マクロ経済そして自然環境

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景気政策史―57 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その14 後発国の自由と保護-2  リストと恐慌

2013-02-16 15:40:29 | 景気政策史

リストは19世紀前半のドイツの政治経済学者であり当時のドイツの分割的状態、工業の遅れた状態からどの様に国家のありようを作るかから述べた物である“経済学の国民的体系”を1841年叙した事で知られているが、これはJohn Bowring(イギリスの言語学者、経済学者、国会議員、後、香港総督として1856年中国でアロー号事件を起こす)が1830年代にイギリスの使節として欧州を見、その結果をイギリスで講演しそれがマンチェスター反穀物法協会の発足の契機となったとされ、これらの事情がリストが前掲書を書いた切欠とされる(前掲 熊谷) 尚、今後リストの“経済学の国民的体系”を“体系”と呼ぶがその緒論参照(小林昇訳p50)

リストの理論的特質としては

ア)世界経済学と国民経済額    スミス、セーの唱える経済学を“世界経済学”と呼びリストの国民経済学(政治経済学)から区分し“国民経済学”を”国民国家の概念と性質とから出発して特定の国民が現在の世界情勢とみずからの国民に特有な事情との元でどうすれば自分の経済状態を維持し改善しうるかを教える物とし、“世界経済学”は地上の全ての国民が永久平和の元で生きている単一の社会を形成するという前提から出発するものとする。(訳p186)

イ)交換価値論から“生産力理論”へ  “何が労働の原因であり何が怠惰の原因であるか”と問い“科学と技術が栄えているかどうか、社会の制度と法律とが宗教心や道徳心や知性を生命及び財産の安全性を、自由及び正義を生んでいるかどうか云々”と 延べそれらに依存する物とし“国民の繁栄は国民が生産諸力を著しく発達させたらそれだけ大きい”とする( 訳p201 p207 p56) 

これらを前提としながら国民経済の発展段階説を唱え、①未開状態 ②牧畜状態 ③農業状態 ④農・工業状態 ⑤農・工・商業状態 に分かれるとし、“国民の経済的発展を外国貿易の規制によって促進するための手段としての関税制度は、常に国民の工業的育成と言う原理を方針として守らなければならない“とし、(p60~)又“保護関税によって国民が被ることとなる損失はいつの場合にもただ”価値“に関するものであるが、その代わりに国民は諸力を獲得し、これを使っていつまでも、莫大な額の価値を生産することが出来るようになる。従って価値のうえでのこの失費は、もっぱら国民の工業育成の費用とみなすべき”として“安い所で買う”と言うスミスやリカードの“自由貿易論”を反駁している。(p63)

 これらの理論的影響により世紀半ばには一定保護主義が進み、たばこ、綿糸、砂糖等の関税が引上げられた。

 それらを前提にリストが恐慌をどの様に見ていたか及びその対処の問題であるが、この体系の中にはやや以外にも“恐慌”と言う単語がかなり見受けられる。

特に纏まって説かれているのは“理論編 第23章 工業力と流通の要具” のなかで

ア)貨幣数量説の否定   まず冒頭“過去25年間の経験は、貴金属の流通と貿易差額とについて支配的理論がいわゆる重商主義の諸概念を反駁しつつ樹立した諸原則を、部分的には正しいと証明したが、それでも他面でこの経験は、右の諸問題に関するこの理論の重大な弱点をも明るみに出している。”とし更に“理論は次のように主張する。貴金属は他のあらゆる商品と同一の方法で手に入る。ある商品が安いか高いかはもっぱら価格の間の相互関係にもとづくものであるから、流通にある貴金属の量の大小は根本的には影響力を持つことがない。不均等な外国為替相場はそれが偶々貿易上有利になっている国には、その国からの商品の増大の為のプレミアムの働きをする。したがって貨幣制度や輸出入の均衡も、国民の他のあらゆる経済的関係も、事物の本性によって最も確実にまた最もうまく調節される。”(小林訳p329)

としこれは“支配的理論”としているものが“貨幣制度の均衡が自然的に齎させる”とするものであり、国富論上では数量説的表現は見当たらずスミスは貨幣数量説を採っていない(国富論第1編第3説 過去四半世紀における銀の価値の変動に関する余論 参照)と思われる事からしてリカードの数量説を指しているのは粗確かと思われるが(但し他の部分でセーに関する叙述も多くセー自体の貨幣理論を追及することも厳密化には必要ではあるが、この部分で数量説を批判している事の意義は変らない)リカードに関する叙述自体は3箇所であり、数量説に関する部分は無い(尚訳p415参照)その先で“独立した諸国民の輸出入は現在では理論が事物の本性と呼ぶ物によって決められるのではなく大部分は国民の貿易政策と勢力とによって国民が世界の事情や他の諸国及び諸民族に及ぼす影響によって植民地の領有と国内の金融施設とによってあるいは戦争と平和とによって決められるのである。従ってここでは全ての事情が、政治的、法律的、行政的な紐帯によって結ばれつつ永久平和と利害の完全な統一とを達成している社会のなかの事情とは別の形に作り上げられているのである”(訳p330)と批判している。

イ ) 恐慌と“確固とした銀行制度”   上記に続き1837年のアメリカの恐慌を引きつつ “資本の豊かさと工業力との点でイギリス国民にはるかに劣る国民は、永続的に前者から債務を負いこんだり前者の金融機関に隷属したり前者の農業・工業・商業恐慌の渦に巻き込まれたりすることなしには自国の工業市場でイギリス人の優勢な競争を許す事は不可能である。”とし7項目を挙げ、“イギリスの国立銀行はその操作によって引き続いて何年も北アメリカ人が自分の農作物の輸出によって支払うことが出来るよりもはるかに大きい価値の輸入商品を消費するようにまたアメリカ人が幾年間もその欠損額を株式や国債の輸出で補えるようにさせる事が出来た”として貿易収支を資本収支で補い、それが恐慌時、結果としてイングランド銀行の割引政策でイギリスに吸収されアメリカ国内での混乱に繋がった事を述べて、“金融市場の変動とそれから生ずる恐慌とを阻止する事が出来、堅固な銀行制度を築く事が出来るのは輸入が輸出と均衡を保つときに限られる。”とし(p338)、

“貿易差額がはっきりと有利であるような国民の場合に、いつも右(貿易差額がマイナスであり例外なしに国内の商業恐慌に巻き込まれる)と逆の現象が認められ、こういう国民が通商関係を持っている国々での商業恐慌もすみやかに過ぎ去るだけの影響力をしかこの国民に及ぼすことが出来ないのはどういうわけか(小林訳p348)”

更に続けて“もし貿易差額が存在しないか、あるいはそれが我々にとって有利であっても不利であっても何ほどの事もないのだとすれば、また外国に流出する貴金属の多いか少ないかと言う事がどうでも良いのだとすれば、イギリスが不作の場合に(差額がイギリスに不利となる唯一の場合に)びくびくしながら輸出と輸入とを比較し、次には輸入されたり輸出されたりする金や銀の一つ一つを単位を数え、その国立銀行が貴金属の輸出の阻止とその輸入の促進との為に極めて小心に手を尽くすのはどう言う訳か(小林訳p349)”とする。この部分は1840、41年のイギリスの発券銀行委員会の証言と重なる部分があるのは興味深いものである。(尚、穀物法による輸入と貴金属の流出に関しての前述参照)

として結果論的にはリストは基本的に“産業政策”としての他、貿易関係上の収支の均衡こそが恐慌を防止すると考えその手段として保護貿易を考えていたと物と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

以下次回

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景気政策史―56 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その13 後発国の自由と保護、諸国の関税政策

2013-02-02 14:49:20 | 景気政策史

この間の説明は粗イギリスから見た商工業の発展を描いてきた物であるが、当然にも他諸国の状態もあるわけであり、それらがどの様な物であったかを示す必要があるがまずは19世紀中盤までの各国の関税政策の概観を見てみてみる。

アメリカ 19世紀前半を通じて輸出は主として原料、食料、輸入は主として工業製品であり、輸出入の約4割がイギリス向けで、イギリスからの輸出の約6-7割は繊維製品であった。

1789年 初の関税法  内容的には財政目的

1816年 保護主義を明確に謳う関税法

1824年 産業保護の立場であるも南部(綿花輸出を英国に頼る)は報復を恐れ反対。

1828年 南部から[唾棄すべき関税法]と呼ばれ保護主義を一層強める。

1832年 1828年法を若干引下げるが南部の不満は解消できなかった。

1833年 [妥協関税法]と呼ばれ最高税率が20%に抑えられたが1837年に恐慌が起こり財政事情が悪化、歳入不足になり保護主義の隆盛。

1842年法 保護主義が強く有税品平均37.8%

その後政府の財政が好転すると再び自由貿易主義の財政関税時代が起き、1845年12月財務長官ウオーカー(自由貿易を主張)が経済政策から見た保護関税反対論を唱える。

1846年 上記報告を受け“ウオーカー関税法”が出来る(実態は緩和せられたる保護貿易ともされる)

1857年 上記1846年法を低率化したもの。46年から57年を“アメリカの自由貿易時代”とも言う。1857年に恐慌がおき国庫が再び悪化し、モリルの関税引上げ法案が1861年に通過、南部の自由貿易派と北部の保護主義者が対立、南部は1860年に独立宣言。 

モリル関税法はその後第二次大戦まで続く米国の高関税時代の出発点とされる。

フランス 19世紀前半は概ね工業原料を輸入し工業製品を輸出していたが、フランス関税は全体として緩慢な動きで大きな変化は見られない。19世紀前半を通じ基本的にフランスが“自由主義的政策”を唱えたのは1860-70年代のみであるもその関税政策は主として対英要因によるとされ、フランスの高関税は際立っているとされ、イギリス、ドイツと違い工業資本家、生産者、地主、農民もともに保護主義陣営に居たとされ、“自由貿易派”としては絹織物製造業者、ぶどう栽培業者、ぶどう酒製造者がいた。(毛利健三 自由貿易帝国主義 東京大学出版 1978年)

1826年法  全体的保護主義の完成。 プロシア、ロシア、スエーデン等々との闘争があった。

1830年代 48年まで自由化への動きが見えるも関税の重要な緩和はなかった。

1836年: ワイン製造地方からの影響で、租製鉄、石炭、綿の関税の引下げ、造船用木材等の輸出制限を撤廃する。製造業者、農業家の保護主義者の抵抗に遭う。

1846年 経済発展とイギリスの自由貿易運動に影響を受け、各地に自由貿易協会が設立。

ナポレオン三世が皇帝(1852年)になって初めて保護主義から離れる実際的動きが出てきた。

1853-1855 石炭、鉄鋼、羊毛、綿等々の関税引下げ自由化への、模索が始まる。

1856年 政府が全ての“輸入制限”を廃止しこれを30-60%の関税に置き換えようとしたがリール等の工業都市の反対に合い断念した。

ドイツ

19世紀始めのドイツは多数の領邦国家からなり、その内部にまた多くの関税領域があった。

1818年のプロシア関税法はそのプロシア内部の統一的関税を作ろうとした物である。その第一条は“外国産の農産物と製造品はすべて国内の全域にわたって輸入され、消費されまた通過する事が出来る。”

第5条冒頭に宣明した貿易の自由は諸外国との交渉にさいして常に原則とされるべきである。(中略)しかし之に反して諸外国に於いて我国民の取引を著しく損なう諸制限に対しては適切な処置によって報復する事もまた留保される。

となっており、“自由主義の原則”が鮮明になっているとされ、輸入関税の水準も従価平均10%で諸外国からしても低かったとされ北ドイツ関税同盟、南ドイツ関税同盟、中部ドイツ関税同盟を経て1834年にドイツ関税同盟が発足した。他諸国から較べて“自由主義的なものであった”がこれは自己の経済的基盤をイギリス等への小麦の輸出におくユンカー(地主層)と、保護貿易を要求したが力の弱かった産業資本との妥協の産物でもあった。

参考  P.Ashley:Modern Tariff History 1910年 、前掲世界関税史

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