よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

47:第14章 古典派の利子率理論が異次元の金融緩和の指導理論

2021年03月30日 | 一般理論を読む
   この章では、古典派の利子率理論批判を通して、ケインズ自らの利子率の一般理論を展開している。その批判されている古典派の利子率理が「異次元の金融緩和」の指導理論である。

 また一般理論で「唯一のグラフ」が登場することでも有名?である。
 この章と次の付論を筆者自身は「一般理論」のなかで最も難解だと思う。
 この章を理解できなければ、マイナス金利でも借り手がいないのは何故か?なぜ貯蓄が積み上がるのか?の解も得られない。

 理解の鍵は

 資本の限界効率の低下と足並みをそろえて利子率が下がることはない

 何故か?

 というケインズの問いである。古典派では解けない問いである。答えは「貨幣というものが、誰にとっても、いくらあっても邪魔にならない存在だから貨幣であり続けるのだ」だが、これだけでは今後の分析の役に立たない。ケインズは探求していく。ケインズの冒険である。「よみがえるケインズ」を「ケインズの冒険」に変えようかな。

古典派の利子率理論とは、労働市場分析と同じく金融商品の価格(利子率)で資金需給が均衡するというもの

 まず、古典派の利子率理論とはどのようなものだろうか?

 ケインズは、古典派の利子率理論を次のようにまとめている。

古典派:利子率は投資と貯蓄を均等化させる投資可能な資金の価格である。

 「一般理論」では「利子率は、…富を現金という形でもとうとする欲求と現金の有り高とを均衡化させる「価格」である。」だった。古典派が投資と貯蓄という別個の主体間で均衡が成立すると考えているのに対して、ケインズは同一主体で流動性選好と実際の現金保有高が均衡すると考えている。両者は全く「異次元」の考え方である。

 古典派は貯蓄のうちいくらを流動性として確保するかという流動性選好という概念がない。流動性の確保のためだけに確保されている現金は消費にも投資にも使われない。古典派理論の裏には「貯蓄はいずれ必ず消費か投資される」という信念がある。

 ケインズは次のような論法を誤りだとしている。

人が貯蓄という行為を行うときには、彼はいつも自動的に利子率を引き下げる行為をなしており、自動的に利子率を引き下げる行為をなせば、自動的に資本の生産を刺激する、と考えている。そのさい利子率がどの程度低下するかといえば、利子率は、資本の生産を刺激し、その増加分が貯蓄の増加分にちょうど等しくなるところまで低下するのである。しかるこのプロセスは自己調整的なプロセスであり、それが実行されるためには、通貨当局による特別の介入や余計なお節介はなんら必要とされない。同様に、そしてこれは今日においてもなおいっそう広範に抱かれている信念であるが、投資を増やすと、それが貯蓄性向の変化によって埋め合わされるのでないかぎり、利子率は必ず上昇する。

  現代正統派の基本的考え方そのものである。市中銀行の日銀預金を増やせば利子率が低下し投資に用いられる。ここで「一般理論」唯一のグラフが登場する。古典派の利子率理論を視覚化したものだ。黒田総裁はこんな単純なことは言ってないが。



 曲線Xは投資の需要曲線。Yは投資の供給曲線である。rは利子率。I は投資額である。利子率の上昇とともに投資の需要は減り(右下がり)、資金の供給は増える(右上がり)。両者は交点をもち、そこが均衡利子率である。なるほど、と思ったそこのあなた、もう一度最初から読み直してください。

 いま需要曲線がX1からX2へと移動したとしよう。経済学者はカッコをつけて需要曲線が下方にシフトしたなどと言うが、このとき「一般理論」は投資の変化によって所得も変化することを教えてくれる。投資の変化によって起こった所得の変化に対して供給曲線はどうなるのか。Y1のままなのか、上へ移動するのか、下へ移動するのか、わからない。確かに両者は交点を持つかもしれないがそれがどこなのかはわからない、ということである。このグラフは何かを説明しているようで何も説明していない、ということなのだ。

 問題は逆なのだ。今まで見てきたように流動性選好表と貨幣量から利子率は決定される。利子率が決定されると、そのときの投資量が決定されるわけだ。資金の供給は流動性選好表と貨幣量からすでに決定されている。流動性選好、利子率、貨幣量については次章で詳論される。

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