第3章 有効需要の原理
有効需要の概念は誤解されている
今回から第3章突入である。全四回の解説となる。一般理論「第1編序論」はこの章で終わる。
ケインズの有効需要の原理の重要性は、いくら強調しも強調し過ぎることはない。なぜか?
前回触れたセイの法則を否定しているからである。
ゆえに、この章は難解である。難解である理由は、ほとんどの人が「商品が売れないと企業は市場から淘汰され、結局は需要と供給は一致するのではないか」とセイの法則を根拠なく信じているからである。根拠なく信じられていることが常識だとすると、一般理論はこの章で常識に挑戦している。だから難解なのである。
さらに言うと「企業が市場から淘汰されるのは当たり前ではないか」という常識がある。「そんなことを言っているから構造改革が進まない」という常識がある。だから難解なのである。
なお、この章での「賃金」は貨幣表示つまり名目賃金である。
ここでは第4章、第5章で詳述される概念が先に登場する。そのため「第二編 定義と概念」を読了するまで十分な理解は得られないかもしれない。再度、戻ってきていただく必要があるかもしれない。しかし論旨は簡明である。
商品の需給均衡点と雇用の完全雇用点は一致するのか?
この章では、産出量(これは雇用量の関数)に関する総供給関数と総需要関数が定義され、その交点における総需要が有効需要と呼ばれる。このときに完全雇用が成立しているかどうかは分からない、というのが「一般理論」の立場である。ここが分かると徐々に見えてくる。総供給=総需要となった地点で需給は均衡するが、それが利用できる雇用を使い尽くした時とは限らないのである。
そこで、ある雇用量のとき経済体系全体での「総」供給と「総」需要はどのように決まるかを分析し、その交点が雇用の均衡点となるのかならないのか検討しようというわけである。ここでの量はいずれも貨幣表示である。(貨幣表示とは名目のこと。リカードは穀物表示だった)
今は価格によって需給が均衡すると考えるほど経済学も素朴ではない。当時の古典派もしかりであるが、ここでは「価格によって需給が均衡する」という前提で議論が進んでいく。第2篇全体の議論では別の理論が提示されるが、ここでは出発点として「価格によって需給が均衡する」という前提が置かれる。
その前提の上でケインズは企業者の行動に即して分析を展開する。「所定量の労働を雇用する企業者には二種類の費用がふりかかってくる」という。
ここでケインズはセイの法則を否定するために使用費用という概念を持ち出してくる。使用費用という概念がないと有効需要という概念は理解できない。ここでの議論は、後に、「期待」と「資本の限界効率」に結実する。が、少々面倒である。「期待」と「資本の限界効率」の概念がないと、なぜ有効需要が完全雇用水準に達する前に拡大を止めてしまうのか記述できないからである。
ともかくここでは、使用費用の探求である。この道しかないのでやむを得ないが大回りの回り道となる。
なぜここで使用費用の話になるのか。それは利潤を厳密に定義しておかないと先に進めない、とケインズが考えたからである。
「産出された生産物の価値が要素費用と使用費用の合計額を超過する額が利潤、われわれの言い方に従えば企業者の所得ばその所得である。こうして、要素費用と企業者の利潤は、二つが合わさって、企業者の提供する雇用から発生するところの総所得とわれわれが定義するものを構成することになる。
このように定義された企業者の利潤は、当然のことながらどれだけの雇用を提供すべきかを決めるにさいして彼が最大化しようとする量である。所定量の雇用から発生する総所得(すなわち要素費用プラス利潤)を企業者の側から見る場合にはそれをその雇用の売上収入と呼ぶのが時として便利なことがある。他方所定量の雇用が産出する生産物の総供給価格は、その雇用量を企業者にとっての最適雇用量とする期待売上収入である。」
企業者が売り上げから利潤を計算するときに二種類の費用を売り上げから引かなければならない、とケインズは言っている。
二種類の費用とは
要素費用と使用費用の二つである。
要素費用は雇用の費用とされるからほぼ賃金のことである。
使用費用は、さらに
使用費用①:いわゆる外部購入費用「他の企業者に対し彼らから購入しなければならない財貨への対価」と
使用費用②:後に詳しく展開される「設備を遊休させる代わりに雇用することで要する費用」とに分かたれる。
この文節での「雇用」は広義の雇用である。広義の雇用とは設備を稼働させることを含む。(employ:用いる、使用する である)
ここからは後の論述の先取りとなるが、使用費用①(外部購入費用)は他の企業者の売上であるから、使用費用①もまた利潤と要素費用と使用費用②に分解される。この分解は無限に繰り返され、経済体系全体では、総所得=総利潤+総要素費用+総使用費用②となる。総利潤と総使用費用②を合わせて総粗利潤とすると総所得=総(粗)利潤+総要素費用となる。
総所得とは個別企業の売り上げを相殺したのちの経済体系全体の所得である。使用費用②は、期待に基づく投資量を決定するが、ここではケインズは費用から除外し総(粗)利潤に含めている。その理由は後述の使用費用に関する論考を待たねば全面的な展開ができないからであり、この段階では使用費用②は総(粗)利潤に含まれる。これは後々非常に大事になってくる。この費用問題を会計の観点で、つまり減価償却と理解するのは間違いである。ほとんどの人はここで間違えているので、ここまで読んだあなたはこの一点だけでも読んだ甲斐があったのだ。
要素費用とは、雇用の費用だったから、使用費用をいったん除外するというこの論述では、総所得=総利潤+総賃金と定義していることとほぼ同じである。すなわち総利潤=総所得マイナス総賃金となる。
総所得=粗利潤+総賃金という考え方は、「危険な」考え方である。「搾取」という考え方につながる。置塩信雄の「マルクスの基本定理」と変わらない。資本論の第一編を想起されたい。要素費用は、厳密には賃金と同じではなく雇用の費用と定義されているが、一次近似としてなら賃金と見なしても構わないだろう。この部分は第6章を参照のこと。
生産要素の費用として他の企業者に支払われる額は、他の企業にとっては収入となるので、その収入は、また利潤と要素費用に分かれる。このように相殺しつつ総計を出せば、総所得=利潤+要素費用となる。くどいけど。
ここでの利潤は粗利潤であって使用費用②が含まれているので理論的整合性は保たれる。
面倒だが、ここで音を上げると第2篇で大変なことになる。一般理論理解の鍵はこの章と第2篇にある。つまり最も「難解」なのだ。プロの経済学者のケインズ理解もひも解いてみたが1、2の例外を除いてこの章と第2篇で躓いている。そこは伊藤光晴も宇沢弘文も同じなのだ。やはりヒックス以降の人なのである。
要は、企業が獲得した付加価値は賃金と粗利益に分割される。その粗利益から将来にいくら投資するのか(しないのか)という問題の立て方である。
今回は、回り道の解説のみとなってしまった。ケインズを否定するのも肯定するのもいいが、とにかく「何が書いてあるのか」という正確な理解は必要だろう。