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TAKE-LOG 竹ログ

綿栽培と食料難の時代

今日は三河地綿の綿打ち(種取り)作業をしています。

私の幼少の頃には母の在所の畑に綿が植えられて

1948年頃にはまだ綿が植えられていた。

一面に綿が植えられていたのではなく、周囲の畑の境に植えられていた。

 

まだその頃は米綿(アップランド種)ではなく和棉(日本の綿)であった

その記憶が残っているのはその綿の枝で私の叔母が目に怪我をしたことから

綿の木が私の記憶として残っているのだ。

畑の周りに一直線に植えられていて綿の木がその後50年以上経った現在

私の生活に重要な記憶であることに運命的記憶となっている。

 

そして現在、祖母の在所の同郷の森の月グループが綿の栽培と

作品発表に尽力していることも運命的に感じるものである、

 

日本の綿栽培は太平洋戦争敗戦後の物不足解消に綿を植えて糸を作り、

機を織って反物や布団の綿や綿入れ半纏などに使っていた。

戦後の食料不足は深刻で町では国の配給品では足らず さつまいもの蔓や野草を食べていた程だ

輸入したくても日本には輸送船も無く、国民は食糧難で敗戦国の悲哀を味わっていた。

 

そして現在はウクライナとロシアの戦争勃発で世界の穀倉地帯が戦火の中となった今、

世界は自国の食料確保に奔走する、作物ばかりでなく国際的に肥料も不足だと

報じられて不安が募る、

我が家は一年分の米の予約確保はしているもののどうなるやら不安である。

冷夏で米不足の時代もあったがパンや小麦粉はあった、今度はそれも無い、

食料自給率が低い問題も長い間言われて来たが

冷却装置の田畑は住宅地となって孟夏の原因となった。

 

それでも仕方がない、

しょうがない、

誰かがなんとかするだろう、

♪そのうちなんとかなるだろう〜♪

 

綿畑から食料問題で私の今日の作業は終わってしまったのだ。


蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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