早坂 隆氏の文章である。
オトポール事件として日本軍の司令官樋口季一郎がユダヤ人救出に満鉄に
特別列車を要請し、その列車で多くのユダヤ人が救出され日本国内で静養された。
後日、この事件に対して許可を与えたのが東条英機である。
軍隊は住民を守らないと言う伝説があるようだが、住民の治安の維持など
最終的に力になるのは、国民の軍隊である。
沖縄戦では幾多の住民が犠牲になり、史上最大の激戦が繰り広げられた事は
記銘すべき事である。圧倒的優勢な米軍に制空権、制海権を取られ
自軍の維持さえも覚束ない状態は、非勢にある日本軍への誹謗にしか聞こえない。
1920年の尼港事件 では日本軍守備隊の武装解除を企図して、軍隊殲滅後に
居留民虐殺に及んだ。WW2は、戦う軍人のみか、国民にも犠牲が及んだ。
戦争の形態は、変遷し今後も違った形態を辿ると覚悟すべきである。
希望があるとすれば、科学技術を取り入れて少ない定員をカバーする事が
被害を最小限に留める。今、ミサイルによる飽和攻撃でどれほど耐える事ができるか?
その前に、サイバー攻撃で指揮機能のかく乱は必死である。
社会インフラの機能を停止された状態で、国民の生命を守る事が重要な課題とも
成っている。
杉原千畝氏が、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰されたのは
日本人には誇らしさを感じる。ドイツではホロコーストが為されたが、日本はその様な
事態すら見えない。支那の現状はかってのナチスの行動に似ている。
支那はそれに、IOTで自国民を情報遮断している。(おそるべし)
ユダヤ難民を救った「もう一人の日本人」を知っていますか?
早坂 隆
2018/09/16
https://bunshun.jp/articles/-/8962
「日本人によるユダヤ難民救出」と言えば、杉原千畝の名前を思い浮かべる人がほとんどであろう。だが、実は「ユダヤ人を救ったもう一人の日本人」がいることをご存知だろうか。その人こそ「忘れられた中将」こと陸軍軍人・樋口季一郎である。

陸軍中将・樋口季一郎 ※隆一氏提供
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しかも、樋口は「ユダヤ難民救出」の他、「アッツ島の戦い」「占守島の戦い」においても極めて重要な役割を果たした。大東亜戦争(太平洋戦争)史を通観しても、これほど劇的な生涯を送った軍人は少ない。
杉原千畝の2年前に難民を救出
杉原による「命のビザ」発給の2年前にあたる昭和13年3月、ソ満国境の地・オトポールに逃れてきたユダヤ難民に対し、当時、ハルビン特務機関長の任にあった樋口は、人道的な見地から特別ビザを発給するよう満州国に要請。ドイツと日本の関係性を憂慮するあまり、ユダヤ難民の入国を拒んでいた満州国外交部に対し、樋口はビザ発給のための指示を与えたのであった。結果、多くの難民が命を救われた。これが「オトポール事件」である。
北海道を「守った」
その後、樋口は北方軍司令官を拝命。昭和18年5月には、アッツ島の戦いを指揮することとなった。樋口は現地軍への増援を大本営に求めたが、東京の上層部はこれを棄却。アッツ島はあえなく玉砕した。こうして樋口は「先の大戦における最初の玉砕戦の司令官」となった。多くのユダヤ人を救った男は、部下の日本人を助けることができなかった。樋口は号泣したという。
終戦直後に勃発した占守島の戦いでは、樋口は徹底抗戦を指示。この戦いにより、ソ連軍の暴走は食い止められた。もし、この戦いがなければ、北海道が分断されていた可能性は否定できない。
樋口とは先の大戦において、これほど重要な役割を演じた人物であった。私は樋口の生涯を考えれば考えるほど、彼ほど多くの歴史的教訓を私たちに示唆してくれる人物も稀有なのではないかと感じる。
文藝春秋 10月号
そんな樋口は長く「知る人ぞ知る」存在であったが、近年では関心を持つ人々がネット社会を通じて着実に増えつつある。そんな中、今年6月、樋口の孫にあたる隆一氏が初めてイスラエルを訪問し、「ヒグチ・ビザ」によって救出された方々のご遺族と歴史的対面を果たした。「文藝春秋」10月号掲載の「もう一人の杉原千畝 ユダヤ難民救出『80年目の迫真証言』」では、隆一氏に現地報告の他、新たな史料や証言についても話していただいた。
ユダヤ難民遺族のフリードマンさんと対面する隆一氏 ※隆一氏提供
2014年04月20日 16時01分 JST | 更新 2014年04月20日 16時05分 JST
杉原千畝が救ったユダヤ人女性 「私を思い出して」日本に写真を残す
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ政権下で迫害を受けていたユダヤ人6000人に、亡命するためのビザを発給した外交官、故・杉原千畝氏。その際に救われたユダヤ人女性が、感謝を込めて日本人に託した自らの顔写真の身元が判明した。
The Huffington Post
https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/20/chiune-sugihara_n_5180745.html
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ政権下で迫害を受けていたユダヤ人6000人に、亡命するためのビザを発給した外交官、故・杉原千畝氏。その際に救われたユダヤ人女性が、感謝を込めて日本人に託した自らの顔写真の身元が判明した。女性はすでに亡くなっているが、家族らが確認したという。時事ドットコムが報じている。
女性はポーランド生まれのソニア・リードさん。ナチスの迫害を逃れて日本に渡った当時は16〜17歳で、写真の裏に「私を思い出してください。すてきな日本人へ」と書き残していた。
北出さんによると、ソニアさんはニューヨーク近郊で夫の板金工場経営を手伝っていた。日本にも2回旅行。生前、3人の子供には欧州からの逃避行について何も語らなかったが、「日本人にはとても親切にしてもらった」と話していたという。
(時事ドットコム「ユダヤ人女性、73年ぶり判明=「私を思い出して」と写真託す-杉原ビザで脱出」より 2014/04/20 14:42)
杉原千畝は外務省の判断に背き、独断でビザを発行したため帰国後、外務省を退職。本人が多くを語らなかったこともあり、1969年にイスラエル政府が表彰するまで、戦時中の行いについては広く知られていなかった。1986年に死去。2000年、当時の河野洋平外務大臣が、杉原氏の遺族に外務省の対応を謝罪した。
第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退、外務省の官費留学生として満州(現・中国東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用される。満州、フィンランドなどでの勤務を経て、39年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任した。「命のビザ」を発給したのは、40年夏。ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきた。杉原は、要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に願い出たが認められず、悩んだ末に独断で発給を決断。領事館は既に閉鎖が決まっていたが、出国直前までの約1カ月間、発給を続けたという。その後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。翌年、外務省を退職した。訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、退職後は外務省関係者との交流を断ち、86年7月31日に死去した。
「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだという。85年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、91年にはリトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。故郷・八百津町には92年、「人道の丘公園」がオープンし、生誕100年となる2000年には記念館も設立されている。外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復」に向けて動き、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に謝罪した。
(コトバンク「杉原千畝 とは」より)