茶屋町の当宮御旅社の鳥居ですが、今月で建立からちょうど150年となります。
明治6年(1873)、4月に御旅社の鳥居として、氏地6町の有志から寄進された事が鳥居に石刻されています。
当時の大阪は、銀目廃止令による金融恐慌や、廃藩置県による蔵屋敷システムの崩壊などで経済は大混乱で、本格的に江戸時代の終了を庶民も肌で感じていた時代でした。
この頃、神社界も、上知令などで土地を国に没収され、大変厳しい時代であったようで、当宮御旅社も現在の太融寺の東門の向かい当たりに元々鎮座していましたが、その土地が国に上知されてしまった為、明治五年頃に才田の地(現在の西天満6丁目)に遷座しています。(それから数年後に土地の寄進があり、御旅社は茶屋町に遷座しました)
ですので、この鳥居は才田の地に御旅社があった時代に建立されたものと推測されます。
しかし、かような厳しい時代に、何故こんなに立派な石鳥居が建立出来たのか正直、謎に思うところです。
推測になりますが、当宮の氏子地域である北野村という村は、大坂の役で豊臣方に味方したが為に、江戸時代は苛烈な扱いを受けていたといわれ、辛苦の時代であったようです。 その江戸時代が終わった事で、一気に圧政から解放され、更には、翌年の明治7年に大阪駅が開業する事となっており、それまで鄙びた農村だったところが、大開発の現場に豹変した事で、村としては活気に溢れていた可能性があります。
実は前年の明治6年には、神山町の御本社本殿も建て替えられており、昔の日本人は何事にも「先ず神事」という考えがありましたので、北野村の大開発が始まる前に、先ず村の守り神である当宮を良くしようと考えたのかもしれません。
鳥居に彫り込まれている奉納された方々のお名前を見てみると、面白い事に3文字で書かれているものが殆どです。実はこの時代、庶民はまだ苗字が無く、国民全員、苗字を名乗るようになるのはこの2年後です。ですので、当時は苗字でなく、屋号や略称が中心で、それをそのまま彫り込んでいるという訳です。見てみると、村人に加え、八百屋さん、醤油屋さん、お花屋さん、お風呂屋さん、塩屋さんや、明治、大正の大侠客の野口榮次郎の名前もあり、当時の北野村にどんな人々がいたのかが分かる貴重な史料ともなっています。
それから150年。大阪駅が出来るのも、阪急梅田駅が出来るのも、梅田の街が発展していくのも、ずっと見守り続けている鳥居です。
さて、その鳥居ですが、せっかく150年の慶節を迎えますので、今回、色が褪せてきていた扁額を修理しました。 この扁額は昭和31年(1956)に、御旅社社殿を建て替えた際に新調したもので、田丸会という会の方々から奉納頂いたものです。昭和59年に一度修理しましたが、それから40年近くそのままでしたので、今回きれいに色を入れ直しました。
ぜひ、ご参拝の折には鳥居を見上げて、きれいになった扁額もご覧下さいませ。