資本の限界効率とはなんぞや?その意味と意義
マクロ経済は会計年度で動いているわけではない。ケインズははっきり書いている。
資本の限界効率の意味と意義に関する最も重大な混乱は、それが資本の期待収益にも依存し、単に当期収益にのみ依存するのでないことを見損なったところから生じた。
ケインズは資本の限界効率を次のように定義している。上記の「意味」の部分だ。
耐用期間を通じてその資本資産から得られると期待される収穫によって与えられる、年収益系列の〔割引〕現在価値を、その資産の供給価格にちょうど等しくするところの割引率が、私の定義する資本の限界効率である。
Aという資本資産がある。Aの1単位はその耐用期間中にM´円の収益をあげると期待される。このM´を市場利子率で現在価値に割り引いた額をMとする。この市場利子率は期間中の予測利子率である。一方、Aをもう1単位調達するときの価格をN円とする。M>Nなら設備投資は進み、M<Nなら進まない。Aの稼働を止めることもありうる。M=NとなったときのMが資本の限界効率である。ここで「割り引く」といいうのは、ただ預けておいても金利は付くので、それを割り引かねばならないということだ。ただ預けておいても収益があるのに投資して苦労することはない。
資本資産の耐用期間n年間の期間収益の現在価値と資本資産の供給価格との比較によって設備投資額が決定される。設備投資をこのように理解すると、長期期待が非常に重要な意味を持ってくる。資本の限界効率とは単期ではなく期間を伴った概念なのだ。企業はいつも投資を何年で回収できるかを考えているわけだが、ほぼその事であり、ケインズは現場を知っている。また、この資本の限界効率によって使用費用で残しておいた疑問:資本装備の期首の価値G、資本装備の期末の価値G′の値をどのように決めるかの答えが出てくる。期待される資本の限界効率からG、G′が導き出されるのである。
だからG、G′ を客観的に決めることはできない。期待にかかっているからである。資本の限界効率は単に当期の収益のみに依存せず、資本の期待収益に依存する。将来に対する期待が現在に影響を及ぼす。将来と現在が結び付けられるのはこの耐久設備(耐用年数が複数年にわたる資装備)の存在による。将来は耐久設備の限界効率を通じて現在に影響を及ぼすのである。次章が、「長期期待の状態」となっていることはまことに理にかなっているのだ。
ここで注意するべきは、利子率は別のところで決まっている、ということである。すなわち、資本の限界効率が利子率を決めているのではない。限界効率=利子率としたところで、循環論法になり、その値を決めることにはならないのである。このことは次々章「利子率の一般理論」で解明されるが、この章は一般理論のなかで”唯一のグラフ”が載っていることで有名である、と同時に一般理論中「最も難解」としても知られている。
ケインズはさらに続ける。
当期の実際の投資率が、限界効率が現行利子率を上回るいかなる種類の資本資産ももはや存在しなくなるところまで推し進められることは、いまや明らかである。換言すれば、投資率は資本一般の限界効率が市場利子率に等しくなる投資の需要表上の点まで推し進められる。
消費性向が長期にわたって安定しているなら、雇用は投資の関数である。投資率は資本一般の限界効率が市場利子率に等しくなる投資の需要表上の点まで推し進められる。この時点が有効需要の限界である。資本装備は様々な耐用年数の残存期間をもっており、それぞれが生み出す期間中の利潤の総和が極大化する地点となる。有効需要の概念で前に見たとおりである。もちろんその時完全雇用が達成されているかどうかはわからないし、繰り返すが市場利子率は資本の限界効率とは別のところで決まっている。資本の限界効率が下がったからといって利子率が足並みをそろえて下落することは、原理的に、ないのである。
投資率は資本一般の限界効率が市場利子率に等しくなる投資の需要表上の点まで推し進められる。
これが上記の「意義」の部分である。
では、その市場利子率はどのように決まっているのだろうか?