異次元の金融緩和論者がどうしても理解できないこと=利子率操作が無効になるとき
ただ、ケインズは利子率の操作だけで完全雇用が達成できるとは考えていない。公開市場操作の限界について指摘している。ここに「流動性の罠」についての言及(347文字)があり、まさに日本の現実である。
先述した理由によって、利子率がある水準まで低下すると、たいていの人々が利子率のきわめて低い債権を保有するよりも現金のほうを選好するようになるという意味で、流動性選好が事実上無制限になる可能性がある。このような事態に陥ると、通貨当局は利子率を有効に制御する手立てを失ったも同然である。もっともこの極限的な場合は、将来ならいざ知らず――将来には現実にも重要になるかもしれない――これまでのところは、そのような例を聞いたことがない。実際、たいていの通貨当局は長期債権の売買になかなか踏み切れないから、〔この極限の場合を実地に〕検証する機会はあまりなかった。しかる仮にこのような事態が起こったとしても、このことは、公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れができることを意味しよう。
現代は、まさにケインズの予言通りだが、「このことは、公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れができることを意味しよう。」というセンテンスは今も理解されていない。
さらに、
銀行は、たとえ貸手〔預金者〕に対する純粋利子率がゼロだったとしても顧客に対しては1.5ないし2パーセント〔の危険費用〕を負担させなければならないかもしれない。
ゼロ金利政策の敗北
これはまさに現代日本の実効市中金利である。ケインズはまだ生きていて現代日本を見ているかのようだ。ケインズは貸し倒れ引当のことを言っているのだが、ケインズの時代は膨大な支店数や行員という間接経費はなかったろうから、貸し倒れ引当に加えて間接経費を加えるべきであろう。
それでも現代日本の金融機関全体では債務(預金)超過となっている。現代日本の金融機関にもう一度不良債権処理を行える体力が残っているとは思えないが、不良債権ではなく不良債務で溺れそうになっている。しかしそうなる前に「公共当局自身が銀行体系を通じ、名ばかりの金利でいくらでも借入れ」し需要を創造するほうがよほど分別のあるやり方であろう。
最後に簡明な貨幣数量説批判が出てくる。流動性選好を考慮しないから間違えるんだよ、と。
現実世界〔を分析する〕という目的からすると、産出量の変化の関数である物価の変化と賃金単位の変化の関数である物価の変化を区別していないのは貨幣数量説の大きな欠陥である。このような区別をしないですむ理由はおそらく保蔵性向なるものは存在せず経済はいつも完全雇用状態にあるという想定に求められる。なぜならこの場合には、Oは一定、M2はゼロとなり、それゆえ、Vもまた一定と仮定できるなら、賃金単位と物価水準の双方は貨幣量と正比例の関係に立つからである。
(1)この点は以下、第21章においてさらに詳しく論じられる。
物価の変化には2種類あると指摘している。今の日本の「物価高」はどちらの類型かは明らかだろう。
この第21章を含む第5編貨幣賃金と物価はケインズの賃金論になっており労働組合関係者は必読である。