戦乱が激化し、イエジキ部隊も更に危ない活動に日々を費やした。
また日本の外交官たちもその身に危険が迫ってきた。
まず、リトアニア領事がロシアから退去の最終勧告を受け帰国の憂き目を見ることになった。
後に有名な『いのちのビザ』の発給に杉原千畝領事はギリギリまで全精力を注いでいた。
その行為は国策に反し、召喚されたら厳しい処罰が待っていることも覚悟の上。
自分の信念に従った彼は微塵も後悔していなかった。
リトアニアはバルト海沿岸に位置する。
ヴェイヘローヴォ孤児院もバルト海沿岸。
地理的に近い好条件もあり、敏郎との親交から度々領事と情報交換をしていたが、最終勧告を受けた日の晩、偶然(?)にも訪れていた敏郎と二人だけのささやかな送別会が行われていた。
「杉原さん、無念ですね。
任務を途中で放棄して立ち去らなければならないなんて、さぞ心残りでしょう?」
「そうだね、ついさっきまでずーっとビザにサインし通しだったからね。
もう幾日も朝から晩までサインしっぱなしで、右手が動かないよ。
この身体がもうふたつから3つくらい欲しいよ。
ハハハ・・・・。
残念だが、こうして水で冷やしておかないと、もう字が書けないくらいだからね。
君とこうして話していられるのも、手を水に漬けている間だけだったから、君はグッドタイミングの時に来てくれたね。
ただ君は私の事を心配してくれたらけど、そういう君は大丈夫なのかい?
ナチスの連中もそうそう甘い顔ばかりしてはいないだろう?
君の任務もナチに随分警戒されているみたいじゃないか。
もしかしたら近日中に君にも退去命令が出るかもしれないのだから、くれぐれも心残りが無いようにな。
私も最後の最後まで、自分の信念に従って義務を果たすつもりだ。」
そして翌日から彼の退去の列車に乗り込むまで続いた、命のビザ発給との戦いが始まった。
そのおかげで、結果的に6千人以上のユダヤ人の命が救われた。
その行為こそ井上敏郎が尊いと信じ、目指す行動規範であった。
それは杉原・井上の二人にとって、例え国家の方針にそぐわなかったとしても、通すべき共通の価値観と信念である。
一方イエジキ部隊はシベリア孤児を中心に彼らが面倒をみてきた孤児たちと、今回の戦災で家族を失った新たな孤児たちも加わり、一万数千人まで膨れ上がり一大組織に成長している。
戦争による悪化に伴い、地下レジスタンス活動が激化し、イエジキ部隊に対するナチス当局の監視と警戒の目が厳しさを増した。
イエジキ部隊は隠れ蓑に孤児院を使っていたが、突然ナチスからの強制捜査があった。
急報を受けて駆け付けた日本大使館の書記官は、
「この孤児院は日本帝国が保護する施設である。 その庇護下の施設が日本と同盟する貴国を害するはずはない。
疑いを解き、速やかに退去されたし!」
そう威厳をもって言い放ち、抗議した。
しかしそう簡単に納得できないドイツ兵は
「しかし我々も確かな情報に基づき行動している。
子供の遣いでもあるまいし、はいそうですかとそう簡単に撤収するわけにはいかない。
とにかく納得するまで捜索させてもらう!」
と突っぱねる。
そこで書記官の後ろに控えていた敏郎が、不安におびえる孤児院に向かい、
「大丈夫!君たちが怯えることは何もない!」
そして孤児院院長を兼ねたイエジキ部隊長に向かい、
「君たち!
このドイツ人たちに日本の歌を聴かせてやってくれないか!」
と呼びかけた。
イエジたちは意を決し、立ち上がると日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを日頃の慣習の成果を見せつけるように、堂々と高らかに大合唱した。
その様子にあっけにとられ、圧倒されたドイツ兵たちは立ち去った。
その頃のドイツは、先に述べたように日本との軍事同盟下にある。
日本大使館には、一目も二目も置かざるを得ない状況にあった。
そして日本大使館はその同盟を最大限活用し、イエジキ部隊を庇護した。
しかし兵力で圧倒的に勝るナチスドイツ軍への抵抗は長くは続かず、またドイツ捜査機関特有の綿密な探索の結果、イエジキ部隊の関係者は徹底的に逮捕され、ひとりひとり着実に処刑され続けた。
そして運命の日。
ドイツ軍部隊がようやく突き止めたイエジキ部隊の拠点に踏み込み、多数の死者と逮捕者が出た。
急報に接し、急いで拠点に駆け付けようとするヨアンナ。
周囲の者たちは危険だから行くな!と押し止める。
その中には特に熱心に、真剣に説得する者もいた。
でも、その声と願いは聞き届けられない。
ヨアンナの目にはもう何も映らず、何も聞こえなかった。
今まで見た事の無いヨアンナの取り乱しよう。
彼女の必死さを見て、この人を説得するのは不可能だと悟った。
そして制止するその手を振り切るように、ヨアンナは飛び出す。
その姿をいつまでも悲なし気に見つめる目・・・・。
それとほぼ同時に、報を耳にしてヨアンナのもとに向かう敏郎。
ふたりはドイツ兵に踏み込まれた隠れ家の手前で遭遇した。
眼前の銃声と叫び声、破壊の轟音にヨアンナは取り乱し、敏郎の静止を振り切り、止めさせようと駆けだした。
その動きに気づいたドイツ兵が、振り向きざまヨアンナに銃口を向けた。
咄嗟の事で、敵に援軍・若しくは救出の仲間が現れたと思ったのだった。
相手が女性であっても冷静さを欠き容赦ないドイツ兵は、冷徹な反応を示す。
そして向けられた銃口が火を噴いた。
刹那ヨアンナを庇い、前に出る敏郎。
銃弾に晒され、ハチの巣にされても彼は倒れなかった。
思わず悲鳴を上げるヨアンナに、正気を取り戻したドイツ兵は、引き金を戻したがもはや全ては遅かった。
誤って東洋人を撃ってしまった。
(もしかして日本人?同盟国だろ?面倒なことになった)
茫然とその場に立ち尽くし、ヨアンナの腕の中で崩れる落ちる敏郎を見ていた。
ヨアンナは半狂乱で敏郎にすがり、その名を呼び続ける。
ヨアンナに抱かれた敏郎は宙に目をやり、最後に空の青さとヨアンナの顔を焼き付けた。
彼の眼にはお迎えの天使たちが見える。
天使の詩と共に敏郎の魂は、よく晴れた日の青空の向こうにある天国に誘われ、ゆっくり静かに目を閉じた。
つづく