ブログ写真は『雪舟』が幼い頃
禅僧の修行をした
『宝福寺』(岡山県総社市)です。
今までTAZUKO多鶴子は
油彩画、水彩画、日本画、水墨画、浮世絵、仏画、等
美術史上に残る沢山の作品を
アメリカ、イタリア、台湾、日本の
様々な国を通して随分長い間鑑賞して来ました。
その多くを鑑賞した中で
『雪舟』の作品は最高だと思うのです。
特に『山水長巻』の作品は動いている…最高です!!
鳥肌が立つ程の感動です
(海北友松の龍の絵以上に!ダヴィンチの最後の晩餐以上に凄いですよ!)
そう!青山二郎の云う
優れた陶器は自らが喋る!語る…
この雪舟の絵をみて、喋るように!語るように!私は観じるのです。
そして品格があるのです!
でも…
残念な事に西洋では
『雪舟』よりも『北斎』の方が優れていると
感じていた過去の事実があるようですね。
以前、西洋では水墨画はデッサンと判断していて
(おそらくそれだけの理由では無く
北斎の絵が西洋文化にあうのだと思うのですが…)
習作と思っていたようで
雪舟の絵を認めなかったようです。
歴史や文化が違う関係で、
やはり海外と日本では感じ方の違いがあるのですね。
ですから海外で認められたものが
必ずしも優れているとはいえない事が
これでお分かり頂けたら嬉しいです。
さて今日は『雪舟』について少しだけ書き込みます。
下記を是非ご覧下さい。
『雪舟は1420~1506年(1502年)の室町時代に活躍し
水墨画家、禅僧で、日本の水墨画を一変させた。
(今後のブログで水墨画、油絵等のことも書き込む予定です)
備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、
生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの「宝福寺」に入り、10歳頃京都の相国寺に移った。
春林周藤に指示、禅の修行を積むとともに
天章周文に絵を学んだ。
1468年から約2年間中国で本格的な水墨画に触れ研究した。
1481年秋から美濃国へ旅行。
没年は1506年または
1502年とする説もあるが確実な記録が残っていない。
雪舟の生涯は没年以外も謎が多い。
尚、
雪舟の神格化は江戸時代。
狩野派(今後のブログで狩野派の詳細、長谷川等伯、書き込む予定)が
当時も画壇を支配していたが、
雪舟を師と仰ぎ、諸大名が雪舟の作品を求めた為
雪舟作とされる作品がふえたと言われる。
<付録>
雪舟で次のような伝説が残っている。
皆様も良くご存知ですよね!
「宝福寺に入った幼い雪舟が
絵ばかりかいていてお経を怠けた為、
仏堂の柱に縛り付けられ、
床に落ちた涙を足の親指につけて鼠の絵を描いた所
僧はその絵の見事さに感心し、雪舟が絵を描く事を許した」
この話しは余りにも有名。』
参考資料
「美術の鑑賞」坪田研一著
フリー百科事典「ウィキペディア」
山口毛利博物館ホームページ
禅僧の修行をした
『宝福寺』(岡山県総社市)です。
今までTAZUKO多鶴子は
油彩画、水彩画、日本画、水墨画、浮世絵、仏画、等
美術史上に残る沢山の作品を
アメリカ、イタリア、台湾、日本の
様々な国を通して随分長い間鑑賞して来ました。
その多くを鑑賞した中で
『雪舟』の作品は最高だと思うのです。
特に『山水長巻』の作品は動いている…最高です!!
鳥肌が立つ程の感動です
(海北友松の龍の絵以上に!ダヴィンチの最後の晩餐以上に凄いですよ!)
そう!青山二郎の云う
優れた陶器は自らが喋る!語る…
この雪舟の絵をみて、喋るように!語るように!私は観じるのです。
そして品格があるのです!
でも…
残念な事に西洋では
『雪舟』よりも『北斎』の方が優れていると
感じていた過去の事実があるようですね。
以前、西洋では水墨画はデッサンと判断していて
(おそらくそれだけの理由では無く
北斎の絵が西洋文化にあうのだと思うのですが…)
習作と思っていたようで
雪舟の絵を認めなかったようです。
歴史や文化が違う関係で、
やはり海外と日本では感じ方の違いがあるのですね。
ですから海外で認められたものが
必ずしも優れているとはいえない事が
これでお分かり頂けたら嬉しいです。
さて今日は『雪舟』について少しだけ書き込みます。
下記を是非ご覧下さい。
『雪舟は1420~1506年(1502年)の室町時代に活躍し
水墨画家、禅僧で、日本の水墨画を一変させた。
(今後のブログで水墨画、油絵等のことも書き込む予定です)
備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、
生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの「宝福寺」に入り、10歳頃京都の相国寺に移った。
春林周藤に指示、禅の修行を積むとともに
天章周文に絵を学んだ。
1468年から約2年間中国で本格的な水墨画に触れ研究した。
1481年秋から美濃国へ旅行。
没年は1506年または
1502年とする説もあるが確実な記録が残っていない。
雪舟の生涯は没年以外も謎が多い。
尚、
雪舟の神格化は江戸時代。
狩野派(今後のブログで狩野派の詳細、長谷川等伯、書き込む予定)が
当時も画壇を支配していたが、
雪舟を師と仰ぎ、諸大名が雪舟の作品を求めた為
雪舟作とされる作品がふえたと言われる。
<付録>
雪舟で次のような伝説が残っている。
皆様も良くご存知ですよね!
「宝福寺に入った幼い雪舟が
絵ばかりかいていてお経を怠けた為、
仏堂の柱に縛り付けられ、
床に落ちた涙を足の親指につけて鼠の絵を描いた所
僧はその絵の見事さに感心し、雪舟が絵を描く事を許した」
この話しは余りにも有名。』
参考資料
「美術の鑑賞」坪田研一著
フリー百科事典「ウィキペディア」
山口毛利博物館ホームページ