合理的期待という”神”
ロバート・ルーカス
アメリカ合衆国の経済学者でシカゴ大学教授。1995年にノーベル経済学賞を受賞した。2002年アメリカ経済学会会長。合理的期待仮説の提唱者。
吉川洋はルーカスの次のような発言を直接聞いて報告とともにコメントしている。
ケインズ―時代と経済学 (ちくま新書) 新書– 1995/6/1 より
"一九七七年私はイェール大学の大学院生だった。イェール大学はアメリカ・ケインジアンの総帥ともいえるトービンの影響下に、当時米国でケインズ経済学が生き残っているほとんど唯一の大学だった。「合理的期待」理論の発信地であるシカゴ、ミネソタ大学などはもとよりハーバード、MIT、プリンストンなど東部の主要大学でも「合理的期待」理論は大きな影響を与えていた。そうしたある日シカゴからルーカスがイェールにセミナーにやって来た。セミナーの途中で一人の助教授がルーカスに「非自発的失業」について質問した。ルーカスは「イェールでは未だに非自発的失業などとわけのわからぬ言葉を使う人が、教授の中にすら居るのか。シカゴではそんな馬鹿な言葉を使う者は学部の学生の中にも居ない」と答えたものだ。やがて話は一九三〇年代の大不況へと移っていった。大不況時のアメリカの失業率は最悪時で二五%に達した。しかしルーカスによれば「非自発的」失業は全く存在しなかった。多くの人がただ職探しという「投資」を行っていたのである。(*)最後にトービンが少し興奮した口調でルーカスに言った。「なるほどあなたは非常に鋭い理論家だが、一つだけ私にかなわないことがある。若いあなたは大不況を見ていない。しかし私は大不況をこの目で見たことがある。大不況の悲惨さはあなた方の理論では説明できない。"
"一九八〇年代に入ると「ケインズ反革命」はさらにエスカレートした。「リアル・ビジネス・サイクル理論」という理論が登場したのである。この理論によれば景気循環は新古典派的な均衡そのものの変動に他ならない。フリードマンやルーカスは失業率が10%にもなるような状態では、「自然失業」を上まわる失業が存在する、つまり職探しという「投資」が過大に行われている、と考える。そしてケインズ的な金融政策を止めマネー・サプライの成長率を安定させることによりこうした問題は解決できる、と主張した。これに対しリアル・ビジネス・サイクル理論によれば、失業率が5%であろうと10%であろうと、それは全て均衡の失業率つまり「自然失業率」そのものの推移に他ならない。現状は常に最適状態であり、景気安定化に関して政府に出来ることは何もないし、そもそもその必要もない。すべからく現状を肯定するリアル・ビジネス・サイクル理論は新古典派経済学の「終着駅」と言うべきものである。"
"深刻な経済問題を抱えるアメリカで、何故これほど馬鹿馬鹿しい楽天的マクロ経済学が盛行するのか。なるほど「学問」などと偉そうなことをいっても人の営みの一つであるからには、所詮「狂気」から自由であるはずもない。いずれにしてもそれ自体将来の思想史、経済学史上の興味ぶかい研究対象となるであろう。一九八〇年代にはアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曾根政権といずれも「新保守主義」を奉ずる長期政権が誕生した。市場機構礼賛の合理的期待学派、リアル・ビジネス・サイクル理論が盛行したのも時の流れであったのかもしれない。一九八〇年代から九〇年代には何でも新しいことの好きなアメリカでは、「新ケインズ経済学」なる一派も生まれたが、大勢としては新古典派経済学が優勢である、といってよかろう。マクロ経済学は混迷のまま二十一世紀を迎えることになりそうである。"
* 筆者注
資金の余剰が無駄な投資を生むのだから、金融を引き締めれば「自分探し(という投資)をやめてまともな仕事に就くようになる」ということである。これは「贅沢いわなきゃ仕事はある」という世間知を理論化し権威づけたものに過ぎない。
ルーカスは若い時疑似マルクス主義者だった、と言っているそうだ。資本主義の鉄の法則は、ケインズ派のような「ぬるい」方法で変わるわけはないだろう、というわけか?。「転向者」は恐ろしい。はたまた、存在するものはすべて合理的である、とマルクスからヘーゲルへの回帰したのだろうか?
概括すると
- マーシャルは、待っていればいずれ貯蓄を取り崩して均衡状態が戻ってくる、という主張
- ハイエクらは、投資不足が失業の原因だから規制を撤廃せよ、という主張
- フリードマン、ルーカスは、失業は「失業者の投資の過剰」が原因だから金融を引き締めろ、という主張
- リアル・ビジネス・サイクル理論は、失業も均衡のうちだから、「なああああーーーーんにもするべきではない」という主張。なお、この主張は、政策当局者は実際には何かしてしまい、何かしてしまったからダメなんだと主張者が言えるので検証不可能である。絶対無為をめざせ、ってそんな人は山籠りでもしていればいいと思う。
いずれも、雇用量がどう変わろうと均衡が成立しており、貨幣数量説が成立している、との主張になる。
「誤謬から出発しながら罪悪感をもたない論理学者がどうしたら精神病院にたどり着くことができるかを示す特異な例の一つ」というケインズの言葉を思い出し、現代もケインズのいう「特異な例」がいっぱいあることに思いをめぐらせたほうがいい。
なおケインズは、この種の議論が横行する理由も「リカードが完膚無きまでの勝利を得た」理由として挙げている。