「描かれた図から見えるもの㉚」より
昭和18年生まれ女性の遊びの空間(天竜川左岸)
最近調査の際に記していただいた遊びの空間を描いたもの。戦中生まれの女性に描いていただいたものである。10歳ころを思い出して描いていただいたもので、女性はお嫁に行かれたから現在ここには住まわれていない。かつての生家で暮らしておられたころを思い出して描いていただいた。
この図、上は南に当る。■が自宅であり、■だけA4縦の白紙の真ん中に記して描いてもらった。最初に描いたのは丸に「協」を書いたいわゆる農協である。現在も位置は少し移動したが、同じあたりに農協がある。その前の「村道」は、現在は県道になっていて、小学校もちょっと位置は異なるが、ほぼ同じあたりに現在もある。当時は同じところに中学校もあったというが、現在は統合されてここにはない。最初に農協を書いたということは、女性にとって農協の存在は象徴的な存在だったのだろう。自宅の位置を認識する際の目印でもある。その農協を自宅の右手にほぼ平行に描かれたわけだが、女性にとっては自宅と農協は、ほぼ水平軸にあったと認識されていた。実際は図を真南にすると自宅と農協は縦にずれているようで、女性にその件について問うと、女性には横並びだという印象があるようだ。南がなぜ「上」になったのか、この空間をもう少し周囲まで含めて捉えると、山は左手、ようは東側から南側にあり、村道を南へ進むと峠へと続く。ようは傾斜からみると、「上」から「下」へ図の通りの傾斜となるようだ。正確には東から西(左から右)へも傾斜している。ただし描かれた図の範囲だけで捉えると、自宅の上に川があるように、「小川」の部分が最も低いようだ。したがって小中学校のところから左に分岐して入ってくる道は、自宅に向かって下ってくるようだ。かつて遊んでいた空間だけ見ればけして上が「上」というわけではないのだが、村全体の空間イメージからすれば、上は「山」のある方角となり、やはり長野県のような山の中に暮らす人々の目印となるのは「山」であることを証明しているようだ。
自宅には「門」があったという女性の家の屋敷は広かったようで、子どもたちの遊び場にもなっていたという。缶けりを自宅でしたというから、そのあたりがうかがえる。そして自宅の上に描かれた「小川」は、遊びの中心になっていた。男の子も、女の子も、そして同い年だけではなく、子どもたちが何人も寄って遊んでいたといい、「4、5人で登って大騒ぎ」と記されているように、大勢で大騒ぎをして「本当に楽しかった」と感想を口にされた。聞いているわたしにも、その時代が、ずいぶん有意義で「楽しかった」と十二分に伝わった。もちろん「今にはない世界」などとはコメントしたくないが・・・。
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