古典落語に登場する江戸の職人はだいたいが腕に自信と誇りを持った頑固者だろう。客がこしらえに注文などすれば「あっしにまかしてもらいましょう。なんか言っちゃいけないよ」▼その人は「職人にはなるな。技術者になれ」と教えられたそうだ。運動具メーカーのミズノで十五歳から引退するまでの六十年間、野球グラブ作りに携わったグラブ名人の坪田信義さんが亡くなった。八十九歳▼王貞治、イチロー、ピート・ローズ、松井秀喜…。坪田さんのグラブを使った日米の大選手の名を挙げれば切りがない。試合でエラーをした選手が「坪田さんのグラブを使いながら申し訳ない」と謝ったという伝説も残る▼頑固で気位の高い職人ではなく、目指した技術者とは「選手が言ったことを忠実に再現する」人。その道は険しかっただろう。選手とどんなグラブが欲しいのかを徹底的に話し合い、試作し、また話し合う。選手が気に入らなければ、何度も何度も作り直す▼選手のちょっとした言葉や守備中のしぐさからもグラブの好みを探り、ひとつひとつ魂を込めて作り上げる。イチロー選手のグラブを作るときは、その名プレー写真を目の前に貼っていたという▼選手にひどく叱られた若き日もあったそうだ。悔しかったが、落ち込まず、どうすべきかを考えた。名人の姿勢がこの春、入社の悩める若者たちにも伝わればよい。