「実際には引き揚げの事は、100分の1も書いてないんです。これから先も中々、書く機会はないだろうー、と思いますけどね。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
五木寛之さんは、33歳になって 「さらばモスクワ愚連隊」で作家デビューを果たします。
さらに、翌年には「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。
「青春の門」や「風に吹かれて」など立て続けに小説やエッセーを発表し
時代を代表する人気作家になります。
しかし頂点に上り詰めたように見えた五木寛之さんでしたが
心の中には強いわだかまりを抱いていたのです。
五木寛之さんは人気絶頂だった39歳の時すべての執筆を断り休筆を宣言します。
48歳になると再び休筆してしまいます。
五木寛之 「フラッシュバックと言うか、引き揚げの時、敗戦前後の事が凄い生々しくよみがえって来てもうやれない、という気持ちになって又、休んだんですよ。」
2回目の休筆に入った五木寛之さんは、京都にある龍谷大学の聴講生になりました。
仏教史を学び、隠れ念仏や親鸞・蓮如の理解を深めます。
そして、この時、五木寛之さんは他力という思想に惹(ひ)きつけられます。
51歳で執筆を再開したあと五木寛之さんに変化が起こります。
長い間封じ込めてきた引きあげの記憶を書くようになるのです。
そして69歳になった2002年。
終戦直後に亡くなったお母さんの事を初めて書きました。
【ここから過去の映像の引用です】
五木寛之 「心に封印をしていた部分について
“そんなふうに自分を責めなくていいんだよ”
“その事はちゃんと話していいんだよ” というような
何か、声なき声が聞こえたような気がしたんですね。
“お前、生き残れ”と誰かに言われたみたいな気がする
“生き残って、その事を語れ” というふうに誰かに言われて
その荷物を託されたような気がしているんです。」
【ここから再び、スタジオに戻ります。】
五木寛之 「なんか他人(ひと)の事みたいですね。感じとしては。」(笑)
番組キャスター 「引きあげのことを書いたのは、声なき声を聞いて書かされた、書いていいよと、言われた。これは、どういう事なんですか?」
五木寛之 「でもね、実際には、ほんの“とば口”を書いただけで、又引き返したんです。書いてないんです。実は。
入り口の、ほんの一部分だけを書いて、やっぱり書けないという、そんな感じになってね、それ以後ほとんど触れていません。
かつて引き揚げの歴史というのは、戦争の歴史の中でも大きな部分だから、引き揚げ記録センターのようなものを作ろうと思ったんですよ。
それで、昔、デンスケと言いましたよね。
録音機を担いで、いろいろ、旧満州とか、凄惨な戦争体験をされたであろう、と思われる人に話を聞こうとするんですけど、
皆さん、“まあ、色々ございました”、と言うくらいで、“今は何とかやってますから”、ということで、話して下さらないんです。
逆に、凄く、目で見たように雄弁な方の話は、他人の経験と自分の体験が入り交じったりとか、起承転結がうまく行き過ぎているとか、そういう感じがして、
一寸、信頼できないところがあって、これは駄目だと思ってね、結局、このまま、皆、人は語りたくないことは心の中に封じて、それで仕方がないんだなあ、と、
自分もそれについて、無理をして、書いたり語ったりすることをやめて、実際には引き揚げの事は、100分の1も書いてないんです。
これから先も中々、書く機会はないだろうー、と思いますけどね。」
(続く)
-------------------------------------------------
私は新聞小説「親鸞」を読みながら、その書き手の
五木寛之さんのことにも思いを馳せずにいられませんでした
そして、朝鮮からの引き揚げに際してのことについて、
それが、どんなにか12才位の少年にとって過酷な出来事だったのか
又、封印されていたお母さんや、それにまつわるお父さんのこと、
五木さんが、どうやってどんな風に生き延びて、又
その感性で何を見聞きし行動しどう考えたか
その断片のようなものが「運命の足音」という本には書かれていたのですが
あまりに簡単に、サラっと書かれていて、詳細は分からず仕舞い
というか、今回五木さんがお話なさっているように
「100分の1も書いてない」
おそらくそうなのだと思いました、だから本を読んでも拍子抜けして
何が書いてあるというのだろう?という感じでした
ですが、おぼろげながら、この平和に浸かった私が想像するに
その想像したことが起きたのは間違いない事実かもしれません
昨日、そのことについて少し検索してみましたが
思ったよりも過酷な現実と向き合って、弟妹を庇いながら
必死で生き抜いてきた五木少年の姿がおぼろげながら浮かんで来
又、お母さんに起きたこと、お父さんがその後腑抜けのようになって
全くの力にもならなかったこと
周りの状況、善い人、良い人がみな脱落して死んでいったこと
悪どいことをしなければ、生き抜けなかったこと
それが、生きて行くための生存競争であったにしろ
大きな拭い去れない程のダメージをもたらしてしまったこと
などなどを考えた時に、外見から見た五木さんとは違った面が見えてきて
痛ましいとでもいうような
こんなことを言う事自体が不遜ではないかと思いますが
まぁ、もし自分がその立場であったなら、と
傍観者のようなことは言えないのですが
それでも、そういう目に遭わないで済んで来たことは
単なる運であったと
「運命の足音」という題名はまさにそういうことなのでしょう
ご両親がかの地に渡らなければ起きなかったことなのですから
ある精神科医のHPにありましたが、おそらく五木さんのおかれた状況は
PTSDなどというものが生易しいとすら思えるほどの
生死をかけた体験であったのだろうと書かれていました
何故五木さんが親鸞を書いたのか、何故五木さんは
人々の励ましや生き方の本を書いてきたのか
その理由が、自らの過酷な精神面での体験から得たものを
人々に伝えたいと
五木さんは、そういう事情で大学を卒業できず中退しましたが
その学んだ学科は「露文科」つまり対象はロシアだったのです
「敵を知る」そして、理解する、ということを
したかったのではないでしょうか?
なんとか自分の気持の持って行き場を探し続けて来たのではないか
そして、五木さんは一生この出来事を体に背負ったまま
辛く重い道を歩き続けるのだろうと思います
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
五木寛之さんは、33歳になって 「さらばモスクワ愚連隊」で作家デビューを果たします。
さらに、翌年には「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞。
「青春の門」や「風に吹かれて」など立て続けに小説やエッセーを発表し
時代を代表する人気作家になります。
しかし頂点に上り詰めたように見えた五木寛之さんでしたが
心の中には強いわだかまりを抱いていたのです。
五木寛之さんは人気絶頂だった39歳の時すべての執筆を断り休筆を宣言します。
48歳になると再び休筆してしまいます。
五木寛之 「フラッシュバックと言うか、引き揚げの時、敗戦前後の事が凄い生々しくよみがえって来てもうやれない、という気持ちになって又、休んだんですよ。」
2回目の休筆に入った五木寛之さんは、京都にある龍谷大学の聴講生になりました。
仏教史を学び、隠れ念仏や親鸞・蓮如の理解を深めます。
そして、この時、五木寛之さんは他力という思想に惹(ひ)きつけられます。
51歳で執筆を再開したあと五木寛之さんに変化が起こります。
長い間封じ込めてきた引きあげの記憶を書くようになるのです。
そして69歳になった2002年。
終戦直後に亡くなったお母さんの事を初めて書きました。
【ここから過去の映像の引用です】
五木寛之 「心に封印をしていた部分について
“そんなふうに自分を責めなくていいんだよ”
“その事はちゃんと話していいんだよ” というような
何か、声なき声が聞こえたような気がしたんですね。
“お前、生き残れ”と誰かに言われたみたいな気がする
“生き残って、その事を語れ” というふうに誰かに言われて
その荷物を託されたような気がしているんです。」
【ここから再び、スタジオに戻ります。】
五木寛之 「なんか他人(ひと)の事みたいですね。感じとしては。」(笑)
番組キャスター 「引きあげのことを書いたのは、声なき声を聞いて書かされた、書いていいよと、言われた。これは、どういう事なんですか?」
五木寛之 「でもね、実際には、ほんの“とば口”を書いただけで、又引き返したんです。書いてないんです。実は。
入り口の、ほんの一部分だけを書いて、やっぱり書けないという、そんな感じになってね、それ以後ほとんど触れていません。
かつて引き揚げの歴史というのは、戦争の歴史の中でも大きな部分だから、引き揚げ記録センターのようなものを作ろうと思ったんですよ。
それで、昔、デンスケと言いましたよね。
録音機を担いで、いろいろ、旧満州とか、凄惨な戦争体験をされたであろう、と思われる人に話を聞こうとするんですけど、
皆さん、“まあ、色々ございました”、と言うくらいで、“今は何とかやってますから”、ということで、話して下さらないんです。
逆に、凄く、目で見たように雄弁な方の話は、他人の経験と自分の体験が入り交じったりとか、起承転結がうまく行き過ぎているとか、そういう感じがして、
一寸、信頼できないところがあって、これは駄目だと思ってね、結局、このまま、皆、人は語りたくないことは心の中に封じて、それで仕方がないんだなあ、と、
自分もそれについて、無理をして、書いたり語ったりすることをやめて、実際には引き揚げの事は、100分の1も書いてないんです。
これから先も中々、書く機会はないだろうー、と思いますけどね。」
(続く)
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私は新聞小説「親鸞」を読みながら、その書き手の
五木寛之さんのことにも思いを馳せずにいられませんでした
そして、朝鮮からの引き揚げに際してのことについて、
それが、どんなにか12才位の少年にとって過酷な出来事だったのか
又、封印されていたお母さんや、それにまつわるお父さんのこと、
五木さんが、どうやってどんな風に生き延びて、又
その感性で何を見聞きし行動しどう考えたか
その断片のようなものが「運命の足音」という本には書かれていたのですが
あまりに簡単に、サラっと書かれていて、詳細は分からず仕舞い
というか、今回五木さんがお話なさっているように
「100分の1も書いてない」
おそらくそうなのだと思いました、だから本を読んでも拍子抜けして
何が書いてあるというのだろう?という感じでした
ですが、おぼろげながら、この平和に浸かった私が想像するに
その想像したことが起きたのは間違いない事実かもしれません
昨日、そのことについて少し検索してみましたが
思ったよりも過酷な現実と向き合って、弟妹を庇いながら
必死で生き抜いてきた五木少年の姿がおぼろげながら浮かんで来
又、お母さんに起きたこと、お父さんがその後腑抜けのようになって
全くの力にもならなかったこと
周りの状況、善い人、良い人がみな脱落して死んでいったこと
悪どいことをしなければ、生き抜けなかったこと
それが、生きて行くための生存競争であったにしろ
大きな拭い去れない程のダメージをもたらしてしまったこと
などなどを考えた時に、外見から見た五木さんとは違った面が見えてきて
痛ましいとでもいうような
こんなことを言う事自体が不遜ではないかと思いますが
まぁ、もし自分がその立場であったなら、と
傍観者のようなことは言えないのですが
それでも、そういう目に遭わないで済んで来たことは
単なる運であったと
「運命の足音」という題名はまさにそういうことなのでしょう
ご両親がかの地に渡らなければ起きなかったことなのですから
ある精神科医のHPにありましたが、おそらく五木さんのおかれた状況は
PTSDなどというものが生易しいとすら思えるほどの
生死をかけた体験であったのだろうと書かれていました
何故五木さんが親鸞を書いたのか、何故五木さんは
人々の励ましや生き方の本を書いてきたのか
その理由が、自らの過酷な精神面での体験から得たものを
人々に伝えたいと
五木さんは、そういう事情で大学を卒業できず中退しましたが
その学んだ学科は「露文科」つまり対象はロシアだったのです
「敵を知る」そして、理解する、ということを
したかったのではないでしょうか?
なんとか自分の気持の持って行き場を探し続けて来たのではないか
そして、五木さんは一生この出来事を体に背負ったまま
辛く重い道を歩き続けるのだろうと思います