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(その5 “親鸞”五木寛之さんNHK「ゆうどき」に出演

2014-11-25 13:13:26 | 宗教関係
「こんなふうに原稿を書いて、何とかやっているだけでも、本当に幸せだと思います。」
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番組キャスター 「書き続けることによって五木寛之さんは何を得たと思いますか。」

五木寛之 「これによって、食べている訳ですから、いちばん最初はね、原稿料を戴いて。
まあ、お坊さんがお布施で暮らすように、それで暮らすようにね、それで生きてこられたんです。

僕は大学を途中で辞めましたから、まともなところに就職もできなかったし、そういう人間が、引き揚げてきて何とか人の世話にならずにね、

僕は年金を貰っていませんし、いろいろ社会に負担をかけずに健康保険も殆ど使ったことがなくて、全部出すだけで暮らしてきていますから、そんなことが出来るのも、

こんなふうに原稿を書いて、そして筆1本、足は2本なんて言いますけれども、何とかやっているだけでも、本当に幸せだと思います。」

番組キャスター 「1万回、目前ですからね。」
「そんな五木寛之さんですが、82歳になった今日までの道のりは、決して平たんなものではなかったといいます。

1945年8月、旧ソ連軍が満州に侵攻。
12歳だった五木寛之さんは朝鮮半島北部のピョンヤンで終戦を迎えました。
旧ソ連軍による占領が始まり日本人は職を失い財産を没収されます。
略奪や暴行もあったといいます。

混乱の中で母のカシエさんが亡くなってしまいます。
つらい出来事が続きました。

終戦から2年後、父と幼いきょうだいと共に命懸けで38度線までたどりつき、
ようやく日本に引き揚げることができました。

五木寛之さんは19歳で早稲田大学に入学。






さまざまなアルバイトで生活費と学費を稼ぎますが学費が払えず25歳で大学を辞めてしまいます。

その後、得意の文章を生かしてルポライターやPR雑誌編集者作詞家、さらにNHKのラジオ番組の構成も手がけるようになります。」

元NHKアナウンサーで作家の下重暁子(しもじゅうあきこ)さん。
「夜のステレオ」というラジオ番組を担当していた当時の五木寛之さんをよく覚えています。

下重暁子(しもじゅうあきこ)
「手をね、何気なく見た時に、私は胸を突かれるような思いをした。
ハッとしたんですね。

もう、非常に辛(つら)い、過酷な頃を生きてきた人しか持っていない手だった。
すごくひょろっとして、痩せてらして、で、よくしゃべる人だな、という印象だったのね。

何か、この人はあるな、と感じさせる、影を感じさせる存在でしたよね。
だから、それをごまかすというか、自分でもカモフラージュする為に、必死にしゃべっていらした気がしますね。」

(続く)
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五木寛之さんが親鸞を何故書こうと思ったか、
の中に「悪人正機説」があるということ
そして、それは自分が悪人だから救われない人間だと思ってきたこと
そして、その理由は朝鮮半島からの引き揚げ体験からだということ
それが、これから少し語られてきます

私は、「蓮如」を読んだ友だちが、親鸞のことをクソミソにいうので
何でかと訝りましたが、その親鸞を描いた映画
三國連太郎脚本監督のものを見たから、というのですが、
調べてみたら、主演は三國連太郎ではないですね
三國連太郎主演なら、さぞかし凄かろうとか思ったのですが
脚本監督でも同じようなものだったようです

今日の白黒写真の座っている女の人、五木寛之のお母さん
このお母さんは、朝鮮で亡くなったそうです
その亡くなり方がいわゆる普通の病気とかではなく
ですが、お母さんは病弱で伏せってはいたのですが
ロシア兵が家に来て・・五木さん一家に銃を向け、、
それからのちお母さんは絶食をし、亡くなってしまうのです

その体験や、引き揚げの体験、五木さんはまだ12才位だったそうです
多感な五木さんの少年時代に何が起きたのか
私はそれを知りたくて、「運命の足音」という本を手に入れ読みました
ですが、何だかよくわからなかったのです
何故か、それは、この後語られていきますが、、、
コメント
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