もし今、時間が許されたら何をしたいか…
ペンとノートを持って
朝から閉館まで一日中図書館で勉強したい!!
絵を描くことより、今、私はそれを望んでいます。
そのきっかけを与えてくれたのは
美研インターナショナルの塚田良氏ですが…
更に拍車をかけたのは『青山二郎』との出会いでした。
つい先日
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』を全て読みました。
小林秀雄がいうように、確かに青山二郎は天才です。
一般では青山二郎よりも青山二郎が教えた
小林秀雄、魯山人、中原中也、宇野千代等、
青山学園の人々の方が有名で
青山二郎はあまり知られていないのが現実です。
でも天才だからこそ青山二郎は
それで良かったのではないかと思います。
天才だからこそ人の前に出る生き方よりも
人生を楽しむ術を誰よりも知っていて
誰よりも豊かな生き方を望んでいたのだと。
今まで私は良い先生との出会いでここまで成長させて頂きましたが
本音を言えば師といえるまでではなっかた…それが私の正直な心の中です。
青山二郎こそ!今まで私が求めていた師です!!
長い間探し求めていた師です!!
青山二郎の本の中からどうしても皆様にご紹介したい文章があります。
一度に書き込むと多すぎるので
NO.1とNO.2に分けてブログに書き込みます。
是非!下記を観て下さい。
ただし!ご注意下さい!!
奥深い心の眼で文章を観て頂かなければ
青山二郎の本当の言葉は届かないのです!
『柿右衛門、九谷、その他の赤絵が一方で支那を写して遠く及ばなかったのは、「鑑賞陶器」の問題に過ぎない。いま、かたづけて置きたいのは、支那の書、朝鮮の茶碗に、和臭が及ばないと言う説である。或はこの説が正しい。
ただし、この説の正しいところから、日本の美学は何一つ生まれなかった。同時に理解もされたことがない。
その果実に到っては、
「言葉も通じない西洋人に能が解るなんて、嘘八百である。」
芥川賞をもらった作家が朝日紙上で「言葉をささえるものが論理でなく、イメージをささえるものが思想でなく、いずれも感性的な、気分的なものである」ような「絶望的な日本人」から「ぬけだす方向に努力していきたい」といっているのは、けなげ…と、「文学界」三月号「風神雷神」が言っている。増々風潮だ。
言葉をささえるものは論理でなく、
論理をささえるものは言葉である。
イメージをささえるものは思想でなく、
思想をささえるものはイメージである。』
青山二郎:著『眼の哲学』の最後の文章より
ペンとノートを持って
朝から閉館まで一日中図書館で勉強したい!!
絵を描くことより、今、私はそれを望んでいます。
そのきっかけを与えてくれたのは
美研インターナショナルの塚田良氏ですが…
更に拍車をかけたのは『青山二郎』との出会いでした。
つい先日
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』を全て読みました。
小林秀雄がいうように、確かに青山二郎は天才です。
一般では青山二郎よりも青山二郎が教えた
小林秀雄、魯山人、中原中也、宇野千代等、
青山学園の人々の方が有名で
青山二郎はあまり知られていないのが現実です。
でも天才だからこそ青山二郎は
それで良かったのではないかと思います。
天才だからこそ人の前に出る生き方よりも
人生を楽しむ術を誰よりも知っていて
誰よりも豊かな生き方を望んでいたのだと。
今まで私は良い先生との出会いでここまで成長させて頂きましたが
本音を言えば師といえるまでではなっかた…それが私の正直な心の中です。
青山二郎こそ!今まで私が求めていた師です!!
長い間探し求めていた師です!!
青山二郎の本の中からどうしても皆様にご紹介したい文章があります。
一度に書き込むと多すぎるので
NO.1とNO.2に分けてブログに書き込みます。
是非!下記を観て下さい。
ただし!ご注意下さい!!
奥深い心の眼で文章を観て頂かなければ
青山二郎の本当の言葉は届かないのです!
『柿右衛門、九谷、その他の赤絵が一方で支那を写して遠く及ばなかったのは、「鑑賞陶器」の問題に過ぎない。いま、かたづけて置きたいのは、支那の書、朝鮮の茶碗に、和臭が及ばないと言う説である。或はこの説が正しい。
ただし、この説の正しいところから、日本の美学は何一つ生まれなかった。同時に理解もされたことがない。
その果実に到っては、
「言葉も通じない西洋人に能が解るなんて、嘘八百である。」
芥川賞をもらった作家が朝日紙上で「言葉をささえるものが論理でなく、イメージをささえるものが思想でなく、いずれも感性的な、気分的なものである」ような「絶望的な日本人」から「ぬけだす方向に努力していきたい」といっているのは、けなげ…と、「文学界」三月号「風神雷神」が言っている。増々風潮だ。
言葉をささえるものは論理でなく、
論理をささえるものは言葉である。
イメージをささえるものは思想でなく、
思想をささえるものはイメージである。』
青山二郎:著『眼の哲学』の最後の文章より