マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史ー50 19世紀イギリス対外商業政策と不況その7  ハスキソンと商業改革

2012-04-14 12:47:00 | 景気政策史

 

上記でロンドン商人の請願を受けて直ちに庶民院と貴族院に委員会が設けられた事を述べたが、それらを受けて関税に関する諸改正が行われた。

 それは①1821年木材関税改正によりイギリス産綿糸の輸出市場たるバルト諸国との互恵体制の改善が図られ②1824年にはフランスとの通商関係改善の為に絹関税が引下げられ、また③ドイツとの関係において羊毛・麻関税が引下げられた。これらは1825年のハスキソン関税改革(ハスキソンは19世紀初頭の”自由主義改革派”の当時の有力政治家)により、集大成され、

イ)原料輸入関税の大幅な引下げと

ロ)製品輸入関税の最高従価30%以下への引下げを2大原則として、禁止制度と保護関税の緩和により[互恵体制]への一歩を踏み出した。

 また上記庶民院で委員会で不況の原因を探ろうとするとまずそこで問題になったのは航海法の規定であったため(L.Levi)それも1822年に原則は保持しつつも対欧州、対アジア、アフリカ、アメリカ等に関連して一定の緩和が行われ、又東インド会社の特権の一部剥奪、レヴァントカンパニーの特許状放棄が実現された。

これらを受け[互恵関税法]の下で多数の諸国、合衆国及び主要欧州諸国や幾つかの南米諸国と通商条約が結ばれ、(1820年代から40年代にかけて)それ自体は不完全なものであったが従前の国際間の敵対的な体制に対して初めて突破口を開くものであった。(ツーク)尚前掲L.Levi p166に条約締結諸国の一覧が有り、アメリカは1827年、フランスは1826年、プロシアが1824年、ロシアが1843年等となっています。

 また1820年代初頭は戦後に引き続き農業不況の次期であったが1819-1821年には外国の穀物であふれて困窮に曝されている地方から1200にも及ぶ請願が政府に出された。(但し前掲A.Brayは輸入穀物は多くはなかったとしている)それに対し商務省総裁のロビンソンは(戦時中に拡大された)貧しい土地の耕作が不況の原因であるとし、それ以上の保護を期待すべきではないとしたがハスキソンは同情していた。そういう中1821年になっても新しい多くの請願が出されていた。主張としては、イ)通貨の本位を変えるべきとしたものや、ロ)税の軽減、ハ)保護関税の強化等々が訴えられていた。それらに対し委員会が持たれるようになった。(この委員回は19世紀穀物法のランドマークであるとする)以後30年代に掛けて数次の同様の委員会が持たれた。

1821年委員会はその原因はまずは兌換の再開の効果(当時欧州の他の諸国も兌換に向かっていたとし)に求め、次には過剰生産に向けた。この討議の中特に農業利害を代表するWesternは其の原因は供給過剰ではなく旧平価による兌換再開に有るとし、それはCobbetやAttwoodの支持を受けたが、ハスキソンやリカード、ピールからの反対を受け委員会は”時間により需給が安定する”と考え1822年に改正案が出され輸入禁止価格が70シリングになった。

1822年法:外国穀物は穀価が70シリングになるまでは輸入禁止。

        70-80は12シリング

        80-85は5シリング

        85以上は1シリング の輸入税により輸入が許可される。

これは市場から余剰穀物を一掃し、1815年法を改正して輸入禁止と自由貿易との峻烈な限界を緩和するためとされた。

(1815年法は80シリング未満まで輸入禁止、それ以上は自由)

 

 

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景気政策史ー49 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その6 ロンドン商人の請願と不況

2012-04-07 11:57:15 | 景気政策史

  

ここまででナポレオン戦後の不況について述べましたが1819,1820と続く不況の中で、1820年5月8日にイギリス商業史上名高い”ロンドン商人の請願”が出される。これは”商業改革の途上における実際的第一歩”とされる物であり(L.Levi:History of British Commerce 1872年)”物価史”の著者トーマス・ツウークの案文による物とされており、多くのロンドン商人の署名があり内容的には、15項目あり其の中で”もっとも廉価な市場で購入し、もっとも高価な市場において販売すると言う原則は全ての商人の個別的商業を規制し国民全体の最良の商業法則として厳密に適応しうる物です”としてアダム・スミスの”絶対優位的な自由貿易論”を示しつつ又リカードの”比較優位的”な表現もしつつ(上記LeviはAdam Smithを明示しつつeconomistsという表現もしている)全体的に保護貿易主義を論難し

 その一項目で”制限制度の影響について調査する事が現在特に必要であります。我々請願者の考えでは今日特に一般的になっている不況はこの制度によって拡大の一途をたどっております。しかもそれは社会の資本と産業にとってもっとも有害な物であり、また財政収入にとって何の利益も償うことのない制限制度を早急に廃止する事が救済策のひとつになるであろう事を強く推測します。”として当時の不況の原因の大きな一つが保護制度にあることを述べています。

これについてツーク(第5巻の著者はニュマーチ)はその物価史5巻の中の1820年の請願について述べるところで”いま(1857年)でもそうだが当時(1820年頃)もまた全ての害悪(every evil)の原因を通貨に求める声高い広範な勢力があった。”としておりツークが通貨論争の”銀行学派”であった事と上記内容と比較するなら当時の不況原因論としては興味深い物がある。(因みに上記請願15項目の中には通貨に関する事は述べられていない。)

 (1819年に一時兌換を停止していたときに議会で秘密委員会がもたれたが其の中で多くの証人は商業の一般的状況はイングランド銀行が紙券発行について拡張政策をとるか収縮政策を採るかということに依存すると言う点で一致しており、其の中での何人かは正貨兌換をするなら徐々に実施すべきとしていた。その結果1820年2月1日より”金地金”との交換は始まり”金貨”本位は1821年5月1日から始まった。やや繰り返しになるが”地金”との交換はリカードの提案によるものとされる。)

 因みにこの請願を見てリカードは驚き、請願が”早急に”自由貿易に移行すべきとの事は困難が大きく徐々に移行すべきとし、国会は地金報告書に則って(金兌換の完全実施)すすめるべきとした。(之からするとリカードは困窮の原因を通貨に求めていたと思われる)(参照:W.Smart Economic Annals of The Nineteenth Century 1910年)

 その請願の結果ハスキソン、ベアリング、ウオルセン等々の支持の元、6月5日に下院に委員会が設置され、上院では5月28日に委員会が設置された。さらにこの請願は後になってエジンバラとマンチェスターの商業会議所によって援助されるがとくにマンチェスターの商業会議所は5月24日に設立された物であり其の主力は、後にイギリス政治に大きな影響力を持った綿業関連の産業資本家であった。

参照:金子俊夫 イギリス近代商業史  白桃書房2004年

F.W.Hirst ;Free Trade and Other Fundamental Doctrines of the Manchester School 1903年

 

以下次回

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景気政策史ー48 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その5ナポレオン戦後不況と商業政策

2012-03-24 13:13:08 | 景気政策史

 

次にここでナポレオン戦後不況とそれに対するその当時の商業政策について述べる。ナポレオン戦後不況については周知の部分も多いので概ね1820年のロンドン商人請願までを商業政策を中心に述べる。ナポレオン戦後には終戦とともに戦時需要は消滅し大陸交戦諸国の有効需要の、戦時疲弊、凶作等による減退更にはアメリカ、欧州諸国の保護関税強化によりイギリス貿易は次第に苦境に立たされるようになった。(プロシア1817年、フランス、オーストリア1817年、スウエーデン1817年 アメリカ1812、1816年)

ここにおいてイギリスは、1815-1820年に続く長い不況状態にいたった。ここで当時のイギリスの産業構造、輸出構造に触れておくのは有効であると思われるのでそれについて簡単に述べてる。イギリスの人口統計は1801年から10年おきに行われてたが当初は職業分類が簡単であったため輸出主力の繊維産業がどの位であったかは出てこないわけであるが、1841年の詳細の分類では順位で言うなら、①農林業 ②家事 ③繊維工業であり吉岡昭彦編著 イギリス資本主義の確立御茶ノ水書房 1968年)又輸出においては1814年以降で見るなら常に其の首位は綿製品であり、比率で言うなら、1814年45.1%でその後も粗其の水準で推移し1825年には48.3%を占め19世紀中盤以降まで続きます。ここにおいて綿業の隆盛がイギリス自体の行方に大きく作用した事が理解できると思われる。

 このよううな状態の中で所謂穀物法論争(1815年、3月改正)が行われたわけであるが議会の中でもその後も不況に関し論争が続き穀物法以外にも通貨制度が問題とされたが、商業制度に付き当時のトーリー内閣に対しホイッグのBroughamは最も能力ある有力議員の一人であったが庶民院が”自由貿易論者”によって動揺される中、1817年に議会で演説しこの国の疲弊、船舶業の落込み、製造業の不況につき其の原因は二つであるとしてそれは

イ)戦時から平和時への急速な移行の影響

ロ)保護制度

にあるとし禁止的保護の除去、航海法の陳腐化を述べその解決法は大胆な商業規程の改定であるとした。(因みに当時の”保護勢力”は地主層だけでなく、西インドの地主やまた東インド会社の独占等もあった)(尚、Brougham卿は1816年に”成長しつつあるアメリカ工業を、市場の横溢によって絞め殺すためにまずはじめに輸出で損をするのは意義あることだ”と議会であからさまに述べている。(メンデリソン 恐慌の理論と歴史第2巻 青木書店1960年:)

それにたいし政府を代弁してRobinsonが、率直に保護は有害である旨延べ又それの存在理由はそこから逃げている事だと述べました。結局のところしかし議会での十分な自由貿易への前進の為の証言は1820年の議論によって見つけられた。(A.Brady ;William Huskisson and Liberal Reform)

参照ナポレオン戦争後におけるイギリス貿易構造の特質 池田嘉男 [歴史]第32号

物価史(第1巻~6巻)トーマス・ツウーク藤塚知義訳 東洋経済新報社

 

 

 

以下次回

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景気政策史ー47 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その4リカード自由貿易論と不況

2012-03-17 12:00:12 | 景気政策史

 

ここでアダム・スミスにつぐ当時の自由貿易論者であったリカードの自由貿易論と不況との関係について述べたいと思うが、1815-1820年代当時ではマルサスとの穀物法論争が有名ではあるが本稿でそれら全部を述べる事は不可能であり、また必要も無いと思われるのでここではリカードの”経済学および課税の原理”(翻訳は岩波文庫版羽鳥・吉澤訳)にそった形で述べる。この”原理”のなかで貿易論に関しては第7章外国貿易について、また第22章輸出奨励金と輸入禁止 がある。(第25章植民地貿易について は別途述べる)

ここで一般にリカードの貿易論でごく特徴的なのは所謂”比較優位による生産と貿易”と言う事がまず前提問題として掲げられるがリカードの其の立論は

①外国貿易の拡張は商品数量を増大させ、その結果享楽の総量を増大させることには、きわめて強力に貢献するだろうが、しかし直接には一国の”価値額を増大させない”。

②一国内の諸商品の相対価値を規定する同じ法則は、二国またはそれ以上の国々の間で交換される諸商品の相対価値を規定しない。

③経験の示すところでは資本は外国に自由には移動しない。

④上巻p191~では”かりにポルトガルが他国との通商関係を持たないとすれば、この国は其の資本と勤労の大部分をぶどう酒生産に投下しこのぶどう酒でもって他国の毛織物と金属類を自国用に購入する代わりに其の資本の一部分をこれら諸商品との製造に向ける事を余儀なくされ、その結果おそらく質量ともに劣ったものを獲得することになるであろう。

 ポルトガルがイギリスの毛織物と引き換えに与えるであろうぶどう酒の分量はかりに両商品ともにイギリスであるいはポルトガルで製造される場合にそうであるようには各々の生産に投じられるそれぞれの労働量によって決定されるものではない。

イギリスは毛織物を生産するのに一年間で100人の労働を要し、またぶどう酒を醸造しようとすれば同一期間に120人の労働を要するような事情のもとにあるとしよう。したがってイギリスは毛織物の輸出によってぶどう酒を輸入し購入する事が自国の利益であるとみなすであろう。

ポルトガルでぶどう酒を生産するのには一年間で80人の労働しか要せず、また同じ国で毛織物を生産するのには同一期間に90人の労働を要するかもしれない。

 それゆえこの国にとっては毛織物と引き換えにぶどう酒を輸出するのが有利であろう。この交換はポルトガルによって輸入される商品がそこではイギリスにおけるよりも一層少ない労働で生産されうるにも拘わらず、なお行われうるであろう。ポルトガルは毛織物を90人の労働で製造しうるにも拘わらず、其の生産に100人の労働を要する国からそれを輸入するであろう。なぜならポルトガルにとっては其の資本の一部分をぶどう酒から毛織物へと転換することによって生産しうるよりも一層多くの毛織物をイギリスから交換入手するぶどう酒の生産に其の資本を投下する方がむしろ有利だからである。”

と述べているがまた別のところではこう述べている。(p194~)”したがって、毛織物がポルトガルでその輸入先の国で要した費用よりも多額の金に対して売れない限りそれはポルトガルに輸入されるはずはない。またぶどう酒がイギリスで、ポルトガルで要した費用よりも多額の金に対して売れない限りそれはイギリスに輸入されるはずはない。”

 と言う事でこれは上記④の傍線部分と矛盾した表現であるかと思われ、”比較優位”とずれた思考展開となっている。この部分の国際間の価値関係については労働価値説的立場の観点からも論争があるところとされこの部分の立ち入りは当面の問題から外れるためこれ以上は掘り下げないが、19世紀当初と違い現代では③の資本移動もかなり自由であり多国間の価値比較の相違と言うのは少ないのではと言うのが私見である。

 

 さてリカードは上記設例は物々交換的としこれに貨幣制度がある事を述べている。

”金と銀が流通の一般的媒介物に選ばれているので、金銀は商業競争により、かりにこういう金属が存在せず諸国間の貿易が純粋に物々交換である場合に起こるであろう自然的交易に適応するような割合で世界の異なる国々の間に分配されるのである。”(上巻p194)又

 第22章 輸出奨励金のところではこう述べているがこれはリカードとしての貨幣数量説論者であることを示している。下巻p138”貨幣の価値が局地的に下落すると言う事はこの意味で、全商品が高価格だと言う事である。しかし金銀が商品の最も安い市場で購買する自由を持つ限り、金銀は他の国々のより安い財貨と交換に輸出されそこで金銀の数量の減少が国内でのその価値を上昇させるだろう。諸商品がその通常の価格水準に復帰すれば、国外市場に適した諸商品が以前と同様に輸出されることになるだろう。”

ここで又リカードはその”価値論”で”機械の導入は価値規程に修正を与える”とし(第1章)それが貿易にも影響を与えるとし第7章外国貿易p200でこのように書いている。”技術と機械の改良以外にも、つねに貿易の自然の成行きに作用し貨幣の均衡と相対価値を損なうさまざまな原因が有る。輸出奨励金または輸入奨励金、諸商品に対する新税は、ある時は其の直接作用によりまた他の時は其の間接作用によって自然的物々貿易を攪乱し(disturb)その結果、貨幣を輸入または輸出する必要を生じそれによって価格が商業の自然の成行きに適応しうるようになる。そしてこの効果はたんに攪乱要因の生起する国だけでなく程度の大小はあっても商業世界のあらゆる国に生ずるのである。”

 リカードの”経済学および課税の原理”は初版が1817年に出されているが、穀物法は、1815年来、80シリング未満になると輸入禁止でありました(輸出奨励金は無し)。80シリング以上で輸入自由であり、その80シリングが一定その境目であったことはあったと思われ、また1818年にはロシアからの穀物輸入が貨幣市場に圧力を与えたとされる。

つまり簡単的には穀物不作→輸入(80シリング)→急な金属流出→貨幣市場圧迫→恐慌、不況

という流れがあったのではないかとされこれと同様の批判が1830-40年代に産業資本家から穀物法廃止の要求の一理論の根拠となった。

参照:熊谷次郎 イギリス綿業自由貿易論史 ミネルヴア書房1995年 尚、穀物法の改正一覧は“美濃口武雄 マルサス・リカードの穀物法論争“(http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/16633/1/studys0170000010.pdfのP2に有る。

 

 

 

 

 

以下次回

 

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景気政策史ー46 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その3国富論と自由貿易

2012-03-10 11:50:11 | 景気政策史

 

ここまでアダム・スミスの国富論の中での其の時代における不況について述べたが、以下国富論と自由貿易について述べる。18世紀では未だ産業革命が終了せず景気循環は19世紀程には明瞭では無かったもののその先駆け的現象は特に其の後半には観察された。18世紀前半ではイギリス自体の全体の体制は未だ重商主義的体系下にあった訳でスミスはそれについて、

金銀が実質富ではないとし、それに付きロックが金銀が国民的富であると言い又欧州の国民が自国に金銀を蓄積しようとした事を批判し(諸国民の富:岩波文庫版 大内・松川訳 第3分冊p9以下)その金銀の輸出入は制限できないとして、又、”ある商品の価値は、其の商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい”(第1分冊p150)として支配労働価値説的説明を行っていますが、又別の所では”激しい辛苦に対しては斟酌される”(第1分冊p185)として投下労働価値説的説明を行っているが其の区分は明瞭にはされていないが基本的に労働価値説に立ち、それ以前の国富が金銀にあると言う所からは大きく前進した。

”対外商業政策”と連関するのがその自由貿易に関する叙述である。それにつきまず”第2編第5章 資本のさまざまの用途について”のなかで”資本が活動させる労働の量と、年々の生産物に付加する価値とは、其の用途によって異なる”としその用途として、

イ)小売商人

ロ)卸売商人 

ハ)製造業者 

ニ)農業者

 と分類し、”等額の資本のうちでは,農業者の資本ほど多量の生産的労働を活動させるものは無い”とし(第2分冊p396)、この中で、”全ての卸売り業者(wholesale trade)は三っつの異なる部類に纏める事が出来る”とし(第2分冊p404)、それを国内商業、消費物の外国貿易、仲継貿易に分類し、国内商業は二つの国内資本を回収し、外国貿易は一つの国内資本と一つの外国資本、又仲経貿易は二つの外国資本を回収するとし、その結果、”国内商業は他の貿易より多くの生産的労働を維持する”(p412)として、ここでスミスは”あらゆる国の経済政策(political oeconomy)の大目的は其の国の富と力を増進させる事である。”としつつも、”それは国内商業よりも消費物の外国貿易を、そしてこれら二者よりも仲経貿易を決して優先させるべきでもなければ、とくに奨励すべきでもない”として、”自然ひとりでにそこへ流入するであろうより以上に大きな部分を決して強制的に流入させるべきでない。として”自由放任”を述べる。

 ここでスミスは外国貿易の主要な利益は、重商主義を批判しながら”金銀の輸入ではなく、国内では需要のない剰余生産物を国外に持ち出し国内で需要のあるなにものかを持ち帰る事である”としている。(第3分冊p41)、又p58では”ある外国がわれわれ自身がある商品をつくりうるよりも安くつくり、それを我々に供給してくれることができるなら、我々は、自分たちが多少とも強みを持つようなしかたで自国の産業を活動させ、その生産物の若干部分でそれを外国から買うほうがよい。”としている。

 

 以下順次重商主義的体系に対するスミスの批判と対応をのべると、

 まず輸入に対する保護的政策についてこれにつきスミスは第4編第2章 国内で生産しうる財貨の、諸外国からの輸入に対する諸制限について の中で高率の税または絶対的な禁止のいずれによるにしても国内で生産しうる財貨の諸外国からの輸入を制限すればこういう財貨の生産に従事する国内産業のための国内市場の独占は多かれ少なかれ確保される事になる。(第3分冊p50)としこれが社会一般に有利な方向を与えるか明白ではないとして、”個人が自分自身の利益を考える事により社会にとっての有利な用途を選考するよいうになる”とするが、其の中で”国内市場のこういう独占から最大の利益を引き出す人々は商人及び製造業者である”(p62)とし、商人、製造業者を批判するが又外国製品の自由な輸入が許可されることにでもなれば、国内製造業のいくつかのものは多分損害をこうむり、またそのうちの若干のものはまったく破滅してしまい、現在これらの製造業に使用されている資材や勤労のかなりの部分は、強制的に何かの他の用途をみつけださなけれなならないであろう とする。

ここにおいて高率関税等非難はするが、上記後半に見られるようにその撤廃についてはスミス自体やはり一定慎重である事が読み取れこれにつき、留保を付けつつも、”貿易の自由は、ゆっくり段階を追いながらしかも十分慎重かつ周到に回復さるべきだ(p80)としている。

ここに於いて国内産業を奨励する為に外国産業に若干の負担を課することが一般に有利な場合として上記に例外を出しそれは

①国防上の理由によるものとして”航海条例”の維持

②国内産業の生産物に対してなんらかの租税が国内で課せられている時、としている(等価関税)

奨励金について スミスは”奨励金を必要とするのは、商人が自分の資本を通常の利益とともに回収しないような価格で其の財貨を売らざるを得ない商業か、または彼がそれを市場へ送るのに実際ついやしたより以下の価格で売らざるを得ない商業だけである”(3分冊p154)とし其の効果を”一国の商業をそれが自力で自然的におもむくであろうよりもはるかに利益の少ない方面にしいてむかわせることができるだけのものでしかない”として

 一般論を述べながら輸出奨励金で重要な問題である穀物については他の輸出奨励金と同様、人民に二つの異なる租税を課すものであるとし、”第一は奨励金を支払うために人民が献納せざるを得ない租税であり、第二に国内市場におけるこの商品の価格の騰貴から生じる租税である”とし”奨励金はおそらくは全共同社会をつうじてただ一群の人々だけにしか本質的には役立たなかったし、また役立ちえ得なかったであろう。これらの人々は穀物商人つまり穀物の輸出業者および輸入業者であった。”(第3分冊p171)として穀物の輸出奨励金について否定し、”もし奨励金というものが、わたしが証明しようと努力してきたように不当なものであるならば、それがはやく停止されればされるほど、また其の価格が低ければ低いほど、それだけよいわけである。”(p233)とし,穀物法自体については後段で”それ自体は最善のものでないとはいえ、やがてはより良きもののための道を開くであろう。”としている。

参照:北野大吉 英国自由貿易運動史 日本評論社 1943年

 

 

 

以下次回

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景気政策史ー45 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その2 国富論と不況

2012-03-03 11:50:06 | 景気政策史

  アダム・スミス(1723.6.6-1790.7.17)がこの“不況“というものについてどの様に関していたかであるが、スミスの国富論は初版が1776年、生前の最終版(5版)が1789年に出版されている。スミスと言えば自由貿易、見えない手(an invisible hand)等が有名であり、又一般的理解として経済学の最初の体系的叙述とされているが

 背景になった18世紀の経済史的状況から言うなら、Ⅰでも概ね述べたが18世紀半ばには産業革命が始まり又今日見られる景気循環についても、“J.クラパム イングランド銀行その歴史  ダイヤモンド社 1970“ によれば”18世紀半ば以降には1753、1763、と続く景気循環が見られるようになってきた”とされており、其の後半の1788-1789の恐慌についてもポール・マントウーはその”産業革命 東洋経済社 1971年“で製造業者の言葉として”これまで木綿工業においておびただしい破産の事例をみてきた。1788年には、もう回復する事はあるまいと考えた”としてその恐慌が深刻であった事をのべており、スミスも同時代にいた事を考えるなら何らか述べているとも思われるが、其の点につき筆者としては三点について若干其の事を述べる。

 

 ①一点目としてこれは上述クラパムⅠに引用されている部分であるが、1763年恐慌に関して(クラパムⅠp.273、p.275)“アダム・スミスは英銀行がこの時イギリスや外国の商人の援助のために゛1週間のうちに、約160万ポンドをその大部分は地金で゛貸し出したという話しを聞いた。゛しかしながら、私はこの金額の大きさについても、またその期間の短さについても、あえて保障しようなどとは思わない゛と彼は賢明にも付言している。“(参照:諸国民の富(二)p.317  岩波文庫版(大内兵衛他 訳))同ページでスミスは“同行は、商業手形の割引もしたのであって、しかも様々の場合にイングランドばかりでなく、ハンバーグやオランダの主要商館の信用を維持してやったこともあった。“としている。

 

②としては“第4編、第1章商業の体系、すなわち重商主義体系の原理について“ で貨幣が払底しているというありふれた不平は借り入れの困難さを意味するにすぎない”という項目で

”貨幣が不足しているというこの不平は、必ずしもつねに将来の事を考えぬ浪費者たちだけかぎられたものではない。ときとしては、商業的な都会の全部やその近傍地方をつうじて一般的であることもある。”第3分冊p23、としその原因についてスミスは”過剰取引(over-trading)がその共通の原因である”とし、”商業の利潤がたまたま通常の利潤より大きい場合には大小いずれの商人のあいだでも、総じて過剰取引という過誤が犯されるようになる。”として”国内でも海外でも、信用によって平常以上の量の財貨を買いそれに対する支払請求がくる前に代金が回収されるであろう事を期待しつつ、どこか遠方の市場に送る。ところが支払請求は代金回収より以前にやってくるのであって”としてその状況を説明している。

 其のあと続けて”すなわち貨幣の払底についての一般的な不平をひきおこすのは、金銀の払底でもなんでもなくて、このような人々が借りいれたり、またかれらの債権者たちが支払をうけたりする場合に当面する困難性なのである。”としているが具体的にはその対応をどうすべきかは書いていない。

 

③三点目としては同章の項目の”売るよりも買うほうがたやすいのは、単に貨幣が商業の用具であるからにすぎない”の中で 

 ”商人が財貨で貨幣を買うよりも貨幣で財貨を買うほうが一般によりたやすいことを承知しているのは、富が財貨よりもより本質的には貨幣に存しているからではなくて貨幣は、よく知られ、基礎のかたい商業用具で、それと交換にあらゆるものがたやすくあたえられるはするけれども、”とし其の後で”かてて加えて、彼の利潤は買いよりも売りによっていっそう直接的に生じる”と述べておりこれらから読み取れるのは不況時に販売が不振になる現象からの叙述と読み取れるのではと言う事である。(但しその後半では一国民、又は一国がこれと同一の災難に見舞われるということは無い。として一国全部の不況は否定しているが) 

 これについての対応と読み取れるのはその後半で(p26)

 ”たとえ財貨は、必ずしもつねに貨幣が財貨をひきつけるほどたやすく貨幣をひきつけぬにしても、長時間(in the long-run)をとってみれば、貨幣が財貨をひきつけるのにくらべてさえ、いっそう必然的に財貨は貨幣をひきつける。財貨は貨幣を購買する以外の多くの他の目的に役立つけれども、貨幣は、財貨を購買する以外には全然役立ち得ない。それゆえ貨幣は、必然的に財貨のあとを追わざるを得ないが、財貨は必ずしもつねに、または必ずしも必然的に、貨幣のあとを追うとは限らない。”として

 財貨に多くの使用価値があることから論立てしているが其の使用価値は交換されて始めて役立つものでありしたがってそのことにより貨幣が財貨を追うとは言えないと思われる事であるが、”長時間をとってみれば”という前提を置いていることからするなら、”過剰分”は長期的には”均衡する”と言う事を述べる趣旨ともとれる。

 

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景気政策史ー44 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その1前提としての重商主義対外政策

2012-02-25 11:54:51 | 景気政策史

 

そもそも論ではこの”重商主義”の概念自体一般に不明確と言われているが、アダム・スミスがその国富論で使用したのが最初と言われているが、定義としては、”経済学説史に付いても経済政策史についても使われている言葉であって、ふつうこれらの歴史の初期資本主義の段階にあたる部分がこの名で呼ばれている”( 小林昇 イギリス重商主義研究 未来社 1977年 以下文中敬称略)としているが、其の中で小林は特に”初期のブルジョア国家が其の権力を用いて組織的に行った原始蓄積(本源的蓄積)のための政策体系”としている。

重商主義については周知のことと思うのでその対外的政策について若干述べる。知られているように全体としては金銀を”一国の富”と考えそれに伴い政策としては、

①自国商品の輸出奨励(輸出奨励金、諸外国との条約)

②外国商品輸入制限(輸入禁止、関税)

③海外植民地の開拓、植民地での新興産業の抑圧

④航海条例による自国商品の海運権の独占

 等上記の政策が行われていたがこの中で特に関税に関して若干説明をしておく。関税は近世では主として財政収入が主目的であり(国内産業保護の性質は無く王室経常費であった(隅田哲司 イギリス財政史研究 ミネルヴア書房1971年)でぶどう酒等除けば輸出入品価格の従価5%(輸入品、輸出品とも同じと言う事)であった。

そこから1700年当時、財政としての他、重商主義的産業保護政策が”原材料を除く輸入品の関税水準”を大きく引上げ、歳入で22.4から35.1%にもなった。(朝倉弘教 世界関税史 日本税関協会 1983年)

 そこから18世紀初頭にはウオルポールによる改革が行われ1721年にはごく少数の例外を除きイギリス生産、製造の商品の”輸出税”を免除し又”外国産原材料の輸入税”の撤廃が行われた。

 これらの関税改革を上記隅田は”重商主義的[保護関税]の総合的体系化”と呼んでいるが、その他ウオルポールにより行われた改革は戻税制度、保税倉庫制度がある旨を指摘している。

 

 又①の輸出奨励金の内一番重要なものは穀物に対するものであり(穀物法)、1740年頃には輸出は飛躍的に拡大したが1760年頃より少しつづ穀物輸入国になり之により幾たびか穀物法の改変があったが1814年に輸出奨励金の部分は廃止となった。(前掲 小林)

これらを述べて前掲 隅田は”18世紀重商主義は海運諸法、穀物諸法、及び保護主義の三者を並存的支柱として構成されたもの”との表現をしている。

尚、植民地及び殖民政策と不況の関連は別項で取り上げる予定であり本稿の中では述べない。以下経年的に順次テーマに沿って序していく。

 

 

 

 

 

 以下次回

 

 

 

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景気政策史 43  コラム (資料整理の為暫時連載を休載致します)

2010-10-09 18:14:19 | 景気政策史
 2008年から始めかなり掲載が出来ませんでしたが、投稿者も糊口しなければならない(ならなかった)と言う事でご勘弁を頂きたく思います。 

 9月から再掲しましたが、ここまでで主としてイギリスの金融的側面からの景気政策を歴史的に概観致しました。投稿者も全て分かってから投稿している訳ではなく、その都度、確認しながらと言うのが実態でありますが(只、当然、全体(現代までと言う事で)への見通しはそれなりに持ってはいますが、とりあえず出来る所までと言う事で。

 
 そこでここから又イギリスを中心にしながら金融的側面以外の分に付きまして投稿したいと思っていますが、若干、資料収集と構想を考えねばなりませんので、若干の読者の方には申し訳ありませんが、暫時(そう長くは無いと思いますが)政策史は休載させて頂きます。整い次第、順次掲載します。

振り返ってみますと、やはり抜けてしまった部分や未消化な部分もやはり有りますので今後、追記する等により補いたいと思います。(自分でも”途方も無い事”を考えているとも思いますが)



只、その間も雑感、意見等は投稿させて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。又コメント等、全くありませんので、投稿された分は粗全部掲載致しますので、是非積極的にご意見をお願い致します。


”経済政策”とは何か?

これは実は簡単そうで、そうでは有りません、例えば、不況時、多くの特に19世紀等では、賃下げあるいは解雇等があります。(メンデリソンは旧ソ連の経済学者でありますのでそういった部分は結構書き込みも有ります 只、通史で恐慌史をこれだけ書いている人はいないと思いますが)その場合、経営者等によって解雇が組織的に行われた場合等はこれは、果して”政策”と言えるのかは些か疑問ではありますが”組織的に行われ賃下げ=消費低下”のような場合はある意味”賃下げ政策”とも呼べるとも思いますが、投稿者の考えでは、”一定の組織力ある”団体”が系統的に、経済的行為を行う場合”が政策と呼べるのかと思います。(これについてはかなり以前より”論争”が有るように見受けられます)


地球(自然)環境問題への取組みの強化を

 最近、雨が降った場合でも土砂降りの時が多いように感ぜられます。このまま温暖化が進んだ場合、”経済的に換算して”現在対策をとれば世界GDPの1%ですむが、放置した場合、5-10%の経費が掛かるとしています。経済的側面もそうですが、最近ではすずめの数が減少しているとか又気象上の色々な変化が感じ取れるまでになっています。政府や政党が第一義的に取り組むべきと思われます。
又、個人でも出来る事は直ちに行うべきでしょう。私の場合で言うと、最近車を必要が有って買いましたが、”軽自動車”で、不要な場合はなるべく乗りません。
又、コーヒー店で使い捨て容器を使っている店には行くことを止めました。その他使わない場合、電気はすぐ切るとかしています。


後ここを遣わして頂いて提案したいのは、
①夜間遅くのネオンの自粛
②一定以上売り上げの無い自動販売機への規制(全部併せると香川県全部と同じと言われています)
③やや困難かもしれませんが、一般店舗の深夜営業の規制
④バス等公共交通機関の奨励(高速への一般補助は環境に逆効果という研究結果も出ています)

これら、”出来ない”ではある意味済まないかも知れません。
政府、経営者団体等では”国際競争力”を言いますが、それはある意味止むを得ないでしょうが、その場合、諸外国と交渉し強調しながら実施すべきと思います。








2010.10.12追記
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景気政策史 42  1907年恐慌-3  FRS(FRB)の成立

2010-10-02 10:19:19 | 景気政策史

 前回まで1907年恐慌の一般的展開の概略及び日本でのその金融的対応を述べさせて頂きましたが、今回はアメリカでの対応及び、この恐慌を切欠として制度変化(FRS、FRBの成立)が起きましたが、その点を含めて述べさせて頂きたいと思います。

1907年春にアメリカで証券市場の暴落が起きたわけですが、夏ごろには鉄鋼生産等にも影響が出始めユーエス・スチールでは需要が25%下落した。10月に入りアメリカ、欧州では恐慌状態になりアメリカでも取付等が起きたが、英銀行では公定歩合を4.5→5.5→6→そして11月7日には、7%にまで上げた。これにより独、仏から金が英国に流入した。

 アメリカではイギリスから前述したように手形の割引制限を受け、今までの恐慌時と同様(1884、1890、1893の恐慌は”手形交換所の貸付証書”の発行で激化を阻止してきた、但しメンデリソンによれば1893年恐慌では手形交換所の証書は発行されたが恐慌は極度の、未曾有の厖大な失業と物価低落、消費の不断の収縮とし”19世紀の歴史でもっとも深刻な恐慌であった”とし”証書”の発行の効果は限られていた事を示していますが)に各地で”手形交換所の貸付証書”を発行し、それにより緩和を図った。
また、政府の国庫資金を一時預金の形式で銀行に融通した(メンデリソン)


アメリカに於けるこれらの状態は翌年になり、豊作による国際収支の改善により徐々に収拾した(ドルの歴史 A.ヌスバウム)





★★★FRS(FRB)の成立

 これらからも分かるように当時はアメリカに”中央銀行”と呼ばれるものは無く、国全体の政策的方向性を取るのが困難であった。
この1907年恐慌を契機に金融制度の改革の機運が高まったのはある意味当然であった。

ここで若干、概括的にアメリカの金融制度の歴史を述べその改善方向が出された経過を述べるのは無駄ではないと思われますので(この分野の方からすればある意味常識とも思われますが)若干述べさせて頂きたいと思います。




アメリカでは”国”というより”州”の意識が強いとされ、一番先に”州法銀行”が作られ発券も行なった。しかし”国としての銀行”を求める勢力もありその間、合衆国銀行設立の試みも二度行なわれたが、両方とも短期間で廃止された(1791年、1816年)
その間やはり州法銀行が主体であったが銀行券もバラバラであり、其の統一制も求められた。

 
 1863年に国の法律によると言う意味で”国法銀行”が各地に作られ国法銀行が統一様式で発券した為、銀行券は統一の方向に向かい1878年には、州法銀行券は廃止された。

尚、”本位”と言う事では1792年の貨幣法でそれ以来金銀複本位制であったがこれは1900年の金本位法で金本位になる。


しかしここで問題になった大きな一つの事は、国法銀行の発券が”担保国債”を基準にしていると言う事で、”発券が非弾力的であったと言う事”です。

(国法銀行券が恐慌時に通貨需要を満たす事が出来ない為に1873、1893、1907年に現金支払い停止が起こり、通貨に対する高いプレミアムが生じたとされます。これ等を称してベックハートは、”非弾力的銀行券発行とバジョット原理(最終の貸し手)の欠如の欠陥としています。p30)
つまり、銀行券の発行の為には国債の”購入”が必要であり、逆に発券の減少の為には担保国債の売却が必要であったと言うことです。(発券限度額が財務省への預託国債に制限される制度になっていた)


 それらからそれら中央銀行の存在しない状態は各方面より指摘されそれに対し1908年”全国通貨委員会”が設立されそこから当時の問題点として

①多数の銀行が全国に散在する脆弱性
②銀行券供給の非弾力性
③小切手の使用が普及しているにも拘わらず各地の習慣等が異なる事等
④連邦財政制度の不完全性 国庫金は”独立国庫”と呼ばれる国庫で保管され国法銀行に預託されていた。

 
 等の指摘を受け、制度改革は愁眉の問題であったので下院銀行通貨委員会から、グラス法案が出され1913年12月に”連邦準備法”が成立し、そこよりFRS:連邦準備制度(FRB:連邦準備制度理事会)が成立といたり国法銀行は発券を止め現在も州法銀行とともに活動している。





参照  アメリカの金融制度 高木仁
      ドルの歴史的研究  片山貞雄

          米国連邦準備制度 ベンジャミン.H.ベックハート        2011.5.2追記

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景気政策史 41  1907年恐慌-2 日本に於ける”通貨論争”

2010-09-26 08:36:07 | 景気政策史

 前回投稿で日本での日銀公定歩合の1907年12月4日の引上げを延べ、又1907年後半の英銀行の数度の歩合引上げを述べましたが、その間、独ライヒスバンクも1907年10月29日6.5%、又11月8日には7.5%に引上げ、仏銀行も1907年11月7日4%に引上げました。

 
 ここで1900年恐慌の時に当時の高橋日銀副総裁が歩合引上げに反対したと述べたことを思い出して頂きたいのですが、日本では明治初期の頃の通貨制度はかなり変遷が激しい訳ですが、1885年に一旦、銀本位制が確立しますが(金本位制は1897年)、既に当時より通貨理論に関しては議論があり、それは何かと言えば所謂、”数量説的”理論の、特に恐慌時にも関連しながら、適用に関してでした。

其の説を①積極説、②消極説、としますと、



①産業育成による将来の貿易収支改善を目指す立場から生産的事業への資金供給を重視して通貨収縮に反対する。

②物価引下げによる当面の貿易収支改善を目的に通貨収縮を求める。


上記を具体的政策に(特に恐慌時の流出と考え合わせながら)当てはめますと、

 ①は日本は海外との境域に到達していないので金利の昂騰は往々事業を抑制し商工業者を窮迫させるだけで”資金を海外より吸収する効力”は無いとして公定歩合引上げに反対、又正貨危機を根本から治療するには我輸出品の増加こそ最上の途であるとし、1900年頃には資金回転率を高める事で製糸産業等の輸出産業に資金供給していた、又恒常化していた”限外発行”は認めていた。




 ②を具体的政策に当てはめますと、入超で正貨流出が生じた時には兌換券を次第に収縮することは今日中央銀行の組織上当然で其の為金利を次第に引上げてくる必要がある。
それが貿易の逆境を漸次挽回して順調に帰せしめ全体の経済を健全にし兌換制度を維持する唯一の方法である。とし、
 この場合は、公定歩合引上げ→通貨収縮→物価引下げ→貿易収支改善→正貨流入を考え(1900年当時の山本日銀総裁)”金本位の自動調節機能 を考えていたが、


 他方、日銀には二つの任務があるとし、それは
イ)金貨準備の維持
ロ)金融の疎通を計り低利の資金を商工業者に供給する

であるが両立しない場合があり、1900年恐慌時にそれに関し”一度不景気の難関を経過する”必要が有るとした。



 そういった中1907年恐慌時には日銀の歩合引上げは1907年の12月一度だけであった(其の前は1906年7月1日)

これらの議論は1907年恐慌後も続いており11年に日銀総裁になった高橋是清、井上準之助は①の立場であり、山本達雄、若槻礼次郎は②であった。



 これらの理論的背景としては明治初期既に欧米の経済理論が日本に持ち込まれ例えば田口卯吉等は自由貿易、また為替相場と輸出入の”自動調整作用”等を東京経済雑誌等で主張していた。
又逆に犬養毅等は東海経済新報等で保護貿易を主張していた。






参照 明治経済政策史の研究   神山恒雄
   日本経済統計総観
   日本史小百科 経済思想 

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