新年明けましておめでとうございます。
春の七草の入った七草粥もいただきました。
今年も健康でありますようにと、願って食べました。
松飾や門松は外されて、地区によってはどんど焼きが始まってます。
年神さまを天へ送るならわしだそうです。
「どんど焼き」?
何がその名の由来か、分りませんが
かって、どんど焼きを体験した時の
燃えかすの空高く舞い上がる情景が蘇ります。
正月も終わりです。
でも、1月中はまだまだ正月気分。
「シニアライフを生き生きと歩む会」の恒例の新春初詣です。
赤坂日枝神社への初詣です。
参加者は総勢30名。その内3割の方が初参加です。
この会の常連さんがお友達を誘ってくれました。
いろいろな方と幅広く交流し、仲間づくりをすることが、
この会の掲げる趣旨です。
今年も年明早々から、幸先の良い新たなスタートです。
シニア世代の共通の課題は、健康+長寿です。
身体と心が共に健やかな状態を維持することが大切です。
交流仲間づくりを通じて、その一端をこの会が担います。
月例会、魅力ある各種イベントが用意されてます。
赤坂日枝神社のはじまり、ご由緒の解説です。
昔、平安時代末期の頃、この地は武蔵国豊島郡江戸郷と称しておりました。
源義家が陸奥国国守として、現在の宮城県・多賀城に赴任する際、
相模国・武蔵国から兵力を募ります。
この陸奥国国守、源義家が羽後国(現在の秋田県横手市)で
地元領主清原氏の内紛に介入し、「後三年の役」の戦を始めます。
3年もの、長い戦です。
歴史は勝利者だけの記録でしかありません。
田畑を荒らされ、兵士の賄い米を拠出させられた百姓たちの事は
どこにも見当たりません。
実は私は、この地の山里の百姓の倅でした。
この沢の集落に敵対する豪族の居城があり、そこが戦場となったそうです。
村の山の神社に勝利武将の子孫が奉納した錦絵の額が飾られております。
「後三年の役」の戦の勝利は、国守が肩入れした側の勝利です。
その後、陸奥国は藤原氏4代で築いた黄金の時代へと繋がります。
ところが、不幸な事に陸奥国国守源義家が加わった戦は「私戦」と見做され
京都朝廷から国守の罷免を受け、戦争の褒美や掛かった費用の支払いは一切ありませんでした。
源義家にとっては悲惨な結果です。
それでも源義家が並みの将軍ではなかったのです。
源義家は河内源氏の出身です。
武蔵国や相模国に膨大な領地を所有しているわけではありません。
それが、戦が終わり帰還した武将たちに褒美として、領地を分け与えたのです。
どうして、そんな事で来たのでしょう?
いろいろと思案を巡らしました。
武蔵国や相模国の国守は現地に赴かないで、京都の都に在住する高級官僚です。
国元は強力な地元豪族に国守代理職を委ね、
在任期間中問題を起こさないように取り図っていたことでしょう。
源義家はこの方たちと同僚、あるいは先輩格だったかもしれません。
朝廷の源義家に対する処遇に同情的だったかもしれません。
おそらく、武蔵国や相模国から募って、武勲のあった武将に対し領地を分け与えることを、
それぞれの国守にお願いしたかもしれません。
実力もあり、頼もしい先輩からのお願い事です。
早速、その了解事項を現地の国守代理職に伝え、それぞれの武将に領地が与えられることになったのでしょう。
これは、どの歴史教科書にも載っておりません。
私の推測です。
この「後三年の役」の戦の後、100年経った頃、源頼朝が鎌倉に幕府を樹立します。
その時、関東の武将が皆、頼朝の配下に結束しました。
源義家が活躍した頃から、武士社会が芽吹いたとも言われております。
武蔵国や相模国で領主にさせてもらったご恩を忘れずに、
頼朝の鎌倉幕府樹立に協力したのかも知れません。
とても、すっきりした私なりの歴史探訪です。
でも、私は頼朝さんは嫌いです。
だって、あの陸奥の黄金の都、藤原氏4代で築いた「平泉」を奥羽の戦で焼失させてしまったのです。
今まで藤原氏の下で、平和に暮らしていた地元の豪族に代わって、
頼朝に従軍した武将がそれぞれ与えられた領地を統治することになりました。
今地元に伝わる歴史物語は、全てこの事から発しております。
腹違いの弟・義経も悲運な運命をたどりました。
あれだけ、兄のために貢献したのに、あれでは酷過ぎます。
その義経に最後まで使えた「鈴木さん」
みちのくの「鈴木」名字の発祥地として、知られております。
民家が県の重要文化財に指定されているそうです。
それって、秋田県羽後町だったかなぁ?
話が途中から反れてしまって、とんでもないところに至ってしまいました。
元に戻しましょう。
どのあたりの話に戻れば良いのだろう?
「江戸郷」。今で言う「村」です。
昔からその統治する地名から名字を付ける習慣が武将たちにありました。
武蔵国豊島郡江戸郷の国人領主は「江戸氏」です。
もしかしたら、江戸氏の先祖があの源義家に従軍して、後三年の役で勝利に結びつく働きで
この地「江戸郷」を拝領したのかも知れません。
「江戸氏」は元々、平家一門の秩父氏支流の一族で、この地域を中心に勢力を拡大しました。
「秩父氏」は武蔵国国司の代理職を務めながら、秩父地方の官営の馬牧場主で、武蔵国地域内の最強実力者だったそうです。
この江戸郷の村長さん「江戸氏」が鎌倉時代のはじめ、村の守護神と「山王宮」を祀りました。
これが赤坂日枝神社のはじまりだそうです。
しかしながら、武士(もののふ)の時代は常に勢力争いに明け暮れて、栄枯盛衰が付き物です。
1478年(文明10年)の室町時代、太田道灌公が江戸の地の統治を引き継ぐことになります。
そしてこの地に築城するにあたり、鎮護の神として、「川越山王社」を勧請し、江戸の町の繁栄の礎を築きました。
「川越山王社」は天台宗幕閣大寺・喜多院無量寿寺の境内で祀られていたものです。
昔は神仏習合の時代でしたが、明治に入って神仏分離令が布告され、神仏習合がが終焉しました。
その後、太田道灌は扇谷上杉家の重臣家老でしたが、上杉家の内紛でその当主によって暗殺されてしまいます。
主力を欠いた上杉家は弱体化し、小田原の北条氏との戦で敗北を帰し、江戸城は北条氏の指揮下に治まります。
それからの事は、皆さんご存知の事です。
北条氏は時の将軍豊臣秀吉公にに盾突いて、領主の座から追放されてしまいます。
1590年(天正18年)徳川家康が江戸に移封されます。
江戸城を居城とするに当たって、「城内鎮守社」として太田道灌が勧請し祀った「山王社」を崇敬されました。
二代将軍秀忠公の時、江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たな社地を江戸城外(現在の国立劇場付近)に定め
社殿を新築して遷し祀りました。
徳川時代、江戸城内に入御したお神輿を三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する山王祭は「天下祭」として
盛大を極めたそうです。
この山王祭は江戸三大祭(山王祭・神田祭・深川八幡祭)の筆頭として、
更には京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭に数えられております。
そしてこの山王祭大祭は、江戸時代の昔から「神田祭」と交互に毎年西暦偶数年に
おこなわれております。
その理由は、「山王祭」と「神田祭」の氏子が重複しており、年2回の大祭には費用負担が掛かり過ぎるためです。
次回の山王祭大祭は2020年6月です。東京オリンピックが開催される年度です。
二代将軍秀忠公が遷し祀った「山王社」が明暦3年(1657年)の大火で社殿が炎症してしまいました。
時の将軍家綱公(四代将軍)が直ちに赤坂溜池に社地を充て、結構善美を尽くしした権現造の社殿を造営して遷し祀り
天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬しました。
古くから「山王社」と称し、一般には常に「山王さん」の名で親しまれておりますが
明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、「日枝神社」の称号を用いる事になり、
皇居の鎮守として今日に至っております。
明暦の大火で社殿が焼失した後、この赤坂溜池の地に遷し祀られた社殿等の建造物は
歴史的に大変貴重な文化財でありましたが、昭和20年5月の東京大空襲の戦禍に遭い、焼失してしまいました。
現在のこの社殿等の建造物は、昭和33年に多くの人々の奉賛によって建造されたものです。
社殿の前面に菊花紋章入りの垂れ幕が、参拝客をお迎えしております。
最期に「日枝神社の御祭神」について、です。
「大山咋神」(おおやまくいのかみ)をお祀りしております。
「古事記」にはいろいろな神様がおいでになりますが
「須佐之男命(すさのをのかみ)」の孫にあたる神様です。
大山咋神は、大山の主で広く地主神として祀られ、山、川を司り
大地を支配し万物の成長発展を守護し給う御神徳です。
「大山咋神」は日枝山(比叡山)に鎮座し、滋賀県大津市の比叡山麓の
「日吉大社」で祀られております。
「日枝大社」は全国の山王社・日吉神社の総本社です。
そして、この日枝神社には「狛犬」がおりません。
日枝大神の使いと言われる夫婦の神猿像が社殿両脇に祀られております。
厄除け、魔除け、夫婦円満にご利益をもたらすそうです。
夫婦揃って、お参りをしました。
「そだねー」を連発する年にすることを誓いました。