いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

澆季(ぎょうき)に蘇る書:号外:中国漁船衝突映像を公開した人物の志を忖度

2010-11-11 06:40:27 | 時の話題
沖縄・尖閣諸島沖で、中国漁船が日本の巡視船を追逐し衝突した映像をインターネット上に公開した人物が10日、名乗り出ました。海上保安庁から告発を受けた警視庁捜査1課は昨日、沖縄県警との合同捜査本部を設置した矢先のことです。

国会やメディアは、そのことで賛否議論が噴出しているので、何方もご存知でしょうし、月光仮面が現れたと、当意即妙な表現をした著名な方もおられる位ですから、現政権に対する逆風は勢いを増すばかりのようです。

さて、写真の書は山岡鉄舟が書いた「徳」です。
鉄舟がこの書を認めた意図がなんであったのかは図り知ることが出来ませので、「字通」(白川静著・平凡社刊)に当ります。

徳は、得も同音とあります。
そこで、へそ曲がり元気印の勝手気ままな判断で、その双方から熟語を選んでみます。

徳義(とくぎ):道徳と正義
得民(とくみん):民心を収める
得罪(とくざい):罪を受ける

ここからは、明治天皇と鉄舟の話です。
鉄舟のエピソードを漁っていて『文藝春秋にみる坂本龍馬と幕末維新』(文藝春秋編)の目次に「人間・明治天皇」があり、山岡鉄舟は名だたる剣客だった、の書き出しに魅せられて購入しました。
そこから、明治天皇の君意(くんい:天皇の意向)に迎合しなかった鉄舟を引用します。

『陛下がまだお若い時のこと、お夕食に鉄舟と某侍従とが御用をしていた。陛下は盃をお手に某侍従に、「わが日本もこれからは、法律で治めなければいけない」とおっしゃった。某侍従は「国を治める大本(おおもと)は道徳にあるかと存じます」とお 答えする。陛下は「いや、それは昔のことだ、今の世に道徳などは何にもならぬ」とおっしゃる』

君意に対して某侍従が抗弁するような訳で、自然一場の議論に発展すると、興に添った陛下は鉄舟に「山岡の意見はどうか、わたしに賛成か不賛成か」とおっしゃり、鉄舟はここではじめて口を開きます。

『おそれながら日本を法律だけで治めようとなされば、人民は皇大明神を拝まないようになろうと存じます、とお答えした。これには陛下もぐっとおつまりになったらしい。見る見るお怒りの御様子をお示しになり、さらに大盃で幾盃かお重ねになった上で、「山岡、相撲一番来い」とおっしゃって、つとお立ち上がりになった』

なおも陛下に厳しく迫られても「おそれ入ったことでございます」と、鉄舟は平身低頭します。
これ以降の話は、明治天皇を投げ飛ばしたとされる鉄舟の相撲逸話で喧伝されているので省略します。
ちなみに、ここに引用した明治天皇と鉄舟の話は、入江相政(いりえ・すけまさ)が、文芸春秋の昭和41年1月号に発表した一文です。

この一文を引用したのは、僭越とは思うのですが、このブログに引用した範囲内での明治天皇は今の内閣や海上保安庁であり、映像をインターネット上に流した人物は、鉄舟に譬えてもおかしくはないからです。

映像をインターネット上に公開したと名乗り出た人物は、日本の法律に従って逮捕した漁船の船長達を裁判も開かないまま釈放する是非を問い、しかも、国家公務員法違反者として告発した自らが所属している組織の理不尽な行動へ徳義を質しているのでしょう。そして、本事件に対する日本人の得民をほぼ得られた今、国家公務員の守秘義務の有無を判断する秘密性が問われている映像をネット上に掲載したとしても、その人物は得罪の心境にあるのではないでしょうか。

なにはともあれ、鉄舟の剣の腕を試そうと御殿の中でいきなり木刀で斬りつけ見事に受け返され、国を統治する考えを問うて、鉄舟の鋭い返答に立腹して相撲を強要する明治天皇と鉄舟とのやり取りには、感慨深いものを感じます。特に、明治天皇は自分の行き過ぎた言動をすぐに認めても、それの実行を強要した鉄舟とは刎頸の交わりを深めていきます。
二人の言動には、政(まつりごと)における徳義や得民とは何かを考えさせられています。
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桜田門外の変と房総のむらに復元された武家屋敷

2010-10-27 23:21:52 | 時の話題
房総のむらに復元した武家屋敷(写真)は、シニアジュクが開催した「さわやか散策」の実踏時、「桜田門外の変」のロケが行われていたので、見学できなかった。
そんな腐れ縁があって、映画を観る羽目になってしまい、先日観て来ました。

何となくロケに使ったシーンは推察できますが、詮索好きの映画フアンの楽しみを半減したくないので、どこであるかは省略します。

さて、房総のむらの武家屋敷です。
房総のむらWEBでは、佐倉藩の武士であった田嶋伝左衛門の屋敷であった、と紹介されています。
慶応元(1865)年佐倉藩堀田氏分限帳に記されているようです。

一方、佐倉市には、佐倉藩士の武家屋敷が3軒復元されています。
佐倉市に残されている最古の武家屋敷は旧河原(かわら)家住居で、その接客部分の建物が弘化2(1845)年には建てられており、300石取の武士が住んでいたことまでは、判っているようです。

旧但馬(たじま)家住居は、天保年間(1830~1844)年には既に建てられており、100石取の武士・井口郡内が住んでいたようです。

斉藤氏の屋敷に90石取の武士・依田平内が文政5(1822)年前後に居住したとされる旧武居(たけい)家住居は、房総のむらのモデルとなった武家屋敷です。田嶋伝左衛門と育太郎は、依田平内の後に移住し、万延元(1860)年から明治初期まで住んでいました。

房総のむらWEBで紹介されている田嶋伝左衛門の屋敷は、旧武居家住居でした。明治33(1900)年に武居氏が取得したので、佐倉市では旧武居氏住居と紹介しています。

ところで、桜田門外の変と佐倉藩士の武家屋敷との関係は無いようですが・・・。
映画のストーリーは書きませんが、日米修好通商条約調印の勅旨を得ようと奔走し失敗に終わった老中首座・堀田正陸(まさよし)は、第五代下総佐倉藩主でした。

映画では、井伊、堀田憎し、とする水戸藩士たちの感情の高ぶりがセリフで語られています。
正陸は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)とは外交問題を巡って意見が合わず対立していたから、堀田憎し、の水戸藩風が生まれたのでしょうし、そんな歴史を背負った佐倉藩士の屋敷をモデルに復元した房総のむら武家屋敷が、ロケに使われたことに因縁めいたものを感じます。
映画の主人公は、井伊直弼暗殺の実行部隊指揮者、水戸藩士・関鉄之助(大沢たかお)ですから、一層その感が強くなります。

海音寺潮五郎は「明治を創った巨人たち」に書き残しています。

ご存知のこととは思いますが、桜田門外の変は、東で井伊を倒せば、幕府は朝廷に圧迫を加えるとの目論みから密約を交わした水戸藩と薩摩藩の合作である、と言われています。
つまり、時の大老・井伊直弼を水戸藩士が倒し、朝廷の守護は薩摩藩士が引き受けるとの談合があって、現在の警視庁前辺りの道、桜田門の前にある内堀通で井伊直弼は斬殺されたのです。

そして、直弼暗殺の後、鉄之助は「約束によって出てきてくれ」と薩摩の関所で訴えます。
薩摩藩内では、「関さんに応じなければ、薩摩隼人の名折れだ」との議論が沸騰したのですが、約束は反古にされ、水戸藩の志は破綻します。

それを決断・実行した張本人は、大久保利通でした。
桜田門外の変に加わった薩摩藩士・有馬雄助は、薩摩に連れ戻されたその晩に切腹を命じられます。しかも、利通の多年の同士であった雄助がですよ。

明治の功労者、最初の土台をつくったのは、大久保利通でしょうね。
現在の日本産業の基礎は、利通が作ったといってもよいでしょう。吉田茂爺さんは、大久保を最も尊敬していたそうです、とも記しています(文藝春秋・昭和42年12月号から抜粋)。

その利通は、紀尾井坂の変で斬殺されます。変の首謀者・島田一良(いちろう)については、前に書きましたので、ここでは触れません。

水戸藩との密約を反古にした利通が、明治11(1878)年5月14日、島田らに暗殺されたことは既に書きました。享年49、平均寿命が延びた現代でも、脂が乗った働き盛りです。

他方の鉄之助は、直弼暗殺を成就した後でも薩摩藩から門前払いを受け、近畿・四国の各地を逃亡していたのですが、水戸藩領へ向かい領内を転々と潜伏しても身辺には追手の危険がせまり、逃れた越後の湯沢温泉で捕縛、投獄されます。それから、江戸日本橋の小伝馬町牢に転送されます。
そこで、鉄之助は一良の首を刎ねた首斬浅右衛門(元気印の推測)に斬首され刑場の露と消えるのです。時は文久2(1862)年5月11日、享年39。今風に言えば、真っ盛りの壮年ですね。

なにはともあれ、房総のむらに復元された佐倉藩士の武家屋敷と映画「桜田門外の変」は、日本が近代化を目指して蠢動(しゅんどう)を始めた、幕末から明治に生まれ変わるために激変する歴史との因縁で結ばれているように思われてなりません。
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狂った果実:体育の日に咲くオクラと若い果実

2010-10-11 17:17:55 | 時の話題
5月の連休に苗を植えたオクラ。
猛暑前は生育が遅いので、放っぱらかしにしておいたのですが、それでも猛暑を乗り切り、雨が降ってからは結構収穫がありました。
一般的に、オクラの収穫期は6月中旬から9月末です。
例年だと、今頃のオクラは背丈が2m近くに伸び、花は茎の上の方に咲きます。
50から60cm位の背丈で、例年の3分の1しか伸び切れなかった今年のオクラは、花の上に展開葉があるのです。採らずに置いた多くの果実は、乾燥して土色に変色しています。

この展開葉は、生育が順調でないと見られない、と野菜づくりの手引きに説明がありますから、花の右上に見える果実は一週間後には食べ頃に生育するはずです。花の陰になって見えにくいのですが、右下にある果実は2日後には収穫しないと、実が硬くなり折角の風味を損ねてしまいそうです。

「勿体ない。来年植えるオクラの種は、調理せずに棄てられた親の怨念を宿しますよ」

ボケ封じ観音さまの忠告が聞こえてきます。
実は、遅い収穫ばかりが続き、厳しい猛暑を耐え抜き果実をつけたオクラに気兼ねしている今日この頃なのです。もう少し大きくしてから、と欲にかられてオクラの生育を眺めている内に食べごろを失したことを、観音さまはお見通しでした。

それにしても、日中の最高気温が30℃以上になった真夏日、35℃以上になった猛暑日の連続記録を塗り替えた今年。やれエアコンだ、それ扇風機は、と慌てふためいた人様とは無縁のオクラたち。
10月に入ってからも日中の気温が20℃以上になる夏日があるから、オクラたちは花を咲かせ果実を実らせてからでないと、限られた短い生命を終えるわけにはいかない。自分達の子孫は残さなければならないから。これは、元気印の勝手な解釈です。

そのようなオクラたちを元気印は、今の時期にオクラガ狂い咲きしている、これから実がなるようだ、などと揶揄しますが、彼・彼女らにとっては、自然の成り行きです。

「そこです。狂った果実なんて、とんでもない。オクラに失礼です。時期外れの花(写真)にしては、自信満々の表情をしていますよ」

ボケ封じ観音さまは、オクラの本音を代弁します。

今日の家庭菜園の草刈りには、収穫を終えたゴウヤ、夏キュウリ、そしてオクラを含めていました。夏キュウリの根を引き抜き、枯れた茎をカマで寸断しているときに、隣に植えたオクラの花が目に留まります。
一瞬ですが、オクラは写真を撮ってから整理しても良いのでは、との考えが脳裏を横切り、生育を支える柱と網からゴウヤの茎や蔓(つる)の取り外しに掛ります。1昨年はこの逆の手順で網を駄目にしていたので、昨年同様、この作業手順で無事に網を回収しました。

拙宅にカメラを取りに行き畑へ戻るまでの数分間に、もう少し様子を見てからオクラは整理しよう、オクラの刈り取りを延ばす気持ちが決まったのですが、山田吉亮(よしふさ)に斬首された島田一良(いちろう)の残像が消えていなかったから・・・。
その経緯は8日に書き、吉亮にまつわる資料集めをしている最中ですから、それの影響も大きいようです。
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東京スカイツリーの新名所と津軽じょんがら節

2010-08-25 19:47:00 | 時の話題
日曜日の8月22日、家内の兄夫婦の案内で東京スカイツリーを見学することになり、午前11時30分迄に風雷神門(雷門)の前で合流。時間を厳守するように、と言い残した家内は、相模大野にいる次男の所へ行ってしまいます。
というのは、20日に富士山に登ろう、と次男の孫から誘われていたのです。21日に家内は千葉には戻らないで、錦糸町にいる義兄の所に泊まるので、別行動になるからです。

雷門から宝蔵門に至る表参道は、連日の猛暑などなんのその、見学者でごった返しています。
表参道左右にある仲見世商店裏の通りから本堂へ向かいます。この通りを利用する見学者はごく稀で、商店街で買物をしない時は、余計な時間を掛けずに参拝できます。

今日の主役は、義兄夫妻です。
午前11時30分に雷門の前で合流すると、昼食は義兄夫妻が利用している和えん亭「吉幸」でした。

飛騨木材のぬくもりを充満させている和風店内で「和えん御膳」を食べていると、津軽三味線を弾く音が、店内に響きわたってくるのです。

この店の経営者は、津軽三味線の名取りのようです。
「幸大(こうだい)」という芸名を持ち、一日数回、舞台を店内にしつらえ、津軽三味線を弾いています。
義兄夫妻は、12時15分からの津軽三味線演奏にあわせて、雷門前での待合時間を決めていたのです。

師匠と弟子との津軽三味線協演や「あいや節」の独演の合間に、芸者三味の弾き方や沖縄音階の三味線リズムを師匠が解説・実演してくれます。そして、「じょんがら節」の独演になります。
津軽三味の響きが、飛騨木のぬくもりと協和して、久し振りにした義兄夫婦との会食雰囲気を、弥が上(いやがうえ)にも盛り立ててくれます。
「じょんがら節」に包まれての和食会席、浅草寺境内の弁天山前にある古民家造りの和えん亭「吉幸」での昼食会は、心に残るシニア夫婦の団欒になりました。

さて、雷門前の通りを隅田川に向かうと直ぐに吾妻橋(あずまばし)です。
アサヒビールタワーとスーパードライホール、墨田区役所だけの風景写真は、これまでに大勢の人が撮っていますが、「炎のオブジエ」が人の排泄物を連想させるために評判が悪い、との伝聞がありますから、あまり歓迎されていないでしょう。

ところが、「炎のオブジエ」は、躍進するアサヒビールの心の象徴でした。
スーパードライホールをデザインしたフィリップ・スタルク氏の作品だったのです。
ブログを書くに当たり、情報収集をしていて解かったことです。

東京スカイツリーの右横に見えるアサヒビールタワーは、琥珀色のガラスの外壁で被い、タワー頭頂を白い外壁にして、ビールジョッキをイメージした建物とのこと。
「炎のオブジエ」後に見える墨田区役所とスカイツリー左側の建物について、ここでは触れません。

東武伊勢崎線・業平橋(なりひらばし)駅前に建設されている東京スカイツリーの高さは、8月22日現在418メートルでした。
このスカイツリーも吾妻橋(写真)から観ると、アサヒビールタワーと同じ高さですが、間近での高さ418メートルは、とてつもなく巨大な身長です。背を反らせないと展望台が見られません。10秒も見上げていると首が痛くなる高さです。

すでにご承知のことでしょうが、世界一高いビルは、828メートルのブルジュ・ハリフア(アラブ首長国・ドバイ)です。
しかも、超高層ビル、自立型建造物、建造物、軒高、内部施設に係わるもの(フロア数など)でも世界最大とのこと。

ブルジュ・ハリフアには及びませんが、東京スカイツリーは完成後、634メートルになります。今はアサヒビールタワーと同じ高さに観えますが、634メートルのスカイツリーが完成すると、現在の高さの半分を加えたところに頂点がきます。

その時、左右にある建物よりもスカイツリーが高くなるので、写真としては面白い構図が得られそうです。
東京スカイツリーを中心に据えた構図の写真は、悪評の高い「炎のオブジエ」の評価を覆し、名誉挽回に少しは役立つことを願っています。

あれや、これやと思いを巡らせながら、竣工した東京スカイツリーをイメージしている内に、和えん亭「吉幸」で弾かれていた、あの「じょんがら節」が、浅草寺の方から聴こえてくるのです。

なにはともあれ、3年ぶりの浅草寺参拝も兼ねたスカイツリー見学でしたが、津軽三味線を聴かせてくれる「吉幸」と出会う機会を得ました。東京スカイツリーの名所探索をする時の拠点が見付かり、楽しみが増えました。
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がんばり屋のすずしろ!!千秋楽を観る

2010-04-21 22:38:33 | 時の話題
秋大根の種まき時期が遅れたので葉大根になってしまった。
越冬した青首大根野郎達の葉には、根より豊富なビタミンA、Cが含まれているようですね。

種まき時期が遅れたため葉大根に変身して冬を過ごした青首大根野郎達の根は、赤ん坊のすねほどにしか成育せず、葉だけがぐんぐん成長して、花を咲かせたのです(写真)。
それも、葉だけを食材にした家内に引き抜かれたのですが、畑の中に僅かに根の先端を残した奴(やつ)だったのです。こやつは、大器晩成なのでしょうか・・・。

我が家では、大根の葉を「おひたし」の食材にしていますが、味噌汁の具、漬物、油で軽く炒めるなどして食すると美味しいようです。

大根は、漬物、煮物、鍋物、なます、サラダや刺身のつまみなどに調理されて、日常の食生活でも馴染みの深い野菜です。

なんといっても、大根野郎達の自慢は、彼らが引き起こす食中毒が皆無であること。
あたらない役者のことを「大根役者」と揶揄するのは、ご存知でしょう。
物好きな贔屓者でも、下手な役者の芝居は観劇する気にはなれない。つまり、下手な役者の芝居は「当たらない」ので、「大根を食べても当たらない」ことに掛けた呼び名のようです。

江戸時代の野菜の中で最も品種の多かった野菜は大根野郎達であった、との記録が「享保・元文諸国産物帳」にあるようですから、大根の歴史はかなり古いようです。

春の七草があります。
せり(芹)、なずな(薺:ぺんぺん草)、ごぎょう(御形:母子草・ハハコグサ)、はこべら(繁縷:ハコベ)、ほとけのざ(仏の座:小鬼田平子・コオニタビコラ)、すずな(鈴菜:蕪・カブ)、すずしろ(清白:大根)が、それです。

その昔の七草は種類が違い、現在のような種類になったのは南北朝時代の貞治元(1362)年ころに書かれた[源氏物語]の注釈書「河海抄:かかいしょう」に初見されるようですから、すずしろが食卓に現れた時代は、それよりも前になるのでは・・・。

「春の七草は、農耕の伝来とともに渡来した史前帰化植物や東南アジアから中国・朝鮮などに広く分布する植物と栽培植物からなっている。七草粥の習慣も伝来のものであるが、その材料もすべて伝来のものと考えて良さそうである」(岡山理科大学・総合情報部Web)。

なにはともあれ、厳しかった冬を乗り切り、数十年ぶりに襲った4月半ばの降雪や酷寒にも負けす、自らの生命を懸命に維持していた青首大根野郎たちは、摂氏22度になった4月21日、トウモロコシ畑を作る犠牲になったのです。

大器晩成したすずしろの花を見ていると、役者大根の千秋楽を観ているような錯覚を覚え、鎌で斬るのが愛おしくなり、記念写真にして再会を楽しむことにしました。
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澆季(ぎょうき)に蘇る書 その1:弾誓の名号書

2009-12-08 20:56:05 | 時の話題
長野市内に宿泊する仕事が縁となり、渋温泉「外湯巡り」の九番結願湯・大湯に掲げてあった、山岡鉄舟揮毫の扁額に巡り合い、諏訪大社下社・春宮の「お舟渡り」が始まるまでの時間つぶしで偶然「万治の石仏」と出会ってから弾誓上人(たんぜい・しょうにん)の存在を知り、その付合いが続いています。

さて、弾誓上人の人となりは、おおよそ次のようです。

『天文20年生。尾張の人。安土桃山・江戸時代前期の浄土宗の僧。白衣・乱髪垂肩の異相の山居(さんきょ:山中に住むこと)念仏修行者として知られる。幼くして沙弥(みしゃく)となり、弾誓と号して各地を遍歴。天正9年、佐渡檀特山(だんとくさん)に入り、慶長2年、岩窟で弥陀説法の霊瑞(れいずい:不思議なめでたいしるし:弥陀直授の説法はのち「弾誓経」と称される)を得た。信濃に出て諏訪唐沢(からさわ)阿弥陀寺を造立、慶長8年、相模の塔の峰に入り、小田原城主・大久保忠隣(ただちか)の帰依を受け塔の峰阿弥陀寺を開いた。同14年上洛、古知谷(こちだに:京都市左京区大原)に草庵を結んで阿弥陀寺と号し、道俗(どうぞく:僧侶と普通の人)を教化、同18年5月25日、63歳で没した。遺骸は遺言により7日間山林に置かれた後、廟窟に納められた』(日本仏教史辞典に追記)。

先ず、この辞典に記されている年の出来事を「日本史年表・第四版」で整理しておきます。

 天文20(1551)年:足利義藤が室町幕府12代将軍に就任してから5年目に当たる。肥後で虫害・穀価高騰し、人身売買が行われる。
 天正 9(1581)年:織田信長、高野聖(こうやひじり)千余人を斬殺。豊臣秀吉、淡路を平定。松井友閑らと清水寺で猿楽をみる。翌年6月21日、信長、本能寺の変で自刃する。
 慶長 2(1597)年:秀吉、信州善光寺如来を方広寺大仏殿に移す。小西行長・加藤清正に朝鮮攻撃を命ずる。翌年、秀吉の死を秘して徳川家康・前田利家、在朝鮮の諸将に撤兵を命ずる。
 慶長 8(1603)年:2月、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。江戸の日本橋、架橋される。出雲の阿国、京都で歌舞伎踊りを演ずる。
 慶長14(1609)年:家康、大久保忠隣を改易、大阪冬の陣を命ずる。秀頼に勧めて方広寺大仏殿の再建に着手させる。
 慶長18(1613)年:幕府、キリスト教を禁止する。関東天台宗に法度を下す(この頃、しばし諸宗に法度を下す)。

天下統一の野望に燃えた信長・秀吉・家康が総力を挙げて戦っていた時代に、弾誓上人は庶民救済の志に燃え尽きていることが分かります。

ところで、「万治の石仏」こと「浮島の阿弥陀さま」の願主・明誉と心誉については11月15日に書きました。ふたりの願主が初祖と仰ぐ弾誓上人は、63年の生涯に名号書(みょうごう・しょ)を400万枚書いたと言われています。

ちなみに、名号とは、仏(ぶつ)・菩薩の側から衆生(しゅうせい:仏・菩薩が救う生命のあるすべてのもの)に対する名乗り・呼びかけ・働きのことで、仏・菩薩の称号。この働きかけに応じて、衆生の側から仏・菩薩の名前を呼び返すこと、阿弥陀仏の名号を唱えることを念仏と言います。阿弥陀仏の名号は他のいかなる行よりも勝れた行徳があると明かした法然(ほうねん:長承2年~建暦2年:1133~1212)により、名号の価値は飛躍的に高められたようです(日本仏教史辞典)。

そして、墨書された「南無阿弥陀仏」は六字名号(ろくじ・みょうごう)と呼ばれ、浄土教において仏像と同様に最も尊重されているもの(名号本尊)で、他に九字、十字の名号があることは、既にご存知と思います。

宮島潤子氏は自著「謎の石仏-作仏聖の足跡」の中で、弾誓上人の名号書(写真:宮島潤子著:信濃の聖と木食行者)について、次のように述べています。

『弾誓は生涯にわたり名号書を400万枚書いたと『弾誓上人絵詞伝(えことばでん)』に書かれている。自筆の署名が入っている名号書は諏訪唐沢阿弥陀寺に現存している。
真中に「南無阿弥陀仏」、右側に「皈命我十万西清王也」、左側に「法国光明阿弥陀仏」とあり、およそ名僧、高僧あるいは禅僧の墨跡とはほど遠い。しかし、私が圧倒されるのは、弾誓の書には字を書くという意識が微塵もみられないことである。ひたすら念仏を唱えながら、そのリズムに乗って自然に筆が動いていくのであって、本師阿弥陀如来の心が弾誓阿弥陀仏の手と一体となり、形となって流れ出た仏作仏業(ぶっさ・ぶつごう)の書というよりほかはない』

このように評する宮島氏は、東京国立博物館書跡室長などを歴任した堀江智彦氏に日本書道史を師事し、筑波大学教授などを歴任した今井潤一(凌雪)氏に中国書道史を師事した「書」の精通者です。的を射た評価と思います。

ここで、「万治の石仏」の話になります。
春宮の参道横の橋のたもとから細い田圃道を砥川に沿って150mほど入った所に「浮島の阿弥陀様」は佇んでいます。この田圃道は、鎌道街道と呼ばれた中山道旧道であったようですが、その面影は何処にも見当たりません。
また、昭和49(1974)年の諏訪大社御柱祭りに来て「浮島の阿弥陀様」を見た岡本太郎画伯は、「世界中を歩いているが、こんな面白いものは見たことがない」と驚嘆し、「万治の石仏」と揮毫した石碑は、中仙道旧道入口に設けられました。「万治の石仏」が呼び名として定着する働きをしたようです。

ところが、仏像の眼は、頭の先から顎の先までの二分の一のところにつけるのが常識であり、「万治の石仏」は三分の一についている。「万治の石仏」の仏頭石は素人が彫ったものであるから、前衛仏像を意識したものではない。

と五来重(ごらい・しげる)氏は自著「石の宗教」の中で述べています。

「万治の石仏」に彫られた袈裟は、山伏の「執事袈裟(しゅうじ・けさ)」というもので、行脚(あんぎゃ)の時や労働の時につけるものである。したがって、願主は、この積石仏は行脚修業する僧または仏を表現しようとしたことが分かる。
本来は、山伏が行脚するのに、首から掛けたもので、この石仏を作った一派は、弁慶のように菊綴(きくとじ)のついた結袈裟(ゆいげさ)よりも、執事袈裟を掛けることを好んだものと思われる。

とも推察し、弾誓上人の宗教について次のように指摘しています。

「弾誓上人の修験道が一般の修験道と異なるところは、本山派とか当山派のような組織を持たず、大峯山とか出羽三山などに集団入峰もしないで、孤独な窟籠(いわやごも)りの修業をする点である。また、一般修験道が密教を理想として、大日如来と一体化する即身成仏(そくしん・じょうぶつ:現実の肉身のままで仏に成れるという思想)を目的とするのに対して、この一派は念仏を理想として、阿弥陀如来と一体化する即身成仏を目的とする」

「弾誓は、教団の儀礼として「仏説弾誓経」を作り、「前三重後三重切紙伝授」という教理も整えたが、仏頭伝授(ぶっとう・じゅじゅ)を受けて弾誓法流を継ぐことの出来る者は、厳しい窟籠りと木食(もくじき)その他の戒を守らなければならなかったため、後継者が絶えてしまい長続きしなかった。そして、その遺跡は天台宗または浄土宗に組み込まれて、平凡な寺院になった。しかし、その事績は「万治の石仏」として永久に伝えられることになった」

「最近、仏頭授受といって、仏頭を重んずる修験道の一派があったことが分かってきた。これは、木製の「仏頭」であるけれども現存する。それは、古知谷阿弥陀寺の仏頭で、この寺を開いた弾誓上人の遺品である」

「弾誓の仏頭授受は、自然宗教、または原始宗教時代の修験道の自然石崇拝が基礎となり、真言念仏の「宝冠の弥陀」の思想が入って、宝冠の代わりに仏頭を用いたものと思われる」

つまり、日本宗教の歴史には「万治の石仏」のような石積石仏をつくる宗教者の系譜があり、それは日本仏教史の「隠された十字架」である。「万治の石仏」に象徴される「隠された十字架」は、宮島潤子氏の研究によって明されることを強調しています。

慶長13(1608:徳川2代将軍・秀忠)年から同18年に没する迄の時期、弾誓上人は古知谷に住み、この間、弾誓上人の高徳を慕って京都から参詣に来る男女が、貴賎を問わず後を絶たなかったようです。弾誓の宗教は、庶民仏教の歴史が明らかになるにつれて、真面目に宗教を求める人や、日本文化の原点を探ろうとする人々を引き付けるという意味では、古知谷阿弥陀寺は将来、庶民信仰のメッカとして栄えていくだろうと、五来氏は弾誓に関する今後の研究に期待を寄せています。

余談です。
神戸に単身赴任していた20数年前の現役時代、三千院(京都市左京区大原)を見学したのですが、そこから僅か一キロほど奥に阿弥陀寺があることは知らず、その時は見向きもしなかったのです。

と言うことのなると、弾誓上人の唱えた修験道は現在、仏教界でどのような位置付けがなされているのか、気になります。そこで、平成2(1990)年頃の日本の仏教状況を調べて見ます。

奈良仏教、天台宗、真言宗などの系列が7系あり、その中に律宗、天台宗、真言宗などの宗派が204あります。弾誓の宗派は、浄土系浄土宗捨世派(しゃせいは)になっており、弾誓は、捨世派念仏僧。捨世派の開祖は称念(しょうねん)、間通(かんつう)が捨世主義をとる浄土律の高僧、とされています。
そして、捨世派は清閑の地に道場を設け、念仏修業に徹し、もって法然の恩徳に報いんとする一派で、中世期における浄土宗門の新念仏運動。建物としての本堂は、東向きに同派の流儀にそって造らせ、けやきの欄干で内陣と下陣を厳重に仕切るなどの優れた特徴が多く見られる。さらに、当時の寺院が俗化するのを嘆き、静かな場所で念仏に専念したのは同派である、とも記述されています(日本仏教宗派事典・1993年11月発行)。

宮島氏は、万治3(1660)年5月25日、弾誓上人の50回忌が諏訪唐沢阿弥陀寺で行われ、祖師と仰ぐ弾誓の50回忌を終えた明誉と心誉が「万治の石仏」を造立したことを突き止めていますし、そのことは、これまでに書いてきました。
五来氏が仏頭を重んずる修験道の一派があったと推察したヒントは、宮島氏が「万治の石仏」出自の謎を解いた業績によるもの、と讃えています。

「字を書くという意識が微塵もみられない」弾誓上人の名号書を授けられた「浮島の阿弥陀様」は、日夜の修行・行脚に執事袈裟を掛けて念仏を唱え、澆季に警鐘を鳴らしたい衝動に耐え忍んでいるのかも知れません。
昨今の世相は、「浮島の阿弥陀様」の唱える念仏の意味を忖度したくなるほど、むちゃくちゃな様相に陥っていませんか。
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信州善光寺:御開帳最終日に 前立本尊を駆け込み参拝

2009-06-03 18:28:34 | 時の話題
長野市での仕事にかこつけて信州善光寺の御開帳を駆け込み参拝してきました。
信州善光寺のご本尊は一光三尊阿弥陀如来(いこうさんぞん・あみだにょらい)ですが、古来より秘仏とされ非公開のため、前立本尊(まえだちほんぞん)が収められている厨司(ずし)を本堂に移して扉を開く御開帳が執り行われていたのです。
丑(うし)年の今年は、その御開帳の年に当たりますが、この機会を逃すと6年後の未(ひつじ)年まで待つことになります。
急遽、日帰り予定を宿泊に切り替え。

今年の御開帳は、4月5日から5月31日までの56日間で終りです。
通年やっていると勝手に考えていたのですが、今日は5月30日。
まだ最終日が残っている、と考え直しホテル探しです。手頃な宿泊料金で泊まれるホテルが見付かり、心置きなく仕事に没頭します。現役時代の習い性は、そう簡単に抜けません。

さて、御開帳に参拝する人の目的は、回向柱(えこうばしら)に触れてご利益を得ることです。
30日の昼頃の参道は、回向柱に触れる参拝者が凡そ横10人並びで600m近い行列を作っています。行列の両脇に出来た隙間道を通り抜けて、参道入口から仁王門を潜り仲見世通りへ入り山門へ向かいますが、この間どこも、参道の9割以上は参拝者の列で溢れています。回向柱のご参拝には2時間ほど掛かりますとの放送が流れても、行列で並んでいる参拝者は、馬耳東風の様です。

その回向柱は、本堂の前に建立されています(写真)。
回向柱に巻かれている白い布は5色の糸に代わり、その先は金糸となって阿弥陀如来の右手に結ばれています。つまり、回向柱に触れることは、白い善の綱を通じて、ご本尊に触れるのと同じ功徳を得られると信じられており、2時間も待つ行列に並ぶ訳です。

仕事が終わったのは、21時少し前ですが、雨が降っています。
明日8時に回向柱参拝をする積りでホテルのチエックインをします。
参拝者は4時から並んでいるから8時では遅いと、フロントの方から忠告があり、荷物を部屋に置いてホテルを後にします。

直ぐに参拝と決めたまでは良かったのですが、善光寺行きのバスはなし。昼間利用したタクシーは、往復2,000円で少しお釣りがある出費でしたから、雨に負けず2km弱の参道を徒歩で善光寺へ出発です。この行動は、現役時代の習慣とは違っているところですよ。

21時40分頃、仁王門を潜ったのですが、雨にもかかわらず、回向柱参拝に1時間ほど掛かりました。
仁王門と山門の中間当たりが最後尾となる参拝者の行列ができたいたのです。
横に並んだ松伏町からこられたご夫妻は、雨の降る夜の時間に参拝すれば待たなくて済むと考えて来たのに当てが外れた、と苦笑していた位です。

最終日の31日は、5時半から行動を開始します。
長野駅前から「びんずる、お朝事バス」と案内した善光寺行バスが出ていたので、即利用し、100円の交通費で済ませます。
昨夜来の雨は上がり、今朝は曇天の空模様です。
ちなみに、「朝事」は「あさじ」と読み、本堂で毎日行われる勧行(ごんぎょう)、毎朝本堂で行われるお勤め(読経)を意味し、朝事の開始時間は、日の出の時刻によって分単位で変動します(善光寺ウエブサイト)。「びんずる」は、撫仏(なでぼとけ)の「びんずる尊者」の略でしょうか・・・。

やはり、5時前から回向柱を参拝する人の長蛇の行列が出来ていました。
今朝は行列を横目に見ながら本堂へ直行です。昨夜下した参拝決断のご利益でしょうし、三文の徳があった早起きになったのですから。
それは、お数珠頂戴に出会う幸運に恵まれたことです。
二人の住職が本堂へ昇堂する時と退堂する時に行う行為で、参道に並んでいる信徒の頭を数珠で撫でて功徳を授ける行いが「お数珠頂戴」です。

山門前の参道でお数珠を頂戴してから、本堂の内々陣(ないないじん)に安置された前立本尊の参拝です。このために、1泊したのですから、1時間待ちの行列に並びます。
曇天の空から小雨が降り始め本降りになりましたが、列から離れる参拝者は1人も見当たりません。黙々と牛歩の行列の歩みに従って進むだけです。

本堂へ入る階段を登り、外陣(げじん)の回廊には病を癒す「びんずる尊者像」が安置されています。
お釈迦さまの弟子の十六羅漢の筆頭が賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)で、自分の患部と同じ場所を撫でてから、自分の患部を撫でると病気が治ると言われていることは、ご存知と思います。

内陣(ないじん)は、前立本尊の参拝者で一杯です。
内陣の奥にある内々陣(ないないじん)に安置された前立本尊の参拝は、5列になってお焼香をして行うので、その時間がかります。なかなか行列は前進しません。ただ、お焼香の番が来るのを待ち続けるだけです。

浄土宗と天台宗の僧侶が住職を務める信州善光寺ですが、参拝者の宗派を問わないと聞いたので参拝に訪れたのです。
元気印は浄土真宗ですから、参拝する人の宗派は様々で、参拝を待っている人たちは、呉越同舟の想いでしょうね。

その間に、内陣右に安置されている地蔵菩薩、左に鎮座している弥勒菩薩(みろくぼさつ)を眺めたり、欄間の来迎二十五菩薩を見上げたりするのですが、どうしても、中央の前立本尊に目が移ってしまうのです。
信州善光寺を創建したとされる本田善光(よしみつ)と、妻の弥生、息子の善佐(よしすけ)の三卿像が、前立本尊の右後方に祀られていることは、新幹線の車内でガイドブックを読んで知ったくらいです。

やっとこさ、金色に耀く厨子に安置されている前立本尊に参拝です。
絶対秘仏とされているご本尊は参拝者に公開できないので、前立本尊が分身仏としてその代役を務めています。
ご本尊の弥陀如来は、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩(せいしぼさつ)を脇侍(きょうじ・わきじ)として、ひとつの光背の中に立っておられます。これが名前の由来になっています(善光寺御開帳ガイドブック他)。

南無阿弥陀仏を3回唱えて、お焼香を終え本堂を出ます。境内は土砂降りの雨になっています。
雨中の山門を見上げていると「羅生門」(監督:黒澤明)の土砂降りのシーンを想い起こし、重要文化財に指定されている山門は、御開帳に併せて公開していたので拝観してから、仲見世通りにある店で朝粥を摂ることに。

信州善光寺の出開帳(でかいちょう:他国へ出向いて行う御開帳)に前立本尊と同行した釈迦涅槃像(しゃか・ねはんぞう)が安置されている世尊院(せそんいん)、通称「釈迦堂」の参拝を忘れていたので、引き返す羽目に。現在行われている御開帳は、国許で行う「居開帳」(いかいちょう)です。

というのは、釈迦堂の前にも本堂の回向柱より小さい回向柱が建立されていたからです。
お釈迦さまは「この世」の、阿弥陀如来さまは「あの世」の幸せを約束するとされ、両方の回向柱に触れることによって、現世と来世の結縁(けちえん)が出来ると信じられているからです(同上)。

釈迦堂前の回向柱に触れて、南無阿弥陀仏を3回唱えてから釈迦涅槃像を拝観します。
昨日は参拝者の行列がありましたが、待たずに参拝できたのは、前立本尊を参拝したご利益かも知れないなどと考えながら帰途に着きます。
土砂降りだった雨も小雨になり、徒歩で長野駅に向う途中で巡回バスが来たのでそれに乗り、駅に着いたのは9時50分。10時2分発、上り長野新幹線に間に合います。途中でバスに乗ったことが良かった。

なにはともあれ、4時間近い信州善光寺の御開帳参拝は、想い出に残る初体験になりました。

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もみ殻で焼き芋作り

2008-10-21 06:37:33 | 時の話題
横浜に住んでいる次男一家が遊びに来たので、10月19日に開催された「富田町コスモス祭り」へ出かけました。

昨日、家庭菜園でさつま芋掘りを済ませている孫たちの狙いは、落花掘(らっかぼり)です。
落花生を植えてある畝、1列の長さが2m位ある2列の畝で落下堀をします。
おおよそバケツ一杯の落花生が採れ、帰宅してから丹念に水洗いをして茹で落花生を作ります。
強めの塩味をつけると結構いけます。食べだすとキリがありません。

ニンジン堀りに移った奥方達は、孫達を誘って大根の収穫に取りかかります。
大根抜きは3本、ニンジン袋を見た主催者は、おまけ大根1本を引き抜いて奥方に手渡します。
旦那の心憎い気配りに感心しました。

昨今、お役所では、地域振興の必要性が声高に叫ばれていますが、我が千葉市若葉区冨田町のコスモス祭りは第11回目を迎え、かつ、富田町自治会は、5年前の第42回農林水産祭村づくり部門で農林水産大臣賞に耀いていたのです。
孫達のコスモス祭りに同行して、初めて知りました。

それから、祭りでは焼き芋つくりを拝見しました。
薄い金紙に包んださつま芋を、火でいぶしたもみ殻のなかに埋めて、じっくりと焼きます(写真)。
薄い金紙に包んださつま芋にもみ殻を被せています。火の気が残っているもみ殻から出ている白い煙が風に流されています。
このもみ殻の火加減を調整する中央の煙突には、苦い経験の跡を感じます。
これまでに体験した焼き芋作りのノウ・ハウがあってこそ完成した煙突です。

「シンプル・イズ・ザ・ベスト、ですね」


元気印の思惑に賛同したボケ封じ観音さまは、何かと元気を与えてくれるのです。


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日本の顔決まる! 紅白スイレンでお祝い!!

2008-09-22 18:23:59 | 時の話題
数時間前、自民党総裁に麻生太郎前幹事長が選ばれ、総理大臣が決まりました。

総裁選中から、メディアの報道は、衆議院の解散総選挙の時期に絞った番組ばかりで、元気印には気が早すぎて、その真意が理解できませんでした。
次期内閣がどのようなビジョンを持ち、国政を担うのかかが問題なのに、先読みばかりするメディアやコメンテーターが多過ぎて、腰を据えた政治番組は片手で数えても指があまる有様です。
あわてる乞食はもらいが少ないのに、ですよ。

新聞購読者やテレビ視聴者は、メディアのスクープ合戦を期待していますが、腰を据えて独自取材した番組を制作し報道するメディアは、日本には少ないですね。
記者クラブで公表された内容を伝えることで満足している現在のメディアに、スクープは難しいのでしょう。

さらに、番組を提供する時間帯の電波を買っている企業。そして、番組を制作し放送するのは放送局の関係があります。
高視聴率番組であれば、スポンサーはそれで良し。
番組を制作し放送する放送局は、スポンサーが満足する視聴率が稼げれば、番組の内容は二の次とする。
このような考えで製作された番組は、私たちの日常生活のなかに深く浸透しています。

提供する番組の企画や番組に対する関心がスポンサーにはあって然るべきと、常々、憤慨しています。  
番組の評価基準は視聴率だけ。これを、金科玉条として妄信しているスポンサーに、提供番組に対する良識を期待する視聴者のほうが間違っていますね。

そうなんです。販売促進を目的とした電波買いを最優先するスポンサーが、放送局内を肩で風を切って闊歩している間は、孫に語り継ぐ番組やスクープなんて、ないものねだりでしょう。

愚痴はよそうぜ、ボケ封じ観音さま。
新しい総理大臣が決まったお祝いです。
紅白饅頭で祝いたいのですが、紅白スイレンを進呈します。
(写真:9月11日午前10時頃、川村記念美術館のスイレン池で撮影)




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オンブバッタのオスは、総理大臣候補?

2008-09-21 01:54:28 | 時の話題
自由民主党総裁選挙投票日は9月22日に迫ってきました。
メディア報道は、福田改造内閣の幹事長・麻生太郎が優勢で、2日後に日本の命運を託す総理大臣に決まる見通しです。

麻生は、福田改造内閣が発足する過程で福田総理の要請を受け、諸々の動きを経て幹事長を受諾している(麻生・福田「政権禅譲の密約」全真相:文芸春秋10月号)。

麻生幹事長が総裁候補として特出しているのは、文春で暴露された自民党の内部事情から類推できるし、メディアは自民党の内部事情を把握出来ないほど情報収集力が落ちていないでしょう。
しかし、福田総理大臣は文春発行前に辞職してしまった。

 ♪♪
  こまっちゃうナ 総裁選が始まって
  どうしよう やっぱり火花散らすのかしら
  うれしいような こわいような
  ぎらぎら燃える 20の野望
  大勲位に聞いたら 何も言わずに
  笑っているだけ こまっちゃうナ
  総理大臣になれそうで

この心境は、総裁候補の建前でしょう。

自民党総裁候補5人の中で、総理大臣に相応しいと、元気印が考えているのは、麻生太郎。
企業の経営者と国政を担う総理大臣とは、物事の善し悪しを判断し決断する精神的な共通点があることは、誰もが推察します。
つまり、企業のトップは、従業員の家族も含めた生活を守り、総理大臣の最大の責務は、国民の生活と安全を守ることに尽きるからです。

石破茂前防衛相は、国政を担うための軸足がしっかりしていると感じ入りました。
総理大臣としての力量は未知数ですが、その存在感が頼もしい。
与謝野馨経済財政担当相は、法人税、所得税、贈与税など税制全体を見直してから消費税アップを議論すべきと強調されています。元気印は同感です。体調が万全でないようで、総理大臣の激務に耐えられるかどうか、余計な心配が頭を横切ります。
石原伸晃元政調会長、小池百合子元防衛相は、善戦しているのではないでしょうか。

 ♪♪
  こまっちゃうナ 総裁戦に勝っちゃった
  どうしよう 神輿に乗っちゃった
  うれしいような こわいような
  ぎらぎら燃える 私の野望
  大勲位に聞いたら 何も言わずに
  ウインクするだけ こまっちゃうナ
  総裁大臣になっちゃった

政権政党の総裁を目指した全ての議員の本音だったのでは・・・。

阿久悠が創った「こまっちゃうナ」の歌詞をもじって戯言を書きましたが、総理大臣は、任期を満了するまで務め挙げること。また、国政の評価尺度に内閣支持率だけを頼りにしないこと。
支持率に拘っていては、国政が疎かになるだけだから。
自党の党利党略や権力闘争で総裁の首を挿げ替えないで、総理大臣は任期を満了するまで国民のために汗を流す。任期満了に伴う総選挙で民意を問う。どこが悪いのでしょうか。

政権政党は、内閣支持率が低下する要因を常に解析し、それを評価して政策に反映させるという政治の基本を忘れないで国を治める。
アメだけでは贅肉ばかりの政策施行になります。お役所主導の政策にムチを入れて行政の舵取りをするリーダーシップが伴います。為政者は、日本の主権は国民にあることを忘れないで下さい。

自国民の生存権を抹殺した拉致問題を未だに解決できない政治家と政権政党、及び人権侵害を主張しない野党や議員、100年後になっても事務所費問題を解決しないような政党と議員に、自国の安全や生活の保障を委ねている自由主義国家の有権者は存在するのでしょうか。 

オンブバッタのカップル(写真)と出遭ったのは、川村記念美術記念館の大賀ハス池です。
小さなオスが大きなメスに乗っかった仲睦まじいカップルのように観えますが、オスがメスを独占している状態でした。メスがオスを背負う習性から、昆虫学者はオンブバッタと名付けました。

そこで、自民党総裁選祭りに出陣する神輿をオンブバッタに例えてみました。
オンブバッタのメスは、20人の総裁候補推薦者です。神輿に乗る総裁はオスです。
どうでしょう、オンブバッタの習性と山本リンダのヒット曲「こまっちゃうナ」をコラボレートすると、総裁選祭りの囃子歌、総裁選を戦う候補者の心境もどき戯言が完成したのです(文中敬称略)。



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