法律行為
法律行為と意思表示 民法で言う意思表示は、何らかの法律効果を期待して自分の意志を表明することであるのだが、法律行為は当事者が一定の効果の発生を求めて行う行為で、法律がその効果の発生を認めるもの。意思表示を不可欠とし、その方向・数により、遺言などの単独行為、契約(双方行為)、法人の設立などの合同行為に分類される。 つまり、いずれにしても法律行為を為そうとすれば意思表がなされるのだ。
公の秩序又は善良の風俗に反する行為
偉大な民法学者である我が尊崇するなくなった我妻栄先生などは、公の秩序と善良の風俗を厳密に分けることには余り意味が無いと言うようなことを言われていたが、法文は厳密に解されなければなら無いと言う立場を採る私は、この二つの概念は峻別されるものだと考える。法文解釈を厳密にすることと、情理を無視して現実の事象に融通無く法律を適用することとは全く別なことなのだ。公の秩序とは、社会が平穏に維持される為に世間一般に普遍的に認められる調和の取れた状態とでも言えよう。一方、善良な風俗とは、正直で正しいとされる日常生活上の慣わしのことを言う。ここでの公を法律と解することは狭すぎる解釈だと私は思う。法律の条文は、法文での定義が為されていなければ、なるべく世間一般の用語としての意味を持たせるべきだと考えるからである。蛇足だが、保守党などの憲法に関する条文解釈は、都合よく解釈しているが、法律は専門家の為に作られたものでは無く、法文解釈も素直にするもので、余りにも一般概念と隔絶した解釈は、法律論とは認められない。法律は特別なものでは無く、広く一般国民の理解に浴すものでなければなら無いのだ。
公の秩序や善良な風俗に反する法律行為は無効である(民法90条)。世間一般から観て、これは許せ無いと思われる法律上の効果を狙って行われる行為は無効であると言う意味である。
法律中の公の秩序とは何を意味するものか?此処での公の秩序の公とはで説明したものとは如何違うのか?ここでも素直に解すれば良いのだ。法律中にと限定があるのだから態々法文で決められた世間一般に適用される秩序と言う解釈で十分だと思われる。態々、法文で決めたのだから、この秩序は枉げて行われるような事は万が一にもあってはなら無いのだ。
世間一般に適用されるような秩序が態々法文で明記されている以上、それに従わなければなら無いが、その秩序に逆らわ無い範囲での意思表示は認められるべきであり、法律的効果を与えるべきだ(民法91条)。なお、このように法文中に態々記された秩序が書かれた条文は強行規定と呼ばれている。逆の概念に服するものを任意規定と呼ぶ。任意規定や民法91条で謳ったことはして期日の大原則を表明するものと言えよう。ただ、私法上のどの条文が強行規定で任意規定かを見極める境界線は明記が無いが、法律的思考に慣れれば自ずと判別出来るものだと言えよう。
この条文から問題となるのは、取締規定と私法上の法律行為との関係である。それこそ取締規定は法令中の公の秩序に関する規定であり、法律の分類では行政的な観点で処罰規定を伴うものであるが、これによって罰則を与えられた法律行為が総て無効となることには様々な異論がある。しかし、上のように取締規定が法令中の公の秩序に関する規定とする立場を採れば、問答無用となる。取締規定で罰則があれば則法律行為を無効とすれば、自由闊達な経済行為を担保する取引の安全を害するではないかとの反論が私にも髣髴するのだ。しかし、この決着は法律行為が民法90条の条文中の正直で正しいとされる日常生活上の慣わしのことを言う善良な風俗に従わなければ同条文で無効となると規定しているのであるから、取締規定で罰則を適用されたからとしても、私法上の行為では正しいとまでは言わないが、日常生活の行為まで無効としては余りにも大きな混乱が生じて仕舞うのであれば、決して正しく法律を適用出来たとは言われ無いだろう。
また、この条文を適用する上ではもう一つの大きな問題として脱法行為がある。脱法行為で為された法律行為は、無論無効であるのだが、本来、私的な私人間に適用される法に、時代の変化に応じ無い条文を厳格に適用すれば、実社会の在り様とは乖離してしまうと言うのであるが、民法上の強行規定と雖も法律上は特別法によってその条文の適用を無効若しくは弱めることも出来るので、立法政策上の問題として解決すべきであるのだが、これも、民法90条法文の後半を適用することで当面こま問題を解決していく以外ないとも感じられるのだ。
慣習とは社会で、長い間にみんなに認められるようになったならわしのことを言う。
任意規定と異なる慣わしがあるならば、その慣わしに従わない意思表示をし無い限り、法律行為に対する適用は慣わしに従う(民法92条)。
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