桐ノ庄村(きりのしょうむら)の今昔
今、千妻から船岡へ至、町道筋(旧若狭街道)に、往時の村の証が残っている。
この道は平成15年度に地方特定道路整備事業として町道船岡千妻線道路として改良されている、この傍らに石標『西南桐ノ庄村』が建っている
その昔、この石標は千妻村の誕生記念か、村廃止町合併(編入)記念として建立されたのではないだろうか?!…今は昔、地元の古老(翁)に石標の元の場所・起こり等聞くが……忘却となる。ただ「旧若狭街道と呼ばれていた頃は、道は狭く四尺(約1,2m)程で荷車・台八車がどうにか通るぐらいであった。道は村の要の生活道・産業道・文化道等であったと、古老は懐かしそうに話す」…今は立派な町道になる、…令和二年、幾星霜を感じる。130年前にタイムスリップ、先人は素晴らしい文化財を残したものである。
<西南桐ノ庄村と銘刻 高さ100cm 幅20㎝ 奥15㎝ 花崗岩製の延べ石使用>
<もともとはこの様な狭い山道に設置、新道完成後に移設ようです>
<町道船岡千妻線道路、石標から千妻集落が一望>
(南丹市園部町千妻)
その昔、京都府船井郡に桐ノ庄村があった。現在の京都府南丹市園部町の北部一帯をさすと聞く。この内に千妻村(せんづまむら)が、小さな集落である。1889年(明治22年)4月1日に町村制施行により村が誕生、そして1929年(昭和4年)に村が廃止となり園部町へと合併した歴史を持つ。村中に朝倉神社が鎮座、その境内に神木杉の巨木が聳えたつ。今、千妻から船岡へ至、町道筋(旧若狭街道)に、往時の村の証が残っている。
この道は平成15年度に地方特定道路整備事業として町道船岡千妻線道路として改良されている、この傍らに石標『西南桐ノ庄村』が建っている
その昔、この石標は千妻村の誕生記念か、村廃止町合併(編入)記念として建立されたのではないだろうか?!…今は昔、地元の古老(翁)に石標の元の場所・起こり等聞くが……忘却となる。ただ「旧若狭街道と呼ばれていた頃は、道は狭く四尺(約1,2m)程で荷車・台八車がどうにか通るぐらいであった。道は村の要の生活道・産業道・文化道等であったと、古老は懐かしそうに話す」…今は立派な町道になる、…令和二年、幾星霜を感じる。130年前にタイムスリップ、先人は素晴らしい文化財を残したものである。
<西南桐ノ庄村と銘刻 高さ100cm 幅20㎝ 奥15㎝ 花崗岩製の延べ石使用>
<もともとはこの様な狭い山道に設置、新道完成後に移設ようです>
<町道船岡千妻線道路、石標から千妻集落が一望>