TAZUKO多鶴子

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『青山二郎』こそ!長い間TAZUKO多鶴子探し求めていた師です!…NO.2

2007-05-06 | TAZUKO多鶴子からの伝言
脱構築・ポストモダン等の現代哲学の影響における建築等
様々な芸術をTAZUKO多鶴子は正しいとは思えない。
こういった個々様々な価値観によって現在崩壊状態になり
芸術は品位を失ってしまった!
そしてサブカルチャーばかりの時代になってしまったのである。
それは最も必要なものを誰も理解出来なかったからではないだろうか…。
そして千利休や青山二郎の真意を理解する人など
殆どいない事もその原因の一つである。
今までの哲学は頭の哲学で
眼の哲学が一切なかった。
青山が云う
「頭でみるのでなく、眼で観るのだ。
思考が一切止まった状態で眼玉だけで観ることである。」

今日は今まで私が心の奥底に閉まっておいた
云うに云えなかった本音の部分!
その本音の部分を意を決して!皆様にお伝えしたい。
それは青山二郎の言葉を通して…。
更に!青山二郎を理解する森孝一の優れた感性と文章にも助けら…
現在の過ちに気付く方が僅かでもいらっしゃれば嬉しく思います。
是非!眼の哲学で青山二郎の言葉を観じて下さい。

『  一、なにもしなっかた天才
先日、青山二郎の友人のい一人でもある広島の志條みよさんから著書を二冊頂いた。
…青山二郎という人は、言葉に簡単に説明のつく人でないので、
志條さんの随筆のように会話体で描写されていると、
その場に居合わせて青山二郎の話しを聞いているようで、
とても分かりやすいと思っていたからである。
~「何もお前さんを叱っているわけじゃないから、
そんなに緊張されても困るけどさ。
文士でも絵描きでも詩人でも、個性的ということばの上に胡座をかいて、
てんでんばらばら、ただあばれてるだけだろ。
それにならって一般大衆までがさ、
我もわれもと直ぐに書きたがり作りたがり、まるで檻のない動物園の運動会だよ。
少しゃあ、我慢ってことの修練をしたらどうなんだ。
仰制をすることの苦しみというものを味わったら。
忍ぶことも、味わうことも、ろくすっぽう知らないで、
一寸見たり一寸聞いたりでもう描きたい作りたいだろう。
~一億総絵描きで、
一億総詩人で、これこそ、平和と民主主義による芸術というものかね。
絵でも、文章でもさ、何故あんなに書かなきゃあならないものなんだろう。
趣味というものなら、もっと品がよくって、
高尚でなきゃあならないだろうし、
職業なら、もっと厳格で、
しっかりしてなきゃならないものだろう。
書くという流行が、流行しているだけじゃないか。
~そうさ、ことばの裏にある本当の意味を落っことして、
反対に勢いづいちゃったのさ。
観るもの聞くもの無節操無反省にただ書きますわよ。
単純この上もなき、半ば脅しのようなキャッチフレーズになってさ。
言葉というものが軽んじられ始めた証拠だね。
一事が万事かくの如き流れに乗って人心も文化も軽薄化しました。
文字も絵画も内容は安直になり、技術は軽便になりました。
一億総水割りウイスキーを飲んで、文化花盛りということさ。
男女同権でいかなる場所にも同席して憚(はばか)らず、
小さい物より大きい物、遅い物よりも速い物、
質よりも量が優先し、
心よりも物が人を支配する時代となりました。
文化人はいても教養人はいなくなりました。
何が高級で何が低級かも分からい。
箍(たが)が弛んだ桶の中の水がじわじわと低き低きに流れ出して、
やがて元も子もなく空っぽになって行くのに気付かないでいる。」
少し長くなったが、志條さんの随筆の中から会話のほんの一部をここに抜き書きしてみた。
おそらく二十年以上昔の会話だと思われるが…」』

青山二郎の上記の言葉は、まさに現代へのメッセージと私は痛感する。
そしてこの流れは自然破壊に繋がる畏怖を私は観じる。

参考資料
『青山二郎 眼の哲学 利休伝ノート』
「人と作品」森孝一