uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
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難民拒否、日系人収容になぞらえ正当化…米市長

2015-11-21 06:57:23 | 日記
【ワシントン=今井隆】米南部バージニア州の市長が18日、

シリア難民受け入れへの反対を

第2次大戦中の日系人強制収容になぞらえて正当化する声明を発表し、

批判を浴びている。

声明を出したのは、同州ロアノーク市のバワーズ市長(民主党)。

「ルーズベルト大統領(当時)は真珠湾攻撃の後、

日本人を隔離せざるを得ないと感じた」と説明したうえで、

「『イスラム国』の脅威は、

当時の私たちの敵(日本)からと同じように現実のものであり、

重大だ」と主張した。

米メディアによると、民主党州幹部らは声明を強く批判したが、

市長は「ルーズベルト大統領の決断は、

当時の状況を考慮すれば正しかった」と開き直っている。

米国では第2次大戦中、

日系人約12万人が強制収容所に送られ、

1988年にレーガン大統領(当時)が公式に謝罪した。


  - 読売新聞 -


当時のアメリカ人にとって

それほど日本人は脅威だったのだろう。

それにしても現代のシリア難民と

戦時中の日系人の強制収容と同時に扱うアメリカ人が

まだ存在していることに憤りを感じる。


1920年代は日本人を対象にした排斥運動が盛んに行われ

1924年7月1日にアメリカ合衆国で施行された

1924年排日移民法(日本における通称)

ジョンソン=リード法(Johnson–Reed Act)において、

アジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられた。

当時アメリカに移民するアジア人と言ったら

日本人がほとんどだった。

つまり日本人を対象にした排斥移民法だったのだ。



  その歴史的背景

1880年代より北アメリカ本土のカリフォルニアに移住した

日本人移民は1900年代初頭に急増し、

1840年代に急増した中国人が排斥されたのと同様の理由で

現地社会から排斥されるようになり、

1905年5月には日本人・韓国人排斥連盟(英語版)が結成された。

1906年4月のサンフランシスコ地震の後に悪化した

カリフォルニアの対日感情のもつれは、

1907年に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した。

この事件を契機に、アメリカ合衆国では

「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。

アメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、

第一次世界大戦後の1924年7月1日に排日移民法が制定された。

  
-ウィキペディア-




当時のアメリカ人にとって

アジア系の移民は招かれざる客。

激しいイエローぺリル(黄禍論)に晒され

日系人移民は不当な扱いに耐えるしかなかった。

日本とアメリカの対立が決定的になり

ついに太平洋戦争が始まったとき、

情け容赦なく無差別爆撃による大量殺りくを平気で行ったのも、

広島・長崎という二つの都市に原爆を投下したのも、

明確な無差別大量殺りくであり、

戦争犯罪なのだ。

当時のアメリカ人にとって日本人はそれほど激しい

差別の対象であり、憎しみの対象だった。




アメリカは今でも人種差別の国である。

白人至上主義の人間がはびこり

あの悪名の高いアパルトヘイトの国だった

ネルソン=マンデラ大統領誕生以降の南アフリカ共和国より、

差別主義者が手厚く温存される

本音と建前を使い分けた国なのだ。

相次ぐ黒人の被差別迫害事件への抗議活動がそれを物語っている。

その事件とは直接関係ないが、

未だに秘密結社クークラックスクラン(Ku Klux Klan、略してKKK団)

が存在しているのも驚きではあるが、現実である。



1970年代まで日本人の事を「ジャップ!」と呼び

蔑んでいたアメリカ人。


昔と今との大きな違いは、

ヘイトに反対する人が増え、

世論の主流を占めるほどになったこと。

日本人を「ジャップ」と呼ぶ人が減ったこと。


今では、昔じゃ考えられないほど親日的な人が増え、

国と国の親密さも強固なものになっている。




でも忘れたはいけない。


今の親密さを支えているのは、

日本が常にアメリカの要求を全面的に受け入れ続けてきたから。


今でも(ついこの前まで?)日本の政治機関などに盗聴器を仕掛け

警戒を怠っていない国だと云う事を。




そんな中にあっても、建前ではない本音の交流を続ける人と人。

本当の意味での「トモダチ」関係を維持しているこの流れが

過去のわだかまりを乗り越え強固なものにしてゆくのだと

私は信じたい。



一度だけハワイに行った事があるオヤジが一句。



アメリカ人 出身国は 地方名?



お粗末。