テルミンとJAZZ
テルミンやマトリョミンの話。私、こちろうこと相田康一郎のプロフィールは左メニューバーのCATEGORYを。
 



私が最初にテルミンを始めたときの先生はやの雪さんであった。やのさんの奏法では、指を使うのはあくまで補助的手段で、手(腕)全体を使うことを推奨していた。たしか、その理由は指先の動きに頼ると演奏がチマチマしてしまうので、右手では、むしろダイナミックな表現を行うべき、というような説明であったかと思う(このあたり、既に記憶があいまいで、かなり不正確な表現かもしれない)。
やのさんのレッスンを継続せず、1年弱の先生無し生活を経て竹内さんの教室に入ったが、教室に入る前にフレンズオブテルミン東京支部での練習会に参加し、竹内先生の直接指導を含め都合3回ほど竹内メソッドによる指導を受けた。私は比較的すんなりと現在の奏法に移行できた。(「移行できた」というより、最初の奏法ではそれほど弾きこんでもいなかったのだと思う。)
移行したときの感想は「こっちのほうが(技術的に)簡単だ」ということであった。また、最終的にはカラダに覚えこませなければならないことに変わりは無いが、より「覚えこませやすい」と感じた。なぜならば「論理的な動き」だから、である。

しかし、だからといって私はやのさんの奏法を否定はしない。むしろ、やの奏法(と十把一からげにすることの是非はともかく、ここでは便宜的に指の動きを補助として基本的には腕全体の動きで音程をとっていく奏法のことをこう呼ぶことにする)での美しい演奏を驚嘆しつつ拝聴している。「そっちのほうが難しいのに」と思うからである。
後は好き嫌いの問題だろうか。これはいつも書いてる問題にまた行き当たってしまうが、テルミンを普通の音楽を演奏する普通の楽器として存続させたいのか、あるいは、特殊な普通でない楽器として発展させたいのか、の違いに帰結するのではないか。あるいはそういう意識や思いがなくとも、必然的にそういう選択をしていることになっているような気がする。

一番のポイントはポルタメントであろう。ポルタメントを自由に使える利点や美点を徹底的に活かしつくす、という行き方と、あえてなるべくポルタメントは使わず、ここぞというときにのみ使う、という行き方である。やの奏法による演奏で美しいと私が感ずるのはやの奏法であるにもかかわらず、ポルタメントを多用せず、瞬時に腕全体を次の音程ポジションに移動させている演奏である。ものすごい訓練が必要な演奏だと思うが、ときどきやってのけていらっしゃる方がいるのでびっくりする。それにひきかえ自分を振り返ると、カチカチしすぎていて情緒が足りない。と反省しつつ本日これまで。

論じている出発点と趣旨は異なるが、この記事は三毛子さんのBlog(みけこの詰め合わせ)記事に刺激を受けて書いたものである。


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