マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史-26  19世紀後半の経済史的概観

2008-09-28 14:06:59 | 景気政策史

前回投稿で1866年恐慌に付いて述べましたが、今回は議会で委員会等は持たれず、又1844年法は第一次大戦が始まるまでその後“猶予処置“が取られた事は有りませんでした。ここで19世紀後半特に70年代以降の若干の経済史的事実に触れておく事は有益とおもわれますのでそれについて述べたいと思います。(当然本稿をお読みの方にとって既に“常識的範疇“に属する事かも知れませんが中にはそうでない方もいらっしゃるかも知れませんので敢えて述べさせていただきたいと思います 


①国際金融的諸側面
 
イギリスでは既に19世紀前半から金本位になっていましたが、他の欧州諸国は金銀複本位制、ないし銀本位制であったがイギリスに於ける金本位の安定と伴に金本位への移行が増えます。因みに移行は、ドイツ1873年、オーストリア1892年、フランス、ロシア、日本1897年、インド1899年、アメリカ1900年ですが、その間初の国際貨幣会議ももたれます 1867年から1892年まで合計4回の会議が持たれ多い時で20ヶ国が参加した。主題としては銀価格の安定についてのものが多かったとされます。又19世紀末になり金本位(金為替本位)が普及するにつれ多国際間決済としてのロンドン市場の役割が高まり、S.B.ソウル言う所の“世界決済のシステム“が構築された。(国際金融のadjustと言う事でしょうか)



②産業工業の発展 独、仏、米、諸国の産業の発展、及び英に於ける“大不況“

 19世紀前半から優勢を誇ったイギリス経済ですが19世紀後半から独、仏、米等の追い上げがあり、英の優位がくずされる方向になって行きます。(粗鋼生産、化学工業等で独、米に抜かれます。)
その間、1873、1882、1890年に恐慌が起きますが、1896年頃までを“大不況“と呼んでいます。只、その間も成長は有った訳で大不況であったとする見解には反対の意見も有ります。


③植民地争奪の激化等

19世紀末に懸けて植民地の争奪が激化します。但し“帝国主義“の定義において、特にその19世紀中盤の性格について旧来の帝国主義の提議とはずれた“自由貿易帝国主義”という概念が提出されて19世紀中盤の19世紀後期の帝国主義段階と連続性を認める見解が出されている。(参照:イギリス帝国経済史の研究 矢口幸次郎編)


 

 

 

参照:新版西洋経済史  石坂昭雄他編  
   19世紀国際通貨会議の歴史的意義 野口建彦 経済科学研究所 紀要36号
   金と国際通貨   島崎久弥
   世界貿易の構造とイギリス経済 S.B.ソウル
   帝国主義論    レーニン
   帝国主義と植民地主義 ジョージ・ネーデル、ペリー・カーチス編 

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景気政策史-25  1866年恐慌とその対処

2008-09-21 15:26:15 | 景気政策史

1861年のアメリカ南北戦争の開始と伴に、当初はアメリカからの対欧州債権の取立てがあったとされ(恐慌史概説:山口茂)また他方ではアメリカの不換紙幣制導入と伴に欧州への金流入があったとされますが、一方前回投稿で説明しました会社法制に“有限責任性“が導入されると伴に、有限責任会社の設立がブームとなり、それは1866年恐慌の大きな誘引になったとされますが、その数は300以上にもなり公称資本金は5億ポンド以上にもなったとされます。(アンドレアス)しかしその90%以上は後に支払いを停止したとされ、暫くの間“株式会社制度“の長所も忘れさせたほどであるとされます。

他方、欧州では戦乱の危機が迫っており(プロシア・オーストリア戦争1866.6 )
1866年3月 4月、欧州からイングランド銀行準備金に引き出しの恐れがあり、又他方、イギリス内では“融通手形“取引等による倒産が起きていた。

 
 イングランド銀行は“用心の為“、金利を5月3日に6%から7%に、更に5月5日に8%に引き上げた。それと同時に当時イングランド銀行に次ぐ信用を持っていたとされるオーバーレンド・ガーニー商会が危機に陥り、5月の始めにイングランド銀行に救いを求めてきましたが帳簿検査の結果、援助を断られ、5月10日に倒産した。翌5月11日はBlack Fridayと呼ばれ、ロンバート街は公衆の渦に埋もれたとされます。
その日一日だけでイングランド銀行は400万ポンド以上もの貸付を行ったとされ、一方準備は300万ポンドにも減少したとされます。そういった中、同日、政府は議会で事情を説明し、“免責法“の書簡を同行に送ったとされ、他方バンクレートは12日に10%に引き上げられました。今回に於いては書簡の効果は大きく、恐慌は沈静に向かい、“限外発行“はされませんでした。つまり1857年恐慌とは違って実際には超過の銀行券発行は無かったと言う事です。

尚、5月10日に於ける欧州の金利はパリが4%、ウイーンは5%でベルリンは7%であったがこの事は又欧州による金融の政治利用があったとされます。(クラパム)
又それに付きイングランド銀行が金利を10%にしたことは効果があったとされます。

その高金利は戦乱が落ち着く8月まで続きました。

参照:西村閑也 国際金本位制とロンドン金融市場 に欧州各国の金利一覧が載っています。

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景気政策史-24 1857年恐慌の後

2008-09-14 15:13:26 | 景気政策史

1857年恐慌を受け、1858年に委員会が設けられ、1857年恐慌のその原因を究明する事が求められる事と為りました。その結果によれば恐慌の原因は三つとされ、
①外国貿易の未曾有の増大
②金銀の過度の輸入
③銀行及び信用の異常な発展
とされました。(アンドレアス)

 又、その意見として、1844年法の主たる効能は“危機にあたって法律が停止される際にイングランド銀行が役立たせ得る十分な地金の準備を同行に保有させるように保証する事にある“としました、したっがて法律の諸条項に変更を加えるべきではないとしました。(フイーヴイヤー)

又、イングランド銀行総裁は同行の“金融制度的対処“としてビル・ブローカー(手形仲買人)に対し割引の制限を加えようとしました、その“再割引“を制限し“イングランド銀行の手もとに置いて“置こうとした物とされます。

又、他方、同委員会はイングランド銀行に対し、“恐慌時には市場のどのようなsectionに対しても援助を否む事は依然として不可能である事“が指摘されました。



 他方、1861年からアメリカで南北戦争が始まり、綿の原料輸入が困難になると伴に他の地域への買い付けが行われると伴に1863年には金銀の激しい流出が起き、イングランド銀行利率は11月の4%から翌年1月には8%になり、それと伴に多額の資本がドイツ、オランダ等から流入してきた。その後利率は6%になった。(クラパム)

この間の国際間の金属の流出入に対し、フイーヴィヤーは“国際的には既に非常に重要であったので国内的貨幣事情と関係の無い金の運動が同行にしばしば警戒を余儀なくさせた“としています。


 又、この間のイギリス経済政策上の着目すべき大きな問題は、会社法制に大きな変更が加えられた事があります。それは株式会社に対して“有限責任性“が認められたと言う事です。(1862年)それは要は“中産、労働者層の資本投下を容易にする“物とされた事です。(前掲 吉岡)これは1825年恐慌前に“泡沫会社禁止法“が撤廃された事と連関性があるようにも思え、昨今に於ける我が国の会社法制が大きく変更された事にも発想法が連なるものであり、“投資決定論“的発想に連なる“サプライサイド的発想“と言う事でしょうか。
尚、会社法制等の改変は後で纏めて述べたいと思います。

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景気政策史-23  1857年恐慌-2

2008-09-07 14:20:18 | 景気政策史

10月にはリバプール、グラスゴーの諸銀行が苦境に陥り、リバプール・バラ・バンクが支払いを停止した。他にも綿製造関連業者が倒産し、イングランド銀行からスコットランド、アイルランドへ金貨の大規模な引き出しがあった(フイーヴィヤー)。銀行部の準備(金属、紙幣)は金属57万ポンド、紙幣225万ポンドの水準になった。(10月末、1858年銀行委員会報告Appendix)同行は政府債を売るか、担保にして借入をしようとした。11月9日にバンクレートは10%に引き上げられ、ロンドンからグラスゴーへの大量の金流出が起きた。11月11日には準備は金属50万ポンド 紙幣95万ポンドになった。(同上)しかし同行は他の全てのものが縮小していた割引を継続していた(アンドレアス)

高金利政策は割引に対する需要を抑えきってはいなかったが、大陸への金流出を食い止めていた(フイーヴィヤー)

12日には同行は1844年法には従えない事を認め、“恐慌が続く間、もしも法定保証準備発行を超過するような事があれば免責法を約束し、他方10%という公定歩合は継続されるべきである“とした書簡が政府から同行へ送られた。12日夕方の同行準備は58万ポンドになり、最高限度を超えて200万ポンドの銀行券が銀行部に発行されその内92万ポンドが同行から出て行ったとされる。11月末には事態は改善された。

同行に対する“免責法“は12月12日には殆ど反対も無く議会を通過した。1847年恐慌でも既に述べましたように同様な事が起きましたが、前回は実際に超過発行はされませんでしたが、今回は超過発行がされたと言う事です。

 
 上記経過から総合的に勘案するとするならイングランド銀行は“危急“の際、国内の信用の不安に対しては一定の援助を与え、又、他方上記、フイーヴヤーの金利政策に対する表現からするなら非優良手形等には制限を加え、又他方で、国際的金利裁定が起きるような状態に対し、同行の金利を引き上げる事を、国際決済手段としての金属を自国に保有する手段として使っていたと言う事になるでしょうか。

その事から、対外的に高金利政策を使う事は決済手段保持の為には有効でありますが、自国の内部の信用拡張とは一致しない事になり、又そこに同行の私益性を斟酌する事になり金融政策上の大きな問題点に為らざるを得ないと言う事でしょうか。

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