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日本の将来に対する悲観論が大勢を占めている。この悲観論は政治的思想的立場を問わない。年齢、性別、社会的地位も問わない。現代日本を重苦しく覆っている「空気」である。悲観論のいちいちをここで取り上げることはしないが、少子高齢化という「自然現象」を「諦めの境地」で迎えているのではないだろうか。重苦しい雰囲気の下では極端な言動と「敵探し」が始まる。最近では経済学者と称する人が老人嫌悪を煽るような言動を弄して世界で物議をかもしている。
少子高齢化は以下のように捉えられているようだ。
• 生産年齢人口(労働力人口)の減少による国力の低下
• 若年労働者の減少による深刻な人手不足
• 消費者の減少による経済の縮小
• 高齢者の増加による国民負担率の増加 (wiki)
この「問題」を供給側から捉えるとそうなるだろう。そこから出てくる結論は「移民」しかない。では需要側から捉えるとどうだろう。
成熟した社会、ケインズの言う完全投資の世界では新規の投資先を見つけるのは日々困難になる。社会全体が豊かになるほど消費に回す割合が減るからだ。しかし日本では貯蓄の対応物になる巨大な市場が形成されつつある。それを生かすも殺すも社会政策次第である。
3.総需要の今後は社会政策次第
高齢化社会は経済にとって悪い事なのか
社会は、労働力人口(就業者と失業者)と非労働力人口に分けることができる。この場合、家事等の無償労働は脇に置いてある。
人口と消費
労働力人口:消費される財とサービスを算出する人々 =P1 とし
非労働力人口:財とサービスを消費するだけの人々=P2 とする。
*資本財は考慮に入れていない
「するだけ」という表現に悪意を感じる人もいるだろうが、労働力人口(P1)も消費するので「だけ」という表現になる。これは年齢による区別ではなく財とサービス(以下単に財)を産出しているかどうかの分け方である。
P1が消費する財をC1、P2が消費する財をC2とする。総人口、総消費ともに二つの部分に分かれる。
総人口P=P1+P2
総消費C=C1+C2
総人口Pに対して、その社会の現在のP1とP2の比率が存在する。総消費Cに対してC1とC2の比率も存在する。P2/PとC2/CではC2/Cの方が低いだろう。これは単に老人と子供はそれ以外より消費額が少ないだろうという仮定の反映である。(下図参照)

C1、C2にはそれに対応する現金の支払いがあり、その支払いの原資たる所得がある。当たり前のことを言っている。それぞれの所得をY1、Y2とすると総所得YはY1+Y2に分けられる。
年金制度がなければP2の所得Y2は、①P1からの仕送り、②財産所得、③貯蓄の取り崩しとなる。社会保険としての年金制度は家族内での仕送り①を社会化したものである。医療、教育、介護と違って現物支給ではなく現金支給によって行われている。もちろん全ての消費財を配給することは不可能だからだ。
年金制度があるとしてP2の所得のうち年金額をYXとするとY2=Y2′+YXとなる。P1の所得もまたY1=Y1′+YXに分けられる。そうすると
P1・・・Y1=Y1′+YX
P2・・・Y2=Y2′∔YX
Y1+Y2=Y、YXはY1からY2への移転だからY=Y1′+YX+Y2′となる。
YXをどのような額とし、それをどうのように集めるのかを定めた制度が年金保険制度だ。
年金制度は積み立て方式か賦課方式かという議論が延々と行われてきた。しかし年金が現金で支給されている。そこからの消費C2はP1が作り出した財を対象としている。現役時代に倉庫に積み上げた生活資材で生活しているわけではない。消費で見る限りP1が作り出した財をP1とP2でどう分けるかということである。積み立て方式とはP2の貯蓄の取り崩しのことに他ならない。それを勘案するとC2の消費はYXを超えることができるということを意味するだけである。
つまりP1が作り出した消費財をP1とP2の間でどう分けるかというのが年金制度なのだ。
消費性向は年金による所得再分配後の方が高い
よく聞かれる議論は高齢化による社会負担増大への不安である。この不安は、年金による所得再分配後の方が消費性向が低い場合にのみ根拠がある。年金受給者が年金をどんどん貯めこんでいくという事態、P1よりP2の方が消費性向が低い場合にのみ根拠がある。
人々は次のことを忘れている。年金はP1にとっては負担かもしれないが、それが使われればP2は働いていないのだから全てP1の所得となる。
現実は再分配後のほうが消費性向は高いのだから高齢化によって年金制度が社会の負担になるのではなく、経済成長にとってプラスとなっている。上記でも触れたがP2の消費が貯蓄の取り崩しによっても賄われている場合はなおさらプラスとなる。まさに貯蓄は使われなければ何も産み出さないのだから。
高齢化による社会的費用の増大に対する不安は、集められた社会的費用は使われれば誰かの所得になるという初歩的なことを忘れている。P1よりP2のほうがはるかに消費性向が高いということも忘れている。P1が負担している年金保険料が突如なくなったら、P1はどのくらいを消費に回すだろうか。限界消費性向は消費性向より低いであろうから、少し考えてみれば分かることではないか。
再分配後の消費性向は再分配前よりはるかに高いという事実は、日本の年金制度が適正に運営されており、豊かな社会にとって経済成長にプラスになっていることを示しているのである。
一般論で言っても、消費性向の低い集団から消費性向の高い集団への所得移転は両方の集団の所得を高める。消費性向の高い集団(低所得)が働いていない場合は消費性向の低い集団(高所得)の所得を高める効果はさらに高い。
もちろんこれは「集め方の問題」も適正であることとは別問題である。社会保険料の逆進性はつとに指摘されている通りだ。
「人口問題」をどう考えるか 社会負担は所得を向上させる(場合がある)
生産年齢人口とは15歳から65歳の人口を言う。雇用者として働ける人の数である。もっとも最近は65歳を過ぎても働くことが増えてきているが、当面15歳から65歳を生産年齢人口とする。実際に働いている人は就業者数である。
冒頭に書いたように、全人口に占める生産年齢人口の減少:少子高齢化を以下のように捉える論調が大勢を占めている。(wiki)
• 生産年齢人口(労働力人口)の減少による国力の低下
• 若年労働者の減少による深刻な人手不足
• 消費者の減少による経済の縮小
• 高齢者の増加による国民負担率の増加
この「問題」を供給側から捉えるとそうなるだろう。では需要側から捉えるとどうなるだろう。

生産年齢人口逆数とは人口÷生産年齢人口のことで、よく言われる「一人で何人支えるか」を表している。1945年に1.72であったものが1990年には1.44まで下がりその後2020年には1.73となっている。1945年では「多子少老」であったが2020年には「少子多老」となっているが数字そのものはあまり変わらない。団塊の世代が通り過ぎて行ったということだ。
需要面から考えると、同じような1.7程度でも「多子少老」社会と「少子多老」社会では後者の方が需要は多くなるだろう。食費等は少ないかもしれないが医療・介護に需要が高まるからだ。これは総需要拡大⇒経済成長のチャンスだが、多くの人はそう考えられない。社会負担の増大は経済に悪影響を及ぼすと考える。たしかに個別企業で考えれば企業負担が増えるに違いない。
前項で扱ったように個別企業にとっては負担でも経済全体で見れば所得の移転であり移転先で使われればそのまま所得になって返ってくる。企業経営者が騒ぐのは分からないではないが、そういう人にはきちんと理屈を説明するしかない。「内部留保を貯めこむより、負担したうえで、使ってもらった方が所得は増えるんだよ」と。
需要が拡大する政策を取って良い時と良くない時がある。それは供給面の硬直性にかかっている。これ以上供給の余力がない時に総需要拡大策を取ればインフレに陥るだけであり経済は成長しない。資金は余っているのだから悪性のインフレに陥る可能性も高い。供給の余力がある時はインフレ気味になりつつ経済は成長する。結構な事である。
現代日本の貯蓄投資バランスから見て必要なのは投資である。それも成長産業に投資するのが望ましい。
では投資すべき成長産業とは何か?

2002年を100として医療福祉産業とそれ以外の雇用者の増え方を比べたものである。この医療福祉産業を成長産業と言わずして何というのだろうか?もちろん「顧客」は高齢者を対象としている。つまりまだまだ伸びるのである。そのうえ社保険によってまかなわれている部分が非常に大きい。
つまり望ましい投資先:民業を圧迫せず国民の厚生を上げるという条件を満たしているのだ。
社会負担は使われれば所得。貯蓄は使われなければマイナス。ということである。
現代日本の条件下で社会保障の機能強化は、高所得者の所得をさらに高めるのだが、無知かつ無恥な自称経済学者からそういう主張を聞くことは滅多にない。経済学は滅亡して久しい。我々はその廃墟の中を彷徨っている。
無知:ケインズを読んでいない。
無恥:そのことを恥と思っていない。
番外編:国民負担率の迷妄を打破する
少子化対策の財源の一つとして社会保険が検討されているそうである。厚生年金の強力な逆進性を何とかしてからでないと、とんでもないことになる。
所得の再分配が年金制度しかないのが問題なのだ。