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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

御柱祭曳き綱造り・中編

2016-02-28 23:33:12 | 歴史から学ぶ

御柱祭曳き綱造り・前編より

御射山神社に奉納された曳き綱

 

 御射山神社については社伝によると、建暦元年(1211)船山城主だった片桐小八郎為安が大和国三輪より大巳貴命(おおなむちのみこと)を遷座したと言われ、後に建御名方命、事代主命を勧請したと言われている。享保7年(1722)11月、社殿の修築を行い、その際に祭典を執行したと言われ、その際に諏訪神社に倣って御柱祭を行なうようになったという(ちなみに近在では「飯田のお練り」が大規模な7年目ごとの祭りで知られるが、飯田のお練りがこの7年目ごとに諏訪の御柱に倣って行われるようになったのは、享保19年のことと言われており、御射山神社御柱より2度あとのことである)。数えて294年、御柱祭50回目を迎えるというわけだ。曳き綱造りを申か寅の日に行なう、とは『上片桐村誌』(上片桐村誌編纂委員会 昭和40年)に書かれていることで、同書では御柱祭の執行日についても「申年は申の日に、寅年は寅の日」を選んでいたようだ。もちろん今は休日にあてるから、たとえば今年はたまたま「寅」の日にあたるが、前回は「未」の日だった。

 前編において「片桐町の存在については少し歴史から紐解かなければならないだろう」と書いた。伊那谷の主街道は、かつては天竜川に近いところに設置されていた。しかし京極高知が飯田城主だった時代に、飯田から飯島までの間は山裾に近いところに移されており、文禄2年(1593)に完成したと言われる。その際に伝馬町が設けられ片桐宿として始まったのである。寛文12年(1672)から延宝5年(1677)までの6年間、片桐陣屋に代官所が置かれたが、その後は飯島に代官所は移され、明治維新まで続いた。かつて片桐郷、あるいは片桐村と言われた地域は、昭和の合併で登場した中川村の一旧村である片桐村とは異なり、もっと広範なものであった。そのうちのひとつの村であった片桐町は、現在の松川町上片桐町谷・中荒町・上町といった集落を指していた。現在も「片桐三」という呼び方がたびたび口にされる。位置的には宮元は「城」(じょう)であるものの、片桐郷の触元として片桐町が事実上の宮元とされたわけである。こうしたことから旧片桐町の人々が御柱祭の中心的地位を占めてきたようだ。前掲書には献木する柱の見立ても宮元が行ったと記されている。そして「御柱曳きの大綱縄四本は、片桐町中の氏子が総出でその年の干支(申・寅)にちなんだ日に作製することになっている」と記されている。また、「一般の氏子は抽籤で定められた柱を…」とあり、かつては抽籤で柱が決められていた節もあるが、真偽は定かではない。曳き綱を作製するのが片桐町の人々であるということは、崇敬者の人々の中でも意外に知られていない。人口規模で御射山神社崇敬者エリアには1万人近くを数えるのだろうが、片桐三の戸数は200戸足らずである。

 さて前編でも現在は既製の荒縄を利用するようになったと述べた。20本ずつ束にしたもの3本を依っていくが、芯にはワイヤー3本が依り込まれる。開催ごとに長さを2寸ずつ伸ばしているという御柱は、今回5間5尺8寸。もちろん一の柱を曳く上片桐の柱が最も太いわけで、胴回りは3メートルを遥かに越えるもの。ちなみに山出しは3月20日に行われるが、地元である上片桐はまさに山出しになるが、ほかの3地区はこの日が地元を曳く、いわゆる本当の意味での里曳きにあたる。

続く

 


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