Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小布施町「押切」

2016-10-09 23:45:42 | 歴史から学ぶ

 小布施町の押羽(おしは)というところに、「千曲川大洪水水位標」というものがある。実は千曲川流域にはこうした過去の洪水の水位を示した標柱があちこちにあるという。それだけ洪水の常習地域だったということになるだろう。以前にも触れた旧豊田村上今井の千曲川ショートカットなどは、明治初期の大工事だったわけだ。今では旧河川敷となっている地に千曲川の洪水が上がったのは、もしかしたらわたしが災害復旧に入った昭和58年の水害が最後なのかもしれない。

 前述の標柱がある小布施町の町史によると、上流の村々が嘆願書を出したのは明治3年だったという。それぞれの管轄藩県に提出されたといい、それによると現在の小布施町も管轄が入り組んでいた。矢島や押切、あるいは北岡・雁田といった地域は伊那県支配だったようだ。「半円形に湾曲している河身を、直流させるための新川を掘り開いてもらえるならば、総工費の六割を負担してもよい」というものだった。この嘆願書に上今井の人々は驚いたことだろう。田家の真ん中を断ち割って新川を切り拓くというのだから、反対運動が起こったのは言うまでもない。しかしこの大事業は断行され、明治5年4月に完成している。しかし完成後数年間は洪水をまぬがれたが、間もなく被害がひどくなったという。浚渫が行き届かず再び上流側に湛水したということなのだろう。

 さて、押羽にある水位標であるが、この水位は下流の立ヶ花の量水標を示したものという。最上部は寛保2年(1742)8月2日のもので、10.9メートルの高さに示されている。ついで明治29年(1896)7月20日のもので9.7メートルを示す。前述の千曲川の新川が造られた以降の水害にあたる。まだ堤防が未整備だった時代には、下流のショートカットだけでは解消できなかったということだ。大正時代に作成された『延徳村農業水利改良計画書』によると、立ヶ花の量水標が8尺にのぼれば、篠井川(小布施町の延徳田んぼの最北端にある川)はしだいに逆流し始め、13.4尺において最も甚だしく、16尺に至れば篠井川のみならず、千曲川沿岸の無堤地より外水が盛んに浸入するとされていた。明治時代には11尺以上の増水が25ヵ年で35回発生したと言われる。ちなみに、水位表の3番目に記してあるのは明治43年(1910)8月11日のもので8.3メートル、4番目は弘化4年(1847)3月24日のもので8.2メートル、5番目は明治30年(1897)9月7日のもので、7.6メートル、最下段のものが明治元年(1868)5月8日のもので7.3メートルを示している。

 水位標は南を向いており、向こう側に見える家々の北側に小さな段丘があって、その向こう側に水田がある。小布施町ではかつて水田であったところにも果樹がだいぶ植えられて稲穂の波はなかなか見えなくなってきているが、いわゆるその水田は延徳田んぼの延長上にある。明治時代の洪水によるものなのだろうが、この標柱から北東へ500メートルほど行ったところに上下諏訪神社がある。押羽の集落には、この上下諏訪神社のあたりに住んでいた人たちが移住している。同じように篠井川の傍に矢嶋往郷神社があるが、このあたりにも集落があったというが、現在小布施側のそこに家はない。このあたりに住んでいた人たちは、矢島に移住したという。ようは段丘上に集落はみな移転したのである。上下諏訪神社の入口に「上下諏訪神社」と刻まれた石柱が建っているが、その背面に「昭和九年十月 押切浅野境界 確立記念」と刻まれている。このあたりにあった集落は、押切(おしきり)と言ったようである。標柱の下に小さな五輪塔がいくつも並んでいる。この地がいったいどんなところだったのか、そのあたりまでは調べていない。

 


コメント    この記事についてブログを書く
« ハザ掛け2016⑧ | トップ | 湯福神社 「御柱祭行列」 前編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事