この日記を始めてから地元の御柱祭は2度目になる。ちなみにここに暮らし始めてからは4度目を数える。紐解くと御柱祭のことは日記ではあまり触れていない。「御柱」といえば、むしろ道祖神の御柱のことをたびたび記録してきた。大掛かりな祭りであることは言うまでもないが、こと「御柱」ともなると、地域の衰退は嘘のように活気がわく。下伊那地域でも数多い御柱が開催されるようで、飯田のマチ周辺でもいくつもの御柱祭が行われる。そしてその中心的存在は「飯田のお練り」になるのだろうが、こちらは柱建てを伴わない。だから「御柱祭」ではない。丘の上の周囲でいくつもの御柱祭がおこなわれることもあって、丘の上へ向かう道沿いで「御柱祭」を知らせる告知板がいくつも目に入る。前回の御柱祭では『伊那』(伊那史学会)が特集を組んでいて、「平成22年度庚寅 御柱祭実施神社一覧」(2010年3月号)によると、34箇所の御柱祭が報告されている。
さて、今日はそんな御柱の曳き縄造りだった。地元の御柱についてこれまで一度も触れなかったわけではない。「ソヨゴとり」で前回の御柱祭の際のマチ飾りの準備について記した。今回は3月27日に予定されている。何といっても前回は里曳き当日妻と息子は引越しだったこともあって、御柱祭の雰囲気はまったくなかった。このところ御柱祭のたびに会計検査が入る。今年も同じ巡り合わせのよう。その時引っ越していった息子が、今年は自宅に帰ってくるというのだから、御柱祭の年が節目のまわりになっている。
小野の御柱祭は本家の御柱祭に次ぐ知られた御柱祭であるが、伊那谷ではそれに次ぐ規模の御柱祭として知られているのが御射山神社御柱祭である。江戸時代の片桐郷七ヶ村といわれる地域で祀られている神社で、現在は氏子ではなく崇敬者という関係でこの御柱祭に集う。御射山神社のある松川町上片桐城は、その名の通り、中世の山城があったところでこの地域を治めた片桐氏の居城があった。天正10年の織田軍の伊那侵攻によって片桐氏は没落したが、その後に信仰が展開していったようで、とりわけ神官だった林摂津という人物によって布教されたところが大きいという。七ヶ村とは片桐町・上片桐(以上松川町)・七久保(飯島町)・田島・前沢・小平・葛島(以上中川村)を言う。御射山神社の宮元になるのは上片桐にあたるが、現在は片桐町も上片桐も同じ上片桐と称しており、片桐町の存在については少し歴史から紐解かなければならないだろう。住み始めた時から不思議に思っていたのは、この曳き縄造りは片桐町の人々によって行われる。それも地元の柱のために行なうだけではなく、この御柱祭に柱建てを行なうほかの地域の柱の曳き綱造りも担うのである。一説にはよその曳き綱を造るから上片桐が一の柱を曳ける、とも言われるが後付けされた理由だろう。そもそも毎回一の柱は上片桐と決まっていて、ほかの柱は太さによって決まるようだが、四の柱は七久保が曳くことが多い。本家の諏訪のようにどの柱を曳くかを籤引きによって決められるのとは異なるのだ。ご多分に漏れず、この地域でも人口減少によって人手不足が囁かれるようになっている。したがって曳き綱造りを片桐町だけで行うのがいつまで続けられるか、今のところまだまだ大丈夫のようだが、そんな声が上がっても不思議ではない(どこぞの方が「4本の御柱がすべて通るというご利益があるので、そのくらいしなければいけません」と片桐町が綱を造ることは「当たり前だ」みたに書いているが、これは大きな間違いで、確かに片桐町境から曳かれるが、ほんの一部、主たる曳行ルートは清泉地、城といった地域内を曳かれている)。
最初に御柱祭を経験した平成10年には、稲わらを叩くところから始めた曳き綱造りだったが、その後荒縄を使うようになって作業は楽になった。今回は準備も整えられていて、すぐに荒縄から依じる作業に入って、午前中には4本の綱はほぼ完成形となった。担当する綱もほぼ毎回同じ班分けが行われるのか、毎回同じ綱を担っているように思う。一の柱は上町自治会1から7組、二の柱は中荒町自治会1から6組と町谷自治会7組、三の柱は上町自治会8から11組と中荒町自治会7から9組、四の柱は町谷自治会1から6組だった。わたしはいつも三の柱のあたりで作業をしているから毎回三の柱の綱を造っているのだろう、今まであまり意識していなかった。ちなみに曳き綱を造るのは「申か寅の日」なのだと前掲の『伊那』に記されていたが、今日は友引ではあったが「己」の日だった。
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