13日(日)午後、ひつじさん家の3男、義兄3号さん一家と田舎村に向かった。娘と孫二人の4人である。犠牲祭前で道路混雑が心配されたが、ネブシェヒール市から田舎村まで約150km、いつもの通りガラガラであった。流石にアンカラとカイセリを結ぶ国道では若干走っていたが、それでも4台が信号待ちしている程度であった。快晴、晩秋を思わせる気温と絶好のドライブ日和。平均時速90km~100kmで走っていると「爽快」という言葉以外浮かんで来ない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/7f/d500825ddeb6345e1bc1c2dd4056e532.jpg)
(田舎村に繋がる道路。将に一望千里である。この写真は、16日12時頃撮ったものであるが、かくのごとくすれ違う車も稀である)
途中休憩があったが2時間ほどで田舎村に到着した。7年前この村に10日間ほど滞在したが、その時より村が明るく感じられた。しかし、みなさんに尋ねても「何も変わってないよ」との返事。廃屋が取り払われスッキリしたのか、家の壁がきれいに塗り替えられたのか原因は分からないが私にはやはり明るく見えた。 当日は、小麦畑で、長兄たちが農作業をなさっているというので見物に行った。8haの畑は流石に広い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/12/e19c9483ca009495cf8ba3a68a635c9b.jpg)
(緑の畑は甜菜大根であり茶色の部分が小麦畑である)
夜は、この村から約30km離れた隣町の次兄さんのお宅で泊めていただいた。13日~15日までの3泊お世話になった。前回は、田舎村のオダ(客室兼応接室)で泊まったが、今回は泊まる人が多かったことと私の年齢に配慮して下さったものである。隣町までは、車で約20分。人口約2万人の町である。
翌14日は昼過ぎに田舎村に行く。義兄3号さんが「ダムを見に行こう」と誘って下さり、お隣のおじさんと3人で出かけた。途中、甜菜の収穫の為か季節労働者のテントが幾張りかあった。初めて羊の放牧も見た。義兄3号さんの話では、ひつじさん家でも昔は100頭ほどの羊がおり、その「羊たちを連れて先ほどの写真の畑辺りまで行ってたよ」とのことであった。ほんの30年程前のことだ。そういえば、田舎村も15年ほど前までは人口7000人の村であったが、現在は700人の超過疎の村になっているとか。打ち捨てられて日干し煉瓦の壁が崩れてしまった廃屋が目立つ。この辺の家屋は、粘土質の土に小麦の藁を細かく刻んで、水でよく練って型に入れ日光で乾燥させた煉瓦(日干し煉瓦)を積み上げ壁を作り、その上に垂木を渡し、更に板を載せて、その上に先程の練った土を分厚く塗って乾燥させたものである。これは、ヒッタイト時代からの建築方法だそうだが、雨の少ないこの地方ならではである。
(夜の隣町、中心街。「犠牲祭」の為か人通りも少ない。)
だから、人が住まなくなって手入れが行き届かないと直ぐに屋根がやられ、そこから入る水によって壁がやられて崩落するわけである。勿論、最近建てられる家はコンクリートブロックを使用していると思うが。そういえば日本の家の土壁も泥に藁の刻んだものを混ぜて練り、竹を編んで作った土台に塗りつけて作っていたことを思い出す。
ダムは、乾季が終わったばかりとあって渇水状態であった。帰宅後、後ろにある丘に登る。前回来た時もそうであったが、この丘に上がると360度遮るもののない風景に感嘆する。360度遮るものがない風景は、日本では経験できない。吹く風を頬に感じるだけで音もない。静寂の底に沈んでいるようである。茫々たる広がりの中に呑み込まれそうな村がある。ミナレットを持つ一回り大きいジャーミイを囲むように家々が寄り添っている。ここに立って見回していると飽きることがない。しかし、乾季が終わりに近づくと昼と夜の温度差が10度以上あるのが普通であり、日暮れになると温度は急激に下がる。昼の温かさを体が忘れないうちに外気温が下がってしまう感じで体がついていけない。おかげで日本でも滅多にひかない風邪をひいてしまい、9月26日頃から10月5日頃までの10日間ほどを浪費してしまった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/b3/1717a5a0c95448236b31fc954bde8aec.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/d4/3909a72a9558db32437997f8e9a4cccb.jpg)
喉と鼻の奥が痛く夜になると寒気がして体がだるいという症状で、ついに10月初め医者にかかった。抗生物質と喉の炎症を抑える薬、熱さましを処方して貰い、更に原因が「寒さ」だと気付き厚着をし始めてからは症状は改善した。10月10日前後には平常に戻り、犠牲祭への参加も無事果たせたしだいである。そういうわけで、早々に丘からも帰った。犠牲祭の行事は早朝から始まるということで14日は夕食後直ぐに隣町に帰った。
続く♪
本日もお付き合いいただいて
ありがとうございます!
左の「トルコ情報」から
ぽちっと応援、よろしくお願いしまっす♪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/7f/d500825ddeb6345e1bc1c2dd4056e532.jpg)
(田舎村に繋がる道路。将に一望千里である。この写真は、16日12時頃撮ったものであるが、かくのごとくすれ違う車も稀である)
途中休憩があったが2時間ほどで田舎村に到着した。7年前この村に10日間ほど滞在したが、その時より村が明るく感じられた。しかし、みなさんに尋ねても「何も変わってないよ」との返事。廃屋が取り払われスッキリしたのか、家の壁がきれいに塗り替えられたのか原因は分からないが私にはやはり明るく見えた。 当日は、小麦畑で、長兄たちが農作業をなさっているというので見物に行った。8haの畑は流石に広い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/12/e19c9483ca009495cf8ba3a68a635c9b.jpg)
(緑の畑は甜菜大根であり茶色の部分が小麦畑である)
夜は、この村から約30km離れた隣町の次兄さんのお宅で泊めていただいた。13日~15日までの3泊お世話になった。前回は、田舎村のオダ(客室兼応接室)で泊まったが、今回は泊まる人が多かったことと私の年齢に配慮して下さったものである。隣町までは、車で約20分。人口約2万人の町である。
翌14日は昼過ぎに田舎村に行く。義兄3号さんが「ダムを見に行こう」と誘って下さり、お隣のおじさんと3人で出かけた。途中、甜菜の収穫の為か季節労働者のテントが幾張りかあった。初めて羊の放牧も見た。義兄3号さんの話では、ひつじさん家でも昔は100頭ほどの羊がおり、その「羊たちを連れて先ほどの写真の畑辺りまで行ってたよ」とのことであった。ほんの30年程前のことだ。そういえば、田舎村も15年ほど前までは人口7000人の村であったが、現在は700人の超過疎の村になっているとか。打ち捨てられて日干し煉瓦の壁が崩れてしまった廃屋が目立つ。この辺の家屋は、粘土質の土に小麦の藁を細かく刻んで、水でよく練って型に入れ日光で乾燥させた煉瓦(日干し煉瓦)を積み上げ壁を作り、その上に垂木を渡し、更に板を載せて、その上に先程の練った土を分厚く塗って乾燥させたものである。これは、ヒッタイト時代からの建築方法だそうだが、雨の少ないこの地方ならではである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/cb/bd0d47ce0e492d38f54ce827032a71b8.jpg)
(夜の隣町、中心街。「犠牲祭」の為か人通りも少ない。)
だから、人が住まなくなって手入れが行き届かないと直ぐに屋根がやられ、そこから入る水によって壁がやられて崩落するわけである。勿論、最近建てられる家はコンクリートブロックを使用していると思うが。そういえば日本の家の土壁も泥に藁の刻んだものを混ぜて練り、竹を編んで作った土台に塗りつけて作っていたことを思い出す。
ダムは、乾季が終わったばかりとあって渇水状態であった。帰宅後、後ろにある丘に登る。前回来た時もそうであったが、この丘に上がると360度遮るもののない風景に感嘆する。360度遮るものがない風景は、日本では経験できない。吹く風を頬に感じるだけで音もない。静寂の底に沈んでいるようである。茫々たる広がりの中に呑み込まれそうな村がある。ミナレットを持つ一回り大きいジャーミイを囲むように家々が寄り添っている。ここに立って見回していると飽きることがない。しかし、乾季が終わりに近づくと昼と夜の温度差が10度以上あるのが普通であり、日暮れになると温度は急激に下がる。昼の温かさを体が忘れないうちに外気温が下がってしまう感じで体がついていけない。おかげで日本でも滅多にひかない風邪をひいてしまい、9月26日頃から10月5日頃までの10日間ほどを浪費してしまった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/b3/1717a5a0c95448236b31fc954bde8aec.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/d4/3909a72a9558db32437997f8e9a4cccb.jpg)
喉と鼻の奥が痛く夜になると寒気がして体がだるいという症状で、ついに10月初め医者にかかった。抗生物質と喉の炎症を抑える薬、熱さましを処方して貰い、更に原因が「寒さ」だと気付き厚着をし始めてからは症状は改善した。10月10日前後には平常に戻り、犠牲祭への参加も無事果たせたしだいである。そういうわけで、早々に丘からも帰った。犠牲祭の行事は早朝から始まるということで14日は夕食後直ぐに隣町に帰った。
続く♪
本日もお付き合いいただいて
ありがとうございます!
左の「トルコ情報」から
ぽちっと応援、よろしくお願いしまっす♪