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富士見町の道祖神③

2020-01-30 23:31:21 | 民俗学

富士見町の道祖神②より

 北原昭氏が著した『諏訪の道祖神』(昭和46年 柳沢書苑)の富士見町本郷の項に次のように書かれている。

 八が岳山麓の境筋から山浦方面にかけての村々には、露像道祖神のほかに神社形式で造られた道祖神の石祠が並んでいる。道祖神石祠は、古い時代に造られたと思われる物は、切妻造り・寄棟造り・神明造りなどと簡単な造りだが、江戸時代の中期頃からは、流造りに唐破風や千鳥破風なとが彫られ、石祠の飾りの彫刻もなかなかこった物となってきている。
 村の大小によって、道祖神の祀ってある数にちがいがあるが、乙事と立沢はどこの辻へ行っても、必ず道祖神の石祠が祀られている。
 村が大きくなって来ると、村中で色々なことをやるのに能率良くいかない場合が多くなって来る。そこでその村では村中をいくつかの組に分け、分けた組ごとに仕事をするように変わって行くものだ。氏神様は村全体の神様として、道祖神はその組内の身近な守り神として造られ祀るようになった。
 乙事では最初大下組で、合掌している二神を浮彫りにして道祖神として祀った。これがこの村で一番古い道祖神で、元文4年(1739)のことである。この露像は仏教的色彩の強い物で、仏像といった感じの僧衣着用の僧形像だ。双体露像の初期と思われるのは大体僧形の物のようである。
 それから20年たった宝暦9年(1759)に、沢組で宮型の道祖神石祠を造り、祠内像として神主様風の着衣で、男神には笏女神には徳利を持たせた像を刻んで中へ入れ、辻に道祖神場を作って祀った。

 

富士見町乙事大下双体道祖神

 

 ここでいう乙事で最も古い道祖神が写真のものである。いかにも単純で、像としては面白みはないかもしれないが、双体像の当初のものは、このようなものだったと考えられる。この道祖神は中央自動車道の北側、乙事諏訪神社下社跡に祀られている。集落の南はずれにあたり、この地より以南は宮下と言われ、水田地帯が広がる。20年後の宝暦9年に建てられた石祠型道祖神が、富士見町の道祖神②で触れた沢の道祖神である。

 

 乙事諏訪神社下社跡の双体像の脇には、石祠型道祖神も祀られている。銘文はないが、前掲書では、享和3年に造立したと紹介されている。

続く


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