房総のむらに復元した武家屋敷(写真)は、シニアジュクが開催した「さわやか散策」の実踏時、「桜田門外の変」のロケが行われていたので、見学できなかった。
そんな腐れ縁があって、映画を観る羽目になってしまい、先日観て来ました。
何となくロケに使ったシーンは推察できますが、詮索好きの映画フアンの楽しみを半減したくないので、どこであるかは省略します。
さて、房総のむらの武家屋敷です。
房総のむらWEBでは、佐倉藩の武士であった田嶋伝左衛門の屋敷であった、と紹介されています。
慶応元(1865)年佐倉藩堀田氏分限帳に記されているようです。
一方、佐倉市には、佐倉藩士の武家屋敷が3軒復元されています。
佐倉市に残されている最古の武家屋敷は旧河原(かわら)家住居で、その接客部分の建物が弘化2(1845)年には建てられており、300石取の武士が住んでいたことまでは、判っているようです。
旧但馬(たじま)家住居は、天保年間(1830~1844)年には既に建てられており、100石取の武士・井口郡内が住んでいたようです。
斉藤氏の屋敷に90石取の武士・依田平内が文政5(1822)年前後に居住したとされる旧武居(たけい)家住居は、房総のむらのモデルとなった武家屋敷です。田嶋伝左衛門と育太郎は、依田平内の後に移住し、万延元(1860)年から明治初期まで住んでいました。
房総のむらWEBで紹介されている田嶋伝左衛門の屋敷は、旧武居家住居でした。明治33(1900)年に武居氏が取得したので、佐倉市では旧武居氏住居と紹介しています。
ところで、桜田門外の変と佐倉藩士の武家屋敷との関係は無いようですが・・・。
映画のストーリーは書きませんが、日米修好通商条約調印の勅旨を得ようと奔走し失敗に終わった老中首座・堀田正陸(まさよし)は、第五代下総佐倉藩主でした。
映画では、井伊、堀田憎し、とする水戸藩士たちの感情の高ぶりがセリフで語られています。
正陸は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)とは外交問題を巡って意見が合わず対立していたから、堀田憎し、の水戸藩風が生まれたのでしょうし、そんな歴史を背負った佐倉藩士の屋敷をモデルに復元した房総のむら武家屋敷が、ロケに使われたことに因縁めいたものを感じます。
映画の主人公は、井伊直弼暗殺の実行部隊指揮者、水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)ですから、一層その感が強くなります。
海音寺潮五郎は「明治を創った巨人たち」に書き残しています。
ご存知のこととは思いますが、桜田門外の変は、東で井伊を倒せば、幕府は朝廷に圧迫を加えるとの目論みから密約を交わした水戸藩と薩摩藩の合作である、と言われています。
つまり、時の大老・井伊直弼を水戸藩士が倒し、朝廷の守護は薩摩藩士が引き受けるとの談合があって、現在の警視庁前辺りの道、桜田門の前にある内堀通で井伊直弼は斬殺されたのです。
そして、直弼暗殺の後、鉄之助は「約束によって出てきてくれ」と薩摩の関所で訴えます。
薩摩藩内では、「関さんに応じなければ、薩摩隼人の名折れだ」との議論が沸騰したのですが、約束は反古にされ、水戸藩の志は破綻します。
それを決断・実行した張本人は、大久保利通でした。
桜田門外の変に加わった薩摩藩士・有馬雄助は、薩摩に連れ戻されたその晩に切腹を命じられます。しかも、利通の多年の同士であった雄助がですよ。
明治の功労者、最初の土台をつくったのは、大久保利通でしょうね。
現在の日本産業の基礎は、利通が作ったといってもよいでしょう。吉田茂爺さんは、大久保を最も尊敬していたそうです、とも記しています(文藝春秋・昭和42年12月号から抜粋)。
その利通は、紀尾井坂の変で斬殺されます。変の首謀者・島田一良(いちろう)については、前に書きましたので、ここでは触れません。
水戸藩との密約を反古にした利通が、明治11(1878)年5月14日、島田らに暗殺されたことは既に書きました。享年49、平均寿命が延びた現代でも、脂が乗った働き盛りです。
他方の鉄之助は、直弼暗殺を成就した後でも薩摩藩から門前払いを受け、近畿・四国の各地を逃亡していたのですが、水戸藩領へ向かい領内を転々と潜伏しても身辺には追手の危険がせまり、逃れた越後の湯沢温泉で捕縛、投獄されます。それから、江戸日本橋の小伝馬町牢に転送されます。
そこで、鉄之助は一良の首を刎ねた首斬浅右衛門(元気印の推測)に斬首され刑場の露と消えるのです。時は文久2(1862)年5月11日、享年39。今風に言えば、真っ盛りの壮年ですね。
なにはともあれ、房総のむらに復元された佐倉藩士の武家屋敷と映画「桜田門外の変」は、日本が近代化を目指して蠢動(しゅんどう)を始めた、幕末から明治に生まれ変わるために激変する歴史との因縁で結ばれているように思われてなりません。
そんな腐れ縁があって、映画を観る羽目になってしまい、先日観て来ました。
何となくロケに使ったシーンは推察できますが、詮索好きの映画フアンの楽しみを半減したくないので、どこであるかは省略します。
さて、房総のむらの武家屋敷です。
房総のむらWEBでは、佐倉藩の武士であった田嶋伝左衛門の屋敷であった、と紹介されています。
慶応元(1865)年佐倉藩堀田氏分限帳に記されているようです。
一方、佐倉市には、佐倉藩士の武家屋敷が3軒復元されています。
佐倉市に残されている最古の武家屋敷は旧河原(かわら)家住居で、その接客部分の建物が弘化2(1845)年には建てられており、300石取の武士が住んでいたことまでは、判っているようです。
旧但馬(たじま)家住居は、天保年間(1830~1844)年には既に建てられており、100石取の武士・井口郡内が住んでいたようです。
斉藤氏の屋敷に90石取の武士・依田平内が文政5(1822)年前後に居住したとされる旧武居(たけい)家住居は、房総のむらのモデルとなった武家屋敷です。田嶋伝左衛門と育太郎は、依田平内の後に移住し、万延元(1860)年から明治初期まで住んでいました。
房総のむらWEBで紹介されている田嶋伝左衛門の屋敷は、旧武居家住居でした。明治33(1900)年に武居氏が取得したので、佐倉市では旧武居氏住居と紹介しています。
ところで、桜田門外の変と佐倉藩士の武家屋敷との関係は無いようですが・・・。
映画のストーリーは書きませんが、日米修好通商条約調印の勅旨を得ようと奔走し失敗に終わった老中首座・堀田正陸(まさよし)は、第五代下総佐倉藩主でした。
映画では、井伊、堀田憎し、とする水戸藩士たちの感情の高ぶりがセリフで語られています。
正陸は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)とは外交問題を巡って意見が合わず対立していたから、堀田憎し、の水戸藩風が生まれたのでしょうし、そんな歴史を背負った佐倉藩士の屋敷をモデルに復元した房総のむら武家屋敷が、ロケに使われたことに因縁めいたものを感じます。
映画の主人公は、井伊直弼暗殺の実行部隊指揮者、水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)ですから、一層その感が強くなります。
海音寺潮五郎は「明治を創った巨人たち」に書き残しています。
ご存知のこととは思いますが、桜田門外の変は、東で井伊を倒せば、幕府は朝廷に圧迫を加えるとの目論みから密約を交わした水戸藩と薩摩藩の合作である、と言われています。
つまり、時の大老・井伊直弼を水戸藩士が倒し、朝廷の守護は薩摩藩士が引き受けるとの談合があって、現在の警視庁前辺りの道、桜田門の前にある内堀通で井伊直弼は斬殺されたのです。
そして、直弼暗殺の後、鉄之助は「約束によって出てきてくれ」と薩摩の関所で訴えます。
薩摩藩内では、「関さんに応じなければ、薩摩隼人の名折れだ」との議論が沸騰したのですが、約束は反古にされ、水戸藩の志は破綻します。
それを決断・実行した張本人は、大久保利通でした。
桜田門外の変に加わった薩摩藩士・有馬雄助は、薩摩に連れ戻されたその晩に切腹を命じられます。しかも、利通の多年の同士であった雄助がですよ。
明治の功労者、最初の土台をつくったのは、大久保利通でしょうね。
現在の日本産業の基礎は、利通が作ったといってもよいでしょう。吉田茂爺さんは、大久保を最も尊敬していたそうです、とも記しています(文藝春秋・昭和42年12月号から抜粋)。
その利通は、紀尾井坂の変で斬殺されます。変の首謀者・島田一良(いちろう)については、前に書きましたので、ここでは触れません。
水戸藩との密約を反古にした利通が、明治11(1878)年5月14日、島田らに暗殺されたことは既に書きました。享年49、平均寿命が延びた現代でも、脂が乗った働き盛りです。
他方の鉄之助は、直弼暗殺を成就した後でも薩摩藩から門前払いを受け、近畿・四国の各地を逃亡していたのですが、水戸藩領へ向かい領内を転々と潜伏しても身辺には追手の危険がせまり、逃れた越後の湯沢温泉で捕縛、投獄されます。それから、江戸日本橋の小伝馬町牢に転送されます。
そこで、鉄之助は一良の首を刎ねた首斬浅右衛門(元気印の推測)に斬首され刑場の露と消えるのです。時は文久2(1862)年5月11日、享年39。今風に言えば、真っ盛りの壮年ですね。
なにはともあれ、房総のむらに復元された佐倉藩士の武家屋敷と映画「桜田門外の変」は、日本が近代化を目指して蠢動(しゅんどう)を始めた、幕末から明治に生まれ変わるために激変する歴史との因縁で結ばれているように思われてなりません。