前回は、消費性向が下がった分だけ投資が増えることは原理的にない。ということだった。今回は原理から現実へと分析は深まっていく。
第三章 有効需要の原理 第二節 筆者訳の解説 ②
この理論は次の命題に要約できる。
- 技術、資源、費用が一定のとき、名目所得も実質所得も雇用量Nによって決定される。
- 社会の所得と、そこから消費に回されると期待できる額(D1)の関係は社会の心理的特性によって決まる。これを消費性向と呼ぶ。消費性向に変化がない限り、消費は総所得水準によって、すなわち雇用量Nの水準によって決定される。
- 企業者が雇用しようとする雇用量Nは、社会が消費に回すと期待される額(D1)と新規投資に回されると期待される額(D2)の二つの量の和(D)によって決定される。
*ここでDは企業者によって期待される額である。ここを読み違えると次が分からなくなる。
4.ゆえにD1 + D2 = D = φ(N)となりDは雇用量Nの関数として表すことができ、これは総供給関数となる。(2)で見たようにD1は消費性向によって決定される雇用量Nの関数だからχ(N)と表すことができる。するとD2はφ(N) − χ(N) = D2となる。
*D(総需要)は雇用量によって表すことができる?? それは企業者の期待額だからだ。企業者は売り上げ(=D)を予想し自らの雇用量を決める。これは個々の企業者にとって当てはまり、経済全体での「企業者」にとっても当てはまる。
5.したがって均衡雇用量は①総供給関数、②消費性向、③投資額D2によって決定される。これが一般理論の核心だ。
*総供給関数は雇用量一単位の増加に対して所得がどれほど増加するかを決める関数だ。
6.あらゆる雇用量Nに対して賃金材産業の限界生産性が存在し、これが実質賃金を決定する。*したがって(5)は雇用量Nが労働の限界不効用と等しくなるまで実質賃金を減少させる値を超えることはできない。これはDの全ての変化が貨幣賃金一定という仮定と両立するわけではないことを意味する。我々の理論を完全に叙述するにはこの仮定を破棄することが根本的な問題となる。
*⊿賃金材(消費財)÷⊿N。「技術、資源、費用が一定のとき」という前提からNが増えるほど落ちていくだろうと想定されている。このためNが増えていき、かつ貨幣賃金(名目賃金)一定ならば実質賃金は下がっていく。古典派は、だから労働者は労働力を引き上げるだろうと想定するが、ケインズは賃金が上がるだろう、と想定している。貨幣賃金一定という前提はこの時点で破棄されなければならなくなる。
7.古典派理論ではあらゆるNに対してD = φ(N)が成立するのだから、Nが最大値を超えない限りあらゆる値のNに対して中立均衡状態が成立する。だから企業者同士の競争は雇用量をその最大限まで押し上げるだろう。古典派理論においては、この時点においてのみ安定均衡状態が成立する。
*古典派理論では、有効需要の原理という概念がないため経済は必ず完全雇用を達成することになり、現実には非自発的失業者がいることを説明できない。古典派にとって均衡雇用=完全雇用である。
8.雇用が増えればD1も増えるがDほどには増えない。というのは所得が増えれば消費も増えることは増えるだろうが所得が増えたようには増えないからだ。現実の問題を解くカギはこの心理法則になる。ここから導かれることは、雇用量が増えるほどその雇用量に対応した産出量の総供給価格(Z)と企業者が消費者の支出として戻って来ると期待できる総額(D1)とのギャップがますます大きくなるだろうということだ。かくして消費性向に変化がないとしたら同時にD2がZとD1の増大するギャップを埋めるだけ増えない限り雇用量は増えることはできない。雇用が増えたときはいつでもD2が拡大するZとD1のギャップを埋めるだけ十分に増えるという何らかの力が働いているという古典派理論の特殊な仮定を前提にしない限り、経済体系は完全雇用に至る前に雇用量Nの安定均衡点を見いだす。すなわち総需要関数と総供給関数の交点によってもたらされる雇用水準である。
*有効需要によって雇用量は決まるが、そのとき完全雇用ではない。下図は筆者作成。理解のために作成した。関数の形状を云々する議論ばかりが目立つがそこに意味はない。有効需要の点で雇用量と総所得が決まると主張している。
ここでは総供給関数を右肩上がりとしているが直線でも本質的には変わりはない。しかし、消費財の限界生産性の向上は経験上明らかであるから右肩上がりとしている。消費財の限界生産性が向上すればするほど、総需要関数と総供給関数の交点=有効需要の到来は早くなり、Nの値も小さくなる。これもパラドックスである。
所与の実質賃金の下で使用可能な労働供給が雇用の最大値を示しているような場合を除いて、雇用量は実質賃金で測った労働の限界不効用で決定されるわけではない。消費性向と新規投資割合の双方が雇用量とその雇用量と一対一に結びついた実質賃金を決めており他の回路は存在しない。消費性向と新規投資率が低く有効需要が不足した場合には、現実の実質賃金のもとで利用可能な労働供給を実際の雇用水準は下回ってしまうだろう。そうして均衡実質賃金は均衡雇用水準の限界不効用を上回るだろう。
*下線部分は完全雇用のことを言っている。完全雇用達成後どのように推移するかは、「第16章 資本に性質に関するくさぐさの考察」に詳しい。ケインズの結論は自由放任下では例外に過ぎず維持できない、というもの。賃金という労働力の価格で労働市場の需給バランスが成り立つという古典派理論にたいして、消費性向と新規投資割合が雇用量を決定すると言っている。コペルニクス的転回だ。
この分析は飽食の真っ只中での貧困というパラドックスに説明を与える。単に有効需要が不足しているというだけのことで、完全雇用に達する以前に雇用の増加は停止するだろうし、大概そうなってしまう。有効需要の不足は、労働の限界生産物が労働の限界不効用を上回っているにもかかわらず生産の進行を抑制するだろう。
*「労働の限界生産物が労働の限界不効用を上回っているにもかかわらず」古典派理論によればまだ雇用拡大の余地はあるのにという意味。
それに加えて、社会が豊かになるほど、現実の生産と潜在的生産能力とのギャップはますます大きくなるだろう。その結果、経済システムの欠陥は、ますます露わにますます耐え難いものとなっている。貧しい社会は産出量の大部分を消費する傾向がある。だからほんのささやかな投資でも完全雇用達成には充分であろう。ところが豊かな社会では、富裕層の貯蓄性向と貧困層の雇用を両立させようとするなら貧しい社会より膨大な投資機会を見つけなければならないことになる。潜在的には豊かな社会であっても投資誘因が弱ければ、潜在的豊かさにもかかわらず、有効需要の原理の作用によって現実の産出量を押し下げるであろう。潜在的な豊かさにもかかわらず消費を上回る余剰は弱い投資誘因に見あうまで減少してしまう。
*消費性向が低くなるほど完全雇用達成のための投資額は巨大なものとなる。「富裕層の貯蓄性向と貧困層の雇用を両立させようとするなら」両立はしないから富裕層が貯蓄すればするほど貧困層は貧しくなると言っている。ただし膨大な投資機会があれば別だ。
より悪いことがある。豊かな社会では限界消費性向が弱いばかりではなく、既に巨大な資本蓄積が進んでいる。利子率が十分に急速に下がらない限り更なる投資機会は魅力的なものとはならない。利子率理論と利子率がなぜ適切な水準まで自動的に下がらない理由を考察することになるがこれについては第4編で扱うことになる。
*後の章で、ケインズは金利は限りなくゼロに近い方が良く、民間で営利の投資機会がないなら公共投資をすべきだと主張している。もちろんそれは膨大な投資となる。「新自由主義」はそれを許さないが、許さないことで社会ばかりか富裕層もより豊かになる機会を潰している。
消費性向と資本の限界効率の分析と利子率理論は、我々の現在の知識に存在する三つの主要な隙間であり、その隙間を閉ざす必要がある。これが成し遂げられれば、物価の問題は我々の一般理論については補足的問題としてそれにふさわしい地位を占めることになるだろう。我々は、しかし、貨幣は利子率理論では本質的役割を果たしており、貨幣が他のものと区別される特殊な性格の究明に努めるつもりである。
*ケインズの利子率理論で括目すべきは流動性選好という概念である。マルクスは物神崇拝と呼んだ。ケインズはマルクスを有効需要の原理の発見者としているが、それは同時に流動性選好の概念の発見者ということにもなる。
流動性選好は、その国の文化によってはたいへん強固である。借金を”何となく”悪とするような文化においては、貨幣蓄蔵が政府の目標になったりもする。当然のことだが、人の幸せは預金額ではなく金を何に使うかで決まる、のだが。
人々は、公共的支出にも営利性や効率性を求めがちである。しかし考えてみればすぐ分かることだが、営利事業として成り立つなら公共事業として行う必要は全くなく、公共目的で行うなら効率性の追求は取りこぼしを生むだけだ。効率性追求の先には「合理的」格差しか生まれない。
しかも、有効需要の原理が働いているのだから、非営利で公共の目的にかなう事業のみが、営利事業すなわち資本主義を救うのである。
これが「飽食の真っ只中での貧困」というパラドックスを救うもう一つのパラドックスだ。