園部町高屋の『入母屋造りの館門』
園部町高屋集落の右端に見える入母屋造りの館門(高屋宅)が見える。その背後の頂に、中世の山城「蜷川城跡」がある。室町幕府の政所の役職についていた蜷川親心の三男親朝が、被官として船井郡桐野河内村につき、高屋集落の山頂に蜷川城を築いたのが始まりとされる。
南北朝以後、荘園は有名無実化となり幕府の力は弱体。そのような中、織田信長の荘園没収が始まり…豊臣秀吉の太閤検地で荘園制度はなくなった。村人は戦国騒乱で田畑は荒らされ混迷する。そんな中、現地の代官より百姓である高屋を村側(百姓)の代表と任命し村の統制に入っている。この館(写真)は高屋の本家宅であり、村には分家・同苗字を名乗る家が数件ある。館の周りは水田となっているが、今も少なからず当時の面影を残している。その昔は見果たす限り水田で…、そのほとんどが高屋の所有地であったとか…。村百姓は高屋の小作者であったようです。
入母屋の破風に揚羽紋(あげはの蝶紋)が付く。
園部町高屋集落に「春日神社本殿」が鎮座する。その由緒には、平 清盛(たいらのきよもり)の進言により社殿を建立すると記す。平氏の家紋は「揚羽紋」(蝶紋)です。入母屋造りの平入り(入口)で棟には千木(ちぎ)が9本、茅葺仕様であるが、今は鋼板で覆っている。母屋は取り壊され当時を知ることはできない…、世の栄枯盛衰を感じます。
(昭和9年生、地元古老&館管理人談)。
園部町高屋集落の右端に見える入母屋造りの館門(高屋宅)が見える。その背後の頂に、中世の山城「蜷川城跡」がある。室町幕府の政所の役職についていた蜷川親心の三男親朝が、被官として船井郡桐野河内村につき、高屋集落の山頂に蜷川城を築いたのが始まりとされる。
南北朝以後、荘園は有名無実化となり幕府の力は弱体。そのような中、織田信長の荘園没収が始まり…豊臣秀吉の太閤検地で荘園制度はなくなった。村人は戦国騒乱で田畑は荒らされ混迷する。そんな中、現地の代官より百姓である高屋を村側(百姓)の代表と任命し村の統制に入っている。この館(写真)は高屋の本家宅であり、村には分家・同苗字を名乗る家が数件ある。館の周りは水田となっているが、今も少なからず当時の面影を残している。その昔は見果たす限り水田で…、そのほとんどが高屋の所有地であったとか…。村百姓は高屋の小作者であったようです。
入母屋の破風に揚羽紋(あげはの蝶紋)が付く。
園部町高屋集落に「春日神社本殿」が鎮座する。その由緒には、平 清盛(たいらのきよもり)の進言により社殿を建立すると記す。平氏の家紋は「揚羽紋」(蝶紋)です。入母屋造りの平入り(入口)で棟には千木(ちぎ)が9本、茅葺仕様であるが、今は鋼板で覆っている。母屋は取り壊され当時を知ることはできない…、世の栄枯盛衰を感じます。
(昭和9年生、地元古老&館管理人談)。
<揚羽紋(あげはの蝶紋)>