昨日、久しぶりに仕事で飯山市を訪れた。飯山市蓮の水田地帯のなかに、ススキが刈り取られ固められている姿をみた。これは、小正月の火祭りのために集められたススキだという。小正月までにはまだずいぶんあるが、今のうちにススキを刈り取っておくのだという。そこから少し北へ進むと、千曲川の河川敷内に、すでに火祭りのためのやぐらが作られて、いつでも火祭りが行われる段階まで準備が終わっていた。
同行した木島平の同僚によると、この火祭りのことをドウソジン祭りというらしい。『長野県史』民俗編より火祭りの呼び名をみてみると、中野市と木島平村境にある高社山から北の、岳北といわれる地域では、ドーログシン、あるいは一般的によくいわれるドンドヤキと呼ばれていると記載されている。木島平もこの岳北地域にあたるが、有名な野沢温泉の祭りもドウソジン祭りといわれることから、必ずしも長野県史の呼び名が一般的ではないようである。
飯山市街近くの千曲川河川敷に作られたやぐらは、ススキなどで固められて円錐状に作られている。対岸の飯山市木島の河川敷内にも親と子の二つのやぐらが作られていた。すでに完全な形に作られているということは、他の地域と異なり、正月の松を火祭りに利用しないということになる。小正月に行われる火祭りのほとんどは、正月飾りを下ろす正月明けに飾りを集め、小正月前にこの松を主に使ってやぐらを作るのが一般的である。松飾りだけでは少ないところでは、共有山から松に限らずひのきなどの葉も集めてやぐらをこしらえるところもある。飯山でみるようなススキなど、秋に刈り取られた野のものでやぐらが作られるところは少ないだろう。木島平の同僚の話では、雪が多いため、飾りでは燃えないという。乾ききって火が点火しやすいススキなどを利用するのは必然的なものともいう。飯山市蓮ではまだやぐらの形にされていなかったが、すぐわきに焼け焦げた棒が何本も寝かされていた。昨年使われたやぐらの燃え残りのようで、芯柱は新調されるが、前年の燃え残りを横木などに利用するのだという。同僚の木島平では、横木も含めてすべて新調するという。ススキを刈り取る場所は、地域によって毎年だいたい決められた場所があるようで、同僚は千曲川の支流である樽川河川敷に毎年取りに行くといい、すでに今年は刈り取ったという。こんなに早い時期に、火祭りのやぐらの完成品を見るとは思わなかったが、20年以上前、この飯山に住んでいたときには、気にも留めなかったことである。松飾りはどう処理するのか、はたまた飾りはしないのか、そのへんを確認しなかったが、豪雪地帯らしいドウソジン祭りの準備の姿である。
ところで、この地域でのドウソジン祭りの特徴に木の人形を作って祀る風習がある。飯山市の北にある栄村の箕作のドウロクジン祭りでも、雪の洞が作られ、その中に木の道祖神像が祀られる。この箕作では、1月15日の未明から始まる道陸神祭りで、15歳以下の男の子達によって勧進が行なわれる。「ドウロクジンノカンジンヨーイ」と大声を上げて村中をまわり、午前4時ごろになると、小さな男の子も加わり、手にハチンジョウのシデをはさんだオンベを持ちながら各戸をまわるのである。そして、この1年に嫁をもらった家では、このオンベで嫁の背中を子どもたちがつつくのである。写真はその祭りのもので、15年ほど前に撮影したものである。現在も当時のように、15歳以下の男の子だけで行なわれているのか、そのへんはわからないが、子どもたちの減少とともに、男の子だけでの行事も難しくなっているのではないか。
補足
木島平の同僚に再度聞いたことを補足します。
やぐらには空洞があって、そこに集めた松飾を詰めるという。昔はその空洞に子どもたちが入って番をした。それは、ほかの地区の子どもたちに火をつけられないようにしたもので、火の付け合いのようなことをしたという。この火の付け合いというのは、長野県内のほかの地域でも行なわれたもので、このやぐらの中で寝泊りをして番をしたという話もある。
このあたりでは松飾といってもそれほど大きなものではないので、飾りを集めてもそれほどの量でないようだ。だから、今はやぐらの空洞に燃えやすい豆がらなどを詰めて空洞を残すということはしないようで、集めた松はまわりに挿し込む程度だという。
同行した木島平の同僚によると、この火祭りのことをドウソジン祭りというらしい。『長野県史』民俗編より火祭りの呼び名をみてみると、中野市と木島平村境にある高社山から北の、岳北といわれる地域では、ドーログシン、あるいは一般的によくいわれるドンドヤキと呼ばれていると記載されている。木島平もこの岳北地域にあたるが、有名な野沢温泉の祭りもドウソジン祭りといわれることから、必ずしも長野県史の呼び名が一般的ではないようである。
飯山市街近くの千曲川河川敷に作られたやぐらは、ススキなどで固められて円錐状に作られている。対岸の飯山市木島の河川敷内にも親と子の二つのやぐらが作られていた。すでに完全な形に作られているということは、他の地域と異なり、正月の松を火祭りに利用しないということになる。小正月に行われる火祭りのほとんどは、正月飾りを下ろす正月明けに飾りを集め、小正月前にこの松を主に使ってやぐらを作るのが一般的である。松飾りだけでは少ないところでは、共有山から松に限らずひのきなどの葉も集めてやぐらをこしらえるところもある。飯山でみるようなススキなど、秋に刈り取られた野のものでやぐらが作られるところは少ないだろう。木島平の同僚の話では、雪が多いため、飾りでは燃えないという。乾ききって火が点火しやすいススキなどを利用するのは必然的なものともいう。飯山市蓮ではまだやぐらの形にされていなかったが、すぐわきに焼け焦げた棒が何本も寝かされていた。昨年使われたやぐらの燃え残りのようで、芯柱は新調されるが、前年の燃え残りを横木などに利用するのだという。同僚の木島平では、横木も含めてすべて新調するという。ススキを刈り取る場所は、地域によって毎年だいたい決められた場所があるようで、同僚は千曲川の支流である樽川河川敷に毎年取りに行くといい、すでに今年は刈り取ったという。こんなに早い時期に、火祭りのやぐらの完成品を見るとは思わなかったが、20年以上前、この飯山に住んでいたときには、気にも留めなかったことである。松飾りはどう処理するのか、はたまた飾りはしないのか、そのへんを確認しなかったが、豪雪地帯らしいドウソジン祭りの準備の姿である。
ところで、この地域でのドウソジン祭りの特徴に木の人形を作って祀る風習がある。飯山市の北にある栄村の箕作のドウロクジン祭りでも、雪の洞が作られ、その中に木の道祖神像が祀られる。この箕作では、1月15日の未明から始まる道陸神祭りで、15歳以下の男の子達によって勧進が行なわれる。「ドウロクジンノカンジンヨーイ」と大声を上げて村中をまわり、午前4時ごろになると、小さな男の子も加わり、手にハチンジョウのシデをはさんだオンベを持ちながら各戸をまわるのである。そして、この1年に嫁をもらった家では、このオンベで嫁の背中を子どもたちがつつくのである。写真はその祭りのもので、15年ほど前に撮影したものである。現在も当時のように、15歳以下の男の子だけで行なわれているのか、そのへんはわからないが、子どもたちの減少とともに、男の子だけでの行事も難しくなっているのではないか。
補足
木島平の同僚に再度聞いたことを補足します。
やぐらには空洞があって、そこに集めた松飾を詰めるという。昔はその空洞に子どもたちが入って番をした。それは、ほかの地区の子どもたちに火をつけられないようにしたもので、火の付け合いのようなことをしたという。この火の付け合いというのは、長野県内のほかの地域でも行なわれたもので、このやぐらの中で寝泊りをして番をしたという話もある。
このあたりでは松飾といってもそれほど大きなものではないので、飾りを集めてもそれほどの量でないようだ。だから、今はやぐらの空洞に燃えやすい豆がらなどを詰めて空洞を残すということはしないようで、集めた松はまわりに挿し込む程度だという。
実家は飯山の大規模店舗の対岸にあるのですが、「どうろくじん」と呼んでいました。早朝 村の中を掛声かけて練り歩いた記憶がありますが どんな掛声かは忘れてしまいました。その風習も1960年前後にはもう既に衰退していました。もともと子供の喧嘩祭りに近い状態でした。今風に言えば 真冬のワイルドでエネルギッシュでアクティブなイベントでした。
80年代辺りから復活したと聞きますが、形だけの様な気がします。今の親は子供に昔のような祭りを許さないでしょう。
木島平の同僚に聞いた話を補足しました。