個人の貯蓄打為は言うなれば今日は夕食をとらないと決意することである by ケインズ
本章冒頭の文章だが、この比喩は秀逸だ。明日二回夕食を摂るわけにはいかない。今日摂らなかった夕食の分は永遠に失われた消費である。これはこの二年間のコロナ禍で散々経験したことだ。
貯蓄は現在の消費需要を将来の消費需要に振り替えることではない。それはこのような需要を全体として減少させてしまうことなのだ。
一度縮んだ消費はなかなか元に戻らない。将来の消費への期待が薄れると投資も縮んでいく。その結果
貯蓄は現在の消費需要とともに現在の投資需要をも減少させることになろう。
先ほどは夕食の例だったから、そんなことは起きないが、将来その分が消費されたとしても、今現在の消費を準備するという労働は活用されずに永遠に失われたままである。労働力を将来の消費に備えて取っておくことはできないから。期待を減退させ投資を減らす。これも経験してきたことだ。
自由放任下での完全雇用達成の不可能性命題
資本は、長期的には、その耐用期間に等しい期間において限界効率が少なくとも利子率―それは心理的・制度的条件によって決まる―と同等になるくらい、十分希少に保たれなければならない。
ある資本資産の期間収益が現行利子率より低かったら、自らの事業を継続していく意味はない。例え無借金で利子を払う必要がなくても、利子を払う必要がないから事業は継続できるかもしれないが、資本資産の同額の金融資産から、寝てても入ってくる金額以下の金を苦労して稼ぐ必要はない。少なくとも後継者は現れない。よく見る光景だ。ケインズは資本資産の期間収益が現行利子率より低くなる理由を「希少性の喪失」に求めている。財・サービスを提供し続ければ十分にいきわたり利益は下がっていく。あとは同業他社との体力勝負になるだけだ。企業が、常に、新事業を探し求めているのはこのためだ。
希少性が保たれているうちは、つまり、まだ社会の発展段階が未熟なうちはいいが、経済全体が資本の希少性を失ったら次はそのように動いていくだろうか?この問題意識から、自由放任の下での完全雇用達成の不可能性を理論的に明らかにされる。
ケインズは次のような社会を想定する。現代日本のことである。
- 資本の限界効率はゼロ、追加投資を行うと負になるほどに資本が十二分に装備された社会である。(資本財が飽和しているということは消費財も飽和しているということ。資本資産の期間収益が現行利子率より低くなる傾向にある)
- 貨幣の「持ち」がよく、その貯蔵費用と保管費用がほとんどゼロであるような通貨システムをもっているおかげで、利子〔率〕は現実には負になることはありえない。*1
- そして完全雇用状態にあり、
- 貯蓄意欲にも欠けていない。
*1:については多少の説明が必要かもしれない。100単位の貨幣の年間利子率が2貨幣単位だが貯蔵・保管に2貨幣単位かかるとすると、一年後は100+2―2=100となる。貯蔵保管に3かかると一年後は100+2―3=99となってマイナス利子となる。ということを言っている。現実には貯蔵保管費用はゼロに近く、マイナス利子となることもない。さらに言えば利子率が非常に低い経済では、金融機関は貯蔵・保管・(補足すれば決済)にかかる費用を極限まで引き下げようとするだろう。これがキャッシュレス決済や電子マネーが「先進的だ」と推奨される理由である。金融機関の人たちは現金輸送車すらなくしたいのである。
(上記のような前提の)状態がこうで、完全雇用の地点から出発するとしよう。この場合、現存する資本ストックのすべてを活用するほどの規模で雇用を提供し続けるなら、企業者は必ずや損失を被るだろう。
総供給関数と総需要関数の交点:有効需要を超えて生産を続けると赤字の垂れ流しになる。
だから資本ストックと雇用水準は、社会が貧困化して総貯蓄ゼロ、すなわちある人々あるいは集団の正の貯蓄が他の人々あるいは集団の負の貯蓄によって相殺されるまで、収縮せざるをえない。
条件④から貯蓄は続くが、条件①から新規の投資案件はなく貯蓄の対応物はない。この前提では貯蓄の分だけ所得が減っていく。当然消費も減り過剰資本が顕在化する。大恐慌の出現だ。条件①のように貯蓄に見合う投資がなければ、総貯蓄ゼロになる地点まで奈落を転がり落ちていく。この状態から抜け出すためには、どのような投資であれ貯蓄の対応物が必要となる。「第7章 貯蓄と投資の意味―続論 ケインズの悪魔の恒等式:人は「貯蓄の分だけ」貧しくなる」参照のこと。
こうしてわれわれの想定している社会では、それが自由放任の状態にあるとしたら、均衡状態は貯蓄がゼロとなるくらい雇用水準が低く、生活水準も惨めな状態であろう。しかも大なる可能性で、この均衡点のまわりを振動する循環運動が起こるだろう。なぜなら、将来に関する不確実性の余地がなお存在している場合には、資本の限界効率は散発的にゼロ以上に上昇して「好況」をもたらし、その後に訪れる「不況」においては、資本ストックはしばらくのあいだ資本の限界効率を長期的にはゼ口とする水準以下に低下するかもしれないからである。予見に過つことがなければ、資本の限界効率がゼロとなる均衡資本ストックはむろん利用可能労働量の完全雇用に対応するストックよりは小さい〔資本ストックは完全雇用に到達する以前に飽和する〕だろう。というのは、それはゼロ貯蓄をもたらす〔ほど低い所得、それゆえプラスの〕失業率に対応した資本装備だからである。
これに代わる均衡点があるとすれば、それはただ次のような状態だけであろう。すなわちそこでは、限界効率がゼロとなるほど大量の資本ストックが存在しており、しかもこのことは将来に備えようとする大衆の欲求が完全に飽和してしまうほど富が大量に存在していることを意味している。そのうえ完全雇用さえ成立し、利子という形態の特別報酬は得られない状態にある。だが、資本ストックがその限界効率がゼロとなる水準に達したまさにそのとき、完全雇用状態における貯蓄性向が飽和してしまうというのは、出来すぎた一致である(*1)。したがって、もしこのより好ましい可能性に出番があるとしたら、それは利子率がゼ口となる点ではなく、それ以前の、利子率がしだいに低下していく途中のどこかある点で、ということにおそらくなるであろう。
*1:限界効率ゼロ、利子率ゼロ、貯蓄性向ゼロならその社会は継続性(最近の流行では持続可能性)があるが、限界効率がゼロのときには所得はすべて消費または投資に回されるはずはない。貯蓄が発生してしまうがその分だけ貧困化が進む。しかしこの三つのゼロ=「出来すぎた一致」を作り出そう。作り出せるようにしようというのが一般理論である。
ここの議論は、ケインズが構想する社会の一端が垣間見える。限界効率ゼロ、利子率ゼロ、貯蓄は資本損耗分や人口増加分を補う程度という「定常的な経済」である。この場合経済成長率は人口増分+αとなる。この構想は次のような論述で明らかにされる。
ケインズ型社会主義の構想
ケインズは大恐慌の勃発、経済変動の大転換点で社会主義を展望する。これは弁証法的唯物論だ。
完全雇用状態にあって、資本の限界効率に等しい利子率で社会が貯蓄を行い、その貯蓄量に見合った率で〔資本〕蓄積が進むと、それに応じて資本の限界効率はしだいに低下していく。このとき、理由は何にせよ、もし利子率が資本の限界効率と歩調をそろえて低下することができないとしたら、その場合には富を保有しようとする欲求を経済的収益を全く生まない資産に振り向けるだけでも、経済的厚生は増進するだろう。大富豪が、この世の住処として豪壮な邸宅を構え、死後の安息所としてピラミッドを建設するといったことに満足を見出したり、あるいはまた生前の罪滅ぼしのために大聖堂を造営したり修道院や海外布教団に寄進したりするならば、そのかぎりで、豊富な資本が豊富な生産物と齟齬を来す日が来るのを先延ばしできるかもしれない。貯蓄を用いて「地中に穴を掘ること」にお金を費やすなら、雇用を増加させるばかりか、有用な財・サーヴィスからなる実質国民分配分をも増加させるであろう。だが、ひとたび有効需要を左右する要因をわがものとした日には、分別ある社会が場当たり的でしばしば浪費的でさえあるこのような緩和策に甘んじて依存し続ける理由はない。
資本の限界効率<利子率となっているので、経済的利益を生むような投資は発生しえない。だから貯蓄の対応物として「地中に穴を掘ること」でも有用となるのである。問題は貯蓄―投資バランスなのである。もちろん「分別のある社会」では地中に穴を掘ることに満足しなければならない訳ではない。現代日本では山脈の真下に長~い穴を掘る工事が進んでいるようだが・・・
最後にケインズ型社会主義経済が構想される。
さまざまな手段を講じることにより、利子率を完全雇用に対応する投資率に見合うようにすることが可能だとしよう。さらに、国家が平衡化要因として介入し、資本装備を飽和点に近づけるよう増加させるが、その率は現世代の生活水準に不相応の負担をかけるようなものではないとしよう。
貯蓄ができないほど貧困化した社会では国債を原資とした国家による投資は「貯蓄の対応物」ではないから「不相応の負担」となる場合があり得る。もちろん今は違う。
このような想定にもとづけば、現代的な技術資源を装備し人口増加が急ではない適切に運営されている社会なら、一世代のうちに資本の限界効率をゼロにまで低下させることができるはずである。そして、われわれは準定常的な社会に立ち至るであろう。そこでは、変化と進歩は技術、嗜好、人口、制度の変化だけによって起こり、資本の生産物は、資本費用がわずかしか含まれていない消費財価格を支配するのと同じ原理により、生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される。*1
資本の限界効率がゼロとなるほど資本財を潤沢ならしめるのは比較的たやすいという私の想定が正しければ、それ〔を実行に移すの〕は資本主義の好ましからざる特徴の多くを少しずつ取り除いていくための最も思慮ある行き方だと言えるかもしれない。というのも、蓄積された富の収穫率が徐々に消滅していくことで社会にいかに大きな社会変革がもたらされるか、少し考えてみれば明らかだからである。人は相変わらず稼いだ所得を後日それを使うために自由に蓄積することができる。しかし彼の蓄積は増えることはない(*筆者注 金利が付かない、ということを言っている)。彼の立場はポープの父親と似通ったものであって、この父親は事業から身を引くと、ギニー金貨のいっばい詰まった箱を携えてトゥーケナムの別荘に隠棲し、生活用の出費はそのつど箱のお金で充てたのだった。
金利生活者は絶えていなくなるであろうが、意見が分かれることもありうる期待収益を予想する企業活動や技量には、なお存在の余地があるだろう。というのは、上述した事柄は主として危険その他への手当を除外した純粋利子率に関わるものであって、危険報酬を含む資産の粗収益に関するものではないからである。かくして、純利子率が負の値にとどまるのでないかぎり、期待収益が不確かな個々の資産に対する熟達した投資にはやはり正の収益が帰属するだろう。もし危険を引き受けることに多少なりとも抵抗があるとしたら、このような資産を全体としてみた場合には、そこからある期間にわたって〔危険報酬を加味した〕正の純収益が得られることもあろう。しかし同じ状況の下で、不確かな投資から収益を得ようといくら頑張ってみても、総体としては負の純収益しか得られないこともありえないわけではない。
蛇足:「アレキサンダー・ポープ」で検索のこと。ポープの父は財を成し隠居してからこのような生活を送ったらしい。ポープはケインズが好きそうな詩人である。シェークスピアからの引用が非常に多いマルクスと違ってケインズにはシェークスピアからの引用はない(と思う)。ケインズは上品な貴族趣味であったのだろう。リンク先にはポープの名言集があるが、ケインズが好きな理由が分かる。
*1:「資本の生産物は、資本費用がわずかしか含まれていない消費財価格を支配するのと同じ原理により、生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される。」とはどういうことか?
資本の生産物には資本財と消費財が含まれる。ここでは消費財にはあまり資本費用が含まれていないという前提になっている。消費財生産が高度化され巨大な資本投資が必要になる前の話である。それにしても資本財生産の方がはるかに資本費用は含まれているはずである。資本費用は減価償却費用と金融費用が含まれるが、金融費用は利子率がゼロに近いのだからゼロに近い。資本財の販売価格は、その資本財が希少性を持っている限りプレミアがつくが、前提により資本の希少性は解消されているのでこれもプレミアはつかない。となると「生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される」ことになる。
金利も資本の限界効率もゼロの社会、生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される社会。これは搾取(ケインズが想定しているのは金利生活者によるもの)が廃絶された社会主義ではなかろうか?この裏にはこの章の冒頭で展開される希少性理論がある。資本が収益を生むのはそれが希少性を有しているからだ、という展開があって初めて上記展開が成り立つ。現代、資本の限界効率はゼロとなり、利子率もゼロなんだが、我々はどこで間違えたのだろうか?
準定常化社会で金儲けにいそしむ人々
資本の限界効率が原理的にゼロとなった現代(ケインズの言う完全投資の状態)において、SDGSだ、脱炭素だ、リニアだ、5Gだと言って利益を生み出そうと努力しているようだが、社会の「富」は労働によって生み出される。それこそ彼らが最も嫌う「規制」によって、あるいは最も好む「効率化」によって、生み出される富などありはしない。ところが成長のない社会では誰かの特は誰かの損というゼロサムの関係が成り立ってしまう。「SDGS」には貧困や格差を放置しておくと社会は安定性を失う、反貧困・反格差にこそ社会の持続可能性がある、という理念があるが、日本ではそれが抜け落ちて循環型社会のことになってしまっている。だから巨大企業も看板に掲げられるようになっているのだ。
気候変動⇒脱炭素はさらに始末が悪い。排出権取引市場や炭素税など考えていることがみえみえだ。ありもしない危機を煽りそれを市場化するなど呪術師と変わらない。呪術師は文化を遺すがそれすらないのである。ゼロサム社会では「財産は窃盗の結果である」という古典的命題が成立する。数兆円の再エネ賦課金は誰の懐に入っているのか?
もちろん道徳を説いても始まらない。こんなことでしか利益を産み出せなくなった社会をどう見るかという問題である。
第10章限界消費性向と乗数でこう書いた。
資本主義の非営利化
豊かになるほど、投資の機会が、特に営利を目指した投資の機会は減少する。その結果投資先を失った余剰資金が蓄積していく。資本主義のこの段階こそ資本主義が「社会化」するための前提条件である。非営利でなおかつ全ての人々の効用につながるような投資の機会は、いくらでも存在するが、この段階になって初めて人々はその原資を手に入れたのだから。ここから資本主義の非営利化という表現自体が矛盾するような課題が登場してくる。現代の様々な問題の根底にはこの「資本主義の非営利化」という課題が存在しているのである。
ケインズのおかげで現代資本主義はゼロ金利やマイナス金利にできる管理通貨制度という魔法の杖を手に入れた。おかげで延命はできたのだが、この非営利化という課題は徹底されない。だから格差や貧困は拡大し、世界秩序の危機・崩壊すら望見できるようになってしまった。全編を通じてケインズは金利生活者を無為徒食の徒として排撃している。ところが、我々の時代には金利(金融資産の運用益)生活者は賞賛の的である。無為徒食の徒であることにかわりはないが。
関連項目
再分配で重要なこと:お金の沼、金融資産の海に溺れる日本 2
2021年10月01日 | 週刊 日本経済を読む
2021年10月01日 | 週刊 日本経済を読む
さていよいよ、世上難解と言われている一般理論の中でも超難解と言われている「第17章利子と貨幣の本質的特性」である。心して掛ろう。