マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史―60 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その16 “大不況”と商工業不況調査委員会報告

2013-10-05 16:15:48 | 景気政策史

 

 

ここで19世紀後半の世界を覆った“大不況“のなか当時のそれに対する世論がどうであったかを一応述べるのが有効と思われるので当時の政府文献ではその典型と見られる商工業不況調査委員会の内容について述べる。

1850年代から1870年代初め頃までのイギリスは世界の工場、世界の運輸業者であり、世界の銀行であり、世界の手形交換所であると言われた(大野真弓:イギリス史(新版)山川出版1987年p234)しかし、1873年恐慌が勃発し、その後イギリスでは好況の内的条件が未成熟だった為に好況の一時中断から慢性的不況状態となり79年に再び恐慌に襲われ、その後1882年恐慌から86年まで再び慢性的不況に襲われ87年からは一時的好況となったが1890年ベアリング恐慌となり再度慢性的不況状態になった。その後1896年にロシアの鉄道建設、日本の日清[戦後経営]と生産財輸入、アメリカ、ドイツの重化学工業投資、消費需要増大等により長期による慢性的不況から脱却した。(これを一般に“大不況”(Great Depression)と呼ばれている。(前掲 吉岡:近代イギリス経済史p143)

当時の慢性的不況を前にそれまでの自由貿易に対し、ドイツではビスマルクにより当時の英国産品の安売り、(英国に対する諸国の安売りについて下記R.S.Hohhman:p40)低価格の外国農産物に対処する為、更には財政的理由により自由貿易から転換し1879年保護主義に基づく関税表を制定、その後81年、85年、87年の改正で保護貿易の度合いを強めた。又米国では1861年のモリル関税法以降1890年のマッキンレー関税法、デイングレー法により保護貿易の方向が強化された。(前掲 朝倉弘教 世界関税史: p329~)

そのような中、1881年に互恵主義、保護貿易を掲げ“国民公正貿易連盟”が発足したがそれらの世論的背景を元に関税改革に理解があるとされた保守党ソールズベリー第一次内閣の元で大蔵大臣ヒックス・ビーチの提言により不況の範囲、性質、原因、救済策を調査する為に“商工業不況調査委員会”が1885年8月に下院に設置され1886年12月にその最終報告書が提出された。委員会報告は当時の不況に対する社会認識がどのようなものであったかを見るには格好の資料である(吉岡)ためその最終報告中、多数意見、少数意見をここで見る事にする。(以下主として下記吉岡論文参照、尚Page311~参照)

報告は、第一次、二次、三次、及び最終報告の構成となっており租の最終報告が多数意見、少数意見、オコンナー報告(単独署名)となっており多数派は自由貿易主義、(但し18名中、11名が保留意見を述べ、又2名は自由貿易の修正を意見としている)少数派(4名)は保護貿易の立場にあるとされる。(荒井政治 近代イギリス社会経済史未来社1968年p248)

多数、少数の中で状況改善の為の共通して検討すべき項目として13項目が挙げられており、それは

1、資本と労働の間の変化

2、労働時間の変化

3、製造者、販売者、消費者の関係の変化

4、価格の下落かそれとも価値基準の騰貴か

5、通貨と銀行業の法の状態

6、信用の制限か拡大か

7、過剰生産

8、外国との競争

9、外国の関税と補助金

10、国、地方の税の負担

11、他の諸市場との連絡

12、貿易に関する立法

13、土地に関する立法

でこれらを巡って論議がされた。

多数意見:基本論点として(Ⅰ節 27  以下番号は原文の段落番号)現在商工業は不況状態に陥っており、不況とは利潤の低下乃至は欠如と雇用の減退を意味するが貿易量と投下資本量の減少は看取されない。又不況の開始点は1875年であり、その後1880-1883年に於ける若干の部門での短期的繁栄を除いては商工業全体について継続しており特に農業部門で深刻である。

不況の原因について(Ⅱ節)は証人の間では意見の一致をみていないが、過剰生産(over-production)、金の騰貴による物価下落、外国の保護関税・奨励金・制限的通商政策、国内市場及び第三国市場に於ける外国の競争、地方税負担の増大、外国競争者との運賃格差、雇用規制立法、外国の技術教育の優位等が考えられるとしながらも労働問題については労働者の地位の向上、労働時間の短縮、労働組合の存在は不況の原因ではないとし、

“過剰生産”について“全般的過剰と言うのは有り得ないが”とし“需要が生産者に対して引き合う価格を維持し彼の資本に対する適正な利潤を提供するほど十分に活発で無い時期に於ける商品生産もしくは生産能力の存在“を意味するとし、その中で機械生産による生産の増加に触れている(64 )これは少数意見も述べている(73)

それらを総括して原因は、“生産能力の過剰は一部分は国内において不断に蓄積されつつある膨大な資本の競争に基づくものであり、一部分は1870-71年の事件(普仏戦争)が生産を刺激し、商品需要によって保証された以上に長期にわたって持続したためてあり、一部分は社会の少なくとも一つの重要な階級の購買力減退によるものである。”とし、これら諸要因はイギリスの力により規制不可能なものと可能なものがあるとし、前者には農業不況、貿易増加を伴わない資本蓄積に伴う利潤率の低下、外国の保護貿易、後者には商品の品質低下、他国の市場進出を許す企業心の欠如、商業関係立法の欠陥がある。とした。

そこから勧告(政策提言)は国際競争に勝利する為の生産費の低減化、企業心や知識等を以って他国の攻撃を許さない警戒心の強化、新市場の開拓、技術・商業教育の改善、外交官の情報活動の強化、国内産業統計の整備、鉄道料金の公示、不正商標規制法(当時、ドイツ等の不正表示が横行していた Page p312)の制定等が示された。

少数意見は、まず論点として、農業雇用人口の絶対的減少、繊維工業雇用人口の相対的減少、雇用の部分性(操短)と不安定による労働者の賃金収入の減少、賃金率不変の条件のもとでの生産の減少による生産費(固定資本償却費)の高騰と国際競争力の低下が指摘され、

“過剰生産”について“我々はそれを商品生産(もしくは生産能力の存在)の消費能力に対する過剰ではなく引き合う価格での輸出需要及び国内市場において商品の購入に振り向けられる所得もしくは収入の総量に対する過剰、換言すれば人口の利益ある(profitable)な雇用に対する過剰であると理解する。”としつつ、

不況の原因として、国内・国際市場に於ける有効需要の不足に由来すると言う観点からそれを惹起した具体的条件が多数意見と同様な順序で分析されているが決定的相違としては、凶作と外国の競争による農業不況・農業階級の購買力の減退を不況の恒久的要因として一層重視しており、外国の保護制度をもって“組織的な過剰生産”、恒久的不況の“主要な要因”と看做している事が決定的相違点として挙げられている。

そこから勧告は多数意見と前半は基本的に同じであるも、目に付く所ではコストの安価を主張しつつも、“労働に関し健康に有害な事や不快な事を無くし”として労働階級の保護を主張している(多数意見勧告ではこれは触れていない)、その他顕著に相違する部分として教育の改善とくに国際競争に対応するための初等教育の充実による児童の資性の陶冶を勧告し又“有限責任法”の改正に関して公称資本の三分の二が応募され適正な比率が払い込まれるまで営業開始を許可すべきでない事、株式会社の負債能力のより厳格な規制、収支報告書の登記局への提出、清算事務の大法官府から破産法廷への移管等を勧告し、力点として国内市場に於ける外国商品の競争排除の為製造品に従価10-15%の輸入関税を賦課すること、植民地食料に対する特恵関税設定の勧告、食料関税によって少なくとも耕地の急速な減少と雇用の後退は阻止され、工業部門の活況が国内産食料品に対する需要を喚起する事により自由貿易より有利に作用する事等が述べられた。

 

 

参照:[商工業不況調査委員会報告書]分析 吉岡昭彦、 国民経済の諸類型 川島武宜、松田智雄編 所収、 

イギリスの[大不況](1873~96年)に対する諸資本家の対外対策構想ー[商工業不況調査委員会報告](1886年)を中心に(経営と経済)51(4) 藤田暁男

Final Report of the Royal Commission appointed to inquire into the Depression of Trade and Industry 1886

 1880年代のイギリスと欧州諸国とアメリカの市場競争についてR.S.Hohhman::Great Britain and the German Rivalry 1875-1914 p28~

 

 

 

 

 

以下次回

 

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景気政策史―59 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その15 “自由貿易”と砲艦外交

2013-08-18 15:14:46 | 景気政策史

 

上記で述べたように欧州諸国では英仏を中心として“自由貿易体制”が確立したが目を若干他地域に向けるならかなり様相が異なる物が展開されていた事が分かる。まずナポレオン戦後19世紀半ば過ぎまでの主なイギリスの関連した主な戦争を見てみるなら

ビンダーリ戦争(1817-1818)

マラータ戦争(第三次)(1817-1818)

ギリシア独立戦争(1821-1829)

ビルマ戦争(第一次)(1824-1826)、(第二次)(1852)

エジプト・トルコ戦争(第一次)(1832-33)、(第二次)、(1839-1840)

アフガン戦争(第一次)(1838-42)

アヘン戦争(1840-42)

シーク戦争(第一次)(1845-46)、(第二次)(1848-49)

太平天国の乱(1851-64)

クリミヤ戦争(1854-56)

アロー号事件(1856-60)

セポイの反乱(1857-59)

メキシコ遠征(1861-62)

ブータン戦争(1865)

であり欧州以外の地では(ギリシャ独立戦争、クリミア戦争以外)戦争が半ば常態化していたのが良くわかると思われる。又そのような中でビンダーリ、マラータ、シーク等一連のインドでの戦争、土侯国アウドの併合(1856年)によりインドのイギリス征服が成立(イギリス史:大野真弓編p518)、又、ビルマ戦争ではビルマに(第一次)アッサム地方の英領化を承認させ、又ブータン戦争でブータンの南部を手に入れた。(戦争・事変 全戦争・クーデター事変総覧:溝川徳二編 教育社1991年)

中南米ではナポレオン戦争中にスペインとポルトガルの植民地からの独立を求める諸国に独立を助けた代償として1810年にブラジルに関税引下げを主体とする不平等な通商条約を呑ませ

同様な不平等条約を1825年アルゼンチンと1834年にペルーと結び1850年代までにラテンアメリカは“自由貿易”とイギリスの利益の為に開放された。(秋田茂編:パクス・ブリタニカとイギリス帝国 ミネルヴア書房2004年p40)~

更に中国について見るならアヘン戦争で南京条約(1841年)、虎門寨追加条約により不平等条約体制の基本的条項が作られ、香港を割譲、広東等5港を開港等を行い、領事裁判権、軍艦停泊権が締結され、最恵国条款(片務的・無条件的・概括的)を結び義和団事件までに18カ国が条約を結んだが殆どの条約がこの最恵国条款を挿入した(姫田光義他著 中国近現代史上巻 東京大学出版 1982年: p32、116) 

イギリスは日本と片務的最恵国条款、領事裁判権を認める日英修好通商条約(1858年8月)を結ぶにあたり、日本との交渉を任されたエルギン伯はアメリカのハリスから提示された日米通商条約を土台としながら、調印されたものと粗同様の案を示し、“もし日本の委員が条約の実施を延引するなら自分は立ち去りやがて50隻の艦船を先頭に戻ってくるであろう”と威嚇した。(石井孝 日本開国史 吉川弘文館1972年: p378,380)

(因みに日本の特殊な所としては、1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約で片務的最恵国条款(日本開国史p350参照)、領事裁判権を認め、関税自主権の否定等の不平等条約を結ばされ、1858年イギリスとも上記日英修好通商条約を結び(日本開国史:石井孝p380)英米を中心とする欧米とは不平等な条約を呑まされたが、逆に1895年の下関条約で清に上記不平等条約を押し付け、又朝鮮とはやはり武力の威嚇の元、1876年に開港、領事裁判権、開港場に於ける日本貨幣の使用等々の不平等を内容とする“日朝修好条規”を押し付けた)(糟屋憲一 朝鮮の近代 山川出版社 1996年: p29)

これらに関し、19世紀前半から中盤にかけて英国外相、首相を歴任しその間イギリス外交政策に大きな影響力を持ったとされるパーマストンは1841年1月には“敵対する欧州の製造業が我々の生産物をヨーロッパ市場から急速に追い出しつつある。我々は世界の他の場所に自分たちの工業生産物の新たなはけ口を絶えず捜し求めなければならない。世界は広く、そこには我々の製造する全ての物を需要するだけの人々の欲求がある。そして市場を開き市場への道を確保するのは政府の仕事である。エチオピア、アラビア、インド亜大陸の諸国、ならびに中国での新市場は遠くない将来に我々の外国商業圏にとって最も重要な拡張になるであろう”(前掲 秋田茂:パクス・ブリタニカとイギリス帝国p36)とし、更に“貿易は砲弾によって強制すべきものではないが、しかし他方で貿易は安全なくしては繁栄できない。力の誇示無くしては獲得できない事がしばしばあるのだ”としてアロー号事件での武力行使等を正当化した。(所謂“砲艦外交)但しこれらに関しコブデン等は”穀物法廃止の為に戦った人々のうち自由貿易原理の真の意味を理解している者のなんと少数のことか“としてそれら中国やインドでの武力行使に反対した。(前掲 秋田茂編:パクス・ブリタニカとイギリス帝国p35)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以下次回

 

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景気政策史―58 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その15  英仏通商条約と“自由貿易”

2013-03-29 13:27:50 | 景気政策史

 

 

一般的に19世紀“自由貿易”が欧州的に完成されたのは1860年の英仏通商条約の締結によりそれが最恵国条約により欧州全体に広がる事により完成されたとされるのが一般的見解であるが、やや詳細に見るならこの英仏通商条約の成立そのものがかなり政治的なものであったと見ざるを得ない(この事は多くの欧州以外での貿易が力により広められたのと照応するが これは今後、触れるが)イタリア独立戦争の中(井上幸治編 フランス史p405~)で、フランスがニース等の併合により領土的野心を表した事等により欧州内の緊張が強まり、それは当時のイギリス大蔵大臣のグラッドストーンが、英仏条約が好戦的感情や侵攻へのパニックに対する唯一の薬であり(Page 227)“選択はコブデン条約(1860年条約の事)とフランスとの戦争の高い危険性の間にある”(Morley:The Life of Gladstone vol.2 p23 前掲 Ashleyによる引用 p 361) との表現、叉それらの状態から軍備予算の増額への動きも出ていたような事からも明らかであるが、そのような中、1859年の終わり頃にはフランスの立場はかなり難しくなっていた。

そのような欧州での孤立を英国との商業条約で打開しようとナポレオン三世が考える中、“かかる政策により英仏両国間の永久的政治関係を改善せんとする以外に何らの希望を持たない”(前掲 北野p449)と考えていたコブデンが、初め非公式にフランス側の政治経済学者のシュブァリエとの間で交渉を行い後、公式の物になった。これは当初、秘密裏に行われしかもフランス側の立法部の承認を必用としなかった(皇帝の条約締結権による)。(フランス側には有力な自由貿易派はおらず、保護貿易派がより力を持っていた)(前掲フランス史p408  Ashley p360-361、Page.p225 )

ナポレオンはその公表した見解の中で“国際交易の恒常的増大無くしては貿易は栄えない、増大する工業なくしては農業も未開発のままである”と述べ綿、羊毛等の関税の廃棄を主張し、保護主義者からの大きな反発があったが英仏両者の最終的決断の理由は政治的なものであったが1860年1月に条約は締結された。(前掲Ashley p361)

条約の骨子は、詳細は後の交渉に任されたが(Ashley p362~)、(levi:p420)

① 相互的な最恵国待遇の付与

② 相互の国で賦課される内国消費税分に応答する追加的関税の付加権

③ フランスは“禁止的関税”を無くし、多くの輸入品の関税を減じ、輸入製品に対する税率を30%限度とする事。

④ イギリスは多くのフランス製品に対する関税を廃棄する事、ワインや外国製の火酒に対する関税を減ずる事

⑤ 両者は石炭の輸出の禁止を禁ずる事

とされ詳細は後の交渉による事となっており、有効期間は10年でその後通知が無ければ延長されるとした。

また“自由貿易の原則”を壊さないためイギリスでの関税削減は全ての他の国に適応するものとした。(Page 226) 

 1820年代にハスキソンによって導入された“互恵関税”の方向性(前述)はその後、30年代以降イギリスの穀物法による農業保護制度や大陸諸国の後発産業保護の考えから徐々に廃棄され(Page p90)、また40年代関税引下げを断行したR.Peelは[私は他の国々が我々の例に直ちに従うだろうと言う保証を諸君にする事はしない。外国は我々の例に従わなかっただけでなく実際は之まで以上に高い関税率をイギリス製品の輸入に対し課してきた。しかしこのために諸君の輸出にどのような事が起こったというのだろうか。諸君の輸出貿易は大いに増加したではないか・・敵対的関税に対抗する最善の方法は自由な貿易を奨励する事である]と“一方的自由貿易”を主張した。(前掲熊谷:マンチェスター派経済思想史研究p98 によるSpeeches of Sir Robert Peel p601からのの引用)

(但しこの英仏条約も英国の“過激な自由貿易派”からは他国の譲歩に拘らず我々のゲートを開けておくと言う基本からの逸脱であり、“互恵的である”として批判を受けた)(前掲 Page p227)

 その条約から他の欧州諸国はフランスに対しイギリスのみにそのような優位が与えられる事に対し憂慮していたが、まずフランスとベルギーが条約を結びそれは相互に最恵国待遇を与える事と相互的関税引下げが内容であったがそれがその後の欧州諸国の条約のモデルとなり、(Page、p234)フランスは1861年にベルギー、1862年にドイツ関税同盟、1863年にイタリア、1864年にスイス、1865年にスエーデン、ノルウエー、ハンザ、スペイン、オランダ、1866年にオーストリア、1867年にポルトガルと条約を結び、(Ashley p365)他方、イギリスは1862年にベルギーと、1865年にドイツ関税同盟と、1863年にイタリアと条約を結び、最恵国条項により第3国に与えた特恵が自動的に相手国にも適応され、これにより欧州の“自由貿易体制”が確立した。

 

参照:条約締結の詳細はA.L.Dunham: The Anglo-French Treaty Commerce of 1860、及び北野大吉:英国自由貿易運動史p446以降に詳しい

 

 

 

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景気政策史―57 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その14 後発国の自由と保護-2  リストと恐慌

2013-02-16 15:40:29 | 景気政策史

リストは19世紀前半のドイツの政治経済学者であり当時のドイツの分割的状態、工業の遅れた状態からどの様に国家のありようを作るかから述べた物である“経済学の国民的体系”を1841年叙した事で知られているが、これはJohn Bowring(イギリスの言語学者、経済学者、国会議員、後、香港総督として1856年中国でアロー号事件を起こす)が1830年代にイギリスの使節として欧州を見、その結果をイギリスで講演しそれがマンチェスター反穀物法協会の発足の契機となったとされ、これらの事情がリストが前掲書を書いた切欠とされる(前掲 熊谷) 尚、今後リストの“経済学の国民的体系”を“体系”と呼ぶがその緒論参照(小林昇訳p50)

リストの理論的特質としては

ア)世界経済学と国民経済額    スミス、セーの唱える経済学を“世界経済学”と呼びリストの国民経済学(政治経済学)から区分し“国民経済学”を”国民国家の概念と性質とから出発して特定の国民が現在の世界情勢とみずからの国民に特有な事情との元でどうすれば自分の経済状態を維持し改善しうるかを教える物とし、“世界経済学”は地上の全ての国民が永久平和の元で生きている単一の社会を形成するという前提から出発するものとする。(訳p186)

イ)交換価値論から“生産力理論”へ  “何が労働の原因であり何が怠惰の原因であるか”と問い“科学と技術が栄えているかどうか、社会の制度と法律とが宗教心や道徳心や知性を生命及び財産の安全性を、自由及び正義を生んでいるかどうか云々”と 延べそれらに依存する物とし“国民の繁栄は国民が生産諸力を著しく発達させたらそれだけ大きい”とする( 訳p201 p207 p56) 

これらを前提としながら国民経済の発展段階説を唱え、①未開状態 ②牧畜状態 ③農業状態 ④農・工業状態 ⑤農・工・商業状態 に分かれるとし、“国民の経済的発展を外国貿易の規制によって促進するための手段としての関税制度は、常に国民の工業的育成と言う原理を方針として守らなければならない“とし、(p60~)又“保護関税によって国民が被ることとなる損失はいつの場合にもただ”価値“に関するものであるが、その代わりに国民は諸力を獲得し、これを使っていつまでも、莫大な額の価値を生産することが出来るようになる。従って価値のうえでのこの失費は、もっぱら国民の工業育成の費用とみなすべき”として“安い所で買う”と言うスミスやリカードの“自由貿易論”を反駁している。(p63)

 これらの理論的影響により世紀半ばには一定保護主義が進み、たばこ、綿糸、砂糖等の関税が引上げられた。

 それらを前提にリストが恐慌をどの様に見ていたか及びその対処の問題であるが、この体系の中にはやや以外にも“恐慌”と言う単語がかなり見受けられる。

特に纏まって説かれているのは“理論編 第23章 工業力と流通の要具” のなかで

ア)貨幣数量説の否定   まず冒頭“過去25年間の経験は、貴金属の流通と貿易差額とについて支配的理論がいわゆる重商主義の諸概念を反駁しつつ樹立した諸原則を、部分的には正しいと証明したが、それでも他面でこの経験は、右の諸問題に関するこの理論の重大な弱点をも明るみに出している。”とし更に“理論は次のように主張する。貴金属は他のあらゆる商品と同一の方法で手に入る。ある商品が安いか高いかはもっぱら価格の間の相互関係にもとづくものであるから、流通にある貴金属の量の大小は根本的には影響力を持つことがない。不均等な外国為替相場はそれが偶々貿易上有利になっている国には、その国からの商品の増大の為のプレミアムの働きをする。したがって貨幣制度や輸出入の均衡も、国民の他のあらゆる経済的関係も、事物の本性によって最も確実にまた最もうまく調節される。”(小林訳p329)

としこれは“支配的理論”としているものが“貨幣制度の均衡が自然的に齎させる”とするものであり、国富論上では数量説的表現は見当たらずスミスは貨幣数量説を採っていない(国富論第1編第3説 過去四半世紀における銀の価値の変動に関する余論 参照)と思われる事からしてリカードの数量説を指しているのは粗確かと思われるが(但し他の部分でセーに関する叙述も多くセー自体の貨幣理論を追及することも厳密化には必要ではあるが、この部分で数量説を批判している事の意義は変らない)リカードに関する叙述自体は3箇所であり、数量説に関する部分は無い(尚訳p415参照)その先で“独立した諸国民の輸出入は現在では理論が事物の本性と呼ぶ物によって決められるのではなく大部分は国民の貿易政策と勢力とによって国民が世界の事情や他の諸国及び諸民族に及ぼす影響によって植民地の領有と国内の金融施設とによってあるいは戦争と平和とによって決められるのである。従ってここでは全ての事情が、政治的、法律的、行政的な紐帯によって結ばれつつ永久平和と利害の完全な統一とを達成している社会のなかの事情とは別の形に作り上げられているのである”(訳p330)と批判している。

イ ) 恐慌と“確固とした銀行制度”   上記に続き1837年のアメリカの恐慌を引きつつ “資本の豊かさと工業力との点でイギリス国民にはるかに劣る国民は、永続的に前者から債務を負いこんだり前者の金融機関に隷属したり前者の農業・工業・商業恐慌の渦に巻き込まれたりすることなしには自国の工業市場でイギリス人の優勢な競争を許す事は不可能である。”とし7項目を挙げ、“イギリスの国立銀行はその操作によって引き続いて何年も北アメリカ人が自分の農作物の輸出によって支払うことが出来るよりもはるかに大きい価値の輸入商品を消費するようにまたアメリカ人が幾年間もその欠損額を株式や国債の輸出で補えるようにさせる事が出来た”として貿易収支を資本収支で補い、それが恐慌時、結果としてイングランド銀行の割引政策でイギリスに吸収されアメリカ国内での混乱に繋がった事を述べて、“金融市場の変動とそれから生ずる恐慌とを阻止する事が出来、堅固な銀行制度を築く事が出来るのは輸入が輸出と均衡を保つときに限られる。”とし(p338)、

“貿易差額がはっきりと有利であるような国民の場合に、いつも右(貿易差額がマイナスであり例外なしに国内の商業恐慌に巻き込まれる)と逆の現象が認められ、こういう国民が通商関係を持っている国々での商業恐慌もすみやかに過ぎ去るだけの影響力をしかこの国民に及ぼすことが出来ないのはどういうわけか(小林訳p348)”

更に続けて“もし貿易差額が存在しないか、あるいはそれが我々にとって有利であっても不利であっても何ほどの事もないのだとすれば、また外国に流出する貴金属の多いか少ないかと言う事がどうでも良いのだとすれば、イギリスが不作の場合に(差額がイギリスに不利となる唯一の場合に)びくびくしながら輸出と輸入とを比較し、次には輸入されたり輸出されたりする金や銀の一つ一つを単位を数え、その国立銀行が貴金属の輸出の阻止とその輸入の促進との為に極めて小心に手を尽くすのはどう言う訳か(小林訳p349)”とする。この部分は1840、41年のイギリスの発券銀行委員会の証言と重なる部分があるのは興味深いものである。(尚、穀物法による輸入と貴金属の流出に関しての前述参照)

として結果論的にはリストは基本的に“産業政策”としての他、貿易関係上の収支の均衡こそが恐慌を防止すると考えその手段として保護貿易を考えていたと物と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

以下次回

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景気政策史―56 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その13 後発国の自由と保護、諸国の関税政策

2013-02-02 14:49:20 | 景気政策史

この間の説明は粗イギリスから見た商工業の発展を描いてきた物であるが、当然にも他諸国の状態もあるわけであり、それらがどの様な物であったかを示す必要があるがまずは19世紀中盤までの各国の関税政策の概観を見てみてみる。

アメリカ 19世紀前半を通じて輸出は主として原料、食料、輸入は主として工業製品であり、輸出入の約4割がイギリス向けで、イギリスからの輸出の約6-7割は繊維製品であった。

1789年 初の関税法  内容的には財政目的

1816年 保護主義を明確に謳う関税法

1824年 産業保護の立場であるも南部(綿花輸出を英国に頼る)は報復を恐れ反対。

1828年 南部から[唾棄すべき関税法]と呼ばれ保護主義を一層強める。

1832年 1828年法を若干引下げるが南部の不満は解消できなかった。

1833年 [妥協関税法]と呼ばれ最高税率が20%に抑えられたが1837年に恐慌が起こり財政事情が悪化、歳入不足になり保護主義の隆盛。

1842年法 保護主義が強く有税品平均37.8%

その後政府の財政が好転すると再び自由貿易主義の財政関税時代が起き、1845年12月財務長官ウオーカー(自由貿易を主張)が経済政策から見た保護関税反対論を唱える。

1846年 上記報告を受け“ウオーカー関税法”が出来る(実態は緩和せられたる保護貿易ともされる)

1857年 上記1846年法を低率化したもの。46年から57年を“アメリカの自由貿易時代”とも言う。1857年に恐慌がおき国庫が再び悪化し、モリルの関税引上げ法案が1861年に通過、南部の自由貿易派と北部の保護主義者が対立、南部は1860年に独立宣言。 

モリル関税法はその後第二次大戦まで続く米国の高関税時代の出発点とされる。

フランス 19世紀前半は概ね工業原料を輸入し工業製品を輸出していたが、フランス関税は全体として緩慢な動きで大きな変化は見られない。19世紀前半を通じ基本的にフランスが“自由主義的政策”を唱えたのは1860-70年代のみであるもその関税政策は主として対英要因によるとされ、フランスの高関税は際立っているとされ、イギリス、ドイツと違い工業資本家、生産者、地主、農民もともに保護主義陣営に居たとされ、“自由貿易派”としては絹織物製造業者、ぶどう栽培業者、ぶどう酒製造者がいた。(毛利健三 自由貿易帝国主義 東京大学出版 1978年)

1826年法  全体的保護主義の完成。 プロシア、ロシア、スエーデン等々との闘争があった。

1830年代 48年まで自由化への動きが見えるも関税の重要な緩和はなかった。

1836年: ワイン製造地方からの影響で、租製鉄、石炭、綿の関税の引下げ、造船用木材等の輸出制限を撤廃する。製造業者、農業家の保護主義者の抵抗に遭う。

1846年 経済発展とイギリスの自由貿易運動に影響を受け、各地に自由貿易協会が設立。

ナポレオン三世が皇帝(1852年)になって初めて保護主義から離れる実際的動きが出てきた。

1853-1855 石炭、鉄鋼、羊毛、綿等々の関税引下げ自由化への、模索が始まる。

1856年 政府が全ての“輸入制限”を廃止しこれを30-60%の関税に置き換えようとしたがリール等の工業都市の反対に合い断念した。

ドイツ

19世紀始めのドイツは多数の領邦国家からなり、その内部にまた多くの関税領域があった。

1818年のプロシア関税法はそのプロシア内部の統一的関税を作ろうとした物である。その第一条は“外国産の農産物と製造品はすべて国内の全域にわたって輸入され、消費されまた通過する事が出来る。”

第5条冒頭に宣明した貿易の自由は諸外国との交渉にさいして常に原則とされるべきである。(中略)しかし之に反して諸外国に於いて我国民の取引を著しく損なう諸制限に対しては適切な処置によって報復する事もまた留保される。

となっており、“自由主義の原則”が鮮明になっているとされ、輸入関税の水準も従価平均10%で諸外国からしても低かったとされ北ドイツ関税同盟、南ドイツ関税同盟、中部ドイツ関税同盟を経て1834年にドイツ関税同盟が発足した。他諸国から較べて“自由主義的なものであった”がこれは自己の経済的基盤をイギリス等への小麦の輸出におくユンカー(地主層)と、保護貿易を要求したが力の弱かった産業資本との妥協の産物でもあった。

参考  P.Ashley:Modern Tariff History 1910年 、前掲世界関税史

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景気政策史―55 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その12 関税改革及び穀物法廃止、航海条例の廃止

2013-01-26 13:12:12 | 景気政策史

ハスキソンによって1820年代に一定の改革が行われたが(前述)その後1833年に商務院総裁のトンプソンにより狭い範囲の関税改革がおこなわれたが“自由貿易”に関しさしたる前進はなかった。これは1834年のドイツ関税同盟の発足やフランスの高率関税維持の影響によるものとされる。(吉岡昭彦 近代イギリス経済史 岩波書店 1981年)

そういった中1840年にJ.ヒュームにより、“連合王国への輸入品に課せられる関税に関する委員会(一部省略:原文はもっと長文である)”がもたれ、これは当時の業界が厳しい持続的な窮境(distress)に有った中でのものでありその後の関税改革の重要報告とされた。(ツーク:物価史第5巻)

1841年にR.ピールの内閣が発足し、上記委員会の報告も受け1842年に第1回の関税改革が行われ、原料、半製品、完成品の関税最高限をそれぞれ5%、12%、20%にまで引下げ更に関税減の補修としての所得税の3年臨時として導入した(これはその後恒久的なものとなる)。更に43年には穀物を除く食糧輸入関税の引下げ、機械輸出の完全自由化、44年には羊毛の輸入関税の廃止、45年には綿花、鉄、鉄鉱石等々の基本原料輸入関税撤廃を行った。また46年には残存していた木材等の原料輸入関税を撤廃した。

その間、前述したように反穀物法同盟の運動の広がりの中でピールは徐々に自由貿易、穀物法の撤廃への考えに傾いて行った。そういった中1845年にアイルランドで飢饉が発生し、ピールはそれを機に1846年1月に穀物法廃止案を議会に提出5月26日に可決された。アイルランドではジャガイモが主要食物であった。国内及び世界の多くの国々から食料の援助が届き、50万人が公共事業で仕事を得た(之には多くが非生産的である、道路は求められていないとして批判を受けた。(前掲:Page p170)多くの人々が飢えに苦しみ流行病で亡くなり、その間の穀物価格の値上がりで国家として既に穀物法の維持が不可能である事を認識した。(前掲:LLevi)

他方この法案可決に際し地主階級のスタンレー他89名から12か条の反対意見書が出され、

ア) 小作農に対して重圧を与え、農業労働者に破壊的重圧を与える。

イ) 同様に製造業者にも損失を与える。更に工業労働者にも主として穀物生産者並びに其の依存者の製造品に対する購買力の減退によって齎される、国内市場の喪失から起きる。

等々を述べた。(前掲:北野)

 ピールの辞職を受けたホイッグ党のラッセル内閣には航海法の問題が残された。1845年当時はそれらの法は確固として何年も存続するように見えたがその間の自由貿易への前進がそれら法律の調査を求める委員会の設置が1847年に持たれたがそこでは報告は出なかったが全体の印象としては法の廃棄は有益であり行動への必要性が緊急であると認識した。更に1848年、1849年となり撤廃の法が提案され、廃棄賛成派としては“造船・海運業の独占打破による海上運送費の低減化、外国貿易の拡張、植民地の繁栄と母国の繁栄を主張したのに対し法維持派は”海軍力の基礎たる商船隊の保持、植民地の母国への緊縛“を主張したが1849年に廃棄が決定した。(前掲:吉岡、L.Levi)これらの法律の廃棄、又1853、1860年のグラッドストンの関税、財政改革の実施、1860年の英仏通商条約の成立をもって”自由貿易体制“の成立と言う事になる。

 

 

 

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景気政策史ー54  19世紀イギリス対外商業政策と不況 その11反穀物法同盟及び綿業資本と不況

2013-01-19 13:36:22 | 景気政策史

 

ここまでで当時の穀物法と不況及び通貨の問題認識がどうであったかを述べたが、そういった中、反穀物法同盟が1839年3月に結成される。その初期の資金の90%はマンチェスター地方つまりはマンチェスターの製造業者から出ていたとされ当然初期からその影響の下に運動が進められた。後にその比率はかなり減ったがこの支えは同盟の中心であったとされる。(N.Mccord:The Anti-Corn League1838-1846、前掲熊谷)

時間は前後するが、1820年にマンチェスター会議所設立後の立場としては穀物法に関しその初期の請願としては“全体的原則の不適切に気づきつつ、主要な強調点は穀物法は自由貿易の原理を侵している、そしてそれはこの国の海外貿易の深刻な害である”としていたが賃金への穀価の効果は述べてはいなかった。(A.Redford:Manchester Merchant And Foreign Trade p135)

その後1825年の恐慌を経て商業会議所の認識は決定的に変化したとされ(前掲 吉岡編イギリス資本主義の確立)1826年の決議では、 ア)穀物法の作用が不況を深刻化させ回復を遅延せしめている イ)穀物法が農産物価格を激動せしめ耕作者に損失を与えている事、ウ)穀物法が“労賃コストの騰貴を惹起し国際競争力を減殺する”のみならず輸入削減により諸外国の購買力を減退せしめかくして諸外国工業の自立的発展を促進しイギリス商工業の基礎を危うくしている。とし政府に穀物の“低率関税”を要求したが未だ廃止を要求するには至っていなかった。

1837年の恐慌、不作を経て、1838年10月には穀物法全廃を掲げ、反対同盟の前身であるマンチェスター反穀物法協会が設立された。其の中で1838年12月の商業会議所の請願草案要旨は、ア)食料価格の低廉と安定は国民福祉の基礎である。 イ)食料の不規則な輸入は国際貿易と国際平和を阻害する ウ)イギリス工業製品の一般的廉価と言う以前の優位は既に失われつつあり従ってもしも争う余地の無い優位と言う誤った観念から我々が食料価格について無関心であり外国の競争者がより安い価格で食料を獲得しているにも拘らず我が国の製造業者に高いパンを食する事を要求するなら我々は我が国の農業と工業が依拠している基礎を急速に掘り崩す事になる。エ)“禁止的関税によって穀物生産者に利益ある価格を保証する必用”について“利益の統一基準なる物はそれが土地の性質と位置および耕作に充用される資本と熟練に依存するに相違なく立法府の関与しえないものであるが故にこれを設定しえない   としたがコブデン等の穀物法即時撤廃と定額関税を主張するもう一方に意見が分かれたがその12月の総会においてコブデン派が多数により支持され、そう言った中1839年3月に反穀物法同盟が結成された。

その間、1841年に議会に議席を持ったコブデン等は穀物法に関する議論を行ったのでありますが、其の中で注目に値するのは1842年にピール(1841-1846首相)により不況の原因として機械生産、過剰生産(其の他にはアメリカでの金融的混乱、対中関係の混乱、欧州での戦争への不安)の事が取り上げられた事があるが、1842年にピールにより穀物法に一定の修正が加えられた(前掲:北野 、W.C.Taylor Life and Times of Sir Robert Peel vol. Ⅲp166)但し大綿業資本家W.Rグレッグによって1842年に発行された”Not Overproduction ,But Deficient Consumption,The Source of Our Sufferings”で不況の原因は過剰生産ではなく過少消費であると述べている。(熊谷次郎 マンチェスター派経済思想史研究日本経済評論社1991年 尚熊谷氏の前掲著書とこの著作は19世紀商業政策史にとって非常に有益である)

 またそう言った中、議会で同盟によって取り上げられた内容としては(1842-1846)、

ア)外国貿易拡大策としての穀物法撤廃。 穀物法が穀物輸入を制限し諸外国の購買力を減殺しひいてはイギリスの大陸市場の拡張を阻害している。

イ)イギリス工業の国際競争力強化策としての穀物法撤廃。穀物法が大陸諸国に比してのイギリス生計費(賃金)を高騰させ、賃金コストの増大により世界市場競争に打撃を与えているという事。

ウ)恐慌対策としての穀物法撤廃。恐慌、不況長期化の原因が穀物法であるとし穀物法が回復促進要因としての外国貿易の拡大を阻止しているのみならず国内市場においても穀物価格を騰貴させそれだけ工業製品に対する有効需要を減退せしめもって不況を長期化させている。等々の主張が行われた。(前掲吉岡によるW.Page:Commerce and Industry1919年の引用

 

 

 

 

 

 

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景気政策史ー53 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その10穀物法、通貨、不況―2

2013-01-12 13:41:29 | 景気政策史

 

上記、穀物法が不況、通貨とどの様な連関があるかと言う事について1820年代どの様に考えられていたかについて述べたが、その後に於いてどの様にそれが発展したかについて述べる。30年代においては1837年恐慌、~39年恐慌と不況、恐慌状態になるが、其の中でマンチェスターを始め、綿製品工業も痛手を受けるが、綿製品生産高は36年の4120万ポンド(連合王国の粗国民所得の約10%)から37年には3760万ポンドに下落以後多少の変動を経て42年不況で3480万ポンドへと低落した。(自由貿易と保護主義 法政大学出版1985年 杉山忠平編所収 自由貿易と産業資本 熊谷次郎)

後、反穀物法運動の中心ともなる、コブデンも37年恐慌で約2万ポンドの損害を被り、イギリス綿工業資本家の中で第一位の地位を占め、5つの工場を持ち4000機の力織機を持っていたグレッグ商会も37-38年の不況下で200台の織機の破壊を余儀なくされる等々の被害を受けた。

そういった中、マンチェスター商業会議所が1839年12月に開催された特別総会に向けて出された理事会の報告書(イングランド銀行の政策の我が国の商工業界に与える影響に関する報告書)は

“不作が予想された1838年夏に小麦1クオーターの価格は同年初頭よりも20シリング以上騰貴しており、75シリングとなった。スライデイングスケールの穀物法の下では国内穀価が73シリングになると輸入関税はわずか1シリングになるから38年夏以降大量の穀物の輸入がなされ、この一挙大量の輸入に対する支払のために大量の地金が流出した。ところがイングランド銀行は地金流出にも拘らず銀行券の増発を行いその結果1839年1月には約934万ポンドあった地金準備は39年12月には約254万ポンドへと激減した。ここで始めてイングランド銀行は引締政策へと転じたが時宜を逸したこの政策の為に商工業界は大きな損失を被った”としている。

また当時、発券銀行とイングランド銀行の力と責任に関して1840年と1841年に発券銀行特別委員会が持たれた。そこで所謂“通貨論争“も行われたわけであるが、そこに於いてマンチェスターの意見としては金融政策においては“自由裁量”には反対であると言うのは明らかであった。J.B.スミス(マンチェスター商業会議所会長)、コブデンも証言を行い、スミスは“イングランド銀行や他の発券銀行に付き、出来るだけ金属通貨の展開に近づけるのが良い(金と通貨の間に一定のリンクが必用)”とし、1844年のイングランド銀行発券部に近い“国営銀行”を提案した。またコブデンは“市場の力”に代替えする自由裁量は健全では無いとし又通貨を“規制”、“制御”する事はばかばかしく、個人がどのような基準であれ制御し裁量になるような如何なる方策も考えない、又私は其の原則(パーマールール;1830年代イングランド銀行総裁パーマーが表した政策方針で債務の一定比率を金で保有するということ)を侵したイングランド銀行を再び信頼する事は無い“とした。(F.W.Fetter :Development of British Monetary Orthodoxy 1965年 P176)

これらの主張は通貨学派に近いのは明らかであり、1844年銀行法の成立に関与したとされるのは明らかであると思われる。

J.Bスミスは現行穀物法での不規則的な穀物の輸入は突然の金属の流出、それに続く金融混乱に繋がるとし、この状況は、規則的な製造品の輸出により裏打ちされる継続的穀物の輸入によってのみ解決されるとし穀物法廃棄を主張した。この見解はその後6年間(穀物法廃止まで)Economistや反穀物法同盟の機関紙のLeagueで穀物法の廃棄は金融的安定に繋がるとして主張する見解の枠組みとして使われた。(前掲Fetter)、

 

 

 

 

 

 

 

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景気政策史ー52 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その9穀物法、通貨、不況

2012-05-05 12:08:31 | 景気政策史

 

 

 

 

 

 

上記で”自由貿易”の他の政策(機械輸出)との整合性について若干述べたが、ここで1820年代~30年代に掛けて特に問題になった穀物法と通貨、不況との関連について述べたいと思う。一般的感想としては、穀物法が何故、通貨や不況に関係が有るのか?と言うことでありましょうが、まず概況から述べますと、兌換再開後(1821年以降)1825年に資本主義確立後の最初の不況とされる恐慌が勃発しその後それに対する政策等が論議となり、30年代以降へ向かって行くという事になる。

 ここで上記では触れなかったが、1825年恐慌についての原因認識が主として通貨問題に連関されて議論されたと言うことであり(銀行券の過発行が原因との議論があった。)ここでやや角度の違った理論問題があったという事である。それは何かと言うならそれら恐慌が穀物法との関連で考えられたと言う事である。

穀物法の改正については、1822年に一定スライドする可変的関税が導入されたが更に穀価を平均化し物価の安定化を与えるため又急変と衝撃を緩和する為に1828年に再度穀物法は改正された。(小麦価格が52シリングの時、34シリング8ペンスの関税を課しこれを基準にして関税をスライドさせ穀価が73シリングに達した時に1シリング、それ以上は自由とするもの)(1822年法は欠陥がありそれは何かと言うなら1815年法の80シリングまで開港を禁じる条項が廃止されていなかった為この80シリングになるまで実際上新税率は適応されなかった 前掲北野p168)

その様な中でPeel(後首相)は1827年、上記のような穀物法規程の中、穀物が乏しい場合に穀物に投機が起こりそれが流入しそれの代価としての突然の強い金への要求が起こり、それがイングランド銀行への取り付けになると考えたが庶民院で他のメンバーからは取り上げられず通貨問題を取り上げた議員はPeelの立法(1819年の旧平価での金兌換再開法)こそが害悪のより原因であるとした。(Barry Gordon :Economic Doctorin and Tory Liberalism1979年)

尚同書p44ではJ.S.Millは1826年のその”Paper Currency and Commercial Distress”1826の中で穀物法が我々の通貨の変動の原因であるとしている。(当時Millは弱冠20才程であった)

また前掲A.Bradyによればマカロックの数年後の指摘は(Commercial Dictionary ed.1880)例えばポーランドからある年、10倍の穀物を買ったとしてもポーランドは其の量に匹敵する木綿類や毛織物を買うわけではなくその差額は金属で支払わなければならずそれはしばしば金融的な害をもたらす。として上記のような考えを肯定していると思われる。

尚、 1822年以降の穀物輸入量は以下の通りであった。

1822 510602

1823 424019

1824 441591

1825 787606

1826 897127

と言う事で確かに恐慌のあった1825年は前年よりかなり増えている。(Donald Barnes:A History of The English Corn Laws)

これらの考えの基本的立場 は30年代以降にも引き継がれ通貨学派と連関してマンチェスター商業会議所の一つの理論となった。

 

 

以下次回

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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景気政策史ー51 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その8自由貿易と機械輸出

2012-04-21 14:08:09 | 景気政策史

 

上記で1820年の商人請願を受けて議会に委員会が持たれそれらを受けて関税の引下げや航海法の緩和等、多数の諸国との互恵通商条約の締結が行われた事を述べたが、それらと並行して勢いを増しつつあったのがマンチェスター商業会議所であり1820年5月に結成し上記ロンドン商人の請願も支持し1822年1月には年次総会を行い規約等を決めたが、其の骨子はマンチェスター周辺の商人と製造業者の利益の保護を目的とし(第1条)其の利益に関係する議会の議事に注意を払い適切な手段を用いて[通商の自由にとって有害な現存の規制の除去を求め](第3条)と言う内容の規約を決めた。(因みに、周知の事であるが”マンチェスター派”とはマンチェスターの綿業資本家を中心とする19世紀中葉のイギリスの自由貿易論者の事を呼ぶとされる(熊谷次郎 マンチェスター派経済思想史研究 日本経済評論社1991年)

これら自由貿易派とされる商人、資本家が自由貿易の主体的推進勢力で有った事は論を待たない事とは思うがここで問題にしなければならないのはその唱えるところの”自由貿易”が全ての面で額面どおり行われていたかを考えるのも必要な事と考える所である。

 ここで自らの製造業が産業革命以来も持ち続けてきた保護主語的な面を述べるのも意義なしとはしないと思われる。それは何かと言うなら”機械輸出”の事であり、産業革命初期の1774年に始まった”職人の海外移住の禁止”と”機械の輸出禁止”である。これらは1820年代以降、ハスキソンの”自由主義改革”によりやはり1824-25年当時議会で問題となり[職人と機械に関する特別委員会]がもたれたがそれは職人の海外移住と機械輸出緩和の動きであるとみなしたマンチェスター、バーミンガム、リバプール等々の製造業者たちが反対運動を起こし、マンチェスターも強硬な反対の立場を明らかにした。

このような動きの結果委員会は職人の移住に関しては廃止を勧告したが機械輸出に関しては”継続調査”に留まった。

1827年2月の年次総会でマンチェスターが穀物の自由化を述べる他方で機械の輸出を主張するのは利己的行為であるとする主張に対し”我々自身の私的利益を促進するためでなくこの国の一般的福祉の増進の為に行っている”と強弁したがこれにつき、Musson.Aはその”The Manchester School”and Expportaion of Machinery”で[自由貿易派は彼らの対立者である保護貿易者同様、徹頭徹尾、利己的であった](前掲イギリス綿業自由貿易論史:熊谷次郎 による引用)

これらの動きに対し1830年代半ばの不況に対してマンチェスターの機械製造業者から輸出禁止に対して不満の動きも強まりその様な中、紆余曲折を経て1843年に至って税関関係法改正法により機械輸出が完全に自由化された。

参照;本稿は イギリス綿業自由貿易論史 熊谷次郎に多くよっている。(因みに同書は19世紀英自由貿易史としてかなり有益である)

 

 

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