本ブログ 総目次へ戻る
このカテゴリの目次へ戻る
積み上がってしまった余剰資金をどうするのか?
もはや業として成り立っていない銀行
今回は資金循環統計から「預金取扱機関」を分析してみよう。預金取扱機関(銀行等だが以下、銀行)全体のBSを作成した。
資産の反対側には負債がある。銀行にとって国民の預金は負債となる。
その銀行にとって 負債となる国民の預金は1660兆円まで膨れ上がっている。グラフの負債側「証券78兆円」は自己資本だ。それに対して資産側は貸出857兆円と証券(国債だ)445兆円の1302兆円となっており差し引き436兆円の債務超過となっている。
銀行は異次元の金融緩和で日本銀行に国債を買い上げられてしまい。その分現金が積み上がるということになってしまった。その一部は日銀の当座預金となっており、そのまた一部はマイナス金利となっているのはご存じのとおりである。
異次元の金融緩和については様々な議論があるが、銀行が国民の預金を国債に変えて利ザヤを稼ぐのは、国税で補助金をもらっているのと同じことであり、そんなことが続くわけはない。当局にダメ出しされて手放さざるをえなかったのは当然だ。
一時、国債暴落説が喧伝され家計は国債を手放したが、それを買い集めたのは銀行であった。この時に銀行が税金で利ザヤを抜く構造が出来上がったのである。その構造に終止符を打とうとした異次元の金融緩和(日銀による国債の強制買い上げ)には意味があった。
しかし、その結果、国債を日銀が買い取り紙幣に変えるという錬金術が出来上がった。これは一国レベルでは家計の余剰資金を政府が吸収して使うという構造でもある。しかし如何せん額が圧倒的に足りない。足りないどころか緊縮予算を組み続けている。政府はせっかく錬金術を手に入れたのだが、財政再建をさらに進めていては誰も救われない。
このことは、公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れができることを意味しよう。というケインズの言葉を噛みしめるべきである。
53:第15章:流動性の罠! テキストはたった347文字です
とにかく、預金と貸出の利ザヤで稼ぐのが銀行の本来業務だとしたら、現代日本では業としての銀行は成り立っていない。NISA(少額投資非課税制度)などの商品を売り出して手数料を稼ごうとする一方で、銀行の再編が様々に進められようとしている。キャッシュレス化が叫ばれ、日本が遅れているかのように言われるが、支店・ATMの維持費用を削減しようとしているだけだ。
この銀行が ≪業として成り立たない≫ 事態こそ資本主義にとって異常事態であり、なおかつ高度に発達した資本主義が必ず陥る事態であることを一般理論は教えている。
一国全体では債務超過より資産超過の方が厄介な問題である
企業でも内部留保を溜め込んでいる状態は、それが投資不足の結果であれば経営の将来に黄信号が灯る。
一国全体でも債務超過は、国民がそれこそ勤倹貯蓄の美徳を発揮して何とかすることができるが、資産超過の方はなすすべがなく、はるかに厄介である。
この場合の資産超過はこれといった投資先がないことの結果であり、ケインズの「悪魔の恒等式:消費+投資=所得」のように退蔵された資金のぶんだけ所得が減っていく、お金を貯めるほど貧乏になっていくというのが一般理論の結論である。
26:第7章 貯蓄と投資の意味―続論 ケインズの悪魔の恒等式
積み上がってしまった貯蓄に税負担を求めることはできない。これは技術的な問題ではない。技術的には残高に税金をかけることは簡単だ。しかし資金が預金口座から逃避し、それこそ文字通りのタンス預金になってしまうだけである。
ではどうするのか。その前に一国の所得の再分配をどう考えるのかという問題がある。
再分配は、なぜ必要か?
もし人間というものが、所得が高くなるほど消費に回す割合(消費性向)が大きくなるのであれば、長期停滞からの脱出を考える上で所得の再分配の必要はない。それどころか所得の再分配は有効需要の水準を下げるだけだ。まさに「トリクルダウン」が成り立つ。
後に家計の項目で詳しく検討する予定だが、現実は真逆である。所得格差が拡大するほど全体としての消費性向は下がる。総消費は停滞する。総消費が停滞しているときに誰が投資を行うだろうか?
貧富の格差が拡大すると対策を講じなければならないのは、誤解を招く言い方だが、貧困の解消が人類の大義であることは自明の前提として、貧困の解消という大義のためではない。資本主義の延命手段なのである。このことが分かっていない人たちが自己責任論を振りまく。そういう人たちは資本主義の発展を願わず、その崩壊を願っていると言わざるを得ない。
所得の再分配はした方がいい。資本主義の発展・延命を願う人たちにとってはなおさらそうである。
では再分配は、いかに行うべきか?
再分配というと、現金給付とか○○の無償化という話にすぐなってしまう。それも所得制限を設けると言う話は受けが悪く、また境界線で不公平・不合理が起きるから一律だということになってしまう。昨年も一律10万円の給付を行ったが、最悪の選択だ。
各年度の家計の貯蓄も国民経済計算で分かる。
2020年度は単年度で38.2兆円の貯蓄増となっている。
使いたくても使えないときに給付金をもらっても、とりあえず貯金しておくしかないのは当然だ。
ちなみに2019年度に9.9兆円の貯蓄増となっているのは消費税増税による買い控えであり、2013年度2014年度は貯蓄がマイナスとなっている。これについては後ほど家計部門の項で分析する。
消費増税という消費削減策を取っているときにコロナ禍が襲ったのだから結果は良くないものとなった。
一般理論でみたように「完全投資の状態」小野善康先生の言葉を借りれば「成熟社会」の段階で消費がそうそう増えるものではない。*小野善康著 成熟社会の経済学 岩波新書
麻生大臣が言うように「貯金されちゃった」のである。ただしこの言い方は本当に困っている人に給付が届くような術を政府が持っていないということを認めたようなものである。意識はしていないだろうが・・・
コロナ禍のようなときは別だが、一般に現金給付は筋がよくない。本当に困っている人にも届いたろうが、そういう人に10万円は焼石に水であろう。庭の鉢植えに二階から水を撒くようなものだ。
といって筆者は現金給付に反対しているわけではない。効果が薄いと言っているのだ。しかし仮に貯金されてしまって景気対策としては意味がなかったとしても、政府の負債、家計の資産がそれぞれ十数兆円増えるだけで一国全体の金融資産・負債のバランスから言えば「大したことはない」のである。
「バラマキ批判」というのはよく聞くが、そういう人たちはここが分かっていない。かといっていくらでも配ればいいというものではない。思考実験として300兆円配ったらどうなるかを考えればすぐわかる。供給力が追い付かず悪性のインフレに陥るだろう。
先に「政府は錬金術を手に入れた」と書いたが、そこには上記のように当然限度がある。
これも家計部門の項で触れるが、日本には貧困対策というものが皆無に等しい。普段から皆無に等しいものをコロナ禍だからと急造することはできないのだ。
問題は、消費ではなく投資である
完全投資の下、成熟社会では、家計の貧困によって手に入らない場合を除けば、とりあえず手に入らないものはない。消費の目玉になるものがないのだ。富裕層に「君たちのできる唯一の社会貢献は浪費だ」と説いたところで従う人はいまい。年収1億円の人々はその何割を消費に回しているだろうか?
一方、消費が伸びない中で投資もまた停滞する。家計・企業といった私的部門には余剰資金を吸収する力はないのである。
ではどうするか?
企業=営利事業としては成り立たないが、社会の誰にとっても必要なことがある。必要でありながら充足していない需要に対して社会的投資を行うのが政府の仕事なのである。
この項では、これ以上踏み込まないが、このような社会的投資によって有効需要の水準を上げること。有効需要の水準上昇によって低賃金層の賃金上昇を図ること。
このことが、このことのみが、資源の再配分、所得の再分配につながっていくのだ。
もっとも水道事業さえ民営化しようとする人々に何を説いてもムダかもしれないが・・・
最後にケインズの引用を
脱税や起業家精神について一般理論は答えを持たない。しかし二番目についての答えは明確だ。今まで見てきたように完全雇用達成までは消費性向が低いと、当然投資も鈍るので、有効需要の水準は低くなり資本の成長を阻害する。完全雇用状態の下でのみ、消費性向が低いことが資本の成長を助ける。今のイギリスでは公共団体の貯蓄も公債の償還も適度な水準を超えており(すなわち完全雇用状態には遠く*訳者補)、所得の再分配政策は全体の消費性向を向上させ資本の成長にとって有益であろう。 (一般理論第24章 第1節)