いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

桜田門外の変と房総のむらに復元された武家屋敷

2010-10-27 23:21:52 | 時の話題
房総のむらに復元した武家屋敷(写真)は、シニアジュクが開催した「さわやか散策」の実踏時、「桜田門外の変」のロケが行われていたので、見学できなかった。
そんな腐れ縁があって、映画を観る羽目になってしまい、先日観て来ました。

何となくロケに使ったシーンは推察できますが、詮索好きの映画フアンの楽しみを半減したくないので、どこであるかは省略します。

さて、房総のむらの武家屋敷です。
房総のむらWEBでは、佐倉藩の武士であった田嶋伝左衛門の屋敷であった、と紹介されています。
慶応元(1865)年佐倉藩堀田氏分限帳に記されているようです。

一方、佐倉市には、佐倉藩士の武家屋敷が3軒復元されています。
佐倉市に残されている最古の武家屋敷は旧河原(かわら)家住居で、その接客部分の建物が弘化2(1845)年には建てられており、300石取の武士が住んでいたことまでは、判っているようです。

旧但馬(たじま)家住居は、天保年間(1830~1844)年には既に建てられており、100石取の武士・井口郡内が住んでいたようです。

斉藤氏の屋敷に90石取の武士・依田平内が文政5(1822)年前後に居住したとされる旧武居(たけい)家住居は、房総のむらのモデルとなった武家屋敷です。田嶋伝左衛門と育太郎は、依田平内の後に移住し、万延元(1860)年から明治初期まで住んでいました。

房総のむらWEBで紹介されている田嶋伝左衛門の屋敷は、旧武居家住居でした。明治33(1900)年に武居氏が取得したので、佐倉市では旧武居氏住居と紹介しています。

ところで、桜田門外の変と佐倉藩士の武家屋敷との関係は無いようですが・・・。
映画のストーリーは書きませんが、日米修好通商条約調印の勅旨を得ようと奔走し失敗に終わった老中首座・堀田正陸(まさよし)は、第五代下総佐倉藩主でした。

映画では、井伊、堀田憎し、とする水戸藩士たちの感情の高ぶりがセリフで語られています。
正陸は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)とは外交問題を巡って意見が合わず対立していたから、堀田憎し、の水戸藩風が生まれたのでしょうし、そんな歴史を背負った佐倉藩士の屋敷をモデルに復元した房総のむら武家屋敷が、ロケに使われたことに因縁めいたものを感じます。
映画の主人公は、井伊直弼暗殺の実行部隊指揮者、水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)ですから、一層その感が強くなります。

海音寺潮五郎は「明治を創った巨人たち」に書き残しています。

ご存知のこととは思いますが、桜田門外の変は、東で井伊を倒せば、幕府は朝廷に圧迫を加えるとの目論みから密約を交わした水戸藩と薩摩藩の合作である、と言われています。
つまり、時の大老・井伊直弼を水戸藩士が倒し、朝廷の守護は薩摩藩士が引き受けるとの談合があって、現在の警視庁前辺りの道、桜田門の前にある内堀通で井伊直弼は斬殺されたのです。

そして、直弼暗殺の後、鉄之助は「約束によって出てきてくれ」と薩摩の関所で訴えます。
薩摩藩内では、「関さんに応じなければ、薩摩隼人の名折れだ」との議論が沸騰したのですが、約束は反古にされ、水戸藩の志は破綻します。

それを決断・実行した張本人は、大久保利通でした。
桜田門外の変に加わった薩摩藩士・有馬雄助は、薩摩に連れ戻されたその晩に切腹を命じられます。しかも、利通の多年の同士であった雄助がですよ。

明治の功労者、最初の土台をつくったのは、大久保利通でしょうね。
現在の日本産業の基礎は、利通が作ったといってもよいでしょう。吉田茂爺さんは、大久保を最も尊敬していたそうです、とも記しています(文藝春秋・昭和42年12月号から抜粋)。

その利通は、紀尾井坂の変で斬殺されます。変の首謀者・島田一良(いちろう)については、前に書きましたので、ここでは触れません。

水戸藩との密約を反古にした利通が、明治11(1878)年5月14日、島田らに暗殺されたことは既に書きました。享年49、平均寿命が延びた現代でも、脂が乗った働き盛りです。

他方の鉄之助は、直弼暗殺を成就した後でも薩摩藩から門前払いを受け、近畿・四国の各地を逃亡していたのですが、水戸藩領へ向かい領内を転々と潜伏しても身辺には追手の危険がせまり、逃れた越後の湯沢温泉で捕縛、投獄されます。それから、江戸日本橋の小伝馬町牢に転送されます。
そこで、鉄之助は一良の首を刎ねた首斬浅右衛門(元気印の推測)に斬首され刑場の露と消えるのです。時は文久2(1862)年5月11日、享年39。今風に言えば、真っ盛りの壮年ですね。

なにはともあれ、房総のむらに復元された佐倉藩士の武家屋敷と映画「桜田門外の変」は、日本が近代化を目指して蠢動(しゅんどう)を始めた、幕末から明治に生まれ変わるために激変する歴史との因縁で結ばれているように思われてなりません。
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狂った果実:体育の日に咲くオクラと若い果実

2010-10-11 17:17:55 | 時の話題
5月の連休に苗を植えたオクラ。
猛暑前は生育が遅いので、放っぱらかしにしておいたのですが、それでも猛暑を乗り切り、雨が降ってからは結構収穫がありました。
一般的に、オクラの収穫期は6月中旬から9月末です。
例年だと、今頃のオクラは背丈が2m近くに伸び、花は茎の上の方に咲きます。
50から60cm位の背丈で、例年の3分の1しか伸び切れなかった今年のオクラは、花の上に展開葉があるのです。採らずに置いた多くの果実は、乾燥して土色に変色しています。

この展開葉は、生育が順調でないと見られない、と野菜づくりの手引きに説明がありますから、花の右上に見える果実は一週間後には食べ頃に生育するはずです。花の陰になって見えにくいのですが、右下にある果実は2日後には収穫しないと、実が硬くなり折角の風味を損ねてしまいそうです。

「勿体ない。来年植えるオクラの種は、調理せずに棄てられた親の怨念を宿しますよ」

ボケ封じ観音さまの忠告が聞こえてきます。
実は、遅い収穫ばかりが続き、厳しい猛暑を耐え抜き果実をつけたオクラに気兼ねしている今日この頃なのです。もう少し大きくしてから、と欲にかられてオクラの生育を眺めている内に食べごろを失したことを、観音さまはお見通しでした。

それにしても、日中の最高気温が30℃以上になった真夏日、35℃以上になった猛暑日の連続記録を塗り替えた今年。やれエアコンだ、それ扇風機は、と慌てふためいた人様とは無縁のオクラたち。
10月に入ってからも日中の気温が20℃以上になる夏日があるから、オクラたちは花を咲かせ果実を実らせてからでないと、限られた短い生命を終えるわけにはいかない。自分達の子孫は残さなければならないから。これは、元気印の勝手な解釈です。

そのようなオクラたちを元気印は、今の時期にオクラガ狂い咲きしている、これから実がなるようだ、などと揶揄しますが、彼・彼女らにとっては、自然の成り行きです。

「そこです。狂った果実なんて、とんでもない。オクラに失礼です。時期外れの花(写真)にしては、自信満々の表情をしていますよ」

ボケ封じ観音さまは、オクラの本音を代弁します。

今日の家庭菜園の草刈りには、収穫を終えたゴウヤ、夏キュウリ、そしてオクラを含めていました。夏キュウリの根を引き抜き、枯れた茎をカマで寸断しているときに、隣に植えたオクラの花が目に留まります。
一瞬ですが、オクラは写真を撮ってから整理しても良いのでは、との考えが脳裏を横切り、生育を支える柱と網からゴウヤの茎や蔓(つる)の取り外しに掛ります。1昨年はこの逆の手順で網を駄目にしていたので、昨年同様、この作業手順で無事に網を回収しました。

拙宅にカメラを取りに行き畑へ戻るまでの数分間に、もう少し様子を見てからオクラは整理しよう、オクラの刈り取りを延ばす気持ちが決まったのですが、山田吉亮(よしふさ)に斬首された島田一良(いちろう)の残像が消えていなかったから・・・。
その経緯は8日に書き、吉亮にまつわる資料集めをしている最中ですから、それの影響も大きいようです。
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澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編 その3:鉄舟に、必殺の極意を問うた島田一良

2010-10-08 12:35:59 | いろいろ
その男、島田一良(いちろう)は、市ヶ谷監獄の牢内から刑場に引き出されて、死刑執行人・山田吉亮(よしふさ・第九代山田浅衛門)に斬首され刑場の露と消えました。
それは、明治11(1878)年7月27日のことです。明治の元勲・大久保利通を5月14日に暗殺し、警察に自首してから3か月を経ていましたが、同日10時頃に死刑を宣告されてから、おおよそ90分後には死刑が執行されました。

この日、長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(おとぎく)、脇田巧一、杉村文一、酒井寿篤(としあつ)も「紀尾井坂の変」の咎により斬首刑に処せられました。

ちなみに、伝馬町牢屋敷に代わって、明治8(1875)年に設立された市ヶ谷監獄(東京都新宿区市谷台町)は、昭和12 (1937)年に閉鎖するまで、現在で言う拘置所の役割を果たしています。刑場跡地は、冨久町児童公園になっており、その一角には刑死者慰霊の石碑が建てられているようです。ようです、というのは現地を訪れずに、情報だけを頼りに書いている為です。

ところで、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれ、明治初期に一連の反政府運動を起こしています。士族反乱の中で、西南戦争が最大規模であり最後の内戦とされています。

不平士族の一派である三光寺派(さんこうじは・石川県金沢市にある三光寺を談合場所にしていたのでこの名で呼ばれる)のリーダー島田一良は、西南戦争に呼応すべく仲間を説得している間に、西郷隆盛は敗軍の将となり城山で自刃してしまう。島田の志は敢え無い最期を遂げ、断念します。
それからの島田は、三光寺派の行動方針を要人暗殺に切り代え、志士5人と結束し、大久保利通を紀尾井坂(きおいざか・東京都千代田区)で襲撃し斬殺したのです。

他方では、島田らの暗殺計画が警察のトップである大警視(現在の警視総監)に複数のルートを経て知らされていたのですが、「石川県人に何が出来るか」と相手にしないまま、放置した、との説があります。
島田、長、杉本、脇田らは石川県士族で、加賀藩士の家に生まれ育ち、杉村は石川県士族。浅井は島根県士族ですから、石川県人に何が・・・との判断を下されてもおかしくはありません。

さて、当時の大警視・川路利良(かわじ・としよし)は、西郷隆盛や大久保利通の信頼を得た人物で、薩摩藩与力の長男として生まれた薩摩人。日本警察の父とも言われています。
また、川路は、西南戦争において西郷を暗殺する密偵を薩摩軍に送り込んでいる人物でもあり、田原坂の激戦で薩摩軍を退けるなど、九州を転戦し武勲を挙げています。
自分に課せられた責務を忠実に果たした川路も、不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象にされていたことは、彼の情報網が得ていたはずですし、熟知していたでしょう。元気印の独断と偏見では、この辺りに、大久保暗殺情報を握り潰したひとつの遠因がありそうです。
黒田清隆(くろだ・きよたか:第2代内閣総理大臣)の妻が病死した際、川路が執った処置に対する反発が大久保暗殺の遠因である、とする説があることを知りましたが、その詮索は専門家の分野です。素人が云々する事柄ではありません。

島田、長、脇田が目論んだ大久保暗殺の企てを実行する同志を募るために、他の3人は、この人(大久保)を除くことが御国のためである、と島田に説得されて犯行に及んでいたことが、彼らを裁いた裁判官の記録に残されているようです。

彼ら6人の暗殺犯は、大審院に臨時裁判所を開設して「国事犯」として裁判を行い、太政官は司法省から提出された判決伺を7月25日に決済、27日に判決を言い渡され、即日斬罪されています。
死刑執行から11年後の明治22(1889)年2月11日に明治憲法(大日本帝国憲法)が発布され、その大赦の対象者に杉本ら3人も選ばれたのは、罪を憎んで人を憎まず。気配りの行き届いた行政がもたらした結果であろう、と元気印は推測しています。

 かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき

島田が残した有名な辞世の句として紹介されています。

必殺の極意を鉄舟に質した島田には、今日のある日をかねてより覚悟していた逸話があるので、鉄舟の人物像を記してから話を先に進めます。

『 山岡鉄舟 天保7(1836)年~明治21(1888)年
幕末・明治の政治家。無刀流の創始者。前名、小野高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。江戸生まれの幕臣。剣道に達し、禅を修行、書を良くした。戊辰戦争の祭、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた。のち、明治天皇の侍従などをつとめる。子爵』(広辞苑第5版)。

西郷が鉄舟に突きつけた江戸城無血開城の条件の中で、徳川家に安泰を得させるために、最後まで忠義を貫き説得する鉄舟に感嘆し、西郷の一存で徳川家の存続を鉄舟に約束した史実に、この説明は触れていないけれども、鉄舟を簡潔に紹介しているので引用します。

『おれの師匠』(小倉鉄樹著)には、島田が鉄舟宅に訪れた日のことが記されています。

「ある日、島田一良が來邸して、直紀(なおき・鉄舟の嫡子)さんを連れ出して四谷の大通りで玩具等を買ってやり、帰ってから師匠(鉄舟)と対談していた。撃剣の話しや真剣勝負の話などをしている時、

人を殺すことは難しいことでしょうか、と突然島田が質問した。

別段難しいことではない。人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない。

と師匠が答えると、大変感心して島田は帰っていった」

その翌日、島田らは紀尾井坂で大久保利通を刺殺したのです。
剣の奥義を極めた鉄舟にしても、島田の本心は見抜けなかったのでしょうか。
島田は、フランス式兵学を修め陸軍中尉にまで昇進した軍人。おおよそ半年かけて企んだ暗殺計画で大久保を斬殺した後、警察に自首します。
そのように冷静な行動を取れる島田は、事前に同志の誰かを鉄舟宅に行かせていたのですが、その正体を見破られ埒があきません。それで、島田自ら鉄舟との面談に踏み切ったのです。このときの島田は、晴天白日の心境を乱すこと無く、撃剣や真剣勝負の話題に、さり気なく必殺の極意を忍ばせて聴きだす才覚はあったでしょうし、鉄舟の嫡子・直紀を味方につけているところが心憎い。島田の作戦勝ち。これは、元気印の独断判断です。

島田が帰ってから鉄舟は、

「今日は島田にうっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが・・・。と非常に心配しておられた」

禅僧としての鉄舟は、晴天白日の如く振舞う島田に、何か悪い虫の知らせを察知した・・・?

「すると、その翌日、四谷の食違い見附で、彼(島田)は長連豪と共に大久保利通を刺し殺してしまった。

師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼(ああ)、馬鹿野郎共が、徒(いたずら)に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

当の島田は西郷の征韓論に共鳴し、「明治六年政変」により、江藤新平、板垣退助らと共に下野した西郷を鹿児島に戻るまでに追い込んだ明治政府に憤慨しています。西郷を尊敬している長と共に、政府の中枢を仕切っている大久保暗殺を企てたのは、西郷が鹿児島に下野してからなのです。

このように西郷と因縁の深い二人が、明治の元勲・大久保利通を暗殺した罪で斬首刑に処せられ、刑場の露となって地下の西郷の下へ行く訳ですから、鉄舟が西郷の気持ちを忖度するのは自然の成り行きですね。

話は前後しますが、小倉鉄樹は、

師匠は幾度か超嘆息して・・・と『おれの師匠』に記しています。

超嘆息の「超」は、どのように解釈すれば、鉄舟の気持ちを実感できるのか。気になるところです。そこで、広辞苑に再登場願います。

 超とは、
1. とびこえること、程度を超えること(超越、超過)
2. ぬきんでること、かけ離れてすぐれていること(超人、超然)
3. 接頭語句的に ①程度一杯をさらにこえる意を表す(超満員、超特急) ②ウルトラ、スーパー等の訳語(超国家主義、超現実主義、超閑散)
4. 俗に、その語の内容をはるかにこえていること(超忙しい、超愉快)

今風の意味は、4でしょう。流行の発端は、「超いい気持」からのように記憶していますが、同義語として、それ以前から使われていたかどうかは定かではありません。

「師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼、馬鹿野郎共が、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

この文の「超」は、1の意味でしょう。

「人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない」

島田に語ったこの一言に、嘆息を通り越して慙愧に堪えている鉄舟の心理を強調する意図で、小倉は「超」をつけているように感じます。とすれば、嗚呼、馬鹿野郎共が、の「共」に、鉄舟自身を加えても不思議ではないし、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、の意味がより鮮明になります。

剣の奥義を極めて無刀流を創始し、日本の禅僧として名を残すまでに禅を修めた鉄舟は賢人です。うっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが、一粒万倍(いちりゅう・まんばい)の心境で島田の行動を案じた、西郷の気持ちまで忖度している鉄舟には、自分の言動に対する人としての煩悩を強く感じます。

つまり、明治政府の重鎮・大久保利通を失わせた起因が、自分の一言にあったことへ嘆息しきれず、嘆いている。そのような意味で鉄舟の一言を捉えると、必殺の極意を鉄舟から授かった島田が大久保の暗殺に到る経緯は、鉄舟との貴重な逸話だと思います。

鉄舟の書「信」(写真)を見ていて、その動機はなんであれ、相談にきた相手の本心を見抜く難しさより、その相手を信頼することの方がより困難である。しかし、自分の眼鏡にかなった相手とは刎頚の交(ふんけいのこう)を結んで面倒をみた鉄舟の生き様を思い出しながら筆を進めている内に、こんな拙文になってしまいました。長々のお付き合い、有難うございます。
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里山に咲いていた彼岸花とクロアゲハ

2010-10-02 23:17:01 | 散策
拙宅から車で10分も掛からない所に「里山(さとやま)」と呼ばれる地域があると小耳に挟んだので、早速、10月2日、下調べに出向きました。

話を進める前に「里山」について整理します。
先ず、広辞苑(第5版)で「里山」とは、

人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林。

これでは抽象的過ぎてイメージが湧きません。
そこで、オープンコンテントの百科事典「ウィキペディア」を検索すると、

 集落、人里に接した山、あるいは地形において人間の影響を受けた生態系が存在している状態を示す言葉である。

 『元気印が描いていた里山イメージは、ウイキに近かったんでしょう』

ボケ封じ観音さまが問いかけてきます。

 『我が家の近くには、元気印が考えているような里山は見当たらない。百聞は一見にしかず。現地へ車を飛ばして里山探しです』

 『それで、どうなりましたか?』

 『千葉県は、人里近くの樹林地、又はこれと一体となった草地、湿地、水辺地等を里山と定義して、千葉の里山・森づくりプロジェクトを立ち上げ、そのリーデイング事業・活動の候補地として16箇所選定し、千葉の里山を保全し持続的に里山が発展する利用・活用するシステムを再構築することを狙っているようです』

 『千葉市鹿島川・都川(みやこがわ)中・上流地域周辺は、その中にあるプロジェクトのひとつだったんですね』

先刻ご存知の観音さまは、元気印を試しています。
 
 『谷当(やとう:千葉市若葉区谷当町)地区の里山活動は、わたしの田舎「谷当工房」が担っている様子なので、工房周辺を探索します』

「谷当工房」の入口右側には、歴史の重荷を背負って佇んでいる地蔵堂があります。
その地蔵堂周辺には彼岸花が植えてあり、花は盛りを迎えていました。
9時過ぎに地蔵堂へ着き、彼岸花が目に留まりシャッターを切っていると、クロアゲハ(黒揚羽)が朝の吸密に訪れたのです(写真)。

20数本ある彼岸花から密の匂いを嗅ぎとり、元気印など全く無視して、わき目も振らずに密を吸い取るのです。このクロアゲハは、カメラ目線をして吸密する余裕があったのでしょう。

 『里山は見付かりましたか?』

人里近くの樹林地、又はこれと一体となった草地、湿地、水辺地等はあるようですが、クロアゲハと彼岸花に夢中になってしまい、次回に延ばす羽目に追い込まれた里山探索でした。

ところで、彼岸花の花言葉には、

「再会」「想うはあなた一人」と「また合う日を楽しみに」があります。

 『ピンポーン。勘が冴えていますね。里山の言葉遊びは終わったでしょう。彼岸花とクロアゲハから送られた秋波には、ちゃんと応えましょう、よ・・・』

ボケ封じ観音さまから督促されては、谷当の里山詮索は初冬まで続きそうです。
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