いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

旧古河庭園 その2 虎之助の洋館とコンドル

2008-01-25 01:11:02 | 散策
古河財閥の三代目当主・虎之助が迎賓館として使用した洋館(写真)の玄関口です。

クレオパトラ、乾杯、デザート・ピース、ブルームーンと名付けられたバラの写真を洋館前のバラ園で撮り、日本庭園を巡り終えてここに戻ると、洋館に入りたくなります。

洋館からバラ園を窓越しに展望できる喫茶店を見つけました。コーヒーを飲んで一服してから洋館の内部を見学しようと思いつき、喫茶店の入り口へ向かうと、かなりの人たちがたむろしています。

喫茶店玄関左側にメニュー板が置いてありました。
珈琲:840円 紅茶:630円 ジュース:420円 ケーキ:525円、オーダーストップは4時と表示してあります。
180円コーヒーに魅せられている珈琲党には少し高いなあ~と迷った末、洋館の内部が観られるのならば一服しようと決心したのですが、生憎、この日(昨年11月21日)は2時過から札止めでした。満員御礼!

「こんなこと知らなかった。それなら、もっと早く来たのに・・・」

洋館内部の一角(玄関左側1階部分)を仕切って喫茶店にしているようです。
洋館の内部を見学するには、事前予約(有料)が必要であることも後で知りました。当日、見学者の定員に空きがある場合のみ飛び入り見学は可能なようです。それでも、時間指定のある見学ですから、その日の“運”次第です。先ほど小耳に挟んだ中年女性の無念さは、元気印も同じでした。

「事前に調べもしないで見学したのでしょう。諦めが肝心です」
ボケ封じ観音さまが慰めてくれます。

「ところで、陸奥宗光の邸宅跡に建てられた今の洋館に、彼の面影が残っていましたか。虎之助の意図を汲んだ建物の設計図がないと、家は建ちません。設計者は誰にしたのですか?」
「・・・・・・」
「虎之助は、古河家の三代目当主でしよう。実父(古河市兵衛)と養父(陸奥潤吉)が築き上げた人脈は継承しています。そのつながりで適任者を探しています。岩崎弥太郎(三菱財閥の創設者)と関りが深い設計者を選んでいます。三菱一号館(丸の内ビル街)、弥太郎邸宅(清澄庭園洋館)、岩崎弥之助高輪邸(三菱関東閣)などを設計したジョサイア・コンドルでしたね」

明治政府は、維新後の国家を近代的に改革する政策として、産業、資本主義を育成するための諸政策を推進します(殖産興業)。それを支える中央官庁として工部省を明治3(1870)年10月に発足させ、翌11年、人材養成期間として設置した工学寮(6年後、工部大学校に改称)を管轄することになります。

当時、殖産興業政策によって日本を近代化し、西洋諸国に対抗できる人材を養成する担い手は国内に見当たりません。そこで、初期の明治政府は海内に担い手を求め、政府に雇われた欧米人がお雇い外国人です。ジョサイア・コンドルは、その中の一人でした。

Boys, be ambitious like this old manと若者に夢と勇気を与えたウイリアム・スミス・クラークは札幌農学校初代教頭、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は『怪談』『骨董』などを著した随筆家、日本研究者です。寺院に祀られた仏像、曼荼羅(まんだら)を信仰の対象としていた日本に、国宝の概念を導入したアーネスト・フェノロサは岡倉天心の師でした。
映画『喜びも悲しみも幾年月』の舞台にもなった安乗崎(あのりさき)灯台(三重県志摩半島)は、日本の灯台の父・リチャード・ヘンリー・プラントが建設した26灯台のひとつです。

古来、日本で使われている農具に、目の細かさの違う「ふるい」があります。日本での古墳調査に使っていた日本考古学の父・ウイリアム・ゴーランドは、ストーンヘンジの調査にその「ふるい」を利用して、腐食した青銅の痕跡を発見します。その結果、ストーンヘンジの巨石は紀元前1800年頃のものであると認定され、年代測定を可能にする契機になりました。
他方、古墳研究の先覚者ゴーランドは、鉱山技師として飛騨山脈を調査しています。飛騨山脈をヨーロッパのアルプス山脈に因んで「日本アルプス」と『日本案内』で紹介しています。明治14(1881)年のことですから、一般に「日本アルプスの父」と呼ばれているウオルター・ウェストンが『日本アルプスの登山と探検』を出版する15年前になります。その多くが語り継がれているウエストンと地元猟師との友情関係もあって、日本人との馴染みが深まり、ウエストンが「日本アルプスの父」と呼ばれるようになり、そのまま定着したのでしょう。

このように、産官学の様々な分野で、今に残る影響を与えたお雇い外国人は、家族や在外公館の雇用者を含めると、その総数は2,299人との記録があるようです。
当時、月給が数百円であった政府首脳が、数百円から千円を越す報酬を支払ってまで「お雇い」をしています。その殆どは、任期が終わると帰国しています。ですから、彼らの指導者・教育者としての能力、技術力は玉石混合であったと思われますが、先に紹介したような優れた足跡を残した「お雇い」先達がいたのです。
その1にも書きましたが、虎之助が経営している足尾銅山本山鉱抗部課長の月給は12円であった頃の数百円は、サラリーマン感覚では想像を絶する給与額ですね。
ちなみに、明治14年の巡査初任給は6円、5銭で食パンが買えた明治15年、この年の銀座三愛付近の坪当たり売買価格は20円です(値段の風俗史)。福田内閣の閣僚さんの給与は幾らなのでしょうか、調べる時間が勿体ないから、止めにします。

さて、明治9(1876)年、明治政府と5年契約を交わした24歳のコンドルは、翌年来日して、工部大学校造家学科(建築課程:東京大学工学部建築学科)主任教授及び工部省営繕顧問に着任します。
                      
やがて、コンドルの教え子・辰野金吾(たつの・きんご)は、造家学科を首席で卒業し、明治13(1880)年、ロンドン大学へ留学します。コンドルの師であるウイリアム・バージエスの事務所でも建築を学び、3年後に帰国します。その翌年、コンドルは主任教授を解雇されて、金吾が後任教授に就任しました。

その当時、工部大学校各科(8科)の首席卒業者には官費留学が約束されていました。明治政府が、留学から帰国して後進の指導に当たることを期待しての待遇です。
給料の高いお雇い外国人と交代させる方針を執行したのですから、コンドルの解任は当然の処遇です。

それからのコンドルは工部省営繕局顧問として出仕し、退官するまでの期間に、鹿鳴館(ろくめいかん)、上野博物館本館や文部省博物館本館(東京国立博物館)などの設計に携わり、百を越える洋館を建設して、日本近代建築界の父と称されるに相応しい、優れた作品を残しています。

コンドルは工部省を退官(明治23年)すると設計事務所を開設します。ニコライ堂、横浜山手教会などを手掛け、岩崎弥太郎家本邸、古河虎之助(古河財閥・三代目当主)邸が含まれています。前者は、旧岩崎邸庭園(東京都台東区)として公開されており、洋館の内部見学ができます。後者が旧古河庭園になります。

自分の設計事務所を切り盛りしていたコンドルも、明治23(1890)年、三菱社(明治26年の商法改正で三菱合資会社に改組後三菱本社:三菱財閥形成の基になる)の顧問になります。コンドルが38歳になっていた時です。

当時、原っぱであった丸の内に、近代的なオフイス街を建設する構想を三菱社は練っておりました。造家学科を首席で卒業した第1期生・金吾とは同級生、同郷(佐賀県唐津)でもある曽根達蔵(そね・たつぞう)を、三菱社の構想を具体的な設計とするために設立した丸の内建設事務所の主任技師に招いたのは、恩師コンドルでした。

達蔵は海軍に入り、呉鎮守府の建設委員などを務めましたが、コンドルの紹きに応じ、三菱社に入社します。設計が完了した2年後から、三菱一号館(平成21年に復元竣工予定)の建設が始まり、二号館、三号館へと続き七号館まで竣工します。丸の内は、煉瓦造りのロンドン風のオフイス街に変貌し始めていたのです。

余談になりますが、東海道線、東北線などの列車運行は東京駅を基点にしています。
新橋から横浜へ国鉄汽車が走ったのは明治5(1872)年9月、日本最初の営業鉄道の開業です。列車運行区間を新橋から横浜にした理由は省略して、鉄道事業が儲かることを証明したことだけにします。

それから10年後に、採算が取れる鉄道事業に、私鉄の日本鉄道会社が、北の玄関口・上野駅を開業して参入しましたが、新橋から上野間は直結していませんでした。東京市に中央停車場が開業するまでに、四半世紀以上の時間が流れます。中央停車場の駅舎は完成してから東京駅と命名されましたので、これ以降は東京駅と書きます。

大正3(1914)年12月18日に開業した東京駅を設計したのが辰野金吾です。
金吾が駅設計を依頼されたのは明治36年です。その設計が佳境に入ったのは3年後あたりでした。設計を始めて5年経っても設計は完了しませんでしたが、東京駅建設工事は着工に向けて走り出してしまいます。

駅建設現場の前に広がっている原っぱが、ロンドン風のオフイス街に刻々と変貌する光景を毎日見せつけられている金吾を襲う闘争心、恩師コンドルと同期生達蔵に対するライバル心が、火に油を注いだようにカッカ、カッカと燃え上がってきたのでしょう。そんな金吾を想像するだけでも楽しくなります。

コンドルはヴィクトリアン・ゴシック建築家のようです。ロンドン留学で当時の建築に見聞がある金吾は、イギリス建築の主流であった歴史主義建築様式の影響を受けているでしょうし、師匠コンドルの設計思想・手法は熟知しています。ましてや、同期生の曽根達蔵が主任技師をやっていることも知っているはずですから、なおのこと闘争心を煽られたでしょう。
それはともあれ、東京駅は、クイーン・アン様式の影響が強い設計といわれ、現在、内装工事中です。内装工事が終わった暁には、金吾が東京駅に託した心中を忖度したいですね。

古河虎之助は、新築する邸宅は迎賓館として使用する構想をコンドルに伝え、コンドルはそれにしたがって設計に入っていると思います。コンドルは施主の意向を尊重した建築設計者です。

桑名市(三重県)にコンドルが設計した諸戸清六(もろと・せいろく)邸(六華苑:ろっかえん)が現存しています。
諸戸家二代目当主・清六が、明治44(1911)年に着工した新居で、洋館と池泉回遊式日本庭園を併設しています。洋館に4階建ての塔屋がありますが、コンドルが描いた図面は3階建てでした。清六の意向に沿って変更したのです。洋間には和風の襖を設けるなど、和洋折衷の設計をしています。

虎之助が迎賓館を新築したのは、大正6(1917)年です。コンドルは虎之助の意向を汲んだ設計図にしている筈です。この時、既に、コンドルは65歳になっていたのです。

それまでに、岩崎弥太郎家本宅(明治22年竣工・旧岩崎邸洋館)、岩崎弥之助男爵邸宅洋館(明治41年竣工・関東閣)、袖が崎島津邸(大正4年竣工・清心女子大学本館)などの邸宅を設計しています。虎之助邸宅の設計を始める時期と、工事中の諸戸清六邸とは重なっていたと推察しています。

迎賓館として使われた網町三井倶楽部は、三井総領家第十代当主・八郎右衛門高棟がコンドルに設計依頼した、煉瓦石混造スレート葺きルネッサンス様式の洋館です。斜面と高台がある敷地、高台上に建築物を、斜面下の低地に庭園を配置した共通点はありますが、洋館の設計コンセプトが違っています。三井倶楽部洋館に虎之助の描いた迎賓館像はないようです。

屋根のかたちが切妻屋根の洋館は虎之助邸宅だけのようです。これは、施主の考えを反映しているから。煉瓦造りの躯体はコンドルの設計でしょう。外壁材に真鶴産の安山岩(新小松石)を選択したのは、恐らく、足尾銅山経営者の虎之助です。石材に関する知識は現場体験から豊富に持っています。

一階のベランダを多角形に張り出して、庭に面する位置に配置する、洋館にバラ園を組み合わせるなどはコンドルが得意とする設計手法になっています。諸戸清六邸がそうです。ベランダが屋外か屋内にあるかの違いがあるのは、施主の好みによるもので、虎之助は後者です。
先に、清六邸の建設と虎之助邸の設計時期が重なっていると書きましたが、完成した洋館を比べると、ますます、その気持が強くなってきます。

陸奥宗光の別邸は残っていませんが、建て替えの必要に迫られた宗光は、洋館を選択するだろうか。宗光の長男潤吉なら、和風邸宅は新築しないだろう。切妻屋根をした洋館には、虎之助の思い入れがある筈です。

清六邸はカラー写真情報で内外が詳細に公開されていますが、虎之助邸は邸外情報しか公開されていません。虎之助邸内部を見学すれば、もう少し虎之助の思いのたけに近づけるのでは・・・。

「家は住む人を表す、という諺がありますよ」

ボケ封じ観音さまは、虎之助邸の内部を早く見学しなさいと、けしかけてくる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧古河庭園 その1:洋館の主人たち

2008-01-21 00:16:33 | 散策
「カミソリ大臣」(明治25年8月組閣の第二次伊藤博文内閣外務大臣他)の異名を持つ陸奥宗光(むつ・むねみつ)の邸宅があったところに、大正6(1917)年、古河家三代目当主・虎之助が建てた洋館(写真)と日本庭園が旧古河庭園として、一般公開されています。

西南戦争が明治10(1877)1月下旬に勃発し、8ヶ月に亘って戦闘が繰り広げられます。それに乗じて、立志社(りっししゃ:高知県にあった自由民権運動を中心とする政治団体で、板垣退助、後藤象二郎などが指導していた)の林有造(はやし・ゆうぞう)らは、政府を転覆する挙兵を企てていましたが、8月に発覚して失敗に終わります(立志社の獄)。宗光は、彼らと連絡を取り合っていたとして逮捕され、大審院(だいしんいん・最高裁判所)より禁固5年の有罪判決が下され、山形監獄に収監されます。ここが火災に遭った時、宗光の焼死が誤報であると知った博文は、当時、最も施設が整っていた宮城監獄へ宗光を移させています。明治11(1878)年のことです。

明治15(1882)年1月の特赦で出獄し自宅静養をしていた宗光に、外遊を勧めたのは伊藤博文です。博文は、岩倉使節団の副使としてアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を視察していますが、この年3月、再び渡欧します。日本を立憲国家にするための憲法調査を行うのが目的でした。ドイツ、オーストリア、イギリスなどを視察・調査して帰国。3年後には内閣制度を創設し初代内閣総理大臣になります。

宗光が出獄した1月から博文が渡欧する3月の間に、博文は機会を捉えて、宗光に留学を勧めたのでしょう。
堀の中の宗光は、毒殺を恐れて監獄から出される食事を取りませんでした。その頃になると、廃坑同然の足尾銅山経営を軌道に乗せた古河市兵衛や知己が、宗光の身を案じて毎日差し入をしています。

一方の博文は、国家構想を巡って対立していた大隈重信を、岩倉具視らと共謀して政府内から追放します。薩長幕藩を機軸とした、明治政府の基本路線を確立したと評価されている明治14年の政変を強行したのです。憲法と国会開設を10年後に制定する方針を決めました。参議(現在の内閣を構成する役職のひとつ)として多忙を極めていたと思われます。

しかし、博文には、尊皇攘夷にこり固まっている同志・宗光の頭を冷やさねば・・・との危惧があったのでしょう。イギリス、オーストラリアなどへ留学させ開眼させよう。外遊費用1万1千円の約半分、5千円余りは、山形有明、井上馨らと共に奔走して、政府下付金として工面します。不足分は民間からの寄付で賄いました。

明治16(1883)年から19(1886)年にかけた3年間の留学を終えて、宗光は帰国します。留学先で猛勉強をした宗光のノートが7冊残され、内閣制度の仕組み、議会の運営など、長い年月をかけて生みされたイギリスの民主政治を貪欲に吸収した跡が窺えるノートのようです。

宗光は筆まめでした。堀の中から後妻・亮子へせっせと手紙を書いています。50通を超える留学先からの書簡が残されているようです。
宗光は、留学する前年、明治16年11月、「利学正宗上・下」2巻を刊行しています。イギリスの経済学者で哲学者・法学者、功利主義の提唱者として有名なジェレミ・ベンサムの著書「道徳および立法の諸原理」を、獄中で翻訳していたのです。当然、博文らは知っています。

宗光は、弘化(こうか)元年(1844:徳川第十二代将軍・家慶)7月7日に生まれ、明治30(1897)年8月24日に没している紀州藩士です。
勝海舟の建言で江戸幕府が設置した神戸海軍操練所では、副長格に引き立ててくれた阪本竜馬の秘書的な役割を担っていた宗光です。留学を遊学の機会と捉え、そこで吸収したことを和魂洋才の実学にするのは、朝飯前の得意技でしょう。

投獄という逆境を逆バネにしていますから、留学が遊学に替えられるのは時間の問題でした。博文の狙いもここにあります。三つ子の魂百まで(も)で、生涯を終える宗光ではないのです。

外遊費用の不足分は、古河財閥を築いた古河市兵衛が、養子・潤吉の養父のために2,500円、起業や事業で市兵衛とは相互援助関係にあり、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が1,500円補充しています。政府首脳の月給が数百円、足尾銅山本山鉱抗部課長の月給12円の時、外遊費用は1万円を超えていたのです。

「政治はアートなり、サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」

これは、色々な機会を捉えて紹介されている、何方も、ご存知の宗光の言葉です。
福田総理は、あなた任せの国会運営で政権維持を狙い、二大政党実現を錦の御旗にして、ことの軽重を問わずに何事も政争の具とする小沢民主党の政治姿勢を、毎日、まいにち、メディアに飽きもせず見せつけられると、宗光の言葉が懐かしくなってきます。

(財)東京都公園協会発行の解説書では「明治の元勲・宗光」としか触れられておりません。他に発行されている解説書も異口同音です。敢えて宗光にこだわってみました。

広辞苑第二版が説明している元勲(げんくん)とは、
① 国家に尽くした大きな勲功
② 明治維新に大きな勲功があって、重んじられた政治家。西郷隆盛、木戸考允、大久保利通らをいう。
西郷隆盛、木戸考允、大久保利通は維新の三傑ですから当然なのですが、②に該当する元勲一覧や広義で元勲に相当する人物の中に、陸奥宗光の名は見当たりません。協会に問い合わせをすると、調べてみますとの回答があり、元気印の知らない情報を得られるかもしれません。

「宗光の邸宅が、古河市兵衛の所有になっていますね」
天邪鬼(あまのじゃく)風を吹かせるボケ封じ観音さま。
「宗光の次男・潤吉(じゅんきち)が古河市兵衛の養子に入っているからです。明治6(1873)年でしたね。潤吉が4歳で、父が妻・蓮子(れんこ)と死別した翌年です。宗光は、新橋で一、二を競う美貌の名妓・小鈴を後妻(亮子・りょうこ)にした年のことです。

1歳年上の廣吉(外交官)と潤吉を遺された宗光は26歳、亮子は17歳でした。長女・清子(さやこ)は潤吉とひとつ違いの妹とする説がありますが、その生涯は殆ど不詳のようです。いずれにしても、5歳の長男・廣吉を筆頭に年子が二人あるいは三人遺されていた宗光家へ亮子が嫁いでいます。実子のいない市兵衛は潤吉を養子に迎えようと勇断したのでしょう。

経営不振に陥っていた足尾銅山の深堀を続け、明治14年に鷹之巣坑で神保鉱脈を掘り当て銅山経営が好転するまで持ちこたえられたのは、市兵衛を見捨てなかった宗光らの資金援助があったからでした。その恩返しをしています。市兵衛は9歳のころから丁稚奉公に出ています。京都の組糸店の番頭・古河太郎左衛門に商才を認められ養子に入り、それから紆余曲折して古河財閥を築いています。潤吉に家督を継がせようと感じさせる何かを見出していたのでしょう。

12歳で古河家へ入家した潤吉は、養父と共に足尾銅山経営を近代的に改善するため事業と家業を分離するように主張します。2年間、駐米公使としてアメリカ生活を経験している実父・宗光は潤吉をアメリカへ留学させていますから、近代経営の知識を見聞し体得したのでしょう。明治38(1905)年7月、合名会社に準ずる法人組織・古河鉱業会社を設立して社長に就任します。
古河家二代目当主潤吉は、晩年の市兵衛が授かった実子・虎之助を養子にしますが、36歳の若さで病没します。古河家当主は、虎之助に引き継がれます。

古河鉱業会社・二代目社長に就任した虎之助は、日光電気青銅所を開設します。
明治16(1882)年、本口坑を開坑して横間歩大鉱脈を掘り当て、足尾銅山は2大鉱脈を持ちます。翌年には、日本一の産銅を産出する規模に発展し、新しい鉱脈も続々発掘され、古河財閥を形成する萌芽となります。

時流に乗って成長期の電気事業に後押しされた古河は、ケーブル事業を中核にした電線事業を対象にして、横浜電線へ資本参加します。電線事業に進出してからは、当時、電線業界の有力企業を次々に古河の傘下に収め、電線業界で不動の地位を築き上げていきます。

その反面、明治29(1896)年に起きた渡良瀬川の大洪水で足尾銅山鉱毒が社会問題として再発する契機になり、政府から足尾鉱毒予防工事命令が下され、市兵衛と補佐役の潤吉はその対応に心血を注ぎました。

農民の国会陳情が繰り返し行われ、操業停止決議採択や農民との示談交渉などできりきり舞いしていたでしょう。71歳の市兵衛は明治36(1903)年4月4日、潤吉は2年後の12月に他界しています。古河財閥を継承した虎之助は、古河家三代目当主・実業家として足跡を残しています。

古河鉱業会社を設立した潤吉は、副社長に原敬(はらたかし・第十九代総理大臣)を招聘しました。同じ次期に、日本工業倶楽部を創立した中島久万吉(なかじまくまきち)が古河家に乞われて入社しています。内務大臣に就任するまで原は社長・潤吉の補佐役として経営に当たっています。当時、若輩であった虎之助は、中島と共にアメリカをはじめ欧米を遊学しています。

虎之助は、内務大臣原敬に勧められて、帝国大学昇格資金として98万7739円(約45億2千万円)を寄付します。東北帝国大学札幌農学校、東北帝国大学仙台理科大学、福岡工科大学の建設資金として使われ3大学は開校したのです。

明治39(1906)年は、足尾銅山鉱毒事件の判決が下りていましたが、社会の非難を浴びていました。日露戦争後の財政難に陥ちいっていた政府は、大蔵省から大学設立予算を削減されていたので、内務大臣・原は副社長時代のよしみで虎之助を口説いたのでしょう。

札幌農学校は、合わせて8棟を新・増築しましたが、明治42(1909)年11月に竣工した洋館(旧東北帝国大学農科大学林学科教室)1棟が、北海道大学構内に古河記念講堂として現存しています。また、古河鉱業事務所、潤吉、虎之助の補翼者などは、創立時代から家庭学校へ有力な支援をしています。

虎之助は、中島久万吉の協力を得て、大正5年から6年にかけて、横浜電線(古河電工)、横浜ゴム、富士電機などの会社を設立して、古河グループを構築しています。そして、古河グループは、子会社が親会社より成長・発展する現象がたびたび起こるのが特徴であるといわれています。例えば、富士通は富士電機製造(株)の電話部所管業務を分離して設立した会社のように。

「起業、事業はアートなり、サイエンスにあらず」

古河家の当主が宗光から潤吉へ移り、虎之助は三代目当主に相応しい家に建て替えた洋館を迎賓館にします。現在、旧古河庭園と呼ばれている洋館と庭園です。

ボケ封じ観音さまは、元気印の脳味噌を絞り出してしまいましたので、古河庭園にまつわる話は、これでちょんにします。

そして今、古河財閥の礎を築いた足尾銅山は、世界遺産登録に向けて動き始めました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳沢吉宗の肖像と忠臣蔵物語 番外編

2008-01-11 01:08:56 | 時の話題
仮名手本忠臣蔵の絵本があります(写真:橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻1)。

高師直(こうの・もろなお)の屋敷では芸者をあげての雪見の宴会で盛り上がっていました。

「たのもう、お頼みもうす!!」と大石由良之助を筆頭に、四十七人の武士たちが乗り込み、師直の命を絶ち、志士たちは塩治判官の恨みを晴らします。師直と由良之助がもみ合っているのが絵本の場面です。

塩冶判官(えんや・はんがん)は浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)、大石由良之助(おおいし・ゆらのすけ)は大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)、高師直(こうの・もろなお)は吉良上野介(きら・こうずけのすけ)であることは、皆さんご存知でしょう。

元禄赤穂事件(元禄15年12月14日)を下敷きにした仮名手本忠臣蔵のさわりどころです。
この事件は、時の将軍・綱吉(徳川五代目)の人物評価を落とし、その治世評価にも繋がっています。そのために、徳川300年の中興の祖は吉宗とする要因にもなっているようです。

徳川十五代において、享保(きょうほう)、寛政(かんせい)、天保(てんぽう)の改革がありましたが、綱吉の治世は「天和(てんな)・貞亨(じょうきょう)の治」として、明治時代には評価されており、江戸文化の花が咲いた元禄期は、まさに、綱吉が統治していたのです。

さて、綱吉の側用人(そばようにん)を務めていた柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が、忠臣蔵物語では、浅野家の敵役として登場しています。
それは、綱吉が吉保邸に出向く、それもたび度赴(おもむ)いているからでしよう。
将軍が側用人の家に出向くなんてことは、提灯に釣り鐘です。幕府の要職を担う重役を選ぶ物差しが家柄の時代に生きていた吉保にとっては、青天の霹靂だったでしょう。
反面、官僚制の改革を推し進めている綱吉にとっては、信頼のおける家臣・吉保の邸へ行ってくるよ、そんな軽い気持ちだったのではないかと、独断と偏見に満ちた推測をしています。

初代側用人は牧野成貞(まきの・なりさだ)です。彼の外に10数人の側用人が綱吉に任命されていますが、将軍が臣下の邸宅へ出向いたのは、成貞邸の延べ32回、吉保邸へは延べ58回ですから、尚更です。

吉保邸へ綱吉が最初に出向いたのは、元禄4(1691)年3月22日です。
その年の春頃、綱吉が神田橋内の吉保邸を訪れたい意向を漏らしたので、吉保は2月上旬ころから、自邸の横に北の御殿、中の屋、西および東の御殿、納め所(納屋)、台盤所(調理場)などを二千五百坪ほどの敷地に立て続けて準備を始めています。こじんまりとした庭、能舞台や楽屋なども備えた豪壮なご座所にして、綱吉を迎えます。
このときの吉保の振る舞いは、当時、家臣が将軍を迎える際の慣例に従っただけで、それは、綱吉も充分承知しています。綱吉は自分の目にかなう家臣を絞り込んでから、その臣下の邸へ出向く決断を下したのはた正解だったと安堵し、彼への信頼をより強めたことでしょう。

その前の年、吉保は禄(ろく)の加増を賜り、三万二千三十石の大名になります。
この時、吉保は上総両袋村(千葉県東金市一之袋、二之袋)の年貢を1年分免除します。12月25日には、従四位下に昇進します。自宅の横にある土井甲斐守利治の屋敷地三千四百八十坪を2月3日に綱吉から拝領したと、松蔭日記にあります。そこの一部にも、北の御殿をはじめとする建物等を建設したものと思われます。

それでも、完成した建物の中は空っぽです。
御殿などの内装や大工工事、装飾品や調度品類などは、賓客が満足するようにしなければなりません。庭の植木などにはそれなりの心遣いを込め、当時流行の大名庭園と比べても見劣りしない業(わざ)が求められでしょうから、吉保は細部にわたって気配りをしており、資金的にも、それだけの経費を賄う財力があったのでしょう。

西の御殿に座した綱吉は『大学』を講義し、能舞台では「難波」「橋弁慶」を舞い、その後には、「羽衣」「是界(ぜかい)」「乱れ」などを舞っています(松蔭日記)。時の将軍綱吉は、吉保の心遣い敬意を表した証でしょう。

海音寺潮五郎の著書に「柳沢騒動」があります。その金液の章に、興味深い吉保が描かれておりますので、少し長くなりますが引用します。

「日の暮れるころ、出羽守(吉保)は下城したが、屋敷に帰ると、直ぐ居間に入って、着替えもしないで、本箱から一冊の帳簿を取り出した。
『水戸家』
と表紙に書いた厚い帳面である。
この帳面には、当主光圀(みつくに)の行動、世子・綱条(つなえだ)のこと、その子吉孚(よしたか)のことは勿論、奥向きのことから、重臣、寵臣の身分、性行、閲歴に至るまで詳細を極めて書き記してあるのである。(中略)水戸家の調査書であるが、他の家、紀州、尾州、甲府家、譜代勲旧の酒井、井伊、(中略)等の家についても同様な書類を備えつつあるのである。側用人になってからの彼の私邸に於いての全時間は、この調査書の完成に向かって注がれていると言っても誇張ではなかった。人の噂を聞いて書き込むのはもとよりのこと、腹心の家来をわざわざ派遣して調べさせることもあるのである」

しかし、何故か、綱吉から桁外れの贔屓を得て出世した吉保象が定着しています。

「当の元気印も、つい前まではそうでしたね」
ボケ封じ観音さまだ。
「つまり、吉保は情報の持つ重要性を認識しており、情報収集とそれの分析という地道な努力を積み重ねて綱吉に仕えたからこそ、側用心となり大老にまで昇進したと、元気印は強調したいのですね」

「誤解を恐れずに、今世に敢えて例えるなら、田中角栄と早坂茂三、小泉純一郎と飯島勲の関係に近いのが、綱吉と吉保のそれでしょう。総理大臣と秘書の結びつき、将軍と側用人から大老にまで引き上げられた吉保の結びつきは同根でしょう。政治家の秘書と将軍の家臣に共通しているのは、主君の辞職と共に役職を退いたことです。少し、飛躍した仮説かな・・・」

「それも、将軍と家臣との信頼度を計るよりどころですね。仮名手本忠臣蔵は創作です。作者は時の権力者の目をそらす工夫をして、事件の事実関係を創作・脚色した浄瑠璃に仕立て上げて、観客の観賞に耐える物語の筋立てにしています。だから、物語に描かれた史実を知っている観衆は、作者の創作意図により深く共鳴することができたのです。それが解る江戸っ子達は、忠臣蔵に魅せられ、拍手喝采を送り溜飲を下げていたのでしょう」

観音さまは、何時もとは違う。天邪鬼の面影が消えている。
高師直を討ち取った大石由良之助に共感を覚えたのだろうか?

今日の観音さまは調子っぱずれなので、このあたりが潮時です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳沢吉保の肖像と忠臣蔵物語

2008-01-09 04:26:05 | 時の話題
忠臣蔵が年末に公開される映画の座をテレビに奪われてから久しく、30数年は経っています。映画好きの元気印は、テレビ放映を観て鬱憤を晴らしています。

それは兎も角、人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」が宝永3(1706)年5月(諸説あり)、道頓堀にあった竹本座で上演さてからは、題材を同じくした演目が浄瑠璃、歌舞伎で演じられており、それらを集大成したのが人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」で、忠臣蔵物の源流になっています。

太平記の作者は近松門左衛門、忠臣蔵は竹田出雲(たけだ・いずも)、並木宗輔(なみき・そうすけ)、三好松洛(みよし・しょうらく)との合作で、他の合作品、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」と併せて浄瑠璃の三大傑作と言われています。

もう少し道草、合作者の経歴を調べてから本題に入ります。

竹本座の座元を兼ねていた出雲は、師匠の門左衛門が没する前後から30数本の作品を著していますが、その内20本近くは共同著作です。宗輔は、出雲の門人とする説を有する僧侶で、「いろは日蓮記」など日本戯曲史に残る傑作をものにしています。安田蛙文(やすだ・あぶん)と合作した「大門口鎧襲」は秀作と評価されています。軽妙洒脱な作風が持ち味とされ、「菅原伝授手習鑑」の二段目・道明寺を書いた松洛は、門左衛門の門弟とも言われている浄瑠璃作家です。この3人に共通しているのは、共同著作した作品に傑作を残していることです。

そして、この浄瑠璃作家は柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)を大石内蔵助の敵役にした筋立てをしています。喧嘩両成敗をしなかった綱吉を仇役にした忠臣蔵本では直ちに発禁であり、出版元はお咎め、最悪の場合、獄門刑になるかも知れません。また、芝居にすると幕が上がる前に上演禁止になる代物ですから、関係者を待っているのは極刑だけでしょう。

となると、綱吉の側用人(そばようにん)であった吉保を代役に据えて、時代や登場人物も観客が本人を推測して中てる余地を盛った物語にする知恵が求められます。江戸っ子達は、そこまで苦労して松の廊下でのお上の裁きに抗議した作者達の気概に拍手喝采を送り、忠臣蔵が創作物と判っている今も、人気を失わず、これからも生き続けるでしょう。

忘れてならないのは、江戸っ子が共有していた時代感覚、当時の時代背景を認識して忠臣蔵物語を観賞する歴史観でしょう。そうでなければ、今もこれからも、知る人ぞ何とかの世界に押し込んでしまいそうな風潮があります。

このままでは、忠臣蔵物語で創作された吉保像、吉保の虚像だけが永久に語り継がれてしまいます。
綱吉も同じ立場に置かれていますが、最近、その史実が見直され始め、吉保も忠臣蔵に描かれている人物像とは異なるとする説が散見されるようです。

つまり、忠臣蔵は創作であるから、史実とは別物である。そのことを理解することが、元禄赤穂事件の本質に迫るのではないか、とする歴史観です。

吉保の胸像が「柳沢吉保側室の日記・松蔭日記:正親町町子著、増渕勝一訳」に掲載さていました(写真)。

「忠臣蔵に描かれた吉保像に重なりますか?」

ボケ封じ観音さまが問いかけます。

「第一印象が違いすぎます。キュッと結んだ口元に意志の強さを表していますが、人のよさ、人への思いやり、優しさのような雰囲気を彫りこんだ胸像に感じます。綱吉が将軍の補佐役として幕府の政権を委ねただけのことはあります」
「それは、贔屓のひいき倒しでしょう」

そうだろうか?

「吉保が行っていた幕府での政策・業績などの僅かな事実を繋いで積み重ねていくと、ひとつの吉保像が浮かんできます」
「忠臣蔵では語られていないことで・・・」
「日記に書かれている吉保の行動もそのひとつです」
「市谷亀岡八幡宮での振舞いでしょう」
「その前にあります。吉保が綱吉から二万石の加増を賜り、三万二千三十石になった時、既に、和泉、武蔵、上総の各国内に領地を所有していました。中でも、上総の国両袋村(千葉県東金市)は早くから治めていたのです。ここ数年の間、吉保が順調に出世しているのは、この土地があってこそと、特別のものと考え、元禄2年分、百六十石の年貢を免除しているのです。加増があったのは元禄3(1690)年3月26日ですが、その年から翌年にかけての年貢を対象に免除したのです」
「佐倉惣五郎事件が、佐倉藩に起きています。藩の統治が悪いと取り立てるのは年貢です」
「亀岡八幡宮を参拝したのは、綱吉が吉保邸を訪れて、松平の称号と、綱吉の諱(いみな)の一字「吉」を授けられ、松平吉保に改めてから数日後のことです」
「徳川三代将軍・家光、桂昌院(けいしょういん:五代将軍・綱吉の生母)の信仰が厚かったこと、元禄年間に吉保が参拝したおり、境内に立ち並ぶ露天の品々を残らず買い上げ、露天商を感激させた逸話があると、八幡宮縁起にありますよ」

物知り観音さまです。負けてはいられません。

「日記には、元禄14(1701)年4月25日から数日後に参拝したとありますから、その時です。松平の称号を授かったお礼を報告するための参拝ですから、その喜びを露天商と分かち合っている。僅か500石の軽輩が側用人に抜擢され、七万二千石の武蔵野国川越藩主を授ったのは、大名格に恥じないように精勤したからですよ。商売に精を出していれば、いつかは報われると、露天商に行動で伝えたかったのです」

観音さまが打ち鳴らす相槌の音が響きます。

「まだあります。川越藩主としての後世に残る業績です。八幡宮を参拝する7年前に川越城主を拝領しています。上富(かみとめ:三芳町)、中富(なかとめ)・下富(しもとめ:所沢市)の三富新田開発は、家臣に任せ、武蔵野台地周辺の農民を入植させています。
 領地の石高を増やすために新田開発をするのは、藩主として当然のことでしょう。その事業と並行して多福寺と毘沙門社を2年後に落成させ、農民の信仰のよりどころとしています。人心掌握に長けていなければ、このように肺肝(はいかん)を尽くせません。忠臣蔵の吉保ではないようですね」

「綱吉は能力本位の官僚制を導入して新しい人事政策をやっています。勘定方の末席いた荻原重秀(おぎわら・しげひで)は、綱吉の進める勘定所改革政策を実施する段階でその能力を発揮して昇格していました。元禄9(1696)年、吉保に登用された重秀は、勘定奉行に昇り詰めます。元禄時代の財政を支える業績が認められたからです」

隠居前の元禄15(1702)年ことですが、吉保より6年後に側用人に就任した松平輝貞(まつだいら・てるさだ)の不興をかった儒学者に細井広沢(ほそい・こうたく)がいます。柳沢家で面倒を見てもらっていために、吉保は輝貞から広沢を放逐するよう執拗な圧力をかけられます。それに屈した吉保は広沢を放逐します。浪人の身となった広沢の学識を惜しんだ吉保は、年間50両の支援金を送り、親交を持ち続けたという伝聞もあります。

六義園その5・ススキのひとり言に書きましたが、主君・綱吉が薨去(こうきょ)して4ヵ月後、吉保は長男・吉里(よしさと)に家督を譲り、自らは六義園に隠居します。

綱吉の近臣で、主君が没して辞職したのは吉保だけです。
家宣(いえのぶ)が未だ甲府藩主の時、新井白石(あらい・はくせき)は家宣の侍講(じこう:政治顧問)になっています。
当然、家宣が六代将軍に就くと、白石は政治顧問として政権を担うようになります。
綱吉の側近であった松平輝貞や荻原重秀らは、地位に残ろうとして白石と対立して免職の憂き目にあっているのです。その時々の情勢判断力を吉保と比して雲泥の差があります。

「忠臣蔵物語に描かれた吉宗像とは違う吉保ですね」
「観音さまはボケないから、これからも吉保の史実を集めてくれるでしょうね?」
「ボケの気配を感じ始めたら、今日の話を思い出すでしょう」

スルッと逃げ出す観音さま。天邪鬼は自他共に認めよう。

観音さまとの遣り取りを聴いていた吉保。穏やかな表情をしたまま日記に収まって動く気配を見せない。これで、元気印も安心して寝床に潜り込める。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六義園 その5:ススキのひとり言

2008-01-07 01:15:28 | 散策
亥は光陰矢の如し。
好奇心旺盛な子がやってきました。
楽しいことはねずみ算で増やし、苦しい時は猫を噛んで撃退する子年です。

私は、太田道灌が品川の館から江戸の館へ移り、江戸城を築く前から六義園に住んでいるススキです。

久し振りに、寛正5(1464)年、「静勝軒」(初代江戸城天守閣)からの展望を詠んだ道灌の歌を思い出しました。

       我が庵(いほ)は 松原遠く海近し
          富士の高嶺を 軒端(のきば)にぞ見る

城の前に広がる日比谷入江、入江へ流れこむ小石川も近くにありました。静勝軒の眼下には品川から浅草や隅田川が広がり、はるか彼方には富士山から武蔵野平野や筑波山を展望できたのです。

そうなのです、道灌が江戸城を築いた頃、江戸の地は葦の茂る草深い片田舎でした。
豊臣秀吉は、地政学的な見地から、ここは領地経営の拠点とするには最適の地であると、徳川家康へ下命したのです。家康は徳川幕府に相応しい江戸城の築城を手始めに、町造りに着手します。家康亡き後も歴代の将軍がそれを忠実に継続して行い、片田舎は城下町として整備され発展してきたのです。私はそれを見続けてきました。

この六義園は徳川五代将軍・綱吉の側用人(そばようにん)であった柳沢吉保の別墅(べっしよ:高級別荘地)の庭であったこと、その謂れは何方もご存知ですね。

『元禄8年4月20日、この日柳沢出羽守吉明に、染井村にて、別墅の地・四万七千坪を給ふ。これ後に山林泉石の景到をかまへ、六義園と称し、霊元上皇(れいげんじょうこう)御題詠をたまひて名園と、世にもてはやせし所なり(徳川実記・第6編 常憲院殿御実紀の吉明賜染井村別墅地)』

『柳沢吉保の下屋敷。綱吉より元禄8(1695)年、当時、染井村駒籠(こまごめ) に47,000坪の地を与えられた吉保が7ヶ年をかけて完成し、彼みずから園名を六義園(むつくさのその)、屋形(やかた)を六義館(むつくさのたち)と名付けた。
 古今集の序にある和歌の六義(りくぎ)にのっとった命名で、吉保自選の園記に あるように、和歌浦(わかうら:和歌山県和歌の浦)のすぐれた名所を写し「和歌」にちなんで「万葉集」「古今集」などの歌枕や歌意より園内に八十八境を作っている。
 千川上水(せんかわじょうすい)から水を引いて園の中央に大池を開いて、二つの中島を築き(蓬莱島と称する岩島は明治に設けたもの)、諸国の名石を集め、贅を尽くした回遊式大名庭(かいゆうしき・だいみょうにわ)である。北の大中島築山の頂上は園池の俯瞰によく、富士山や筑波山の展望台でもあった。
 当初より敷地が狭くなったが、庭園の主要部分は良く伝えられ、約10万平方メー トルのうち62,700平方メートルが特別名勝に指定されている(日本史大辞典 第 6巻)』

現存する六義園・染井門は染井村の名残りでしょう。
駒籠(駒込)村が元禄の改で上、下に分割された時、駒込村枝郡として分立して染井村が誕生しています。徳川実記にある染井村は枝郡として分立した染井村でしょう。

『日本の首都、江戸の郊外には、商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。
 江戸の身分のある人びとは、すべて高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さず訪ねることにした(幕末日本探訪記・江戸と北京:ロバート・フオーチュン)』

幕末にここを訪れた英国人の著書に「江戸の東北の郊外にある染井」と記述していますので、枝郡染井村が上駒込村に組み入れられてからも、その地域を染井と呼んでいたのでしょう。今、本郷通りから染井霊園方面へ入る枝道の分岐点が六義園・染井門の前にあり、枝道は「染井通」と命名されています。

幕末日本探訪記に記述されていたのは、染井にあった大規模苗木園を有する植木屋と盆栽を作る技術に関することだけで、残念ながら、六義園については触れられていません。それは、多分、明治11(1878)年に岩崎弥太郎が別邸地として六義園を含めた周辺を購入して復旧するまでは荒廃するに任せていたので、廃園同然だったからでしょう。

元禄14(1701)年4月25日、桂昌院(けいしょういん・綱吉の生母)が六義園に立ち寄ることになり、吉保は心の限りを尽くして迎えますが、六義園の出来栄えには満足しませんでした。

『それなりに盛大であったけれども、その折は山里の整備もまだ不十分で、あるじの君(吉保)は物足らぬことに思われていた(松陰日記:正親町町子)』

六義園のデザインが吉保にあったのです。

『このお邸は、松の柱や杉の戸をたいそう簡略になさったけれども、昔からしかるべき趣があるように工夫をこらしておられた。それに、今またどうしても必要なところなども加わって、君のお住まいになるところをはじめとして各方面に、遁世をしたときのことを考えて計画を立てておいたので、さらにたいそう広々と造り続けて、あちらこちらを通ずるようにし、まことに風雅なうえに、趣深くせいせいする様子である。「六義園」と申した邸は、ふだんのお住まいに続いて、庭園の方がゆったりと広々と見えるのは、ひどく趣がある(同日記)』

ですから、出来上がっている館、庭園に駄目を出したのでしょう。
また、六義園の造営指導と施工監理にも吉保の人柄、苦心の跡が窺えます。

『駒籠の山里は、たいそう広範囲な場所を占めており、山水の配置も風情があるところである。そこに年来しかるべき居宅を作られ、庭などもまたとなく趣深く工夫される。君(吉保)ご自身はお暇がなくて、いらっしゃれない。家人が毎日行きかよって、しかるべく築造するはずの模様を絵に描いて差し出し申したので、それを一日中ご覧になって、あれこれと指示される。そこで、君は現地には伺かがわれなかったものの、心配するところはなかった(同日記)』

参勤交代が定着してからは、将軍を接待する目的で江戸屋敷内に造園するのが当たり前でした。
それらの庭園は大名庭園(だいみょうていえん)と呼ばれ、後楽園(現・小石川後楽園)もそのひとつです。水戸初代藩主・頼房が徳川二代将軍・秀忠から7万6,689坪の邸地を寛永6(1629)年2月1日に下賜され、9月末に完成した邸館を中屋敷にします。水戸二代藩主・光圀(みつくに)が家督を相続した寛文元(1661)年から元禄3(1690)年に隠居するまでの29年間に亘り整備していたのが後楽園です(小石川後楽園:吉川需・高橋康夫)。

しかし、後楽園の景観は一変します。桂昌院が後楽園を訪れることになり、回遊する園路に危険のないように大部分の大石や奇石を取り除いたからです。元禄15(1702)年、桂昌院は78歳です。水戸家は、断腸の思いで安全を最優先して決断を下したのかも知れません。
2年前の12月6日、73歳で没した光圀ならどのように裁いたか、興味の湧く出来事です。

他方、六義園の工事がすべて終了したのは元禄15(1702)年8月13日です。
道灌山、王子稲荷、円勝寺から谷中感応寺を経て、日暮里をまわって帰城する途中、柱昌院は、六義園に立ち寄っています。六義園のすべての工事が終了したのは、それから、1年4カ月後のことです。吉保は最後の仕上げを指示して、工事着工から7年余をかけて完成したのです。

それから、後楽園と六義園は江戸の名園として評判になったようですが、柱昌院を迎えた水戸家と吉保の応対から判断すると、現存する両庭園の景観で比較することは無意味なようです。おそらく、後楽園が名園と絶賛されたのは、柱昌院が訪れる前の景観ではないでしょうか。

松陰日記に六義園に対する吉保の関心度合いを推し量る記述があります。
元禄13(1700)年 8月22日 、吉保は六義園を訪れていますが、

『 君(吉保)は、駒籠というところに山里(六義園)をお持ちになっているのを思い出されて、そこへ出かけられた。(中略)。ここ数か月来、お暇がおありにならず、お邸から遠い所領はたいていお覘きになることさえなかったので、この山里の庭など滅多にお手入れをなされない。人気(ひとけ)もなく荒れまさって、野辺の松虫が得意気に鳴いている。お入りになる宿は、以前から総じて飾り整えて建てておかれたものである。そこで、今日こちらへお渡りになるということで、管理人などが掃除し整頓して、さすがにこざっぱりとした感じにした』

ここには、吉保が六義園に余り執着していない様子が窺えます。
神田橋の内邸にある吉保邸の見事な紅葉を観て山里を思い出しているのです。ほぼ完成に近い六義園ですが、職務多忙で手入れをしていない、仕事人間だったのでしょうか。

8か月後、柱昌院が詣でる王子には王子神社、王子稲荷があり、日暮里に近い谷中には諏訪神社、南泉寺があります。どちらも徳川家と縁(ゆかり)の深いところです。王子からの帰りは日光御成街道(岩槻街道:本郷通り)を通ることを吉保は熟知しています。虫の知らせがあったのかも知れません。

綱吉の長女・鶴姫と養女・八重姫が六義園に遊びに来ています。
元禄16(1703)年3月13日に鶴姫、5日後に八重姫です。
当時、東山天皇の治世で院政を敷いた霊元上皇から六義園十二境八景歌の御題詠を賜ったのは3年後の宝永3(1706)年10月です。

六義園十二境歌から一首

  春秋を わくしともなし花ならぬ 藤代の根の松の緑は

  (春秋を区別することなく、いつもかわらないことだ。春だけ咲く桜の花とは違う、藤代の嶺の常盤の緑は)

六義園八景歌から一首

  しばしなほ 入日のあとも暮れやらで 光を残す花ぞ目ぬかれ

  (吟花亭あたりでは、入日の後もしばらくはなお暮れてしまわないで、残照に映える桜の花は、目を離すことができないほどすばらしい)

吟花亭(ぎんかてい)の周辺には桜が沢山植えてあり、あたかも吉野のような雰囲気であった、とボランテイア・ガイドも説明しています。吟花亭で休憩をした鶴姫、八重姫は、桜の素晴しさに心を奪われてしまい、しばし時を忘れていたとの伝聞が残っているようです。
六義園の名声は、霊元上皇から六義園十二境八景歌を賜った時に確立したのでしょう。

吉保の主君・綱吉は宝永(ほうえい)6(1709)年2月19日に薨去(こうきょ)しています。
吉保は6月3日に幕府の役職を辞すると共に家督を吉里(よしさと)に譲り、18日に隠居して六義園に籠もり、5年後の正徳4(1714)年11月2日、56歳で生涯を終えています。

それからの六義園は、柳沢三代藩主・信鴻(のぶとき)が隠居してから18年間住んで居ました。寛政4(1792)年3月3日、信鴻が亡くなった後、約7年間は利用がないため、荒廃するに任せられ、その跡も残っていなかったようです。それで、四代藩主・保光(やすみつ)が文化6(1809)年に約1年をかけて復旧工事と園内整備を行いました。

しかし、復旧された六義園は柳沢家代々の当主が隠居して使う程度でしたので、次第に頽廃に傾き、明治維新後は全く荒無に帰していたのです。

岩崎弥太郎が六義園に隣接している藤堂・前田・安藤諸家の邸地を併せて購入し、弥太郎の没後弟の弥之助が明治19(1886)年に修復工事を進めたので、現在の六義園が再生したのです。

六義園の思い出は沢山ありますが、今回はここで終わりにします。
長い話にお付き合い下さり、感謝しています。
盆栽の手入れが行き届いているので、私と再会するチャンスは少ないでしょうけれども、その日を楽しみに待っています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする