1832年の委員会は多くの証言等集め、イギリス金融史上でも多くの論点を含む(Fetter)とされますが、その委員会の結果が33年の立法へと成りました。
1、前回投稿でも触れましたが、“対内金属流出“にたいしては、イングランド銀行券を“法貨“-つまり法定で強制流通力を与える事-が国内の信用不安にたいして効力があると考えられた事でした。この結果、イングランド銀行券に“法貨規定“を与えるとされ、5ポンドを超えるものについて兌換性を維持する限り、法貨とされました。
2番目として、所謂、高利禁止法の破棄が行われたと言う事です。これの正式廃棄は1854年ですが、この時点で3ヶ月内期限の手形について適用除外するというものでした。
それまでは、“市場の資金需要が旺盛な時でも5%以上にその公定利率を引き上げる事ができずそれから先は各割引申込者に対し、割引に応ずる金額を削減するか、又は手形の種類に制限を加えるかによって増加する資金需要を抑制した。“-公定歩合政策の生成と発展:田中金司他、とされますが、
一方、1832年の委員会でのイングランド銀行理事の G.W.normanの発言によれば、“高利禁止法によって、イングランド銀行は恐慌時に過剰発行しなければならないか、さもなければ“個人手形を気ままに“拒絶するに違いない“としました。(クラパム) この発言内容は話の内容からすれば、一方で、イングランド銀行の利益を図り、又他方で“過剰発行“と言う発言からすれば、何らか“数量説的見地“にも取れますが、前掲Pageによれば、“利率が上昇している時に“その割引を制限すること無く流通を減らす事が出来るようにするためであったとの説明も有ります。
3番目として、株式預金銀行のロンドン市内及びその周辺65マイルの地域内に自由な設立が認められる事となった。
これは、1825年の恐慌を受け、特に地方銀行の不安定性が以前より問題とされていたがその一つの対処策として採られたものとされる。(前掲、荒井政治)
その後一般的経済状況としては、1831-33年までは不況、1835年に“大景気“そして1835年には不景気で一部で投機的状態が再び現出してくるように成ります。
参考:Pageには年代ごとの19世紀のイギリス各長官等が一覧で載っています。
小生、経済、税財政等若干勉学していますが、多くの特に府民の皆さんは“橋下知事の奮闘“に賛意を示しておられる方が多いですが、特に人件費削減を評価する方も多いようですが、通常、府県段階の人件費にはその府県の警察官、小中高の教員の人件費が多くを占めているのはご存知で言っているのでしょうか。大阪府でも歳出の費目だけ見ると人件費が二十数パーセントを占めていますがそれは警察官、教員の人件費も込みの数字であり予算書から見ると所謂、府の職員の人件費は恐らく3%程度と思われます。これを仮に一割カットしても府の歳出に占める割合は0.3%しかなくこれがどうして財政再建になるのでしょうか?逆に悪質犯罪が増えている現段階で警官の給与を減らす事は果たして府民の得になるのでしょうか?(橋下氏は弁護士だそうですが、もしかすると、この内容をご存じなかったのではとも思えますが)、又知事の“財政再建案“の特徴は歳入に触れない事です。所謂この間の“三位一体の改革“で地方交付税が大幅に減額されています。これは府のHPから予算の所を見れば一目瞭然でしょう。この様な仕組みを知らず、単に“人件費削減“等という声の大きさにのみとらわれるなら、それは“衆愚政治“と言うものでしょう。又小生のサイトのタイトル、マクロ経済的立場から言わせてもらえるなら、そのような人件費は費目としては経費ですが街に出ればそれは個人消費になるわけで地域の商店街の皆さんの為にもならないでしょう。又大型事業予算は削減されていませんので、“産業波及“の効果から言っても、“大型事業“の波及力は最近低下していますから、地域の購買力を上昇させる事にはならないでしょう。ひいては景気回復にも繋がらないと言う事です。“声の大きさ“、“涙““勇ましい声“こんなもので経済政策が出来るなら世の中に経済学者は不用でしょう。兎に角、良く考える事です。
前回、パーマールールによる金属準備の準備水準について述べましたが、1832年の委員会では、金属準備の“対外(国外)流出“と“対内(国内)流出“の問題も関心を集めました。議論の中での焦点等ニュアンスに食い違いはあったものの、全体としては、イングランド銀行は“対外流出“について、責任を持つべきと言う点では多く一致したとの事です。(Fetter)
対外・対内流出については、既に18世紀の終わりに、1793年と1797年の恐慌に連関して、H.ソーントン:紙券信用論 とF.ベアリング:イングランド銀行論 がその区分を指摘していました。ベアリング(18世紀後半のイギリス商人で後のベアリング商会の始祖にあたる)はその著作の中でコインの要求に関して3つの区分を挙げ
1、為替手形の不足を補い外地へ送金する為
2、政府、流通紙幣への不信からの貨幣退蔵の為
3、政府、イングランド銀行へは信頼があるとしても地方銀行にその必要に応じた支払いを可能ならしめるため。
とし、その内、1、が最も危険であり、それを阻止する為にあらゆる手段を講ずべきとし、2、3、についてはそれはやがてイングランド銀行に還流するとしています。
そのような中、委員会では
ア)対内流出に対しては信用の制限をする事は事態を悪化させるものであるとの認識に達し、
イ)対外流出はイングランド銀行は責任が持つべきであるとの認識にはなったもののしかし、その方策についてはどういう基準によるべきかは一致しなかったとされます。
そしてこの対内流出への対処-対外流出しない との認識は後述するイングランド銀行券の“法貨“規定に連関したとされます。つまり、国内不信だけであるなら金でなくとも“法的保障“を与えれば良いとの考えです。
ここで前回述べた為替の不利な相場を改善する為に国庫証券を売却するとの行為についてオペレーションの始まりかどうかと言う事に関しては、同委員会の中で証言がありますが、パーマー自体は国庫証券を“買う事“に対しては積極的ではなかったとされ、又セイヤーズによれば(central banking after bageot 邦訳 現代金融政策論)では“初期“には市場利子率を上げる為にオペレーションを行ったとしていますが、前後関係から考えるとこれは19世紀後半の事と思われます。
前回、1825年恐慌の直接的影響について述べましたが、イギリスの経済状況は1826年の後半恐慌から脱出し、1828年には生産と商業のやや拡大1829年からはやや不況、その後2年間は不況、1833年に循環性の盛況局面になった。1832年、イングランド銀行の特許状更新の委員会がもたれ、多くの注目すべき証言があったとされる。
その間の大きな問題として、1827年に、それまでイングランド銀行は、1819年の理事会決議で“イングランド銀行は外国為替相場に関心を持ち、逆調の場合は銀行券流通を減少させるべき“との主張には根拠が無いとした事を撤回した。この主張はリカード的数量説に基づくと思われるがそれへの反対を撤回したと言う事は注目すべき点であると思われます。只、同銀行は“実務として“それ以前から、①通貨減少 ②市場からの資金吸い上げとしての国庫証券の売却-この点、オペレーションの展開かどうか後述します。 ③パリで金を得る為に銀を売却した等により、不利な為替相場を改善したとされます。(クラパム)
1832年の委員会で金融史上有名な“パーマールール“がJ.H.Palmerから述べられます。パーマーは1811-1857 イングランド銀行理事、1830-33 同行総裁で当時の同行政策に大きな影響を持ったとされます。
そこで述べられたパーマールールとは、1828-1830に案出されたとする同行の行動原理で簡単的に言うと、債務(発券、預金)の1/3は金属準備で 2/3は証券で持たれるべきもの と言う事です。これが確実に銀行券や預金の変動に沿ってどの程度厳格に適用されていたか等論議もあるようですが、藤田幸雄:中央銀行の形成等によれば1825年から1830年代までは適用されていたとします。
私見に於いては、同行は“株式銀行“であり当然自行の利益も考える必要は有り、他方で中央銀行として国内の信用制度の維持、又同行の金属準備は他国への支払い準備でもあるわけで、その恐慌時の金属の内外流出にそなえる必要と、利益を生む為には証券運用も必要であり、金属準備は多い方が良いがしかしそれは何ら利益を生まず、同行としてはなるべく効率よくしたいと言うのは当然のことといえるわけで、
1/3-2/3と言う数字は同行の実務的結論としてその運用基準とされていたと言う事でしょうか。
1825年恐慌はフランス、ドイツ、アメリカにも影響し、特にフランスについて、国会で、「消費を増加させる事が機械によって生産物を増加させるほど容易でない」と言うような議論があったとされる事は(メンデリソン)1826年、セーの経済学概論の5版が出され、投稿者が以前書いたように、そこにおいてセーが消費の限界を認めたと思われる事は(この部分は研究上の問題点であり、今後の研究が待たれるが)理論史上、重要と思われます。
恐慌に付いてのイギリス政府の認識としては、
1、投機の拡大
2、それを地方銀行の小額銀行券が醸成した。
とされ、その論点としては、ある者は銀行券の過発行を全般に非難し、他の者は地方銀行のみを非難したとされる。(Smart:economic annals of the nineteenth century)
それらの結果として、まず前提として金融市場に援助が必要とされる場合それは政府でなくイングランド銀行が行うべきとされ、1826年に二つの法律が通され、
1、5ポンド未満の小額銀行券の発行禁止
2、発行権のある株式銀行の設立
イングランド銀行の支店の設立
が決められた。これらについては、スコットランドの銀行制度が安定していたとされる事からも決められたとされます。
その他の注目すべき点としては、当時のイギリス商務省長官で有力政治家であったハスキソンが、金銀複本位制の考えを抱いたとされる事でしょうか。これは、Fetterによれば、ハスキソンは、
1、当時の有力貿易相手であった南米が銀を多く算出していた事
2、取付け時の金属準備の拡大
3、戦時等の海外への流出に対応する為 に必要と考えられていたが、政府内での明確な結果は明らかで無いとの事ですが、これに付き後の1844年銀行条例がその3条で金属準備の1/5は銀でも良いとされた事に関係が有るとされます。複本位制は19世紀後半に於いても国際金融史上で又大きな問題になってきます。
又もう一つ注目すべき点としては、1825年前半に泡沫会社の禁止法が撤廃された事です。これは会社制度と経済循環上の問題として今後の問題点になります。
参照:Page commerce and industry これは19世紀経済史の略全体的な解説としては標準的なものでしょうか。
前回投稿で12月13日にバンクレートを4%から5%に上げた所まで書きましたが、これがどういう意味を持つかは必ずしも明確には言い切れませんが、恐慌時にレートを変更したと言うのはこれが始めてであり、これに付き、フイーヴイアー:ポンドスターリングも、前掲クラパムも、何ら細かく述べていませんが、前後関係から推測すれば、危機時に優良手形以外の物に負担をさせる為か、自行の採算を考えた為ではないかとも思えます。(ホートレー:金利政策の100年 でも何らか金融市場の操作を意図したものとは見えないと言っています)その金利引き上げと同時に取られたのが
2番目として、各種政府証券その他に対する殆ど無限定的な貸付であった。その中には、政府に促された国庫証券50万ポンドの買い付けも含まれる。その結果として流通残高は1800万ポンドから2500万ポンドに増えた。
3番目として金準備の増加策で、ロスチャイルド等を利用し金を買い付けたとされます。
4番目として同様な目的の為にフランス銀行の“援助“が有りました。当時のヨーロッパでは恐らくイギリスに次ぐ金属準備の貯留地はフランス銀行であったと思われますが40万ポンドの援助があったとされます。(トウーク 物価史によれば当時のフランス銀行の金属準備は約4百万ポンド程度で金利は4-5%であったとされます)他方でフランス政府からイギリスは兌換を中止すべきであると言われたと言う噂も立ったとされますが両バンクの直接取引では無かったがフランス銀行はその意図を承知していたとされます。参考までに述べると電信が英欧間で使用されるようになったのは1840年代です。
5番目として周知の話ですがイングランド銀行内で使用されていなかった小額銀行券を発見してそれを交付したとされます。
それらの行動を通じて信用の不安が治まっていったとされます。これらを纏めて前掲Fetterは、
①小額銀行券の発布、
②全体としての信頼の回復と言う総括を与えています。
参照:イングランド銀行金融政策の形成 金井雄一 19世紀イギリス金融政策について書かれた邦語文献としては纏まった物である。