀に就いていた海軍中佐・秋山真之だったのです(同上)。

寅次郎が商船に偽装した軍艦を見破ったのは、ガラタ塔でした。
彼は、明治天皇を信奉していたケルマ・アタチュルク(トルコ革命を指導したトルコ共和国初代大統領)に、ボスポラス海峡を通過するロシア艦隊の動静を監視する絶好の場所を教示されていたのです。士官学校時代に寅次郎の講義を受講していたアタチュルクは、若者に昼夜を分かたずにガラタ塔からの監視を睥睨(へいげい)して、寅次郎の諜報活動を支援します。

1384(永徳元・足利3代将軍・義満の時代)年に建てられた高さ68m、53mの所に展望テラスが設けられている石造のガラタ塔は、申し分のない監視塔になり、寅次郎が正太郎との約束を果たす支えになったのです。

今回のトルコ周遊ツアーに参加するまでは、全く知らなかった秋山真之、野田正太郎、山田寅次郎の細やかな人間関係を構築した日本人としての誇り、小型木造巡洋艦・エルトウールル号の殉難がもたらしたトルコと日本との間に秘められていた誠の信頼を生み出した信義感の強さ、それを共有する度量の偉大さなど、などがありました。帰国してからは、それこそ、温故知新の連続ですよ。

商船に偽装した軍艦で極東の戦場へ向うロシア海軍の兵士達は、ガラタ塔で諜報活動をしていた寅次郎の報告を受けた連合艦隊に全滅させられる運命が待ち受けているとは、夢想だにしなかった筈です。しかし、事前通告をして通過するとは言っても、偽装が見破られない保障はありませんから、緊張感はあったでしょう。

そのような心理状態に陥っても、ボスポラス海峡の両岸に残っている遺蹟を眺めて緊張感を解放していた兵士が一人位はいた、と勝手に推察しています。
礼拝の呼びかけを告げる塔・ミナーレの本数が違うモスク(イスラム教寺院)は、やはり目立ちます。イエニ・ジャミイ、アヤソフイア聖堂、スルタンアフメット・ジャミイ(ブルーモスク)などの寺院は、107年前も今も変わらないでしょう。ドルマバフチエ宮殿、ベイレルベイ宮殿、などが船上から観えます。特に、トプカプ宮殿の風景には、開放感を味わったでしょう。
歴史に造詣のある兵士は、オスマン帝国のメフメト2世が東ローマ帝国を滅亡させた「コンスタンテイノープル陥落事件」をルーメリ・ヒサールの遺跡を観て思い起こしたかも知れません。
東ローマ帝国は、戦時に金角湾を鉄鎖で封鎖して、首都コンスタンテイノープル(イスタンブール)を防御していたので、メフメト2世の艦隊は湾内に入れなかった。鎖の役割を果たす「パリ条約」も事前通告という電動カッターで切断したので、黒海から大西洋へ出るのだ、と。

ガラタ塔は、金角湾を封鎖するための塔として建設されたのですが、1204(元久元・源実朝の時代)年に破壊され、現存しているのは、1348(貞和4・足利尊氏の時代)年にジエノバ人がキリスト塔として再建したものです。

やっとこさ、話は諜報活動の舞台、ガラタ塔に戻りました。
ガラタ塔は、ボスポラス海峡を通過する船からでも際立って観えますから、監視されていると推理されても不思議ではありません。塔の展望テラスからは、海峡を通過する船は丸見えです。107年前のガラタ地区には、現在のような建物はなかった筈ですから、船上から逆監視をしていた可能性もあります。
軍艦に搭載した砲台を偽装してあったのですが、寅次郎は砲筒の先端に気がついて偽装を見破り、そのことを確認してからウイーンへ急行したのです。祖国防衛に必須条件である情報戦での勝利を念じながら・・・。

日露戦争と縁の深いガラタ塔へなんとしても登りたい一心で、ツアー最終日にホテルから空港へバスが発つ10時30分までの時間帯に単独行動に踏み切った訳です。

ボスポラス海峡を行き交う船は、寅次郎が監視した軍艦ではなく遊覧船や貨物船などでしたが、それらの船の動向を把握できる展望でした。朝焼けに染まって佇むトプカプ宮殿は、必見の価値があります。新・旧市街を結ぶガラタ橋とその背後にあるモスクを入れると面白い構図の写真が撮れます。
たった30分しか取れなかったガラタ塔視察は、バスがアタチュルク空港へ出発する5分前にホテルへ戻ったスリル満点の単独行動をもたらし、ツアー最大の記念になりました。

ところが、ところがです。
緊急事態の連絡方法まで打合わせてガラタ塔へ行っているから、バスは10時30分に予定通り出発する手筈になっていた、と帰りの機内で家内が呟いたのですよ。9箇所あるトルコの世界遺産、その4箇所を巡ったローマ帝国の遺跡に盛者必衰(じょうじゃ・ひっすい)を思い起こしたと書けば嘘になります。でも、諸行無常(しょぎょう・むじょう)の響きを、家内の呟きに感じたのです。ガラタ塔からの帰りが5分遅かった時に元気印が起こすべき事態を想像して、冷や汗をかく一幕がお土産になるガラタ塔見学だったのです。さらに、アタチュルク空港の機内に90分も待機させられる特別付録も付いたのですから。

 「なんだ、かんだと愚痴が言えるのは、思い出に残る旅の証でしょう。元気印さん」

ボケ封じ観音さまが、最後を締めてくれました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする