Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

正月飾りの今

2019-01-03 23:36:19 | 民俗学

売られている正月飾りから 後編より

 

 では実際の正月飾りの今はどうか、最後の通信を郵便局に投函しようと北へ向かった今日、世の中の様子をうかがってみた。

 ある旧三州街道(伊那街道)沿いの家々の様子を車を走らせながら見てみた。意外だったのは、いわゆる既製の飾り物である①の写真のようなものがとても多い。今は種類が多いので、それぞれが好みで購入すれば、その形や大きさは多様なのだが、見事にこうした既製の飾りが玄関先に掲げられている。もちろん地域によって異なるだろうが、この街道筋での現状は、90パーセント以上がこうした飾りを掲げている。そして、このあたりでの飾りの一般的な形である③の写真のタイプのものは、本当に目にしなくなった。③の写真のものも小ぶりな飾りであるが、飾り付けられているものは、かなり我が家のものに近い(とはいえ、我が家の飾りは近年省略形になってしまって、ここでは紹介できないが)。両端に杭棒を立て、杭棒には松と竹とナンテンを結わえ、杭棒の間に注連縄を張る。そしてオヤスも付けられる。こうした杭棒を立て、注連縄を張るタイプのものもけして稀というわけではないが、これほど少なくなってしまったとは思いもよらなかった。③の場合、杭棒は使い古したものを利用しているが、かつては毎年新しいものを立て、松を降ろすと、杭棒はハザ杭として利用されたもの。今はハザ杭が必要なくなったから、毎年使いまわしている家が多い。このタイプのものでは、竹が立てられない、あるいはナンテンがつかない、オヤスがつかない、など家々によって異なるが、杭棒を立て、注連縄を張って松を立てるという基本形はこのあたりの正月飾りである。

 写真②は、昨日も触れたリース系のものである。やはり玄関先にこうしたものが掲げられている例を見る。山間の駒ヶ根市中沢あたりでも、リース系の飾りを玄関先に掲げている家があった。けして珍しくないようだ。

 

①飯島町七久保

 

②飯島町南町

 

③飯島町七久保

 

 さて、飯島町の町の中には、統一して④の写真のような飾りが街路に立てられていた。こうしたものを我が家でも建物の戸口ごと掲げたと記憶する。門前の松飾りとは別の飾りの基本的スタイルだった。

 また、かつては⑤の写真のように、路傍の石仏などにもオヤスを伴った飾りがこうして供えられたものだが、今は稀に見る程度。

 たまたまある三州街道沿いの集落は冒頭のような状況だったが、同じ三州街道沿いの、我が家の近くの集落をうかがうと、既製の飾りの方がやや少ないくらい、このあたりに伝わる昔ながらの飾りをしている家が多かった。たとえば隣の様子をうかがう、というのも田舎らしいことで、周囲が既製のものに変わると、一気に変化を起こすのかもしれない。いずれにしても年寄りがいなくなると、世代を超えて継承される可能性は低くなる。

 

④飯島町南仲町

 

⑤飯島町七久保

 

追記

 そもそも正月飾りそのものをしない家が相当数ある。すべて「喪中」とは考えられない。

 

 

 

 


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