資本市場の発達と長期期待の変化
「第5章 産出量と雇用の決定要因としての期待」において期待は短期と長期の2種類に分けられた。
短期期待とは現存の生産設備でどのくらいの利益が得られるだろうかという期待である。長期期待とは設備投資を行う際にその設備投資の耐用期間中にどのくらいの利益が得られるだろうかという期待である。短期期待は生産の規模を決め、長期期待は設備投資の規模を決める。
この第12章は投資の規模を決める長期期待の探求である。設備投資が巨額になるほど投資の回収には時間がかかり、長期期待が予測しなければならない期間はより長くなる。そのリスクは一個人が負えるものではなくなり、株式というリスク分散の仕組みが発達してくる。そうなると長期期待は集団的意思決定に委ねられることになる。だから、この章は株式市場と投資の関係について論じた章でもある。
昔の、旧い型の私的企業にとっては、投資の決意は、社会全体にとってもそうだが、個人にとってもまた、おおむね取り消すことのできない決意であった。所有と経営の分離-―今日ではふつうになっている――が進み、組織された資本市場が発達するにつれて、時には投資を促進するが、時には体系の不安定性を著しく高める、きわめて重大な新たな要因が請じ入れられることになった。
組織された資本市場こそが現代資本主義の特質である。金融市場、証券市場、株式市場といろいろあるが組織された資本市場というのが妙である。
この市場は
証券市場が存在しない場合には、購入した投資物件をたびたび再評価しようとしても、そうするすべがない。ところが証券取引所は、日々、たくさんの投資物件を再評価し、この再評価は個人が(社会全体にとってはそのかぎりではない)投資を改訂する機会を何度でも与えてくれる。
投機と投資の違い
ケインズは、投機活動を「市場心理を予測する活動」とし、企業活動を「資産の全耐用期間にわたる期待収益を予測する活動」としている。組織された資本市場が発達するほど長期期待は企業活動ではなくて投機活動化する。ここで有名な美人投票の喩えが出てくる。
あるいは喩えを少し換えてみると、玄人筋の投資は新聞紙上の美人コンテスト、参加者は100枚の写真の中から最も美しい顔かたちの六人を選び出すことを要求され、参加者全員の平均的な選好に最も近い選択をした人に賞品が与えられるという趣向のコンテストになぞらえてみることもできよう。このようなコンテストでは、それぞれの参加者は自分がいちばん美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうだと思われる顔を選ばなければならない。全員が問題を同じ観点から見ているのである。ここでは、判断のかぎりを尽くして本当に最も美しい顔を選ぶということは問題はないし、平均的な意見が最も美しいと本当に考えている顔を選ぶことさえ問題ではない。われわれは、自分たちの知力を挙げて平均的意見が平均的意見だと見なしているものを予測するという、三次の次元まで到達している。中には、四次、五次、そしてもっと高次の次元を実践している者もいる、と私は信じている。
このような資本市場の発達によって(ここからがこの章の結論)
期待は、その道に長じた企業者の本来の期待によるよりは、むしろ証券取引所で売買を行う人たちの、株価に表れる平均的な期待に支配されることになる。
投機が投資より優勢になった現代では、資産の全耐用期間にわたる期待収益を予測する活動は、周期的に襲ってくる金融危機に邪魔をされる。いまやこのような本来の投資活動・企業活動は「地味で実りのない」ものとして敬遠され、金融工学なるものがもてはやされている。無論その背景には行き場をなくした巨額の余剰資金があるわけだ。
ケインズは言う
投機がいつも企業より優勢だというのは全く事実に反している。しかし、資本市場の組織化が進むにつれて、投機が優勢となる危険性が高まっている。
だからこそ
これからは長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている。
「社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算する」のはケインズたちのような知的エリートが想定されている。それは賢人支配だとツッコミを入れるのは簡単だが、今やその知的エリートの関心が「社会の一般的利益を基礎にして」いないことの方が問題だろう。「資本市場の組織化が進むにつれて、投機が優勢となった」現代において我々は何をなすべきなのだろうか?
答えは明らかではないか?
蛇足
第10章 限界消費性向と乗数で以下のように書いた。
「おわかりのように限界消費性向と投資乗数は逆の向きを持っている。その理由は消費が投資の原資である貯蓄を決め、投資が所得を決めるという循環構造が存在するからである。この循環構造の中では向きは同じとなる。消費⇒貯蓄⇒投資⇒所得⇒消費である。この循環の中で⊿所得⇒⊿消費が限界消費性向、⊿投資⇒⊿所得が投資乗数と呼ばれているのだ。新古典派・現代正統派は忘れがちであるが、この循環が回っていけば必ず経済は成長する。なぜなら労働過程を内包しているからだ。」
「おわかりのように限界消費性向と投資乗数は逆の向きを持っている。その理由は消費が投資の原資である貯蓄を決め、投資が所得を決めるという循環構造が存在するからである。この循環構造の中では向きは同じとなる。消費⇒貯蓄⇒投資⇒所得⇒消費である。この循環の中で⊿所得⇒⊿消費が限界消費性向、⊿投資⇒⊿所得が投資乗数と呼ばれているのだ。新古典派・現代正統派は忘れがちであるが、この循環が回っていけば必ず経済は成長する。なぜなら労働過程を内包しているからだ。」
この循環をマルクス風に表現すると G⇒W・・・W’⇒G’ となる。W・・・W’に生産過程・労働過程があり、価値はここでしか増加しない。のだが投資よりも投機が優勢になった社会では、この過程が忘れられ、人々の意識に現れるのはG⇒G’のみとなる。あたかも貨幣が自律的に増殖するかのように見えてくるのである。貨幣は現象にしか過ぎないのだが、その現象が本質のように転倒しているのがこの社会の特徴である。
このような社会では、デフレ、あるいはデフレ政策が一般的となる。デフレとはそれこそ貨幣が自律的に、勝手に増殖する過程そのものなのだから。だからなお一層デフレ脱却は困難なものとなる。デフレ脱却が困難なのは、デフレの方が望ましい人々が力を持っているからであり、あたかも貨幣が自律的に増殖するかのように見えている人々の意見が圧倒的に優勢だからでもある。
W・・・W’に生産過程・労働過程があり、価値はここでしか増加しない。のだが。ケインズは一般理論で価値増殖過程としての生産過程・労働過程を復権せよ、と訴えているのである。